2024-12-05 Thu
私は、還暦を迎えた今年度の集大成として、講師として4回講座で戦国時代の三春田村氏を中心とした歴史講座に望んでいます。
田村氏旧臣の多い郡山市中田地域の郷土史研究会の講座です。
このお話をいただいてから中田町地域の神社やお寺、そして、城跡を廻ったりと・・・これも先祖以来のご縁あるめぐり合わせかと・・・・
今回改めて戦国時代の田村の庄を中心とした、御春輩と称する平姓三春田村氏の旧臣衆と向き合っています。
「しっかり講話せよ!」と田村旧臣にお叱りをいただかないよう、あと2回の講座を自分なりに頑張る所存であります。
そして、もう少し戦国の世の田村庄を堪能したいと思います。
いざ出陣じゃ!
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」
中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター
令和6年12月4日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~
三春昭進堂代表 髙橋龍一 塵壺発行責任者
講演項目
・三春田村氏と南方要害(中田町周辺)武士団
・中世の田村庄と小野保周辺「奥州田村六十六郷・小野六郷」
・三春城主秋田氏
・幕末戊辰戦争と三春藩
参照資料
「田母神旧記」
「田村家臣録」
「田村系譜」
『中田町の文化財』 中田町郷土歴史研究会 1~4
『なかた町史』 中田町郷土歴史研究会 第1集
『仙道田村荘史』青山正
『田村郡郷土史』田村郡教育會
『岩磐史料叢書、岩磐史料刊行會
『三春町史』 三春町
『船引町史』 船引町
『大越町史』 大越町
『滝根町史』 滝根町
『姓氏家系大辞典』 太田亮 姓氏家系大辞典刊行会
中世の商人 坂東屋富松和泉守氏久
室町時代、南奥州から北関東で活躍した豪商・坂東屋富松四郎和泉守氏久(富松という名称は世襲)がいました。
商人でありながら和泉守(前・左衛門尉)という官位を拝領し、当時の営業活動全般が取り仕切られている“座”から奥州諸大名を相手に、熊野新宮参詣を案内できる権利「先達職(せんだつしょく)」を購入し「熊野先達職」を保有していました。
熊野先達職というのは、田村庄を管轄する熊野へ行く際に、旅程にある各関所の通行手形の発給手続きや、道中の宿泊施設の手配など現在の旅行代理店業務をすることで手数料を徴収する観光業者的な役職です。
坂東屋富松は、室町幕府より、もう一つ大事な仕事を任されていました。
それは、室町幕府の将軍職就任や家督継承等の各種慶事の祝い、そして奥州諸氏の京都へ入洛する際の御礼や心配りの付け届け、御祝儀等々を督促・集金して廻ること、さらに、将軍の名前より一文字の拝領や、武将官位の下賜による叙位任官等への勧誘及び申請などを幕府執政に成り代わって行うことでした。
武将官位とは、田村大膳太夫清顕、松下石見守長綱、安東秋田城介實季などに見られる「○○太夫」「○○守」「○○介」のことで「受領名」「官職名」などを指しています。この叙位官位には、幕府への金品の授受が必要とされ、衰退していた室町幕府にとっては正当な財源の一つで、坂東屋富松はその報酬として手数料を取っていました。
伊達政宗の曾祖父である伊達植宗の従四位下・左京大夫職の任官及び陸奥国守護補任には富松氏久が、また、植宗の子晴宗の左京大夫補任やその子輝宗の韓字拝領などの際には富松与一が、さらに天正十六年には豊臣秀吉の奉行衆の一人で富田一白の書状を伊達政宗のもとに伝えて上洛催足の役を務め、翌十七年から十八年には伊達氏による会津葦名侵略に対する秀吉の意向や上方の政情を政宗に伝えたのも坂東屋道有・・・というように、坂東屋富松の事業継承者による仲介がありました。
