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愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡 日向文書参照




愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡

愛宕神社から一段下の南東面に位置する平場に堂字がありました。





宗派は真言宗、 愛宕社の別当寺院であったと言われていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われます。

江戸時代後期に無住寺となりました。






近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は本堂も墓地も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。

また、旧墓地の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。






六地蔵があったことが推定されますが、近年の急傾斜地の整備と共に姿を消しました。

日向文書参照







尚、この付近に三春城遺構である太鼓堂の建物が移築されていましたが、老朽化のために取り壊されました。


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| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下中町 |
くさ (草)地蔵  八幡町裏町、さくら川沿いにある智法院跡地 日向文書参照




くさ (草)地蔵

八幡町裏町、さくら川沿いにある智法院跡地の向かいに小堂があり、石造·木造2体の地蔵歳尊が配られています。

「くさ地蔵」と呼ばれ、疱瘡やくさっぽ(できもの)平癒に御利益があると伝えられ、現在でも人々に親しまれています。





八幡町の二部氏が所有、管理しており、現在地に移ったのは、明治から大正のころであると伝わります。

内陣には、安永2年の建造の銘があり、別当は江戸時代、現中町地内にあった修験宗八幡山大光寺であったことがわかっています。






二度ほど移転を繰り返したと伝えられ、大光寺の八幡山という山号から当初八幡神社付近にあり、その後愛宕神社下(丈六側の中段窪地)に移ったことも考えられます。


日向文書参照








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| ryuichi | 05:45 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下八幡町 |
恋旨(こいし)チョコ 280円税別 2020



恋旨(こいし)チョコ 280円税別






小石のチョコレートです。



洒落を利かせて小石=恋旨ともじってみました。







もちろんバレンタインデーに向けた商品です。








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| ryuichi | 22:30 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯 |
平成版三春今昔物語岩江村(現三春町岩江)
岩江村(現三春町岩江地区)

岩江村は、三春町の西端で、郡山市に近接する下舞木、上舞木、山田の3集落があります。

上舞木のにある「直昆神社」は千数百年前、四道将軍の遺跡と伝えられています。

崇神天皇十年四月、大彦主命は、北陸から阿賀川を上り会津に入った。
その子である、武渟川別命(タケタナカワワケノミコト)は、関東まで水路で常陸に上陸、岩城から小野、仲田、中郷、鷹巣を経て上舞木に一泊します。
ここで「直昆神社」に戦勝祈願している。

さらに北小泉から川を越えて、 保成(母成)峠から会津に入り、親子対面したと伝えられている。


古くは田村領、その後会津領となり、さらに三春領から元禄12年、守山(現郡山市田村町守山)藩(藩主松平大学頭)の2万石領となり明治維新を迎えます。


磐城守山藩は、松平氏で御三家の水戸藩の分家でした。
藩祖は水戸黄門で有名な徳川光圀の異母弟で、家康の孫にあたります。
当然幕府内での家格が高く、江戸城では仙台伊達氏や長州毛利氏、薩摩島津氏と同じ大広間詰でした。

また、本家である水戸藩は、江戸幕府特例で江戸に常在していました。
即ち参勤交代がありませんでした。
これに伴い、守山藩もいわゆる江戸常府で参勤交代が免除されていました。

上記のような事情から守山藩主である松平氏は勿論藩士でさえも代官の藩士3人以外は一度も守山を訪れたことはないのではないか思います。

明治4年、平県から磐前県となり、同9年福島県と改められ、戸長制度が設けられて西部18ヵ村が鷹巣戸長役場の支配を受けた。

明治22年には、町村制がしかれて岩江村となりました。

根木屋、芹沢は、西田村(後郡山市西田町)

下舞木、上鈆木、山田は三春町、

白岩、下白岩、阿久津、安原、横川と上舞木の一部が郡山に合併します。

郡山、三春間の県道は、明治17年専横をきわめた三島県令が、県会議長の河野磐洲先生らを国事犯として投獄し、その留守中に開設した道路とされています。

明治19年三春馬車鉄道会社が新設され、大正3年7月まで営業を続けていた。

岩江は、古くから田村と安積を結ぶ交通の要路でした。

藩政時代は、三春城下起点の江戸街道を、鷹巣から別れて上舞木延命寺下から大峯の黄金玉滝の流れにそって、今に残る「弘安碑」の下を舞木駅向いの桜清水のほとりを通り、阿久津から渡し舟で行くのがただ一つの道とされていました。



