CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
<<  2024 - 11  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




七草木館(城)趾






七草木館 跡

御木沢回り沢石行のバスが·御祭から七草木に入ってゆくと左の車窓に、桑畑と麦畑の段々畑になっている古城趾が見える。

あれが七草木館(城)の趾である。.

この城も、天正年間に三春城主田村氏が構築した、いわゆる田村四十八館の一つである。

七草木城は、田村氏の一族で、500石の七草木新助の居城であった。


ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものである。

その規模を古文書で見ると、三春札所から30町、城廻り300間、高さ18間

本丸は、南北24間、横幅8間

二の丸は、縦14間、横3間

.

この面積から推せば、小さな見張り台程度の館だったろう。







田村家の家臣達は、田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う田村四十八舘を築き、それぞれ本拠として防備の為に領していたが、三春城下にも屋敷を与えられ、三春城の一郭を成し非常時に備えていました。

月斎以下重臣屋敷が城近くに配置され三春城の防御の要を成し、常に田村家に近侍する直属の旗本不断衆千騎の屋敷も城近くに集中していました。


| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::七草木 |
祝新天皇即位 現代川柳「駒のいななき」85歳記念号 わたなべ駒之助著



祝新天皇即位
現代川柳「駒のいななき」85歳記念号 わたなべ駒之助著


三春城下担橋にある「わたや呉服店」会長の渡辺和明氏ことわたなべ駒之助さんより、祝新天皇即位 現代川柳「駒のいななき」85歳記念号が届けられました。

病気療養とリハビリの日々と伺っていましたので心配していましたが、同書を拝見しリハビリ中なれど創作意欲にあふれ益々お元気な様子で安心いたしたところです。

腰から下はリハビリですが、腰から上はいたって元気とおっしゃっていられる通りのお姿が見えるようです。








早速、中を拝見いたしますと「祝新天皇即位」題されておられますところの、祝新しい元号「令和」とともに、
「紅葉山 皇室守り とこしえに」 と詠まれています。

紅葉山・・・江戸城西丸の東北にある丘で本丸と西丸のほぼ中間あたる。古くは「鷹の森」と呼ばれ現在は皇居を構成する一部となっている。著者中訳


また、それぞれの項目ごとに分かれた川柳には日々のリハビリテーションでの様子や関係各位への御礼が詠まれています。






三春商人として昭和から平成と全力で駆け抜けた85年.


川柳に表されている言葉にそれまでの商人として、三春人として歩んで来られた人生の汗と涙、喜びなど悲喜交々が根底に見えます。

読み進むうちに心が引き締まる詩が並んでいます。

そして改元され新元号令和の時代になっても益々人生を謳歌されることでしょう!







春が過ぎて立夏を迎えようとしています。

そろそろ自宅へ戻ってのリハビリになるのでしょうか?



三春商人の「商売のコツ」や「人生訓」をご教授いただきに伺と思います。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
御祭小山館(城)




御祭小山館(城)


三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。


三春から御木沢廻り沢石行のバスに乗り、樋ノロの川岸を大きく迂回して、御祭地内に入ると、前方の目前に、老杉と雑木林に包まれた峯のそびえ立つ、由緒ありげな景観を見るだろう。

この山こそ、小山城の跡である。

小山城は、天正年間に三春城主田村清顕時代に築いた“田村四十八舘”のひとつである。
この城には田村の家臣、550石の小山左馬之助が居て、北西の守を固めたわけである。

古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の橋本篤世氏の屋敷までのびていたと思われる。

城には石垣の形跡がなく、土塁だけの構築にすぎなかったらしい。
広さといえ、高さといえ、その構築といえ、全く簡素なもの、兵器の進まなかった昔ながら、よくもこの程度の備えで、外敵を防ぎ得たものと、感慨無量である。



 
 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のとき、村内の志々作という部落に、獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納した。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には、御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より、御祭の村名を拝領したと伝えられています。


また、「突き館」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名でが残ります。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 06:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
三春物語751番「谷戸の十王堂」~ゆず~


三春町平沢谷戸の旧家伊藤博さまより、ゆずを頂きました。

綺麗なゆずは商品として三春駅磐東プラザで販売していますが、形の悪いものは商品価値がないのでお客様にお分け下さいということでいただきました。

ご来店のお客様には、ご自由にお持ち帰りいただいています。


旧平沢村谷戸の伊藤家は、旧谷戸三軒の一件で、平沢伊藤家の総本家という家柄です。

敷地内には、旧谷戸安楽寺(廃寺)から移設した十王堂をお祀りしています。
「極楽浄土」信仰のための十王が祀られているお堂です。
これを十王堂(じゅうおうどう)というが、地元の人たちは「じょうおうどう」と親しみをもって呼び、今も大切にお守りしています。

十王とは冥界で死者の罪業を裁く10人の裁判官のことで、その10人とは泰広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王です。
この思想は平安時代に中国から伝わり、鎌倉時代に大流行し、江戸になると各村々の閻魔堂に像が祀られるようになりました。

仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔(えんま)大王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官である。

この十王をおまつりして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想である。
 この思想は、十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)が出典のようで、地獄のことが詳しく描かれている。

この十王経はどうやら中国で作られた経典(偽経)といわれており、日本へは仏教伝来時に伝えられ鎌倉時代には大流行したという。


大きな地図で見る



| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
三春物語750番「道切り地蔵」
「平沢中の道切り地蔵尊」


三春郊外平沢にある道切の地蔵尊

村は古くから用いられてきた言葉で、「ムレ」(群れ)とか「ムラガリ」(群がり)を意味し、在所とも呼ばれていました。
今の字がほぼそのムラの単位を示しています。

今でも変わることはありませんが、つい近年まで村は、村人が共に生活を営む拠点であり、村人はムラの中の「安全」と「清浄」とをひたすら願っていました




また、村の外を異界と見て、悪霊、災害や疫病は異界からムラへ侵入してくると考えていた。

疫神は、いつも村人が行き来する道から侵入してくると考え、村の出入り口に呪物を置いて「悪霊防除」を祈願してきました。

道祖神や辻の地蔵、そして塞の神はこうした目的であり、呪い物で道を区切ることを一般に「道切り」と云われています。




大きな地図で見る



| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
三春物語611番「七草木地神講」


三春郊外、旧七草木村にあった講中に「地神講」がありました。

春と秋の「彼岸の社日」に地域の男衆だけが集まる講でした。

宿に宵から集まってお籠りをします。

宵と朝に水垢離をとって体を清め、地神様の掛け軸をかけて拝みます。

夜、朝、昼の三食とも餅を食します。

食事の時には、参集者一人ひとりが餅と大根漬を地神様にお供えしてから食事をしていました。







講は、生活の全ての互助機能を果たし、教育的機能も果たし、血縁よりも契約兄弟の堅い契りで結ばれていたのですが、権現講の寄り合いに当時の講の存在を垣間見ることがで
きます。

すなわち、講長などの世話役は世襲制であること、席順も家の格式などで決まっていることです。


根底にあるのは、昔ながらの「家意識」でしょう。

寄り合いの会食で使われている食器類も、自分の祖先が使ったものであり、昔のことを確かめ合うと同時に、「家」を思い、祖先を思う役割を果していたと考えられます。


| ryuichi | 04:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::七草木 |
三春物語615番「御祭神風講」
御祭神風講
講とは信仰を同じにする人々が宗教的な共感を分かち合い、その宗教の伝統や
価値を維持・発展させるために組織された集団をいい、中世のその成立をみる。
また、それをもとに経済的目的を共通する人々によってできた集団をいう。
やがて、宗教的な機能が失われた同志の集団をも意味するようになった。
そして、村落社会の自治的組織の基本的な単位として、日常生活に多くの役割を
果たすようになる。
講の種類としては、『神道的な講』『民間信仰の講』『仏教的な講』『経済社会的な講』があり、一般的には以上のものが組み合わされた講が多い。
三春城下の北西一里にある旧御祭村に昭和三十年代の中ごろまで行われていた講で各戸一名の男が参加していました。
名称は「神風講」ですが、熊野講や権現講と同じ内容とされています。
旧二月八日と九月十二日の年二回でしたが、戦後には初秋から晩秋の月の十日の年一回としていましたが、昭和35年ころから行われなくなったとされています。
世話役は年番と呼ばれ、四人があたり、その年番のうち一軒を宿としていました。
家庭とは煮炊きを別にする、「別火行事」として男手で調理をします。


| ryuichi | 04:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |