2025-01-14 Tue
三春人形 小沢民芸、四代目の人形師 小沢宙(そら)さん
KFB福島放送シェアふるさシェアin三春 2025.1.14(火) 3:48~
小沢民芸代表 三春人形師の小沢宙さん=三春町在住
1・三春張り子人形の話を聞く
2・小沢太郎氏と三春張り子人形の復活
3・作業工程 和紙張り 型外し 絵付け にかわ、染料など製造工程 等々
4・張り子人形の材料となる和紙や膠(にかわ)、そして染料などの調達の苦労
5・人形師小沢宙さんの今後の活動
事前収録 深谷悠大も参戦!(先の蛙さんの家方式)
:放送次第
来週の19日(日)に江戸時代から続く三春だるま市が開催されます。
その三春町から、明治期に衰退してしまった張り子の三春人形を復活し、今もその製法を守り続けている若き三春人形師を紹介します。
1・三春張り子人形の話を聞く
三春人形は、江戸時代の三春藩領だった高柴村(現在の福島県郡山市高柴)で作り始められた張子の人形で、歌舞伎や浮世絵を題材とし、文化文政期 (1804~30)頃に最盛を誇り、玩具・観賞用として作られた。
三春藩が人形を作り始めた当時の藩主秋田公は、文化面の関心が高く、歌舞伎や都で流行しているものを取り入れていたと言われている。
張子人形は、紙の柔らかさから細やかな表現に優れ、とても軽く仕上がる。色付けにより強度が高くなるため売り歩くのにもちょうどよく、外貨獲得の手段としても活用された。しかし、明治維新により、三春藩がなくなったことで三春人形は廃絶してしまった。
だるまや干支の張り子は、毎年、だるま市で縁起物として買われていたために続いていましたが、観賞用の玩具としての三春人形は衰退します。
しかし昭和の時代になり、高柴デコ屋敷の人形師、橋本広吉さんと小沢民芸初代の小沢太郎(宙さんの祖父)さんが復元させたという。
2・小沢太郎氏と三春張り子人形の復活 小沢民芸のはじまり
「初代の小沢太郎は、もともと軍医になる予定でしたが、体を壊したことで学校の教諭になりました。その頃に、学生時代の恩師で、文化財の収集を行っていた高久田脩一先生に『三春人形』を教えてもらったことが、祖父が三春人形と出会うきっかけでした。戦後のことです。こんな人形が三春町にあったことを知り、どのように作られたのか調べ始めました。町内に残っていた人形、木型もとても少なかったそうです。祖父は学者気質で資料を集め研究することに向いていたのだと思います。その後、高柴デコ屋敷、人形師の橋本広吉さんとともに自身も人形を制作しました」
わずかな資料と作品から模索し復元していった三春人形は、町内はもちろん全国各地のデパートで実演販売された。太郎さんらが大阪のデパートでの実演販売の際、収集家の本出保治郎氏と出会ったことが三春人形の再興につながった。
「この人形なら自宅にたくさんあるから見においでと言われたそうです。地元にも残っていないのにまさかと思って見に行くと、200を越える三春人形がありとても驚いたと聞いています。本出さんは全国各地で三春人形を収集していたそうです」
本出保治郎氏の協力もあり、作品の解説や制作過程についてまとめた太郎さんの著作「三春人形」は、昭和39年に出版された。
宙さんもまたその本から人形について学んでいる。
「祖父が実際に制作していたのは数年ほどで、父が15、6歳の時に亡くなっており、その後は祖母が制作を引き継ぎました。祖父は祖母にも仕事のものは触れさせなかったため、祖母は見聞きしていたことを頼りに作り続けました。父も大人になってから人形作りをしていましたが、病があり現在は制作を離れています。制作期間でいえば、祖母が一番長く、私が四代目というより4人目と言った方がよいかもしれません」
3・作業工程 和紙張り 型外し 絵付け にかわ、染料など製造工程 等々
かつて農家の古い母屋だったという作業場は、土間と囲炉裏がある昔ながらの一軒家。
「冬はとても寒いのですが、作業をするには湿気がこもらない昔ながらの家が良いのです。私が小学生のころに父がこの建物を見つけ、工房として『雲香堂(うんこうどう)』と名付けました」
小沢民芸で制作する人形は、歌舞伎を題材にしたものから雛人形、福の神など22種類。
歌舞伎の演目、舞踊が題材であるため、人形たちは太鼓のバチや扇子といった小物を持ち、のびのびとした動きがある。
「三春人形は素朴ながら華やかさがありますね。小沢民芸では、江戸時代に作られていたものを基にデザインを再現しており、歌舞伎の悪役であっても、人形にしてしまうところがおもしろいなと思います」
三春人形の着物の柄には松が三つ重なったものが多くあり、縁起物には鶴や蛤が描かれた。