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| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 旧岩江村 |
磐城の由来か?  三春城の遺構




2009.5に行われた地デジアンテナ設置に伴う、三春城本丸跡の発掘調査より

お城山は、地層の隆起によりできた山で、岩山と考えられていますが、本丸(時期により二の丸)跡に、巨石があり、舘および見張り台とも考えられる遺構が出て詣りました

これは、戦国期三春城主田村義顕入城以前、磐城の由来か?、はたまた「御輩春」の舘跡ではないか?







お城山の根源となる巨岩で形成された石山

その最上部にはご覧のように人工的な縦穴が刻まれています。

櫓の礎石として目的で穴が掘られたか?






文献的には証明されませんが、自然の穴も含めてさらなる考察が必要かと思われます。


尚、現在のお城山は大正12年に城山公園整備の際に整備された形態で、約1M~1.5Mほどの土盛りがされています。


その土砂を取り除くと石垣の石や排水路などの域の工作物が眠っています。





尚、三春城址は1991年と1993年に発掘調査を行っています。






中を拝見しますと、大手門付近の礎石や石垣、排水溝等々近世三春城の遺構が埋設されていることがわかります。


以下は、上記の報告書からの転用です。





大手門発掘全景












これらは、大正12年の三春城公園整備の中で開設されたものと考えています。








三春城絵図


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| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 戦国大名 三春田村氏 |
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| ryuichi | 05:41 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯 |
腹切梅伝説 御家騒動




腹切梅伝説 御家騒動


三春城下大町の紫雲寺、山内に入ると右手に梅の古木があって「腹切梅」と刻んだ小さな石碑がある。

あれは、大正十五年(昭和元年)に、河野広中磐州翁の碑を建てた時、「腹切梅」の主人公滋野多兵衛の供養のために建てたものです。..

今から350年程前の正徳5年6月、三春藩秋田氏3代の藩主輝季が逝去します。
跡取りである幼君はわずかに5才。

世嗣について客分家老荒木玄蕃(3代藩主輝季妹の夫)は、これをしりぞけて自分の子を入れたい野望を抱き、藩士達に連判を強要した。
それにしても幼君が邪魔なので、その毒殺の密計を企て、老女柳瀬と御殿医三宅良庵を抱き込んで、実行の機会をねらっていた.

滋野多兵衛は近習目付役で忠義一徹の侍でした。
荒木の連判には加わらず、幼君の身辺を離れず守護の役を果していた。

同年12月3日早朝、多兵衛が出仕すると、良庵と柳瀬が幼君に食膳をすすめていた。
怪しいとにらんだがどうしようも出来ません。
そこで滋野はとっさに自分のはいていた草履を食膳めがけて投げつけた。

その無礼で、滋野はその場に取り押えられ,重役詮議の上、切腹を申渡されます。

翌日、滋野はその菩提寺境内に設えられた切腹の座に据えられたが、

「何か望みがあるなら」という役人に対し、「乳母に会いたい」と答え、望は内密に聞き届けられた。

多兵衛が平沢田端の農家を訪れた時、乳母は噂で滋野のお仕置(切腹)きを聞き、仏前に供えようと、団子を作っている処だった。
思いも寄らぬ生きての対面に、涙ながらに団子を振舞います。

