2010-02-26 Fri
三春城下の北西、七草木村から北成田へ向かう十文字ふきんにある小さなお堂です。
。
「氏神(うじがみ)様」は本来は氏の祖先の霊を神として祀ったものですが、その人の住む土地を守る神様としても扱われます。
個人邸内に祀ることが多いようです。
氏神様=氏族(例えば、藤原氏、源氏、平氏など)の祖先の神や氏族ゆかりの神。
というのが基本ですが、時代が過ぎるに及んで、産土神(うぶすなのかみ=土地の守り神)と鎮守様や氏神様が同一視されるようになって現在に至っています。
今でも寺院によっては、寺院を守護する鎮守の神ということで、寺院境内の鬼門の方角に神社形式のお社を祀っているところがありますが、神仏習合の名残を垣間見ることが出来ます。
鎮守様(ちんじゅさま)=その土地・建物を加護する神様
また、兵士を駐在させて、その土地を守り鎮めることを意味しています。
さらに、その国や城、土地を鎮護する神様が「鎮守の神」。
鎮守様とはその神様のこと、または鎮守の神を祀った社のこと。
そして、今は少なくなったけれどその社は村はずれの森に祀ることが多かったので、その森を「鎮守の森」といった
| ryuichi | 06:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::七草木 |
2010-02-04 Thu
「諏訪神社」
祭神「建御名方命」としています。
この神様は「大国主命」の御子神であり、「八坂刀売神」と共に夫婦神として、また、開拓神、農耕・風水・狩猟の神、夫婦円満の神、また鎌倉時代以降には、軍神・武士の神としても、信仰を集めました。
神社というもののルーツは、「神」の御霊の依代・盤座・神座として、社(やしろ)や宮(みや)や祠(ほこら)を、その土地に住む人々が建立し、尊い場所として境界線を引き、俗世界と隔絶したことが始まりと考えられます。
三春に鎮座する神社も、その原形は、その土地の守り神、産土の神様であり、と同時に、その土地を開拓した氏子の皆々様の遠き御親、先祖神であったことは想像に難くありません。
産土神社の本当の由緒とは、まさにこの事に尽きるとおもいます。
神社神道が古事記日本書紀に登場する神々を御祭神として明示するようになり、産土神社は、主祭神を諏訪大社から勧請し、「建御名方命」とし、社名を「諏訪神社」としました。
| ryuichi | 05:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
| ryuichi | 05:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
2010-01-30 Sat
三春城下の北西、旧御祭村の村社厳島神社
旧神号を弁財天としています。
弁財天は学問、芸術、財産の神様です。
古代インドのサラスバティー河が心地よい音を奏でな がら流れているという事から、サラスバティーは音楽の神様とされていました(サバスティーの図像を見る とヴィーナーという、日本でいう琵琶をもった姿で表現されています)。
このため日本の弁財天も琵琶を持った姿 で描かれ、音楽の神様であることから、やがて芸事全般の神様と崇められるようになりました。
芸術の神様なので、古来日本では「弁才天」と書かれていたのですが、やがて「才」と「財」が入れ 替わって「弁財天」と表記されるようになりました。
「銭洗い弁天」に代表される福徳財宝を授ける神 様としての御利益も加わったのはこの為だとされます。
さらに「芸道上達祈願」から「学問追求」の 御利益も派生し、やがて学問の神様ともされるようになったのではないかと思います。
『金光明最勝王経』には「八臂をもって自らを荘厳し、各弓、
箭、刀、長杵、鉄輪並びに羂索を持し、端正にして見んと楽うこ
と満月の如し」とあります。一方では弁財天の梵名の薩羅薩伐底
(サラスバティー)を妙音と訳し、「妙音を出して衆生を悦ばしむ」
から琵琶を持った姿が描かれるようになり、このお姿がひろく知
られています。
弁財天が我が国に伝えられた当初は、その豊穣増福の利益が我
が国の産土神である宇迦之御魂神(ウカノミタマ)と同一視されるように
なりました。
我が国の産土神である宇迦之御魂神(ウカノミタマ)=食稲魂神・稲魂
命=は、素盞鳴尊と神大市比売命の間に生まれた神で、豊宇気昆
売(豊受媛=伊勢外宮)と同一とされます。
弁財天に稲の信仰と増福の利益信仰が加味され、発展して八臂
の持ち物にも宝珠と鍵が加えられ、更には頭上に人頭蛇身の宇賀
神と鳥居を飾る姿が描かれ次第に定着してきたものです。この信
仰の過程は、稲荷信仰とよく似ています。た。
境内には、天神様も境内末社として合祀されています。
天神講
御祭三区で行われている天神様を祀り、学力向上の願う祭りで、小学一年生から中学三年生までの男子で組織される講です。
春と秋の二回、年長の中学三年生の家を宿として、学問の神様とされる天神様にお祈りしています。
かつては、四区でも行われていました。
| ryuichi | 06:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::御祭 |
2009-12-24 Thu
三春城下西北、御祭にある馬頭観音堂です。
田村四十八舘御祭舘と対をなす小高い丘に鎮座します。
馬頭を頂いた観音様の姿を見て,馬とともに生活する人々の中に,馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれました。
農家では農耕馬の,馬の産地では生まれ育つ仔馬たちの,そして馬稼ぎの人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり,また道半ばで力尽きた馬の冥福を祈ったり,そんな理由で馬頭観音は作られたのでしょう。
観音講
新年の午(うま)の日などに祝う。
馬は、農作業で大切なものであり、無事を願い馬頭観音を祈る。
馬頭観音堂の前で神事を行い、馬持ちの家が宿となって馬頭観音の掛け軸をかかげて夜に講が開かれた。
2009-12-22 Tue
三春城下から小浜へ向かう、七草木奥にある「七草木休み石」です。
徳川幕府二代将軍秀忠公が、この地に検地のために来たときに、この石に腰(こし)を下ろして休息(きゅうそく)したといわれています。
「休み石の由来(やすみいしのゆらい)
徳川将軍秀忠公東北地方御検地ノ節 コノ石に越ヲ掛ケ休ミシトイフナリ 左右草原ナリ 亦(また)大笠松(おかさまつ)アリテ 旅人コノ下ニテ 休息セシ処(ところ)ニシテ コノ石ヲ休石トイフナリ ナホ笠松ハ暴風ニテ倒レ 惜シムベシ 七草木七ツ石ノ一ツナリ
昭和56年 渡辺正男(七草木の人 故人)」
これは、御木沢村七草木に在住した、渡辺さんが七草木の歴史を後世まで残したいという一年で私財を投じて、七草木および御木沢村全域の史蹟に看板を立てたと聞き及んでいます。
この偉大なる先輩に敬意を表したいと思います。
TOP PAGE △