2022-03-25 Fri
小社 稲荷神社 御由緒調査書
祭神 蒼稲魂神
社掌 飛田昭辰調進 (筆者 現代文訳・修正加筆)
往古、鎮座の由緒不詳
中古、文歴元年(鎌倉時代1234年)鎌倉幕府将軍藤原頼経、執権北条泰時
三春城主 田村利顕の二男 田村刑部少輔則顕が富澤橋本舘に住居す。
右宅地内の氏神社なり。
その玄孫顕道の代に至り、国主北畠顕家公(南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍)に従って上洛、建武合戦に参戦しますが討ち死にし後倅顕盛の代に及んで字北の内二百六十二番地に遷坐す。
其の後天正十七年四月九日、伊達政宗と戦って橋本舘は落城してその子孫帰農となる。
然りと現子孫の○四戸存在して右社の祀りを不絶繁栄するなり。
明治三十五年十二月 社掌 飛田昭辰
※ 藤原 頼経は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2021-12-29 Wed
三春城下の北、富沢村石田にある「生田神社」は、「こじらさま」と呼ばれ、蚕養神を祀っていました。
現在は、豊受姫神・稚産霊神、そして埴安姫神を合祀して祭神としています。
富澤村石田 小社 生田神社 御由緒調査書 社掌 飛田昭辰 参照
祭神 豊宇気姫神(豊受姫神) 埴山姫神(埴安姫神)
往古鎮坐の由緒不詳
中古 弘活永禄年間、三春城主田村家の幕下に武田隼人と云う者がこの地の住居していました。
右武田氏の氏神社です。
然るに、我国慶仁以来七道分離し争乱相踵(そうらんあいつぐ)いでいる天正年中に及び伊達政宗東北の屈強し安達郡小濵(岩代小浜)城に在りて諸国を略取せんとす故に、我が村里の如きは郡境接近の地にして、その衝路に当たり、田村家の幕下皆攻め、滅さる。
田村家救ふ能わず。
茲(ここ)に於いて武田隼人は浪人となる。
天正十八年、太閤秀吉公が小田原城の北条氏政を退治に御發向有之此時、奥州一国御攻めに相成り政宗をして藎押領地厭納めを命ぜられ、奥羽鎮厭の為会津仙道十一郡を蒲生氏郷に封ぜられ、伊達政宗は旧領米沢長井庄に退城する。
時に、田村郡も会津蒲生領となる。
此の時に及んで四隣安堵無事の日に及び、武田隼人浪人中は浮浪中に死亡しますが倅の武田隼津と云う者は富沢に帰国して弓矢を捨てて帰農して農民となります。
以後、氏神社を修繕し子孫相続して元和三年に病死す。
右隼津の墓標は富澤平生田八升蒔田にありその子孫が現在迄八戸相続して二十四戸の氏神として在り上古の通り繁栄するなり。
明治三十五年十二月二十四 社掌 飛田昭辰(宸)
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2021-12-11 Sat
旧富沢村社 天日鷲神社 御由来緒 調査書
御祭神 天日鷲神 社掌 飛田昭辰調進 (筆者現代文に調整・加筆)
往古由来鎮座の由緒不詳
但し明治十二年社書上の由緒によれば、「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。
旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。
其の後、延元三年 富沢舘主 富沢伊賀と云う者、神官にして武官を兼務し奥州鎮守府国主北畠顕家公に従って上洛致し、同年五月足利軍と激闘の末に顕家公は泉州阿倍野に於いて敗
戦、戦死す。
以後、富沢伊賀は流離潜伏し遂に阿州名東郡に至れり忌部神社の神官方に寄宿する事数年、然るに右社祭神天日鷲命奉斎に依って常に神事を賛助す。
然るに其の崇神篤志を賞して帰國の際に右社々蔵の水晶石を祖道とする。
以来、本国に携へ来り、「傳家ノ實器」と称せし所、遂に三春藩所の聞に達し、天保中覧に供せし所、その秀麗を称し来歴を思へ常に坐右を放○す。
然るに藩主世子数々夭折し遂に右水晶石を以て神に祭り子育て神と禰し、朝夕尊敬懈怠参る。
然る所、世子健全に成長し遂に万延元年の至り子育大神と書たる幟旗一流に金三両を添えて下附さられたり。
明治元年 天日鷲神社と改称す。
明治七年より同十五年迄 田村郡旧荒和田村、全青石村々社に列せられたり
明治三十五年十二月二十四
社掌 飛田昭宸(辰)
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地に祀られました。
神話で知られているのは天照大神が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で神々の踊りがはじまり、この神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まった。
多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。
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2021-12-04 Sat
