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三春物語584番「御祭 粟島神社」


三春城下北東、旧御祭村松ヶ作集落にある、


粟島神社は、粟神様と呼ばれ、はしかの神様と伝えられ、旧御祭村二番組全戸の組祀りで、五月八日が祭日としています。



参道の先には、それほど大きくはない社殿があります。
祭神は、少彦名命されています。

拝殿天井には、天井画が描かれています。

この神は手に乗るほど小さく、おとぎ話『一寸法師』のモデルとも云われている神様です。また、少彦名命は医療を人々に広めた神とされています。
ことに、呪いの術に長けて、病に苦しむ人々を救ったと伝わる。



今でも地元の信仰は厚く、境内はきれいに守られています。



祭日には、各戸米一升を持ち寄って甘酒を造ります。



この御神木に、はしかによる吹き出物が転移して、子供のはしかが治るとされています。


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| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
三春物語583番「湯峰氏神 熊野宮」
三春城下の北東、御祭戸ノ内にある熊野権現は、湯峰家の氏神様として七戸の屋敷で祀ってあります。
当番制で宿に集まり、餅を搗いてお祭をします。
祭日は、春四月七日と秋十月十日となっています。

湯峰という珍しい苗字は、紀伊熊野大社本宮参詣のおりに、熊野詣での湯垢離場として名高い、足袋脱所「湯ノ峰温泉」に由来すると伝えられていて、熊野大社の荘園であった田村ノ庄との係わりが見えてきます。

各村々には氏の祖霊神を通じて村人は一致し、氏神を心のよりどころとし、また農耕や村の運営なども神意によってきめられた。



湯の峰温泉は、本宮町でいちばん古いどころか、日本でいちばん古い温泉だといわれています。
 第十三代成務天皇の御代に熊野の国造(くにのみやつこ)大阿刀足尼(おおあとのすくね)によって発見されたと伝えられています。
 成務天皇は、在位期間は131年から190年までと考えられ、国造や県主を定めるなど、地方行政組織を整備したとされます。
 2世紀といえばまだ弥生時代。
 成務天皇の兄には日本武尊(やまとたけるのみこと)がいます。日本武尊というと、なんだか歴史上の人物というより神話上の人物という感じがしますが、ともかくも、湯の峰温泉は今から1800年以上もの昔に発見された日本最古の温泉なのだと伝えられています。

湯の峰温泉HP http://www.tb-kumano.jp/onsen/yunomine.html

熊野信仰
 
古より、人が険しく厳しい旅をしてまでこの熊野の地へ詣でる理由は、熊野の魅力はなんなのか。その昔の熊野詣は難行苦行の連続であり、苦行の果てに自らが体得し、悟りと不思議な力を知りえたといわれています。
また、熊野の自然は、四季の変化に富み、実に美しく、山高く水清く、各所に湧き出す温泉など、
この地にたどりついた人々は、この世の極楽浄土を見た思いだったのかもしれない。

険しい山岳地帯、地の果てとも言われる熊野三山が、熱狂的な信仰をあつめた要因の1つは、「熊野権現」は神仏一体であり、貴賎男女の隔てなく、浄不浄をとわず、なんびとも受け入れたことであると考えられています。
人は絶望の淵から再生を念じて熊野を目指したのでしょう。


説経「身毒丸」は、継母の呪によって宿病に侵された者の、絶望と救済の物語です。
宿病のなかでも癩病は、近年までも厳しい差別にさらされてきたのであるが、中世においては、それこそ禁忌の対象として、社会からの追放と孤立を意味した。こうした境遇に陥った主人公が、天王寺を舞台にして、女性の献身的な愛と観音の霊力によって救われるという物語である。

天王子は、清水寺とならんで、中世における観音信仰の一大霊場であった。また、浄土信仰の拠点でもあり、その西門は極楽の東門に通ずるといわれた。このようなことから、庶民の厚い信仰を集めるとともに、社会から脱落した者たちの最後の拠り所ともなった。
また、天王寺にはささら乞食やあるき巫女などの、下層の芸能民が集まり、祈りに来た民衆を相手に芸を売っていたとされる。

説経の物語は、主人公の身毒丸の出生の因縁を語ることから始まる。
身毒丸の不幸は、実母が自らの傲慢により、観音に罰せられて死ぬことから始まる。後妻となった継母は、自分の子が可愛さに、しんとく丸に呪をかけるのである。
それも、身毒丸に生を与えた観音菩薩に、その命を取ってくれと頼む。

深い絶望に閉ざされた身毒丸は、しかし、清水の観音の夢のお告げに従って、蓑、笠を肩にかけ、町屋をそでごひして歩く。
痩せ細ってよろめく身毒丸を見て、人々は、弱法師と異名をつけるのである。

