CALENDAR
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31    
<<  2021 - 03  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




ひな人形 2021




結婚前(30年位前)に、妻の両親の実家のある島根に遊びに行ったとき、津和野へも足を延ばしました。


その時に買い求めた素朴な土の雛人形


いまでも店の真ん中に、一年中飾ってあります。



この時買い求めた雛人形と津和野太鼓稲成神社のご縁が、家内との結婚に結びついたものなんだろうと思います。






入ってすぐに”昇り龍”が目に飛び込んできました。










いただいた縁結びのお雛様です。















三春昭進堂 高橋 龍一


| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |
本日、3月2日火曜日は定休日となっています。




本日、3月2日火曜日は定休日となっています。

又のお越しをお待ちしています。


体力増進のために朝の散歩をし始めて丸一年になります。


体力と免疫は上がったように感じますが、体重は落ちません~







三春城下真照寺参道 三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯 |
時田舘  上大越 田村四十八舘




時田舘  上大越 田村四十八舘

三春田村氏四天王の一人大越城主大越紀伊守の臣、時田次郎の居舘

田村市大越町大字上大越字町の東方にありました。


大越城 本城

大越紀伊守信貫 一万石(安積六百石、二千大越、三百五十石牧野) 紀伊守没後息の田村宮内領す 本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、西北丸


大越紀伊守は現在地に城を築き、大越地内に数多くの館を置きそこに家臣を配置していた。

「大越城」と呼ばれていたが築城の折、下大越白井倉より鳴神明神を遷して城中に祭ったので「鳴神城」とも称された。

三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘1 |
髙橋哲夫著「福島自由民権運動史・その踏査と研究」のあとがきからの発見!



今回の塵壺を調べるにあたって当家出身の自由民権運動研究の第一人者髙橋哲夫氏の著書を数冊読んでいました。

その中の一冊「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきの中に、当家に関する初めて知る記述がありました。

当新町髙橋家の初代民四郎氏は込木柳作から芹ケ沢の土地を譲り受け、その後現在の場所に移って、商いを始めたとは聞いていました。

その商いも様々な商売をしていたと・・・







その中に羽二重(絹織物)工場を経営していた記載されていました。

この事は昭和8年生まれの父も知りませんでした。

さらに、その工場は第一次欧州大戦(第一次世界大戦)後の世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということも記されていました。

その後、おタリは持ち前の気の強さで果敢に商売を模索して、饅頭屋に落ち着いたという下りに繋がります。

そして、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか遊郭や畜産組合での書記や会計、さらには祭礼での露天商・・・友人たちと昼から酒を呑んでは時事を語り合っていたそうです。







以下は、上記のあとがきよりの文面です。

私の子供の時の古い記憶といえば、いつも最初に浮ぶのが、何か悪いことをして析艦されるときに、きまって裏の家(主家と離れた廃工場)に投げ込まれた思い出である。
その工場には幾つかの機織台が、興妹の巣やほこりにまみれて置かれてあった。

昼でもうす暗いその部屋には、どこかのふし穴から、さっと日光が何本か斜に走っていた。その光をじっと眺めていると、無数の微芥がうごめいていたりしているのを、泣きじ。くった顔で、ぼんやり眠めていたものである。

「裏の家に入れるぞ」これが兄弟たらにとって、一番恐ろしい宣告であったのである。これは、おそらく、私が五、六才の頃のことであるから、大正11年前後であったものと思われる。




すこしものごころついてからわかったのであるが、大正7年第一次欧州大戦の終了によって到来した大恐慌のあおりをうけて、父の経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒壊し、それからずっと工場は閉鎖され、子供達の折艦の場と変貌していったのである。

この工場がいつ頃とりこわされたのかは覚えていない。






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂菓匠蒼龍 ::三春昭進堂髙橋 |
弥生3月【ひな祭り】 2021 御菓子三春昭進堂



弥生3月【ひな祭り】 2021 御菓子三春昭進堂


女の子が健康で幸せに育つようにと願いをこめて祝う桃の節句、3月3日のひなまつり。

雛人形を飾り、女の子の健やかな成長を祈る行事です。


人形で身体を撫で、けがれを移し、川へ流して身を浄めたのがはじまりといわれています。

赤(桃の花)、白(雪)、緑(草)を表しており、それぞれの色には、厄祓い、清浄、健康の意味があり、子孫繁栄、長寿の願いが込められています。


旧暦の3月3日、おそらくまだ雪深い大地から芽生える緑、花などの自然の力にあやかる意味もあったのでしょう。






いちご大福 150円税別





道明寺桜餅 130円税別







うぐいす餅 120円税別







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子  |
塵壺356号 「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動 令和3年3月発行