富澤 小社 宮代神社 御由緒調査書 社掌 飛田昭辰
祭神 後醍醐天皇 後村上天皇(義良親王) 陸奥宮(大塔宮・護良親王)
宮代神社鎮坐由緒の儀は、延元年中富沢伊賀が、国主北畠顕家公(南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍)に従って、上洛して建武の合戦に従軍するも、勤王官軍(南朝方)敗亡し、富沢伊賀は古里に帰り旧富沢村字宮ノ下百二十五番地に天皇を祀ると伝わっている。
明治三十五年十二月 社掌 飛田昭辰(宸)
陸奥宮、護良親王は、後醍醐天皇の皇子で、延暦寺の天台座主をしていたことがあり「大塔宮」と呼ばれました。
後醍醐天皇による鎌倉幕府に対する政変「元弘の乱」が起こると、還俗して天皇に加勢します。
北条に対する足利尊氏の寝返りにより、後醍醐天皇による「建武の新政」が成立しますと、護良親王はその軍功により軍功により征夷大将軍になります。
しかし、護良親王は、その後、「新政」に不満な武士層の信望を集め力をつけてきた足利尊氏と対立したため、拘禁され、鎌倉の足利直義(ただよし)(尊氏の弟)に送られ、東光寺(現在の鎌倉宮)へ幽閉されてしまいます。
本殿裏手に護良親王が幽閉されたと伝わる土牢があります。
1335年中先代の乱で、鎌倉幕府滅亡時の執権北条高時の遺児、時行が挙兵して鎌倉に攻め込むと、逃げる足利直義側の武将に護良親王は殺されます。
北条時行が、護良親王を鎌倉将軍として担ぐことを恐れたからです。
「中先代之乱」では、敗走した直義に尊氏が加勢し、時行を撃退しますが、これを機に、醐天皇の建武政権から足利尊氏が離反することになり、建武政権は崩壊します。
足利尊氏と弟の直義は、中先代の乱に続けて、新田義貞や楠木正成と戦う中で、室町政権を成立させていきました。
後醍醐天皇の皇子には下記の八皇子がいて、中先代の乱で敗れた北条時行は、その後も南朝に加わり宗良親王(むねよし)や、義良親王(後村上天皇)と共に尊氏と戦っています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
2021-11-18 Thu
垢潜(あかしろ)集落の(桓武平氏流平将門一門・佐久間氏)由来
鎌倉時代の末期で戦国時代、武士達の争いが続いた時代である。
その武将として関東に勢力を持っていた「平将門の乱」に敗戦、落人となり追われる身となる。
其の時、太平洋岸を今の浜通りを一族(佐久間氏)が奥州地えと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り隠れる一族で、小野町辺りに一時舘を造り住んでいた様な話もあるが解らない。豊後舘の地名があるとか定かではない。(調査不足ママ)
それでも不安で山間の奥地を転々と流れ々現在の地(垢潜地区)に住み着いた佐久間伊勢守、豊後守と四郎兵衛兄弟十数の同志家来の一族共々「火雷神」を守護神にこの地に来たと伝わっている。
垢潜(あかしろ)の地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将としての今迄の懺悔を一切の垢を洗い落とすことでこの地に潜めた安住の地として垢潜と名付けた。守護神は今の在所に祠を造り安置した。
神様も墓地も開闢(かいびゃく)以来五百有余年の間移動していない。
でも、戦国の代であれば一族を守るため舘を造り一族を守りながら長寝舘(富澤舘とも云う)と名付けて畑道を造り生活しながら東西南北に開発したのである。
田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになりて田村領北の守りに仕えた。
年代は不明だが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として館を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に杉沢村との境に青石の里青石村となる。
垢潜の里豊吾が長寝の舘より三春に通じる道路を切り開き富澤の里に通じる小道を開き生活セリ。
道は山の峯を虫送りの山なみを堂作の澤を下りて主幹道にした。
富澤村の中央と定め五本木集落に長寿山と名付け寶傳寺を建立、船引町昔の片曽根村の東光寺を本家寺として住職を迎えていたのである。
当時、協力せる郷族武田家、面川家なども協力した様子。
富澤村も和尚などの指導もあ加わり栄えたものと思われる。
垢潜集落は平地がなく山間の谷を開発し湧き水を利用して水田と成し田頭には至る処に池を造り米を作り畑は山なみの中腹を開墾し雑穀稗粟などにより生活した。
産業は江戸時代の初めより養蚕などをはじめ着物などを造り自活した。
時代は平和になり商いなども商人が出入りするようになり取引商売を出来て蚕を飼育繭を取り糸も自家で引えて絹織物も町に売り火雷神社を中心に一族の結束は固く互いに助け合ながら農
地を拡大し徳川時代は平和となりて、皆百姓にて身を立てた様子。当時屋敷戸数十五、六戸位。