復元の際、木型はあるが絵柄が残されていなかった人形には、太郎さんが新たに柄を描き込んだものもある。
お雛様飾りの“三春内裏雛”や“三人官女”、“五人囃子”、赤い色が魔除けということから男子が生まれたら“熊乗り金太郎”や薩摩隼人、そして“福の神”や“鯛乗り恵比寿”、天神などの縁起物、また歌舞伎でおなじみの『三番叟』、舞姿、花笠、変わったところでは“唐人形”と呼ばれるシリーズ。
江戸で見聞きした歌舞伎や浮世絵などの流行していたものをモチーフに三春人形は作られています。おもしろいのがこの“象乗り唐児”、当時、三春の人形師たち本物の象を見たことがなくて想像だけで象を造ります。今の象と比べると何かが足りません・・・
耳がないんです。そして鼻も短い。さらには人が乗れるくらいの大きさとは聞いていたんでしょうが、そこまで大きいとは知らずに子供が乗れるくらいだろうと、子供を乗せてこの比率で作製されています。
「1、2か月に制作できるのは、だいたい20体ほどです。年間を通して一定の量を生産できると良いのですが、これからの夏場の時期は、色付けの乾きがわるくなるので、乾燥させている間に、人形たちのパーツや小道具作りをまとめて行います。乾燥しやすい冬は制作のスピードを上げることができます。常に人形たちをここに並べ、訪れる方に選んでいただけるとよいのですが、作業には限りがあるためそうもいきません」
4・張り子人形の材料となる和紙や膠(にかわ)、そして染料などの調達の苦労
小沢ブルー(藍アイ色) この色を何故か“ネズミ”
小沢民芸で作られている三春人形の色合いは、淡くとてもやさしい。
聞けば、植物染料を使用しているという。
下地の白は“胡粉(ごふん)
「蘇芳(すおう)、藍、くちなし、白は貝の粉“胡粉(ごふん)、墨などの植物性染料、そして金泥を使っています。
色の重なりや染める順番を考えたり、扱うには手間もかかりますが、祖父は江戸時代のものを復元することを目的にしていたため、小沢民芸では当時と同じ手法で作り続けています」
ノリは“三千本”の膠(にかわ)、膠とは動物の皮から抽出した古来の糊です。
和紙は、張り子人形用に特別にすいてもらっている和紙で、その昔はふすまの下地に使っていたような粗末な和紙です。そして人形足元を支える板は昔は屋根の下地に使っていた“木端”です。
ともに当時はそこら辺にあったような材料ですが、逆に今はこれらの材料集めが大変です。
人形の木型も、自分たちで造っています。
型の張り付けた和紙を方から取り外す際に小刀で切れ目を入れて外すという工程上、木型が10年くらいしか持ちません。それを自分たちで制作して補充しています。
ご家族で作っていた人形は、現在、宙さんおひとりで制作している。
在庫があればすぐにでもお分けすることは可能ですが、基本的には受注生産となります。
5・人形師小沢宙さんの今後の活動
人形を作りつづける
「経済的な面もあり、家族から人形作りをやってほしいと言われたことはなく、子どもであっても、仕事には触れさせませんでした。ただ自分も作ることが好きだったので、進路を決める際、祖母と父に仕事を教えてほしいと話しました」
高校卒業後は、京都の伝統工芸を学ぶ専門学校に入学。木彫、仏彫を学び、その後、福島に戻って小沢民芸の仕事をお祖母さまの重子さん、お父さまの小太郎さんから教わっていった。
「作業を教わるといっても、染料を測るにも感覚の部分が多くありました。人形づくりの全体がわかるようになったのは、10年が経った頃です。今でもうまく描けない、もっとこうしたいということが多々あります」
宙さんが人形作りを始めてもうすぐ20年。自分ひとりの作業は、休みも仕事も区別なく続けてきたという。制作の他に、三春人形の復興から太郎さんから続く小沢民芸の仕事についての講演会の依頼もあり、資料を見直し、人に伝えていくのも宙さんの大切な役割。
「私たちが作った人形を見て、今もこうして、いいな、かわいいなと言っていただけること、古くからのお客様はもちろん、各地のお客様からのお手紙をいただいたり、祖父が書いた本をどこどこで見つけたと連絡をくれる方がいたりとそれが制作を続ける励みでもあります。ひとりでこつこつ作業することが性に合っていて、これからもずっとこうして作り続けていきたいなと思っています」
今後、現在のレパートリーに加えて、江戸時代の三春人形でまだ復活していない粋に入りの人形の製作です。もちろん木型造りからです。
江戸時代から続く「三春だるま市」が来週開催されます。
張り子人形の郷、城下町三春へお越しください。シェア!
先にも、町文化伝承館で開かれた展覧会「ふたつの じいまご 展」では、祖父が三春出身の美術作家の前川加奈さん(39)=埼玉県在住=とコラボした作品展を開催しています。
小沢民芸 福島県田村郡三春町大字南成田字千代川87
お問い合わせ先 0247-62-2522(見学は、要予約)
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2025-01-13 Mon
「天文の乱」 伊達家の家中家督騒動天文の乱は伊達稙宗(だてたねむね)・晴宗(はるむね)の親子が、国人(こくじん)たちを巻き込んで天文11(1542)~天文17(1548)年にかけて争った乱。
※稙宗は正宗の高祖父 晴宗は祖父、輝宗が父
天文11(1542)年に晴宗が父・稙宗を突然西山城桑折町)に幽閉したことから始まります。
原因は、稙宗が越後国の守護職上杉定実(さだざね)に三男の実元を養子とし、それに精鋭の家臣100人を付けることにしたので、伊達家が骨抜きになってしまうことを恐れた晴宗が、実力行使に出たことにあります。
この事件はきっかけであって、稙宗・晴宗父子の間に以前から領国経営をめぐる対立や、稙宗の強引な段銭徴収(たんせんちょうしゅう)などへの不満などが家臣たちにあったことから、南奥羽の国人・戦国大名を二分する戦いとなりました。
稙宗党(最上、蘆名、相馬、田村、懸田、塩松、葛西、大崎氏などの姻戚)
晴宗党(岩城氏、中小の国人、伊達家の家臣)に分かれて戦い、乱の前半は稙宗方が有利に戦いを進めましたが、しだいに晴宗方が勢力を増していき、稙宗方から寝返る者が多くなりました。
天文17(1548)年9月に父子が和睦し、「天文の乱」は終わりました。
この結果、稙宗は家督(かとく)を晴宗に譲り、丸森城(宮城県丸森町)に隠居しました。
伊達稙宗 (1488~1565)
大永(たいえい)2(1522)年陸奥国守護となり、天文4(1535)年以後に棟別制度の整備、分国法塵芥集(じんかいしゅう)の制定、段銭制度の整備を実施するなど戦国大名伊達氏の基礎を築きましたが、その支配体制の強化が領国内部の反発を招き、子晴宗と天文の乱(1542~1548)を引き起こしました。
敗れた後は、丸森城(宮城県丸森町)に隠居しました。
伊達晴宗 (1519~1577)
出羽国米沢城主。
父と争った天文の乱以後、米沢に本拠地を移します。
天文22(1553)年家臣に対して知行判物を一斉に発給、後子輝宗と対立し、永禄7(1564)年47歳の若さで家督を譲り、陸奥国杉目城(すぎのめじょう)に隠居。
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2025-01-12 Sun
二本松城沿革誌 平島郡三郎著
二本松城沿革誌・二本松城沿革誌補遺は、平島郡三郎氏が昭和十五年頃に著わされたものです。
平島郡三郎氏は長年にわたって郷土誌を調査研究され多くの資料を残している。
そのなかでも昭和十二年頃から昭和十四年頃にかけて岩盤新報に連載した「二本松寺院物語」は資料として貴重かものである。
なお、「二本松寺院物語」は戦後二度復刻されている。
この中に“三春藩の卑怯な振舞い云々“と記載されています。
大正期に発布された戊辰戦争50周年のときに、会津、二本松などの旧幕府軍の復権がなされました。このとき辺りから、三春への目が変わっていったように思われます。
当時、福島の経済界を引率するなど繫栄していた三春は、これらの復権の責任を転嫁するための身代わりにされたという側面があるように思います。
昭和に入って世界恐慌から大戦に至るまでは、特に、帝国主義とは国家への絶対的忠誠を現すとして会津藩白虎隊、や二本松少年隊という図式が称揚されました。
その中で、戊辰戦争時における三春藩や越後新発田藩は卑怯という図式を示すことによって、自らの正当性を強調したことが読み取れます。
歴史上の事実の検証は、そのときにそれぞれの状況の中で、そこに生きた人間がどう考え生きたかを多面から捉えることが必要で、しっかり生きた歴史として捉える時期かと思います。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-01-11 Sat
三春昭進堂 冬の定番「チョコレート饅頭」がdeluxeビター・チョコレートをまとって販売開始いたしました。
1年ぶりの製造販売開始となります。
今回はビターのチョコレートをチョイスしての復活再販となりました。
冬季期間だけの限定販売となります。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-01-10 Fri
