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三春物語751番「谷戸の十王堂」~ゆず~


三春町平沢谷戸の旧家伊藤博さまより、ゆずを頂きました。

綺麗なゆずは商品として三春駅磐東プラザで販売していますが、形の悪いものは商品価値がないのでお客様にお分け下さいということでいただきました。

ご来店のお客様には、ご自由にお持ち帰りいただいています。


旧平沢村谷戸の伊藤家は、旧谷戸三軒の一件で、平沢伊藤家の総本家という家柄です。

敷地内には、旧谷戸安楽寺(廃寺)から移設した十王堂をお祀りしています。
「極楽浄土」信仰のための十王が祀られているお堂です。
これを十王堂(じゅうおうどう)というが、地元の人たちは「じょうおうどう」と親しみをもって呼び、今も大切にお守りしています。

十王とは冥界で死者の罪業を裁く10人の裁判官のことで、その10人とは泰広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王です。
この思想は平安時代に中国から伝わり、鎌倉時代に大流行し、江戸になると各村々の閻魔堂に像が祀られるようになりました。

仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔(えんま)大王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官である。

この十王をおまつりして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想である。
 この思想は、十王経(仏説地蔵菩薩発心因縁十王経)が出典のようで、地獄のことが詳しく描かれている。

この十王経はどうやら中国で作られた経典(偽経)といわれており、日本へは仏教伝来時に伝えられ鎌倉時代には大流行したという。


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| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::平沢 |
三春物語750番「道切り地蔵」
「平沢中の道切り地蔵尊」


三春郊外平沢にある道切の地蔵尊

村は古くから用いられてきた言葉で、「ムレ」(群れ)とか「ムラガリ」(群がり)を意味し、在所とも呼ばれていました。
今の字がほぼそのムラの単位を示しています。
今でも変わることはありませんが、つい近年まで村は、村人が共に生活を営む拠点であり、村人はムラの中の「安全」と「清浄」とをひたすら願っていました




また、村の外を異界と見て、悪霊、災害や疫病は異界からムラへ侵入してくると考えていた。
疫神は、いつも村人が行き来する道から侵入してくると考え、村の出入り口に呪物を置いて「悪霊防除」を祈願してきました。
道祖神や辻の地蔵、そして塞の神はこうした目的であり、呪い物で道を区切ることを一般に「道切り」と云われています。


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| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語611番「七草木地神講」


三春郊外、旧七草木村にあった講中に「地神講」がありました。
春と秋の「彼岸の社日」に地域の男衆だけが集まる講でした。
宿に宵から集まってお籠りをします。
宵と朝に水垢離をとって体を清め、地神様の掛け軸をかけて拝みます。
夜、朝、昼の三食とも餅を食します。
食事の時には、参集者一人ひとりが餅と大根漬を地神様にお供えしてから食事をしていました。



講は、生活の全ての互助機能を果たし、教育的機能も果たし、血縁よりも契約兄弟の堅い契りで結ばれていたのですが、権現講の寄り合いに当時の講の存在を垣間見ることができます。
すなわち、講長などの世話役は世襲制であること、席順も家の格式などで決まっていることです。
根底にあるのは、昔ながらの「家意識」でしょう。
寄り合いの会食で使われている食器類も、自分の祖先が使ったものであり、昔のことを確かめ合うと同時に、「家」を思い、祖先を思う役割を果していたと考えられます。


| ryuichi | 04:32 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::七草木 |
三春物語615番「御祭神風講」
御祭神風講
講とは信仰を同じにする人々が宗教的な共感を分かち合い、その宗教の伝統や
価値を維持・発展させるために組織された集団をいい、中世のその成立をみる。
また、それをもとに経済的目的を共通する人々によってできた集団をいう。
やがて、宗教的な機能が失われた同志の集団をも意味するようになった。
そして、村落社会の自治的組織の基本的な単位として、日常生活に多くの役割を
果たすようになる。
講の種類としては、『神道的な講』『民間信仰の講』『仏教的な講』『経済社会的な講』があり、一般的には以上のものが組み合わされた講が多い。
三春城下の北西一里にある旧御祭村に昭和三十年代の中ごろまで行われていた講で各戸一名の男が参加していました。
名称は「神風講」ですが、熊野講や権現講と同じ内容とされています。
旧二月八日と九月十二日の年二回でしたが、戦後には初秋から晩秋の月の十日の年一回としていましたが、昭和35年ころから行われなくなったとされています。
世話役は年番と呼ばれ、四人があたり、その年番のうち一軒を宿としていました。
家庭とは煮炊きを別にする、「別火行事」として男手で調理をします。


| ryuichi | 04:28 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語584番「御祭 粟島神社」


