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富澤 小社 宮代神社 御由緒調査書  社掌 飛田昭辰




富澤 小社 宮代神社 御由緒調査書  社掌 飛田昭辰

祭神 後醍醐天皇 御村上天皇(義良親王) 陸奥宮(大塔宮護良親王)

宮代神社鎮坐由緒の儀は、延元年中富沢伊賀が、国主北畠顕家公(南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍)に従って、上洛して建武の合戦に従軍するも、勤王官軍(南朝方)敗亡し、富沢伊賀は古里に帰り旧富沢村字宮ノ下百二十五番地に天皇を祀ると伝わっている。

明治三十五年十二月  社掌 飛田昭辰(宸) 









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
垢潜(あかしろ)集落の由来  




垢潜(あかしろ)集落の(桓武平氏流平将門一門・佐久間氏)由来  

鎌倉時代の末期で戦国時代、武士達の争いが続いた時代である。

その武将として関東に勢力を持っていた「平将門の乱」に敗戦、落人となり追われる身となる。

其の時、太平洋岸を今の浜通りを一族(佐久間氏)が奥州地えと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り隠れる一族で、小野町辺りに一時舘を造り住んでいた様な話もあるが解らない。豊後舘の地名があるとか定かではない。(調査不足ママ)

それでも不安で山間の奥地を転々と流れ々現在の地(垢潜地区)に住み着いた佐久間伊勢守、豊後守と四郎兵衛兄弟十数の同志家来の一族共々「火雷神」を守護神にこの地に来たと伝わっている。

垢潜(あかしろ)の地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将としての今迄の懺悔を一切の垢を洗い落とすことでこの地に潜めた安住の地として垢潜と名付けた。守護神は今の在所に祠を造り安置した。

神様も墓地も開闢(かいびゃく)以来五百有余年の間移動していない。

でも、戦国の代であれば一族を守るため舘を造り一族を守りながら長寝舘(富澤舘とも云う)と名付けて畑道を造り生活しながら東西南北に開発したのである。








田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになりて田村領北の守りに仕えた。

年代は不明だが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として館を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に杉沢村との境に青石の里青石村となる。

垢潜の里豊吾が長寝の舘より三春に通じる道路を切り開き富澤の里に通じる小道を開き生活セリ。

道は山の峯を虫送りの山なみを堂作の澤を下りて主幹道にした。

富澤村の中央と定め五本木集落に長寿山と名付け寶傳寺を建立、船引町昔の片曽根村の東光寺を本家寺として住職を迎えていたのである。

当時、協力せる郷族武田家、面川家なども協力した様子。

富澤村も和尚などの指導もあ加わり栄えたものと思われる。

垢潜集落は平地がなく山間の谷を開発し湧き水を利用して水田と成し田頭には至る処に池を造り米を作り畑は山なみの中腹を開墾し雑穀稗粟などにより生活した。

産業は江戸時代の初めより養蚕などをはじめ着物などを造り自活した。

時代は平和になり商いなども商人が出入りするようになり取引商売を出来て蚕を飼育繭を取り糸も自家で引えて絹織物も町に売り火雷神社を中心に一族の結束は固く互いに助け合ながら農
地を拡大し徳川時代は平和となりて、皆百姓にて身を立てた様子。当時屋敷戸数十五、六戸位。


世の進展に従い昭和の世には二十九戸となる。明治時代になって火雷神社の秋祭りには九反の大旗を立て垢潜部落雷神様の旗の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りある。


垢潜集落の沿革 参照



佐久間氏は、桓武平氏流とする平将門(高望王良将系)一門の子孫としています。
佐久間氏の祖となる三浦氏は高望王良文流です。

佐久間氏は房総半島、安房国の佐久間郷に由来します。
三浦氏は、坂東八平氏の一氏で、三浦党とも呼ばれ、鎌倉時代に三浦氏の一族が佐久間郷の地を拝領して土地名の佐久間氏を名乗った事がはじまりとされています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
現人神社覚書 (あらひとじんじゃ おぼえがき) 小社 現人神社御由来緒 (寫)




現人神社覚書 (あらひとじんじゃ おぼえがき)


小社 現人神社御由来緒 (寫)