尚、伊達植宗は、坂東屋富松を駆使して官位取得、さらに奥州探題職就任を目指して、巨大山城・桑折西山城を築城して最新の防御設備をすでに備え、信長より先んじて家臣の城下集住も行い、伊達の領土拡大と武家のみならず民衆にも適用される法令を整備した新たな国づくりを行っています。また、昨今の城ブームの中で“信長より三十年早く城下町を造った武将”として注目を集めています。
「祐玄熊野先達代官職預請文」(青山文書・永享二年)「奥州田村庄熊野先達之御代管領状之事」を見ますと荘園制度の中の熊野新宮領(荘園)で、後の三春藩領の母体となる田村庄の熊野先達との其れなりの関わりが記されています。
室町中期の永享二年(1430)、田村庄熊野先達の代管職を入質して流した田村大蔵祐玄がこの代官職を「坂東屋のつし」から預けられたことに提出した証文が記載されており、今後は先達として参詣の度に一人500文ずつの上分を坂東屋に納めることが記されています。
また、康正二年(1456)「乗々院役者連署奉書」(青山文書・嘉吉元年)には、田村庄司遠末一家(三春田村氏系統?)先達職を湯上坊(磐城守山大元帥明王山内)から買い取った坂東屋道公が田村兵部公へ譲与してその任を安堵したもの。さらに大永五年(1525)の売券では「田村三分一御道者」の先達職を小祭刑卿覚清が蒲倉蓮光坊(蒲倉大祥院?)へ売却の際の請人に坂東屋富松がなっていると記されています。
板東屋富松は、伊達家だけでなく、田村庄田村氏、白川荘白川氏など他の奥州領主の下でも自身の商売として働いているようで、坂東屋富松の南奥州に於ける活躍は現代の総合商社的な役割を担っており、東北北関東の諸大名家への営業活動も、当時の政治経済の中心である京都との文化経済の流通を担って室町幕府とくに政所と深い交渉をもったものとみられています。
これらの活躍は室町時代の中期には始まっており、室町幕府減亡後、豊臣政権とも関係を保ったことから、徳川幕府成立前後まで約百五十年は続いたと思われます。
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2024-12-04 Wed
伊達天正日記 天正十五年
岩田書院史料選書7
南奥羽戦国史研究会編 「編集担当」 遠藤ゆり子・佐藤貴浩・高橋俊介・戸谷穂高
「伊達天正日記」は、天正15-18年(1587-90)における伊達政宗の動向を、側近が記したものです。
この時期は、政宗が家督を継承してから2年後の21~24歳(数え年)に相当し、政治動向が大きく変化していく南奧羽の戦国末期を知る上で重要な史料だといえます。
比較的、政情の落ち着いていた天正十五年には、本拠米沢近辺での鷹狩や川狩りなどを楽しむ政宗の日常生活や、諸事件への対応といった伊達氏の内政を垣間見ることができる。だが次第に近隣諸氏との戦争が激しくなると、外交上の遣り取りや戦争準備に忙しかった様子を伝える記事が増えるようになる。
天正十七年には会津の蘆名氏を滅ぼし、会津黒川城へと入城した頃の状況が知られ、豊臣政権から上洛を求められていた同十八年三月で日記は終わっている。
(本書 説明文および「解題(遠藤ゆり子執筆」より)
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
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2024-12-03 Tue
Jeong Giwan.