ふたたび夢に現れた観音の教えに従い、身毒丸は熊野本宮の湯に向かう。
熊野の湯は昔から病者を癒すとされていた。
熊野の湯に向かう途中、身毒丸は、施行を受けようとして、かげやま長者の館に立ち入り、そこで長者の娘乙姫と運命的な再会をする。
以前、身毒丸は天王寺の舞楽の場で乙姫を見初め、恋文を送っていた。乙姫も身毒丸の気持ちに応えて返し文を認めたまではよかったが、継母の呪によって二人の恋は中断していたのだった。

身毒丸は、己の目が見えぬために、かつての恋人の前に恥をさらすことになったと、深い絶望に襲われながら、天王寺へと舞い戻っていく。一方、乙姫のほうは、かつての思い人が違例者と成り果ててもなお、愛を失わないまでか、その愛を貫こうとする。その決意の言葉は、凛然とした女性の持つ美しさを感じさせるのである。

かくして、乙姫は夫と定めた身毒丸の行方を追って、「さて自らは、見目がよいと承る、姿を変へて尋ねんと、後に笈摺、前に札、巡礼と姿を変へ、」放浪の旅に出る。
この順礼の姿は、観音信仰に身をささげる放浪者の象徴である。
中世の世、天王寺に拠り所を求めた制外者たちの多くは、男は聖の衣服をまとい、女は順礼の姿をとっていたのだろうか。いづれにしても、制外者と身を変えることまでして、愛するもののために献身する。女性の純真な心情こそが、この作品に類希な色合いを添えているのである。

女性の献身は、「山椒太夫」の安寿姫や、「をぐり」の照手姫に見られるように、説経の大きなテーマであった。女性の愛によって、絶望した者が救済されるという構図は、説経にとどまらず、中世文学を貫いている縦糸のようなものである。その女性の愛とは、いいかえれば、観音の慈悲が人間の姿を通じて現れたものなのであろう。少なくとも、中世を生きた人びとには、そう確信されたに違いない。

一曲の最後は、観音の夢の告げにしたがって、乙姫が身毒丸を再生させる場面である。


三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一



| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
三春物語538番「御祭の信仰」


熊野様は、湯峰家の氏神様として七戸の屋敷で祀ってあります。
当番制で宿に集まり、餅を搗いてお祭をします。
祭日は、春四月七日と秋十月十日となっています。



と伝えられ、旧御祭村二番組全戸の組祀りで、五月八日が祭日としています。
祭日には、各戸米一升を持ち寄って甘酒を造ります。





淡神様は、はしかの神様諏訪神社は、渡辺姓六戸の氏神様です。
春四月九日と秋九月九日の祭日には、各戸米二升ずつ持ち寄り、甘酒を造る。

八幡様は、橋本姓七戸の氏神様として祀られ、旧九月九日の祭日には、赤飯と山海のの御馳走を、そして十一月十五日の祭りには、赤飯と銀杏大根を食し無病息災と豊作祈願をしています。
また、鳩を捕ってはならないと云う禁忌があります。

地蔵様は、地蔵講とも云い、国分姓九戸が中心となって旧御祭村四区全部から希望者を募りお祭をします。
一口毎の会費を徴収し、春は旧四月四日と旧七月二十四日には地蔵講を開き数珠回しを行っています。


| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
三春物語534番「七草木殿作天神桜」


「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。

 

菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
 延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。



 菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。

 やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。


| ryuichi | 04:48 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::七草木 |
三春物語495番「谷戸の穴地蔵」




三春城下の西、旧平沢の谷戸集落に、穴地蔵さんとよばれる北向きのお地蔵さんがひっそりとたたずんでおられます。







昔、この場所から大判小判が出たということから「守り地蔵」、「金持ち地蔵」としてお参りする方が絶えなかったと伝わっています。







谷戸の新墓地の一番奥への曲がり角の左手の土手の上に、切石で囲った岩室があってその中に二体の地蔵さんが納められています。

穴地蔵さんのご利益は、目、鼻,等々、穴という穴のすべての病気に霊験があるという 有り難いお地蔵さんです。







かつては、谷戸集落から旧御木沢小学校へ通じる、鬱蒼とした木の生い茂る寂しい一本道でしたが、この地蔵様が優しく見守ってくれていたそうです。











尚、夏にはカブトムシやクワガタムシが多く出没する虫取りスポットとして人気があります。




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こちらは旧谷戸の慰霊碑


| ryuichi | 06:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
三春物語482番「若草木神社」


若草木神社


三春城下の北西、旧七草木村の村社です。
旧神号を「若一王子大権現」としていました。



戦国田村氏の家臣七草木新介の祖七種木氏の居城七草木舘の病門のこの地に勧請したと伝えられています。
後に新介の再建となります。



かつての参道は、五丁の杉並木が小浜海道まで続いていたと伝えられています。


拝殿の、龍の彫りものは見事です。







| ryuichi | 05:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
三春物語484番「五百田地蔵」


五百田の地蔵さま
三春城下より、岩代へ向かう岩代道平沢にある見守り地蔵さまです。



枝垂れ桜が植えられています。
数年後には、大きな桜に育つでしょう・。



| ryuichi | 06:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村 |