多兵衛は従客として馳走になり、別れを告げ·紫雲寺裏山の尾根伝えに、切腹の場所に戻った。
その時、乱母が飼い馴らした赤猫が、多兵衝にまつわりつきながらついて来た。

滋野は、処刑検視の役人を前にある城の方を睨み「この恨みは必ず果たしてやる!」と叫び、作法に従って左腹深く短刀をつきさして相果てた。

見守っていた赤猫が飛び出して着て、飛び散った滋野の血をすすって何処にか姿をくらまします。そして傍の白梅は、その翌年から、赤い花に変って咲くようになったという。






腹切梅後日談 「化け猫騒動」

腹切り梅の主人公滋唦兵衛の切腹処刑後、客分家老の荒木内匠は、自分の子である旗本秋田氏に養子に入っていた頼季を家督として幕府に届け藩内にも布告します。

その頃から、御城と家老荒木の屋敷に怪事が頻発するようになりました。

滋野多兵衛の亡霊と怪しい猫が家老や4代藩主頼季公(家老の実子)の夢枕に“猫の怨霊”が現れるようになったと云う、また、御殿や荒木屋敷など処々に同様の“猫の怨霊”が現われるのというもので、御殿出仕の侍達は極度の恐怖に陥っていました。

以来、この荒木屋敷では特に変事が続き、下僕・仲間(ちゅうげん)達や女中たちも相次いで宿下がり(離職)を乞い、長つづきする者がなかった。

奇怪な噂は尾ヒレをつけてひろがり、町内の者もふるえあがっていた。

慌てた城方では、3石7斗の供養料を紫賢寺に寄進し滋野多兵衛の亡霊を鎮めよう としたが一向きめがなく、御殿と荒木屋敷の怪事は納らなかった。

権力をほしいままにして剛腕でならした家老荒木内匠も居た堪れなくなり、南町の御城坂下の屋敷を捨てて、貝山地内·山崎の下屋敷を改築し、浪人者を雇い、番犬数匹を飼い警備を固めていた,

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ところが、 天明5年 といますから今から約250年ほど前の2月23日早期、御厩(おんまや・現西山医院付近)から火が出て、見る間に焼けひろがり城下町内を民家伝えに家中侍屋敷を総なめに役払っていきます。

火は衰えることなくお城坂にある荒木屋敷、そして御城までも焼き尽し清水に飛び火して御典医良庵(幼君に毒を盛った医者)まで類焼し、三春城下未曾有の大火となった。






家老荒木氏の孫にあたる藩主千季は、馬に乗り単身新町にある祈願寺の真照寺に避雉して辛うじて難を免かれた。
この火事でも滋野の飼い猫が化け猫となり火を導いたのだと、専らの噂だった。

真照寺に伝わる伝説は、天明五年二月、八幡町より火の手が上がります。
すると火達磨となった猫の怨霊が天を駆け廻り、中町から荒町、そして、高乾院の家老の墓所を焼払い、北町を駆け上がり焼き尽くし、三春城(舞鶴城)の御三階や御殿を焼き払ってしまいます。
その後も火の勢いは衰えず、大町から南町へ炎が城下町を飲み込んでいきます。





亀井の黒門(現田村消防署三春分署)に消火の陣頭指揮に出向いた、藩主千季公(家老の孫)は、火勢を避けるために、真照寺へ向かいますが、それを追うかの如く炎は、勢いを増し南町から山中、そして新町をも紅蓮の炎に包んでいきます。

千季公を、真照寺住職が門前(当三春昭進堂前)まで迎えに出たところ、千季公の背後に“猫の怨霊”が見えたので、袈裟の袂で千季公を隠すようにして寺へ導きます。
すると、猫の怨霊が千季公を見失ったのでしょう、三春城下を焼き尽くした火災は、その場所でようやく鎮火したと伝えられています。

この大火後も、祟りの様に度々大火や大雪そして大雨に災害に襲われます。
また、五代治季公、六代定季公と二代続けてと早死にしたこともあり、猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた千季公は真照寺へ、弘法大師・興教大師像の中に滋野多兵衛の位牌を納めて奉納し、その怨霊を鎮めたといいます。






以来三春城下での大火の度に、火達磨が如く炎に包まれた“猫の怨霊”が空を駆け廻り、火をつけて回った話が生まれ、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

以来、三春では猫の芝居を敬遠しつづけて来たと伝えられています。

因みに、滋野多兵衛の墓は紫雲寺に現存していますが、この墓は、滋野の若党だづた北町の万屋(よろずや)德右衛門が、安永9年6月旧主の供養を営み石碑を建てたのである。

戒名·光照院摂誉浄取居士。




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| ryuichi | 04:40 | comments (x) | trackback (x) | 平成版三春怪奇伝説::三春城下夜話 |