2017-11-15 Wed
「農民芸術」 農民芸術社
三春城下を中心とする旧三春領は、藩政時代より藩校の門を庶民にまで広げ、各村々には寺子屋が充実しており、教育や文化のレベル、所謂“民度”が高い地域です。
明治維新を迎え、明治、大正、昭和と時代は変わっていきますが、この民度の高さには変わりはありませんでした。
これは、三春城下だけではなく農村部もしかりです。
その一例を三春町史では以下のように伝えています。
昭和初期、沢石村の富田吟秋 と要田村の遠藤時雄が中心になって「農民芸術社」を結成し、「農民芸術』を出して農村青年たちに作歌指導を行なっていた。
同人は富田、遠藤のほか市原正、面川正一 、和宗重吉、佐久間美治、飛田登、橋本一郎で、途中から天野多津雄が加わった。
大正末から昭和初期にかけて、中郷村の「一人社」が文芸雑誌『鉄拳』を出している。
三春地方では、俳句は早くから農村に普及し、地域ごとに 俳旬会が開かれていた。
沢石村双岩吟社の社員は、沢石、要田、御木沢、文珠、二瀬の各村に及び、昭和十三年まで「くさぶえ」を、十四年から「双岩句集」を出している。
三春町史参照
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2014-11-01 Sat
戦国大名三春城主田村氏領内総鎮守「高木神社」~旧帝爵天皇宮・鶏足山豊前寺
~大御神ノ徳實恩澤ノ利益~
♪村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる笛太鼓~
先日、旧三春領田村ノ庄の村々の鎮守では、豊作を神様に感謝する秋祭りが繰り広げられました。
三春城下の北部、旧澤石村実沢の鎮守の高木神社もその一つです。
岩崎宮司、各地区の総代や宮世話、氏子青年会、三匹獅子保存会、そして子供神輿会の方々が奉仕されていました。
高木神社の歴史は古く、社伝によれば、「奈良時代末の桓武天皇御代・延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願に由来しています。
平安時代初頭の大同二年、開山に徳一大師を招いて、霊域“高野ヶ岡”に小祠を建立し、高木神勝軍地蔵の二社を勧請、「鶏足山豊前寺」を建立して、高野郷の鎮守としたとされています。
鎌倉時代末の南北朝期、南朝方の皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じた、奥州鎮守府将軍北畠陸奥守顕家公が、白河結城氏と共に多賀国府へ下向の時、当地を通過する際、“村司・佐久間右京太夫が村人を集めて、御仮屋を造り郷食を奉じます。
義良親王は、御礼として御宸筆の御歌を下さり、以後この御歌を祭祀、御宮社を「帝爵天皇宮」としています。
その後も、神徳は継承され、戦国期南北朝動乱の初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村ノ庄の総鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。
江戸期の秋田藩政下では、実沢村鎮守として継承され、明治維新後の廃仏毀釈で、高木神勝軍地蔵尊は金剛山瑞祥寺へ移し、新たに、高皇産霊命(高木神)を祭神して實澤村鎮守“高木神社”と改称されます。