磐城国田村郡澤石村大字實澤字八龍山鎮座

小社 現人神社


祭神 後醍醐天皇 義良親王 護良親王

當社勧請の由来を原するに、佐久間遠江守盛清の後胤右京太夫が當郷に移り實澤上舘の屋形に住い 

御宗参議源(北畠)顕家公が奥州鎮守府へ下向の際、義良親王を奉じたりに、官軍の利を失い、遂に大塔宮と共に伊達霊山に籠城し御難渋なされ、帰京ましましの途中、安達郡菅ノ澤という所に掛けたる時しも雨天にて恐れ多くも十善萬乗の御玉体を田夫野人姿に替えさせ給いる。


玉は御歩行なれば一足に息し二足に立ち止まり給ふを見上げ奉じるに、実に感泣に堪えざるとて菅ノ澤(今の杉沢)の三瓶美濃と云う者、當村(實澤)迄案内を申す時に實澤村の北端を流れる移川と云う川があり(源流を美麗山とする川)、この川に掛り足る時、折からの雨の為に川が増水し洪水となり、其の架橋を渡ることが危険為るを以て御背負申せしに「我渡る」と仰せありたるを以て、此の処を「川渡」と呼ばれるようになった(我渡の義あり)。


此の時、三瓶美濃はこの地の八龍山迄御供を申し慈にて御休息ましまして御別れを申す。

この御休息の処として「御塔壇(大塔宮)」「御聖壇(義良親王)」「御参議壇(参議北畠顕家公)」と唱する遺跡を設ける。


茲(ここ)文中元年皇子の御尊影を崇し奉らんとしてこの山に祠を建立し、御尊像三体を造り現人神社と勧請する。


これが當現人神社の創立の濫賜(かんしょう)なり。


今に至るも甚だの御縁を以て安達郡杉沢村の三瓶家にては毎年歳初めに御幣束を納めることに怠りなく履行しています。


明治三十六年

社掌 岩崎嘉門

惣代 佐久間泰四郎

| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::実沢 |
明治三十五年 旧澤石村 各神社御由緒調査 澤石村役場 他資料を拝借!





先ごろ行われた、講師の依頼があり、三春町生涯学習 沢石「さわやか学級」講話会でご一緒した佐久間さんより沢石の歴史を記した冊子数点をお借りすることが出来ました。


元沢石まちづくり協会長を務められた佐久間さんから「参考になれば・・・」ということで持参していただきました。



ありがとうございます。







明治三十五年 旧澤石村 各神社御由緒調査 澤石村役場






縣社加列願 高木神社





垢潜集落之沿革 (あかしろしゅうらく)


佐久間氏の由来明記


・平将門の乱に従軍

・垢潜三匹獅子由来

・三春藩御用造酒屋 「酒屋」







現人神社覚書 (あらひとじんじゃ おぼえがき)


小社 現人神社御由来緒 (寫)

磐城国田村郡澤石村大字實澤字八龍山鎮座
小社 現人神社
祭神 後醍醐天皇 義良親王 護良親王

當社勧請の由来を原するに、佐久間遠江守盛清の後胤右京太夫が當郷に移り實澤上舘の屋形に住い 

御宗参議源(北畠)顕家公が奥州鎮守府へ下向の際、義良親王を奉じたりに、官軍の利を失い、遂に大塔宮と共に伊達霊山に籠城し御難渋なされ、帰京ましましの途中、安達郡菅ノ澤という所に掛けたる時しも雨天にて恐れ多くも十善萬乗の御玉体を田夫野人姿に替えさせ給いる。


玉は御歩行なれば一足に息し二足に立ち止まり給ふを見上げ奉じるに、実に感泣に堪えざるとて菅ノ澤(今の杉沢)の三瓶美濃と云う者、當村(實澤)迄案内を申す時に實澤村の北端を流れる移川と云う川があり(源流を美麗山とする川)、この川に掛り足る時、折からの雨の為に川が増水し洪水となり、其の架橋を渡ることが危険為るを以て御背負申せしに「我渡る」と仰せありたるを以て、此の処を「川渡」と呼ばれるようになった(我渡の義あり)。


