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三春物語750番「道切り地蔵」
「平沢中の道切り地蔵尊」


三春郊外平沢にある道切の地蔵尊

村は古くから用いられてきた言葉で、「ムレ」(群れ)とか「ムラガリ」(群がり)を意味し、在所とも呼ばれていました。
今の字がほぼそのムラの単位を示しています。
今でも変わることはありませんが、つい近年まで村は、村人が共に生活を営む拠点であり、村人はムラの中の「安全」と「清浄」とをひたすら願っていました




また、村の外を異界と見て、悪霊、災害や疫病は異界からムラへ侵入してくると考えていた。
疫神は、いつも村人が行き来する道から侵入してくると考え、村の出入り口に呪物を置いて「悪霊防除」を祈願してきました。
道祖神や辻の地蔵、そして塞の神はこうした目的であり、呪い物で道を区切ることを一般に「道切り」と云われています。


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| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語615番「御祭神風講」
御祭神風講
講とは信仰を同じにする人々が宗教的な共感を分かち合い、その宗教の伝統や
価値を維持・発展させるために組織された集団をいい、中世のその成立をみる。
また、それをもとに経済的目的を共通する人々によってできた集団をいう。
やがて、宗教的な機能が失われた同志の集団をも意味するようになった。
そして、村落社会の自治的組織の基本的な単位として、日常生活に多くの役割を
果たすようになる。
講の種類としては、『神道的な講』『民間信仰の講』『仏教的な講』『経済社会的な講』があり、一般的には以上のものが組み合わされた講が多い。
三春城下の北西一里にある旧御祭村に昭和三十年代の中ごろまで行われていた講で各戸一名の男が参加していました。
名称は「神風講」ですが、熊野講や権現講と同じ内容とされています。
旧二月八日と九月十二日の年二回でしたが、戦後には初秋から晩秋の月の十日の年一回としていましたが、昭和35年ころから行われなくなったとされています。
世話役は年番と呼ばれ、四人があたり、その年番のうち一軒を宿としていました。
家庭とは煮炊きを別にする、「別火行事」として男手で調理をします。


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三春物語584番「御祭 粟島神社」


三春城下北東、旧御祭村松ヶ作集落にある、


粟島神社は、粟神様と呼ばれ、はしかの神様と伝えられ、旧御祭村二番組全戸の組祀りで、五月八日が祭日としています。



参道の先には、それほど大きくはない社殿があります。
祭神は、少彦名命されています。

拝殿天井には、天井画が描かれています。

この神は手に乗るほど小さく、おとぎ話『一寸法師』のモデルとも云われている神様です。また、少彦名命は医療を人々に広めた神とされています。
ことに、呪いの術に長けて、病に苦しむ人々を救ったと伝わる。



今でも地元の信仰は厚く、境内はきれいに守られています。



祭日には、各戸米一升を持ち寄って甘酒を造ります。



この御神木に、はしかによる吹き出物が転移して、子供のはしかが治るとされています。


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| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語583番「湯峰氏神熊野宮」
三春城下の北東、御祭戸ノ内にある熊野権現は、湯峰家の氏神様として七戸の屋敷で祀ってあります。
当番制で宿に集まり、餅を搗いてお祭をします。
祭日は、春四月七日と秋十月十日となっています。

湯峰という珍しい苗字は、紀伊熊野大社本宮参詣のおりに、熊野詣での湯垢離場として名高い、足袋脱所「湯ノ峰温泉」に由来すると伝えられていて、熊野大社の荘園であった田村ノ庄との係わりが見えてきます。

各村々には氏の祖霊神を通じて村人は一致し、氏神を心のよりどころとし、また農耕や村の運営なども神意によってきめられた。



湯の峰温泉は、本宮町でいちばん古いどころか、日本でいちばん古い温泉だといわれています。
 第十三代成務天皇の御代に熊野の国造(くにのみやつこ)大阿刀足尼(おおあとのすくね)によって発見されたと伝えられています。
 成務天皇は、在位期間は131年から190年までと考えられ、国造や県主を定めるなど、地方行政組織を整備したとされます。
 2世紀といえばまだ弥生時代。
 成務天皇の兄には日本武尊(やまとたけるのみこと)がいます。日本武尊というと、なんだか歴史上の人物というより神話上の人物という感じがしますが、ともかくも、湯の峰温泉は今から1800年以上もの昔に発見された日本最古の温泉なのだと伝えられています。

湯の峰温泉HP http://www.tb-kumano.jp/onsen/yunomine.html

熊野信仰
 
古より、人が険しく厳しい旅をしてまでこの熊野の地へ詣でる理由は、熊野の魅力はなんなのか。その昔の熊野詣は難行苦行の連続であり、苦行の果てに自らが体得し、悟りと不思議な力を知りえたといわれています。
また、熊野の自然は、四季の変化に富み、実に美しく、山高く水清く、各所に湧き出す温泉など、
この地にたどりついた人々は、この世の極楽浄土を見た思いだったのかもしれない。

険しい山岳地帯、地の果てとも言われる熊野三山が、熱狂的な信仰をあつめた要因の1つは、「熊野権現」は神仏一体であり、貴賎男女の隔てなく、浄不浄をとわず、なんびとも受け入れたことであると考えられています。
人は絶望の淵から再生を念じて熊野を目指したのでしょう。


説経「身毒丸」は、継母の呪によって宿病に侵された者の、絶望と救済の物語です。
宿病のなかでも癩病は、近年までも厳しい差別にさらされてきたのであるが、中世においては、それこそ禁忌の対象として、社会からの追放と孤立を意味した。こうした境遇に陥った主人公が、天王寺を舞台にして、女性の献身的な愛と観音の霊力によって救われるという物語である。

天王子は、清水寺とならんで、中世における観音信仰の一大霊場であった。また、浄土信仰の拠点でもあり、その西門は極楽の東門に通ずるといわれた。このようなことから、庶民の厚い信仰を集めるとともに、社会から脱落した者たちの最後の拠り所ともなった。
また、天王寺にはささら乞食やあるき巫女などの、下層の芸能民が集まり、祈りに来た民衆を相手に芸を売っていたとされる。

説経の物語は、主人公の身毒丸の出生の因縁を語ることから始まる。
身毒丸の不幸は、実母が自らの傲慢により、観音に罰せられて死ぬことから始まる。後妻となった継母は、自分の子が可愛さに、しんとく丸に呪をかけるのである。
それも、身毒丸に生を与えた観音菩薩に、その命を取ってくれと頼む。

深い絶望に閉ざされた身毒丸は、しかし、清水の観音の夢のお告げに従って、蓑、笠を肩にかけ、町屋をそでごひして歩く。
痩せ細ってよろめく身毒丸を見て、人々は、弱法師と異名をつけるのである。

ふたたび夢に現れた観音の教えに従い、身毒丸は熊野本宮の湯に向かう。
熊野の湯は昔から病者を癒すとされていた。
熊野の湯に向かう途中、身毒丸は、施行を受けようとして、かげやま長者の館に立ち入り、そこで長者の娘乙姫と運命的な再会をする。
以前、身毒丸は天王寺の舞楽の場で乙姫を見初め、恋文を送っていた。乙姫も身毒丸の気持ちに応えて返し文を認めたまではよかったが、継母の呪によって二人の恋は中断していたのだった。

身毒丸は、己の目が見えぬために、かつての恋人の前に恥をさらすことになったと、深い絶望に襲われながら、天王寺へと舞い戻っていく。一方、乙姫のほうは、かつての思い人が違例者と成り果ててもなお、愛を失わないまでか、その愛を貫こうとする。その決意の言葉は、凛然とした女性の持つ美しさを感じさせるのである。