ビジョン・ギワン サクソフォン リサイタル
オーボエ 佐久間早苗
ピアノ ソン・ギョンジュ
12月16日
Open 18:30 / Start 19:00
郡山市中央公民館大ホール
David Maslanka
Sonata
James Barnes
Arioso and Presto
Francis Poulenc
Trio for Piano, Oboe and Basson
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2024-12-02 Mon
「開軒周年記念演奏会」
宝生流謡曲千宝会 七十周年
琴古流尺八 東雲会 五十五周年
生田流箏曲千代美会 五十周年
2024年12月15日[日] 開演11時(開場10時30分)
三春交流館まほらホール
一般2000円 学生 1000円 ※全席自由
賛助出演
池上眞吾(等・三絃)
藤原道山(尺八)
佐々木浩一(大鼓・小鼓)
河内孝子(大鼓)
佐々木美奈子(大鼓)
出演
千宝会会員東雲会会員
千代美会会員各会会友
プログラム
連吟 鶴亀
箏曲 飛躍
箏曲 花の季
居囃子 桜川
地歌 吾妻獅子
地歌 ゆき
舞囃子 枕慈童
箏曲 合奏曲六段
■チケットお申込み・お問い合わせ
080-3143-7361(村澤方)
各出演者
三春交流館 まほらホール
福島県田村郡三春町大町 191
※三春昭進堂にて、主催者よりお預りしたチケットを数枚を配布しています。
お声がけください。
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2024-12-01 Sun
演劇集団 きのこ集団Protomass 次回公演情報
きのこ集団Protomass 歩行練習公演
「このままクレヨンと消えてよ」
公演日時
新潟公演
2025年2月8日(土)・2月9日(日)
公演会場 新潟公演
アートギャラリーのらごや (トラットリア ノラ・クチーナ敷地内)
(〒950-3321 新潟県新潟市北区葛塚3223)
福島公演
2025年2月15日(土)・2月16日(日)
公演会場 福島公演
ATELIERブリコラージュ
(〒960-8034 福島県福島市置賜町8−30 カスタムビル 2F)
※両会場ともに、専用の駐車場はございませんので、お近くの有料駐車場をご利用ください。
予約開始少々お待ち下さい
作品について
作・演出 髙橋 成知
役者 町田1:金城 竹彦
町田2:解像度 哲司
バスガイド:大江 優花
裏方 舞台監督・照明:二瓶 碧
音響:髙橋 成知
制作・宣伝美術:大江 優花
約60分くらいの芝居。
あたしが書きましたの
バスガイドの怨みを買ってしまった話です
座長 髙橋成知
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2024-11-30 Sat
福島民友 創刊130周年プロジェクト
【ごみレス100〜全国ワースト脱出作戦〜】
1人1日マイナス100g!
三春町、そして三春昭進堂もゴミの削減に取り組んでいます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-11-29 Fri
中津川鎮守 中津川神社 (旧菅布祢大明神)
祭神 猿田彦命
社殿に掲げられてある「大東亜建設」の扁額が目を引きます
日本のみならずアジアの平和を祈願したものでしょう。
陸軍大将、男爵奈良武次の謹書による扁額「大東亜建国」が掲げられていました。
日清・日露戦争での活躍し、陸軍の官制改正問題、対華二十一ヶ条要求問題、中国第三革命への関与、シベリア出兵問題などにも関わっています。
東宮武官長、侍従武官長として、皇太子訪欧の随行から張作林爆殺事件、五・一五事件、満州事変勃発期まで、つねに昭和天皇の傍らにあった方で枢密顧問も務められました。
日本政治外交の大きな節目に重要な任務に就いていました。
三春田村氏一門より100年位前。
応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司田村氏のころです。
三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。
その頃の中津川城主に中津川千々代丸(なかつがわちぢまる)という名前が見えます。
当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。
隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。
中津川千々代丸は、伊達氏に味方していましたが、田村伊達家の和睦により田村氏に降ったとされていますが、中津川氏が千々代丸という名称で記載されていますが、当主が元服前なのか個人ではなく集団なのか・・・いずれにしてもその後の行方が分かりません。
後々にも田村領城郭要害絵図に中津川城は記載されています。
城郭も三つの郭を持つ大きな城になっています。
中津川氏退去の後の中津川舘には、戦国大名三春城主田村氏の一門衆中津川兵部が居城しています。
兵部とは、中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継いだと考えられています。
※橋本刑部少輔顕徳の弟か息子との口伝あり
田村四十八舘の南の要害としていました。
田村三代清顕亡き後の岩城氏による田村庄進攻に際して岩城氏が拠点としています。
義顕公の正妻は岩城の娘です。
中津川城 歴代城主
南北朝時代の応永11(1404)年 中津河参河守秀清
仙道国人一揆連判状(結城文書ほか)に記載アリ
天文十年(1541)、
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城及び田原谷城(小野町夏井)を破局した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。
常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。
田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。
さらには、一度離反し反田村氏となった、常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。
このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます
。
田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ
天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。
天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ ※橋本刑部少輔顕徳の弟か息子
天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐
天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)
天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死 郡山合戦
天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ
時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。
この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。
また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。
6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より
天正十八年六月
去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様 「貞山公治家記録」より
中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。
三春城下 御菓子三春昭進堂
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