「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動

幕末から明治という激動の時代。時代に翻弄され、挫折や犠牲を繰り返しながらも、「先憂(せんゆう)」という高い志を持って近代日本の礎を築いた三春の若い自由民権運動家達。

「先憂」とは、北宋の政治家范仲淹(ハンチュウエン)が著した『岳陽楼の記』の一説“天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ”即ち「政治家は常に国民のことを真っ先に憂えるべき」という言葉からの引用で、明治初頭の三春に於ける政治思想の根幹です。





自由民権運動とは、まだ、日本国に於いて国会はもちろんのこと憲法さえも存在しなかった時代、国民が国政に参加する自由と権利を獲得することを目的として全国的に広がった民間の政治運動で、明治7年(1874)、旧土佐士族板垣退助、後藤象二郎らが「民撰議院設立建白書」を提出したことが始まりとされています。

板垣らは、この運動のために全国的な組織「愛国社」を大阪に結成し、今では当たり前となっている国会の開設や 憲法の制定などを政府に求める活動を展開していました。

一方、三春における自由民権運動は、河野広中(こうのひろなか)を中心に、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設、館内には「三春先憂社」を組織して討論演説会を開始し数多くの運動家の育成を図ります。

また、東北初の政治雑誌「三陽雑誌」を発行して政治思想の教育に努め、多くの若き自由民権運動家たちを輩出します。

尚、「三陽雑誌」は第1号から第4号まで発行されましたが、発行部数の少なさと、時間経過等の中で長年その詳細な全容は不明でしたが、昭和50年から発行の「三春町史」編纂の際に、その全巻が発見され現在は三春町歴史民俗資料館内・自由民権運動記念館に自由民権運動研究家の第一人者で当家出身の故高橋哲夫氏所有の研究資料と一緒に自由民権運動の貴重な資料として収蔵されています。






これらの活動によって「西の板垣(高知)、東の河野(三春)」と称され、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、政党活動にも積極的に拘わるなど三春は東国に於ける自由民権運動の中心地となっていきます。






明治 15(1882) 年、「鬼県令=県知事」とまで呼ばれた旧薩摩士族三島通庸(みちつね)が福島県令になり、政府の意を受け自由民権運動を強力に弾圧したため、福島県議会議長(後の衆議院議長)河野広中(福島民友新聞創刊者)らとの確執が続き議会は何度も紛糾します。

その最中、三島は会津三方道路の建設に着手します。この計画は将来を見据えたものではありましたが、農民たちの過酷な労役などの建設手段には大きな間題がありました。

この農民たちと一緒に、三島に弾圧され続けた三春正道館などで志を同じくした自由民権運動家たちは、三島に対する憎しみを強め、その反対運動・農民運動を展開することになります。





同年 11月28日、喜多方市塩川町の“弾正ケ原”に千人以上の自由民権運動家や農民が集まりその反対運動は頂点に達しますが、明治政府の力を背景とした三島は、大弾圧を強行し河野広中・田母野秀顕(たものひであき)ら、三春出身者10名を含む、多数の運動家を逮捕します。

これを『福島事件』と呼びます。






その翌年、三島が栃木県令として転任すると、残った自由民権運動家たちは三島通庸の追討として栃木県庁爆破未遂を起こします。

明治17年には、一連の三島暗殺を含む自由民権運動弾圧の反対行動は過激さを増し、最後は茨城の加波山で挙兵します。

後に「加波山事件」と呼ばれ、河野広中の甥である河野広躰(ひろみ)や琴田岩松など、三春人5名を含む多数の運動家が捕えられます。

彼らは、政治行動として逮捕も覚悟しての挙兵でしたが、国事犯としてではなく一般犯罪者として処刑されてしまいます。

以後、明治政府も、上記の一連の自由民権運動の高まりの結果もあり近代国家として国会の開設や憲法の発布の必要性を認め、明治22年大日本帝国憲法が発布され、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ「帝国議会」が発足しています。



蒼龍謹白 With三春城下! さすけねぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 04:43 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |
大倉舘  小野新町 田村四十八舘




大倉舘  小野新町 田村四十八舘

天正年間より三春城主田村氏の臣、小野城一門 城下衆 先崎嘉左衛門の居舘


塩釜神社の御幣を運んだとされる 先崎主水介徳近



小野新町大字大倉にありました。




小野保 三春初代城主田村義顕の三男である小野城主 田村梅雪斎顕盛、田村右馬頭清忠 父子並 



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 田村四十八舘2 |