かくして、乙姫は夫と定めた身毒丸の行方を追って、「さて自らは、見目がよいと承る、姿を変へて尋ねんと、後に笈摺、前に札、巡礼と姿を変へ、」放浪の旅に出る。
この順礼の姿は、観音信仰に身をささげる放浪者の象徴である。
中世の世、天王寺に拠り所を求めた制外者たちの多くは、男は聖の衣服をまとい、女は順礼の姿をとっていたのだろうか。いづれにしても、制外者と身を変えることまでして、愛するもののために献身する。女性の純真な心情こそが、この作品に類希な色合いを添えているのである。

女性の献身は、「山椒太夫」の安寿姫や、「をぐり」の照手姫に見られるように、説経の大きなテーマであった。女性の愛によって、絶望した者が救済されるという構図は、説経にとどまらず、中世文学を貫いている縦糸のようなものである。その女性の愛とは、いいかえれば、観音の慈悲が人間の姿を通じて現れたものなのであろう。少なくとも、中世を生きた人びとには、そう確信されたに違いない。

一曲の最後は、観音の夢の告げにしたがって、乙姫が身毒丸を再生させる場面である。


三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一



| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語538番「御祭の信仰」


熊野様は、湯峰家の氏神様として七戸の屋敷で祀ってあります。
当番制で宿に集まり、餅を搗いてお祭をします。
祭日は、春四月七日と秋十月十日となっています。



と伝えられ、旧御祭村二番組全戸の組祀りで、五月八日が祭日としています。
祭日には、各戸米一升を持ち寄って甘酒を造ります。





淡神様は、はしかの神様諏訪神社は、渡辺姓六戸の氏神様です。
春四月九日と秋九月九日の祭日には、各戸米二升ずつ持ち寄り、甘酒を造る。

八幡様は、橋本姓七戸の氏神様として祀られ、旧九月九日の祭日には、赤飯と山海のの御馳走を、そして十一月十五日の祭りには、赤飯と銀杏大根を食し無病息災と豊作祈願をしています。
また、鳩を捕ってはならないと云う禁忌があります。

地蔵様は、地蔵講とも云い、国分姓九戸が中心となって旧御祭村四区全部から希望者を募りお祭をします。
一口毎の会費を徴収し、春は旧四月四日と旧七月二十四日には地蔵講を開き数珠回しを行っています。


| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語482番「若草木神社」


若草木神社


三春城下の北西、旧七草木村の村社です。
旧神号を「若一王子大権現」としていました。



戦国田村氏の家臣七草木新介の祖七種木氏の居城七草木舘の病門のこの地に勧請したと伝えられています。
後に新介の再建となります。



かつての参道は、五丁の杉並木が小浜海道まで続いていたと伝えられています。


拝殿の、龍の彫りものは見事です。







| ryuichi | 05:39 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |
三春物語443番「御祭諏訪神社」


「諏訪神社」
祭神「建御名方命」としています。
この神様は「大国主命」の御子神であり、「八坂刀売神」と共に夫婦神として、また、開拓神、農耕・風水・狩猟の神、夫婦円満の神、また鎌倉時代以降には、軍神・武士の神としても、信仰を集めました。



神社というもののルーツは、「神」の御霊の依代・盤座・神座として、社(やしろ)や宮(みや)や祠(ほこら)を、その土地に住む人々が建立し、尊い場所として境界線を引き、俗世界と隔絶したことが始まりと考えられます。
三春に鎮座する神社も、その原形は、その土地の守り神、産土の神様であり、と同時に、その土地を開拓した氏子の皆々様の遠き御親、先祖神であったことは想像に難くありません。




産土神社の本当の由緒とは、まさにこの事に尽きるとおもいます。
神社神道が古事記日本書紀に登場する神々を御祭神として明示するようになり、産土神社は、主祭神を諏訪大社から勧請し、「建御名方命」とし、社名を「諏訪神社」としました。




| ryuichi | 05:15 | comments (x) | trackback (x) | 旧御木澤村::御祭 |