此の時、三瓶美濃はこの地の八龍山迄御供を申し慈にて御休息ましまして御別れを申す。

この御休息の処として「御塔壇(大塔宮)」「御聖壇(義良親王)」「御参議壇(参議北畠顕家公)」と唱する遺跡を設ける。

茲(ここ)文中元年皇子の御尊影を崇し奉らんとしてこの山に祠を建立し、御尊像三体を造り現人神社と勧請する。

これが當現人神社の創立の濫賜(かんしょう)なり。

今に至るも甚だの御縁を以て安達郡杉沢村の三瓶家にては毎年歳初めに御幣束を納めることに怠りなく履行しています。

明治三十六年
社掌 岩崎嘉門
惣代 佐久間泰四郎









沢石村内にある寺社仏閣


仰心ノ復興ヲ見ルニ至レリ現今村内ニ存スル寺社仏閣左ノ如シ








佐久間さんが協会長の時に作成された「沢石イラストマップ」




大変貴重な資料です。



有難く参考にさせていただき勉強いたします。








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村 |
平成版三春古蹟漫歩「農民芸術」 農民芸術社



「農民芸術」 農民芸術社

三春城下を中心とする旧三春領は、藩政時代より藩校の門を庶民にまで広げ、各村々には寺子屋が充実しており、教育や文化のレベル、所謂“民度”が高い地域です。

明治維新を迎え、明治、大正、昭和と時代は変わっていきますが、この民度の高さには変わりはありませんでした。

これは、三春城下だけではなく農村部もしかりです。

その一例を三春町史では以下のように伝えています。

昭和初期、沢石村の富田吟秋 と要田村の遠藤時雄が中心になって「農民芸術社」を結成し、「農民芸術』を出して農村青年たちに作歌指導を行なっていた。

同人は富田、遠藤のほか市原正、面川正一 、和宗重吉、佐久間美治、飛田登、橋本一郎で、途中から天野多津雄が加わった。

大正末から昭和初期にかけて、中郷村の「一人社」が文芸雑誌『鉄拳』を出している。

三春地方では、俳句は早くから農村に普及し、地域ごとに 俳旬会が開かれていた。

沢石村双岩吟社の社員は、沢石、要田、御木沢、文珠、二瀬の各村に及び、昭和十三年まで「くさぶえ」を、十四年から「双岩句集」を出している。

三春町史参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::実沢 |
沢石豊年盆踊り


沢石豊年盆踊り

平成27年8月14日 (金)開催!

沢石小学校や三春中学校の生徒児童によるかわいい太鼓演奏の披露です。



花火大会

こどもゲーム大会

等イベント盛りだくさんです。

もちろん当三春昭進堂も協賛しています。



| ryuichi | 05:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村 |
三春物語813番“大御神の徳實恩澤の利益”實澤村鎮守「高木神社」~旧帝爵天皇宮・鶏足山豊前寺


戦国大名三春城主田村氏領内総鎮守「高木神社」~旧帝爵天皇宮・鶏足山豊前寺
~大御神ノ徳實恩澤ノ利益~

♪村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる笛太鼓~

先日、旧三春領田村ノ庄の村々の鎮守では、豊作を神様に感謝する秋祭りが繰り広げられました。

三春城下の北部、旧澤石村実沢の鎮守の高木神社もその一つです。
岩崎宮司、各地区の総代や宮世話、氏子青年会、三匹獅子保存会、そして子供神輿会の方々が奉仕されていました。




高木神社の歴史は古く、社伝によれば、「奈良時代末の桓武天皇御代・延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願に由来しています。

平安時代初頭の大同二年、開山に徳一大師を招いて、霊域“高野ヶ岡”に小祠を建立し、高木神勝軍地蔵の二社を勧請、「鶏足山豊前寺」を建立して、高野郷の鎮守としたとされています。



鎌倉時代末の南北朝期、南朝方の皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じた、奥州鎮守府将軍北畠陸奥守顕家公が、白河結城氏と共に多賀国府へ下向の時、当地を通過する際、“村司・佐久間右京太夫が村人を集めて、御仮屋を造り郷食を奉じます。

義良親王は、御礼として御宸筆の御歌を下さり、以後この御歌を祭祀、御宮社を「帝爵天皇宮」としています。

その後も、神徳は継承され、戦国期南北朝動乱の初頭に戦国大名として勢力を広げていた平姓三春田村氏の信仰厚く、奥州田村ノ庄の総鎮守として領内の崇敬を集めたとされています。

江戸期の秋田藩政下では、実沢村鎮守として継承され、明治維新後の廃仏毀釈で、高木神勝軍地蔵尊は金剛山瑞祥寺へ移し、新たに、高皇産霊命(高木神)を祭神して實澤村鎮守“高木神社”と改称されます。



先日、高木神社宮世話の佐久間様よりいただいた画像です。
拝殿内に設置してある、高木神社の由来を明記した檜の看板です。



尚、詳細は、高木神社拝殿内に奉納した欅板寄書「高木神社由緒・社掌岩崎嘉門・明治三十五年各神社由緒調査書(沢石村役場)」を参照ください。



社殿に施された彫刻は稀に見る力作揃いで、拝殿外壁の欄間にはめ込まれた明治期の彫り物は、“日清・日露戦争や昭和初期の日独(第一次大戦)そして大東亜戦争での“武運長久”を祈念して奉納されたものです。
拝殿内にも、大東亜戦争時に奉納された軍艦の絵馬が飾られてあります。




社宝としては、南北朝時代の貞治元年(1362年)三春平姓田村右京太夫輝定公が寄進・奉納した、大陸渡来の“華鬘”や“胡州鏡”。

田村隆顕公の寄進した“金銅透彫寶相華文一対二面。

田村清顕公の奉納した金銅透彫蓮華文一面。

鑼等の仏具や鰐口(亡失)などがあり、県内有数の中世金工品として町の重要文化財に指定されています。



実沢には、室町時代から戦国期には三春田村氏の出城である“田村四十八舘”の一つ、北方守護与力五十騎を統括する“実沢館”があり、城主実沢山城守が治めていました。

後に、北方守護は富沢舘の富沢氏となり、実沢佐久間氏が名主として治めます。



今でも沢石には佐久間姓が多く居住しています。
この佐久間氏の由来には諸説あります。
佐久間という文字からの由来としては、舘・城郭にある小窓を”狭間”と表しますが、この狭間が転じて佐久間となったという説、これは北方守護として敵を見張るための役割を与えらたこの一族にぴったりの由来です。
また、山に囲まれた谷間の狭い地域でを表した、これまた“狭間(さま)”という字が転じて“佐久間”となったという説。





一方、歴史的背景からの由来としては、本姓は藤原姓を名乗り、播磨国(兵庫県)守護赤松氏に仕えて、知行地の播磨国佐久間郷から佐久間姓を称し、赤松滅亡後に三春田村氏に仕官したとする説。

もう一つ、柴田勝家の麾下与力佐久間盛政二男で、柴田家滅亡に、三春田村氏仕官し、田村の重臣田村隼人の養子となった佐久間盛安の一族とする説等々・・・



   
戦国期、三春田村氏は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、四方を敵に囲まれることとなります。

それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。

いづれにしても、三春田村氏が、戦国時代を乗り切るために、最も信頼する最強の精鋭部隊である佐久間一族を北方守護として配置したことには変わりはありません。

戦国期の終末、太閤秀吉による「奥羽仕置き」にて田村家の改易後は、知行地に帰農し、代々実沢村の名主・村司としてを勤めてきました。



地名である実沢の由来として、“大御神(義良親王・後の後村上天皇)の徳實恩澤の利益”を感謝する意味を込めて實澤(実沢)としたと伝えられ、毎年この由来のとおり、徳實恩澤によって、五穀豊穣と世界平和があることへの、祈願と感謝で、村人総出の春秋の祭礼が挙行されています。




 
 蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!   拝





氏子青年会の奉納した手水舎です。



今回、記事を書くにあたっては、菊川屋に勤務の宮世話佐久間様や島屋商店様にも、ご協力を頂きました。

島屋さんは、先代の社長佐久間島久さんが当方の祖父の弟子という関係で、親戚以上のお付き合いをさせていただいています。
そんな関係もあり沢石は私にはより近くに感じる地区でもあります。




この沢石という地区は、旧三春藩秋田氏領の実沢、青石(旧塩松(四本松)城主石橋氏領)、そして旧三春秋田家の分家・旗本秋田氏所領の富沢の三地区で行政区となっています。

注・上記へご案内した多高木神社由来調書に記載された、帝爵天皇宮の記載を尊重して、高木神社の旧神号を帝釈天皇ではなく、帝爵天皇と表記させていただきました。

三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 17:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::実沢 |