世の進展に従い昭和の世には二十九戸となる。明治時代になって火雷神社の秋祭りには九反の大旗を立て垢潜部落雷神様の旗の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りある。
垢潜集落の沿革 参照
佐久間氏は、桓武平氏流とする平将門(高望王良将系)一門の子孫としています。
佐久間氏の祖となる三浦氏は高望王良文流です。
佐久間氏は房総半島、安房国の佐久間郷に由来します。
三浦氏は、坂東八平氏の一氏で、三浦党とも呼ばれ、鎌倉時代に三浦氏の一族が佐久間郷の地を拝領して土地名の佐久間氏を名乗った事がはじまりとされています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
2010-06-22 Tue
三春城下の北二里余、旧富沢村。
戦国期には、富沢玄蕃が護る、田村四十八舘の北方守護の要である富沢館がありました。
その館の一角にあったとされる、富沢村鎮守天目鷲神社です。
社伝によれば「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。
旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。
旧富沢村社 天日鷲神社 御由来緒 調査書
御祭神 天日鷲神 社掌 飛田昭辰調進 (筆者現代文に調整・加筆)
往古由来鎮座の由緒不詳
但し明治十二年社書上の由緒によれば、「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。
旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。
其の後、延元三年 富沢舘主 富沢伊賀と云う者、神官にして武官を兼務し奥州鎮守府国主北畠顕家公に従って上洛致し、同年五月足利軍と激闘の末に顕家公は泉州阿倍野に於いて敗
戦、戦死す。
以後、富沢伊賀は流離潜伏し遂に阿州名東郡に至れり忌部神社の神官方に寄宿する事数年、然るに右社祭神天日鷲命奉斎に依って常に神事を賛助す。
然るに其の崇神篤志を賞して帰國の際に右社々蔵の水晶石を祖道とする。
以来、本国に携へ来り、「傳家ノ實器」と称せし所、遂に三春藩所の聞に達し、天保中覧に供せし所、その秀麗を称し来歴を思へ常に坐右を放○す。
然るに藩主世子数々夭折し遂に右水晶石を以て神に祭り子育て神と禰し、朝夕尊敬懈怠参る。
然る所、世子健全に成長し遂に万延元年の至り子育大神と書たる幟旗一流に金三両を添えて下附さられたり。
明治元年 天日鷲神社と改称す。
明治七年より同十五年迄 田村郡旧荒和田村、全青石村々社に列せられたり
明治三十五年十二月二十四
社掌 飛田昭宸(辰)
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地に祀られました。
神話で知られているのは天照大神が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で神々の踊りがはじまり、この神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まった。
多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。
境内末社の天神宮さま
江戸時代の三春秋田藩政下では、この富沢村は、旧旗本五千石秋田家領に分地されていました。
尚、旗本秋田家の所領は 新舘村、荒和田村、大倉村、ツクモ田村、丹伊田村、石森村です。
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三春昭進堂 髙橋龍一
2010-06-18 Fri
三春城下北部、垢潜(あかしろ)集落にある火雷神社です。
案内板によれば、
「京北野天満宮に発し、平将門一族の流浪地に祀られたことから起こったものとされる。
当社も当初は小さな祠であったが、この地に社殿を建立し、同地の守り神として現在に至っている。
祭神は火雷神で農耕の神である」としてあります。
祭礼のときに奉納される「垢潜三匹獅子」は、三春町文化財にで指定されています。
私たちの祖先は、山や木や岩、あるいは風や火や水といった自然の現象の中に神の存在を感じて畏れ敬いました。
そして部族の者達が飢え苦しむことの無いように、農耕や狩猟や漁業の収穫をそうした自然の神に祈ったのです。
これが天神様の原型でした。
農耕民族にとってとりわけ大切なのは雨です。
その雨を降らす雷様を、古代人は「天神」として崇拝したと考えられます。
「続日本後紀」のような古い記録に、豊作を祈願して雷公を祀ったとありますが、現在の北野天満宮の本殿前にある火之御子社がそれです。
後に菅公を北野にお祀りするようになったのも、菅公が『火雷天神』という神号を持っていたからだと言われています。
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