2025.正月 「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参
還暦のこの一年を、無病息災に過ごせたという御礼の意を込めて、伊勢の神宮へ初詣「御礼参り」に愛妻を伴って初詣に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
今回は石破茂総理大臣の伊勢路宮参拝と同じ日程でしたので、警備の関係からの各種制限を考慮して、ご祈祷は内宮さんに於いて御神楽御祈祷を受けました。
御祈祷の祝詞の中でお一人お一人の住所と名前が呼ばれ、自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。
参詣が少しずれれば規制が入りこの状況でした。
外宮さんにも詣でます。
参詣後は、お祓い町にて妻と直会です。
伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。
そして、外せないのが参道脇にひっそりと佇む「焼きかき」の屋台
震災前ですからもう十年以上前から神宮参拝の折には寄らせていただいています。
「毎度どうも~、三春から遠路遥々ご苦労さんです」と声をかけられる常連?となりました。
伊勢志摩名物の生きた牡蠣やサザエ、巨大あさり、イカなどを水槽から取り出して目の前で捌いて供してくれます。
コレがまた絶品😋
どうにもこの雰囲気が好きで有名寺社仏閣の付近では必ず探してみます。
そして、宿泊は神宮会館です。
夫婦水入らずの直会です。
そして翌朝は早朝参拝
毎回、それぞれの担当者の観点からのお話で、それぞれのアプローチが面白く毎回勉強になります
伊勢神宮参拝に先立って、まずは・・・
お伊勢さんへお参りと云ったら三春人には外せない場所があります
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。
實季公は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。
その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の落慶は令6年の予定です。
翌日は、先の中田町郷土歴史研究会の歴史講の際に、中田町下枝鎮守「菅布禰神社」の由来書にあった同社の御祭神「猿田彦命」の総本社鈴鹿の椿大神社へご挨拶を兼ねて参りました。
椿大神社は、経営の神様松下幸之助さんも信仰した“お導きの神様”です。
広大な境内には松下幸之助氏が寄贈した茶室もあり、夫婦でお茶をいただいてきました。
また、夫婦円満の神様としても信仰があり結婚式場ができる宿泊所「椿会館」もあります。
今回は、京都と嵐山に二日目の宿をとりました。
三春藩主菩提寺高乾院前住職、一周忌を迎える義兄の故岡祖伸和尚への遺徳を忍んで、和尚の修行された天龍寺僧堂への参拝です。
僧堂での座禅はかないませんでしたが、祖伸和尚を忍んで庭園を見ながら、しばし坐ってみました。
また、天龍寺は、南朝の初代天皇である後醍醐天皇を弔うために建立された禅寺です。
御春輩が後に加勢した南朝方北畠顕信や守永親王とのご縁もあります。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |
2025-01-09 Thu
三春昭進堂のいちご大福
福島県産のイチゴを使用しています。
酸味と甘さのバランスが良く、当店のあんこにぴったりです〜
そのイチゴを特製の秘伝あんこで包みました。
大福もちは、福島県産にこだわっています。
「二日市初売り」より、3月末までの販売となります。
桜餅も二日市より販売開始
うぐいす餅は、1月末からの販売となります。
もう少しお待ちください。
三春昭進堂 正月休みのお知らせ
第3週 1月22日(月) 、1月23日(火)に定休日と合わせて連休となります。
連休させていただきます。
よろしくお願いいたします。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-01-08 Wed
二本松藩史 二本松藩史刊行会 歴史図書社 発行(昭和48年)
元二本松藩関係の人々により、大正6年に挙行された、戊辰殉難者50年祭の記念事業の一つとして、建藩以来の事蹟の数々を記述した二本松藩史の復刻版
二本松藩の資料として貴重な本を手に入れました。
「二本松藩史」附図三葉
「二本松藩史」正誤表
(付)家譜等にみられる役職名等(俗名)解
| ryuichi | 03:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
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