先日、高木神社宮世話の佐久間様よりいただいた画像です。
拝殿内に設置してある、高木神社の由来を明記した檜の看板です。

尚、詳細は、高木神社拝殿内に奉納した欅板寄書「高木神社由緒・社掌岩崎嘉門・明治三十五年各神社由緒調査書(沢石村役場)」を参照ください。
社殿に施された彫刻は稀に見る力作揃いで、拝殿外壁の欄間にはめ込まれた明治期の彫り物は、“日清・日露戦争や昭和初期の日独(第一次大戦)そして大東亜戦争での“武運長久”を祈念して奉納されたものです。
拝殿内にも、大東亜戦争時に奉納された軍艦の絵馬が飾られてあります。
社宝としては、南北朝時代の貞治元年(1362年)三春平姓田村右京太夫輝定公が寄進・奉納した、大陸渡来の“華鬘”や“胡州鏡”。
田村隆顕公の寄進した“金銅透彫寶相華文一対二面。
田村清顕公の奉納した金銅透彫蓮華文一面。
鑼等の仏具や鰐口(亡失)などがあり、県内有数の中世金工品として町の重要文化財に指定されています。
実沢には、室町時代から戦国期には三春田村氏の出城である“田村四十八舘”の一つ、北方守護与力五十騎を統括する“実沢館”があり、城主実沢山城守が治めていました。
後に、北方守護は富沢舘の富沢氏となり、実沢佐久間氏が名主として治めます。
今でも沢石には佐久間姓が多く居住しています。
この佐久間氏の由来には諸説あります。
佐久間という文字からの由来としては、舘・城郭にある小窓を”狭間”と表しますが、この狭間が転じて佐久間となったという説、これは北方守護として敵を見張るための役割を与えらたこの一族にぴったりの由来です。
また、山に囲まれた谷間の狭い地域でを表した、これまた“狭間(さま)”という字が転じて“佐久間”となったという説。
一方、歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後に三春田村氏に仕官したとする説。
もう一つ、柴田勝家の麾下与力佐久間盛政二男で、柴田家滅亡に、三春田村氏仕官し、田村の重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安の一族とする説等々・・・
戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。
いづれにしても、三春田村氏が、戦国時代を乗り切るために、最も信頼する最強の精鋭部隊である佐久間一族を北方守護として配置したことには変わりはありません。
戦国期の終末、太閤秀吉による「奥羽仕置き」にて田村家の改易後は、知行地に帰農し、代々実沢村の名主・村司としてを勤めてきました。
地名である実沢の由来として、“大御神(義良親王・後の後村上天皇)の徳實恩澤の利益”を感謝する意味を込めて實澤(実沢)としたと伝えられ、毎年この由来のとおり、徳實恩澤によって、五穀豊穣と世界平和があることへの、祈願と感謝で、村人総出の春秋の祭礼が挙行されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
氏子青年会の奉納した手水舎です。
今回、記事を書くにあたっては、菊川屋に勤務の宮世話佐久間様や島屋商店様にも、ご協力を頂きました。
島屋さんは、先代の社長佐久間島久さんが当方の祖父の弟子という関係で、親戚以上のお付き合いをさせていただいています。
そんな関係もあり沢石は私にはより近くに感じる地区でもあります。
この沢石という地区は、旧三春藩秋田氏領の実沢、青石(旧塩松(四本松)城主石橋氏領)、そして旧三春秋田家の分家・旗本秋田氏所領の富沢の三地区で行政区となっています。
注・上記へご案内した多高木神社由来調書に記載された、帝爵天皇宮の記載を尊重して、高木神社の旧神号を帝釈天皇ではなく、帝爵天皇と表記させていただきました。
三春昭進堂 髙橋龍一
2013-08-13 Tue
平成25年度「沢石盆踊り大会」大懸賞付き 主催 朋友会花火大会 子供ゲームなどイベント盛りだくさんです。
特に花火大会は、見る者を圧巻します。
期日 八月十四日 雨天決行
午後5時より・・・・・子供ゲーム
午後6時30分・・・ 盆踊り大会
午後8時ごろより・・花火大会
場所 三春町立沢石中学校校庭(雨天時 沢石中学校体育館)
昨年の盆踊りの様子 ユーチューブに投稿されていました。
三春四十七舘の北方の要。
富沢城と呼ばれた富沢館(富沢字聖楽)や富沢古館(富沢字松ヶ作)
北方与力五十騎を統括する富沢伊賀守が護っていました。
この舘は、戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。

城主は、時代ごとに、富沢玄蕃、富沢伊賀、さらに、田村重臣橋本刑部少輔を大将として天正十二年に勃発した「初森の合戦」時には、田村勢の負け戦となった際に、敵将小浜城主大内定綱に生け捕りにされた富沢式部の名前があります。
富沢伊賀は、富沢衆と呼ばれた「北方与力五十騎」の大将として戦国末期まで三春の北方を守護していました。
後に、田村家中が伊達派と相馬派に分裂した時に、富沢一族は、相馬派筆頭の小野保・小野城主田村梅雪斎に組し、小野城城代衆(三十六騎衆)と小野城下に移住します。
富沢氏移籍後は、実沢館( 実沢字開宝山)、実沢新館(実沢字館腰)主の佐久間氏が北方警備を司ります。
2010-06-22 Tue
三春城下の北二里余、旧富沢村。
戦国期には、富沢玄蕃が護る、田村四十八舘の北方守護の要である富沢館がありました。
その館の一角にあったとされる、富沢村鎮守天目鷲神社です。
社伝によれば「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。
旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地に祀られました。
神話で知られているのは天照大神が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で神々の踊りがはじまり、この神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まった。
多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。
境内末社の天神宮さま
江戸時代の三春秋田藩政下では、この富沢村は、旧旗本五千石秋田家領に分地されていました。
尚、旗本秋田家の所領は 新舘村、荒和田村、大倉村、ツクモ田村、丹伊田村、石森村です。
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三春昭進堂 髙橋龍一
2010-06-19 Sat
三春城下の北部、旧実沢村の鎮守高木神社です。
旧天王宮と称し、祭神を帝釈天として祀っていました。
実沢村は、戦国期には田村四十八舘の一つ北方守護実沢館があり、城主実沢山城守が治めていました。
明治初頭の廃仏毀釈で高皇産霊命(高木神)を祭神して高木神社と改称されました。
南北朝動乱の戦国期初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村庄の惣鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。
帝釈天とは、梵天とならび称される仏教の守護神です。
十二天の一で、また、八方天の一として東方を守るとされています。
また、天上界の王といわれます。
天衆をひきいて阿修羅を征服し、常に使臣をつかわして天下の様子を知らしめ、万民の善行を喜び、悪行をこらしめます。
欲界六天中の”とう利天”の主、須弥山の頂上の中央にある殊勝殿ともいう喜見城に住み、四天王を従えます。本生話(釈迦生前物語)や釈迦誕生の場面、釈迦が、とう利天で母の摩耶夫人に説法した際に付き従っていて釈迦の緊密な擁護者でもあるされています。
三春田村氏が奉納した銅鏡や銅鑼等の仏具は、県内有数の中世金工品として町の重要文化財にしていされています。
立派な彫刻が社殿を飾ります。
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