三春城下北東、旧御祭村松ヶ作集落にある、


粟島神社は、粟神様と呼ばれ、はしかの神様と伝えられ、旧御祭村二番組全戸の組祀りで、五月八日が祭日としています。



参道の先には、それほど大きくはない社殿があります。
祭神は、少彦名命されています。

拝殿天井には、天井画が描かれています。

この神は手に乗るほど小さく、おとぎ話『一寸法師』のモデルとも云われている神様です。また、少彦名命は医療を人々に広めた神とされています。
ことに、呪いの術に長けて、病に苦しむ人々を救ったと伝わる。



今でも地元の信仰は厚く、境内はきれいに守られています。



祭日には、各戸米一升を持ち寄って甘酒を造ります。



この御神木に、はしかによる吹き出物が転移して、子供のはしかが治るとされています。


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| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語583番「湯峰氏神熊野宮」
三春城下の北東、御祭戸ノ内にある熊野権現は、湯峰家の氏神様として七戸の屋敷で祀ってあります。
当番制で宿に集まり、餅を搗いてお祭をします。
祭日は、春四月七日と秋十月十日となっています。

湯峰という珍しい苗字は、紀伊熊野大社本宮参詣のおりに、熊野詣での湯垢離場として名高い、足袋脱所「湯ノ峰温泉」に由来すると伝えられていて、熊野大社の荘園であった田村ノ庄との係わりが見えてきます。

各村々には氏の祖霊神を通じて村人は一致し、氏神を心のよりどころとし、また農耕や村の運営なども神意によってきめられた。



湯の峰温泉は、本宮町でいちばん古いどころか、日本でいちばん古い温泉だといわれています。
 第十三代成務天皇の御代に熊野の国造(くにのみやつこ)大阿刀足尼(おおあとのすくね)によって発見されたと伝えられています。
 成務天皇は、在位期間は131年から190年までと考えられ、国造や県主を定めるなど、地方行政組織を整備したとされます。
 2世紀といえばまだ弥生時代。
 成務天皇の兄には日本武尊(やまとたけるのみこと)がいます。日本武尊というと、なんだか歴史上の人物というより神話上の人物という感じがしますが、ともかくも、湯の峰温泉は今から1800年以上もの昔に発見された日本最古の温泉なのだと伝えられています。

湯の峰温泉HP http://www.tb-kumano.jp/onsen/yunomine.html

熊野信仰
 
古より、人が険しく厳しい旅をしてまでこの熊野の地へ詣でる理由は、熊野の魅力はなんなのか。その昔の熊野詣は難行苦行の連続であり、苦行の果てに自らが体得し、悟りと不思議な力を知りえたといわれています。
また、熊野の自然は、四季の変化に富み、実に美しく、山高く水清く、各所に湧き出す温泉など、
この地にたどりついた人々は、この世の極楽浄土を見た思いだったのかもしれない。

険しい山岳地帯、地の果てとも言われる熊野三山が、熱狂的な信仰をあつめた要因の1つは、「熊野権現」は神仏一体であり、貴賎男女の隔てなく、浄不浄をとわず、なんびとも受け入れたことであると考えられています。
人は絶望の淵から再生を念じて熊野を目指したのでしょう。


説経「身毒丸」は、継母の呪によって宿病に侵された者の、絶望と救済の物語です。
宿病のなかでも癩病は、近年までも厳しい差別にさらされてきたのであるが、中世においては、それこそ禁忌の対象として、社会からの追放と孤立を意味した。こうした境遇に陥った主人公が、天王寺を舞台にして、女性の献身的な愛と観音の霊力によって救われるという物語である。

天王子は、清水寺とならんで、中世における観音信仰の一大霊場であった。また、浄土信仰の拠点でもあり、その西門は極楽の東門に通ずるといわれた。このようなことから、庶民の厚い信仰を集めるとともに、社会から脱落した者たちの最後の拠り所ともなった。
また、天王寺にはささら乞食やあるき巫女などの、下層の芸能民が集まり、祈りに来た民衆を相手に芸を売っていたとされる。

説経の物語は、主人公の身毒丸の出生の因縁を語ることから始まる。
身毒丸の不幸は、実母が自らの傲慢により、観音に罰せられて死ぬことから始まる。後妻となった継母は、自分の子が可愛さに、しんとく丸に呪をかけるのである。
それも、身毒丸に生を与えた観音菩薩に、その命を取ってくれと頼む。

深い絶望に閉ざされた身毒丸は、しかし、清水の観音の夢のお告げに従って、蓑、笠を肩にかけ、町屋をそでごひして歩く。
痩せ細ってよろめく身毒丸を見て、人々は、弱法師と異名をつけるのである。

ふたたび夢に現れた観音の教えに従い、身毒丸は熊野本宮の湯に向かう。
熊野の湯は昔から病者を癒すとされていた。
熊野の湯に向かう途中、身毒丸は、施行を受けようとして、かげやま長者の館に立ち入り、そこで長者の娘乙姫と運命的な再会をする。
以前、身毒丸は天王寺の舞楽の場で乙姫を見初め、恋文を送っていた。乙姫も身毒丸の気持ちに応えて返し文を認めたまではよかったが、継母の呪によって二人の恋は中断していたのだった。

身毒丸は、己の目が見えぬために、かつての恋人の前に恥をさらすことになったと、深い絶望に襲われながら、天王寺へと舞い戻っていく。一方、乙姫のほうは、かつての思い人が違例者と成り果ててもなお、愛を失わないまでか、その愛を貫こうとする。その決意の言葉は、凛然とした女性の持つ美しさを感じさせるのである。

かくして、乙姫は夫と定めた身毒丸の行方を追って、「さて自らは、見目がよいと承る、姿を変へて尋ねんと、後に笈摺、前に札、巡礼と姿を変へ、」放浪の旅に出る。
この順礼の姿は、観音信仰に身をささげる放浪者の象徴である。
中世の世、天王寺に拠り所を求めた制外者たちの多くは、男は聖の衣服をまとい、女は順礼の姿をとっていたのだろうか。いづれにしても、制外者と身を変えることまでして、愛するもののために献身する。女性の純真な心情こそが、この作品に類希な色合いを添えているのである。

女性の献身は、「山椒太夫」の安寿姫や、「をぐり」の照手姫に見られるように、説経の大きなテーマであった。女性の愛によって、絶望した者が救済されるという構図は、説経にとどまらず、中世文学を貫いている縦糸のようなものである。その女性の愛とは、いいかえれば、観音の慈悲が人間の姿を通じて現れたものなのであろう。少なくとも、中世を生きた人びとには、そう確信されたに違いない。

一曲の最後は、観音の夢の告げにしたがって、乙姫が身毒丸を再生させる場面である。


三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一



| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語538番「御祭の信仰」


熊野様は、湯峰家の氏神様として七戸の屋敷で祀ってあります。
当番制で宿に集まり、餅を搗いてお祭をします。
祭日は、春四月七日と秋十月十日となっています。



と伝えられ、旧御祭村二番組全戸の組祀りで、五月八日が祭日としています。
祭日には、各戸米一升を持ち寄って甘酒を造ります。





淡神様は、はしかの神様諏訪神社は、渡辺姓六戸の氏神様です。
春四月九日と秋九月九日の祭日には、各戸米二升ずつ持ち寄り、甘酒を造る。

八幡様は、橋本姓七戸の氏神様として祀られ、旧九月九日の祭日には、赤飯と山海のの御馳走を、そして十一月十五日の祭りには、赤飯と銀杏大根を食し無病息災と豊作祈願をしています。
また、鳩を捕ってはならないと云う禁忌があります。

地蔵様は、地蔵講とも云い、国分姓九戸が中心となって旧御祭村四区全部から希望者を募りお祭をします。
一口毎の会費を徴収し、春は旧四月四日と旧七月二十四日には地蔵講を開き数珠回しを行っています。


| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |