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垢潜(あかしろ)集落の由来  




垢潜(あかしろ)集落の(桓武平氏流平将門一門・佐久間氏)由来  

鎌倉時代の末期で戦国時代、武士達の争いが続いた時代である。

その武将として関東に勢力を持っていた「平将門の乱」に敗戦、落人となり追われる身となる。

其の時、太平洋岸を今の浜通りを一族(佐久間氏)が奥州地えと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り隠れる一族で、小野町辺りに一時舘を造り住んでいた様な話もあるが解らない。豊後舘の地名があるとか定かではない。(調査不足ママ)

それでも不安で山間の奥地を転々と流れ々現在の地(垢潜地区)に住み着いた佐久間伊勢守、豊後守と四郎兵衛兄弟十数の同志家来の一族共々「火雷神」を守護神にこの地に来たと伝わっている。

垢潜(あかしろ)の地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将としての今迄の懺悔を一切の垢を洗い落とすことでこの地に潜めた安住の地として垢潜と名付けた。守護神は今の在所に祠を造り安置した。

神様も墓地も開闢(かいびゃく)以来五百有余年の間移動していない。

でも、戦国の代であれば一族を守るため舘を造り一族を守りながら長寝舘(富澤舘とも云う)と名付けて畑道を造り生活しながら東西南北に開発したのである。








田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになりて田村領北の守りに仕えた。

年代は不明だが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として館を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に杉沢村との境に青石の里青石村となる。

垢潜の里豊吾が長寝の舘より三春に通じる道路を切り開き富澤の里に通じる小道を開き生活セリ。

道は山の峯を虫送りの山なみを堂作の澤を下りて主幹道にした。

富澤村の中央と定め五本木集落に長寿山と名付け寶傳寺を建立、船引町昔の片曽根村の東光寺を本家寺として住職を迎えていたのである。

当時、協力せる郷族武田家、面川家なども協力した様子。

富澤村も和尚などの指導もあ加わり栄えたものと思われる。

垢潜集落は平地がなく山間の谷を開発し湧き水を利用して水田と成し田頭には至る処に池を造り米を作り畑は山なみの中腹を開墾し雑穀稗粟などにより生活した。

産業は江戸時代の初めより養蚕などをはじめ着物などを造り自活した。

時代は平和になり商いなども商人が出入りするようになり取引商売を出来て蚕を飼育繭を取り糸も自家で引えて絹織物も町に売り火雷神社を中心に一族の結束は固く互いに助け合ながら農
地を拡大し徳川時代は平和となりて、皆百姓にて身を立てた様子。当時屋敷戸数十五、六戸位。


世の進展に従い昭和の世には二十九戸となる。明治時代になって火雷神社の秋祭りには九反の大旗を立て垢潜部落雷神様の旗の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りある。


垢潜集落の沿革 参照



佐久間氏は、桓武平氏流とする平将門(高望王良将系)一門の子孫としています。
佐久間氏の祖となる三浦氏は高望王良文流です。

佐久間氏は房総半島、安房国の佐久間郷に由来します。
三浦氏は、坂東八平氏の一氏で、三浦党とも呼ばれ、鎌倉時代に三浦氏の一族が佐久間郷の地を拝領して土地名の佐久間氏を名乗った事がはじまりとされています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:18 | comments (x) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
三春物語580番 「富沢鎮守天目鷲神社」




三春城下の北二里余、旧富沢村。


戦国期には、富沢玄蕃が護る、田村四十八舘の北方守護の要である富沢館がありました。

その館の一角にあったとされる、富沢村鎮守天目鷲神社です。


社伝によれば「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。





旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。


旧富沢村社 天日鷲神社 御由来緒 調査書

御祭神 天日鷲神 社掌 飛田昭辰調進 (筆者現代文に調整・加筆)

往古由来鎮座の由緒不詳

但し明治十二年社書上の由緒によれば、「延暦年間中、坂上田村麻呂が東国を鎮圧して斎き奉ると言う」と記載され、田村麻呂の東征祈願の建立とされています。

旧神号を、鷲妙見大菩薩(鷲大明神)とされています。

其の後、延元三年 富沢舘主 富沢伊賀と云う者、神官にして武官を兼務し奥州鎮守府国主北畠顕家公に従って上洛致し、同年五月足利軍と激闘の末に顕家公は泉州阿倍野に於いて敗
戦、戦死す。


以後、富沢伊賀は流離潜伏し遂に阿州名東郡に至れり忌部神社の神官方に寄宿する事数年、然るに右社祭神天日鷲命奉斎に依って常に神事を賛助す。


然るに其の崇神篤志を賞して帰國の際に右社々蔵の水晶石を祖道とする。


以来、本国に携へ来り、「傳家ノ實器」と称せし所、遂に三春藩所の聞に達し、天保中覧に供せし所、その秀麗を称し来歴を思へ常に坐右を放○す。


然るに藩主世子数々夭折し遂に右水晶石を以て神に祭り子育て神と禰し、朝夕尊敬懈怠参る。


然る所、世子健全に成長し遂に万延元年の至り子育大神と書たる幟旗一流に金三両を添えて下附さられたり。


明治元年 天日鷲神社と改称す。


明治七年より同十五年迄 田村郡旧荒和田村、全青石村々社に列せられたり

明治三十五年十二月二十四

社掌 飛田昭宸(辰)










天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地に祀られました。

神話で知られているのは天照大神が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で神々の踊りがはじまり、この神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まった。

多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。




境内末社の天神宮さま



江戸時代の三春秋田藩政下では、この富沢村は、旧旗本五千石秋田家領に分地されていました。

尚、旗本秋田家の所領は 新舘村、荒和田村、大倉村、ツクモ田村、丹伊田村、石森村です。




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三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 04:45 | comments (x) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
三春物語576番「垢潜火雷神社」




三春城下北部、垢潜(あかしろ)集落にある火雷神社です。

案内板によれば、

「京北野天満宮に発し、平将門一族の流浪地に祀られたことから起こったものとされる。

当社も当初は小さな祠であったが、この地に社殿を建立し、同地の守り神として現在に至っている。

祭神は火雷神で農耕の神である」としてあります。

祭礼のときに奉納される「垢潜三匹獅子」は、三春町文化財にで指定されています。






私たちの祖先は、山や木や岩、あるいは風や火や水といった自然の現象の中に神の存在を感じて畏れ敬いました。

そして部族の者達が飢え苦しむことの無いように、農耕や狩猟や漁業の収穫をそうした自然の神に祈ったのです。

これが天神様の原型でした。

 農耕民族にとってとりわけ大切なのは雨です。

その雨を降らす雷様を、古代人は「天神」として崇拝したと考えられます。


 「続日本後紀」のような古い記録に、豊作を祈願して雷公を祀ったとありますが、現在の北野天満宮の本殿前にある火之御子社がそれです。

後に菅公を北野にお祀りするようになったのも、菅公が『火雷天神』という神号を持っていたからだと言われています。









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| ryuichi | 04:47 | comments (x) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
三春物語366番「富沢の庚申信仰」


三春城下より北へ二里余り、戦国期には田村北方衆が護った富沢集落の一郭に、この石仏群があります。



見過ごしそうな場所ですが、地元の方々の掃除が行き届いていています。
青面金剛碑には講中拾二人の文字が読み取れ、庶民信仰による供養塔なのでしょう。



今でもそうですが、石塔や石仏を立てるのには、多くの資金が必要となりますので、講中が浄財を出しあって立てたのでしょう。
庚申信仰は、仏教系では「青面金剛」、神道系では「猿田彦大神」が祀られます。

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名も知らぬ石工が仏心をもって彫りきざんだ数々の石仏・石塔・石宮が点在して苔むした石仏に、風雪に耐えたの年輪が感じられます。




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| ryuichi | 05:56 | comments (0) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
三春物語304番「富沢生田神社(コジラさま)」




三春城下の北、富沢村石田にある

生田神社は、「こじらさま」と呼ばれ、蚕養神を祀っていました。

現在は、豊受姫神・稚産霊神、そして埴安姫神を合祀して祭神としています。











富澤村石田 小社 生田神社 御由緒調査書 社掌 飛田昭辰 参照

祭神 豊宇気姫神(豊受姫神) 埴山姫神(埴安姫神)

往古鎮坐の由緒不詳

中古 弘活永禄年間、三春城主田村家の幕下に武田隼人と云う者がこの地の住居していました。
右武田氏の氏神社です。

然るに、我国慶仁以来七道分離し争乱相踵(そうらんあいつぐ)いでいる天正年中に及び伊達政宗東北の屈強し安達郡小濵(岩代小浜)城に在りて諸国を略取せんとす故に、我が村里の如きは郡境接近の地にして、その衝路に当たり、田村家の幕下皆攻め、滅さる。

田村家救ふ能わず。

茲(ここ)に於いて武田隼人は浪人となる。


天正十八年、太閤秀吉公が小田原城の北条氏政を退治に御發向有之此時、奥州一国御攻めに相成り政宗をして藎押領地厭納めを命ぜられ、奥羽鎮厭の為会津仙道十一郡を蒲生氏郷に封ぜられ、伊達政宗は旧領米沢長井庄に退城する。


時に、田村郡も会津蒲生領となる。


此の時に及んで四隣安堵無事の日に及び、武田隼人浪人中は浮浪中に死亡しますが倅の武田隼津と云う者は富沢に帰国して弓矢を捨てて帰農して農民となります。

以後、氏神社を修繕し子孫相続して元和三年に病死す。


右隼津の墓標は富澤平生田八升蒔田にありその子孫が現在迄八戸相続して二十四戸の氏神として在り上古の通り繁栄するなり。

明治三十五年十二月二十四 社掌 飛田昭辰(宸)




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍









昔から日本は養蚕の盛んな国でした。


養蚕地帯では蚕の繭による収入が家計の大きなささえとなっていたこともあり、その作柄の良し悪しは農家にとってまさに死活問題でした。特に養蚕に関する知識や技術が未熟な時代においては自然災害、天候不順、蚕病等によっておこる収繭量の激減や作柄の低下は人の力ではどうすることも出来ない問題であり、しばしばこうした被害に見舞われていたであろう当時の人々の苦悩ははかりしれません。


誰もが困惑し、なすすべもなくただひたすら神にすがったに違いありません。











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| ryuichi | 13:36 | comments (0) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
三春物語298番「富沢宮代神社」


三春城下北部、富沢村にある「宮代神社」は,
旧神号を三渡大明神、祭神を、南北朝期の後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮としています。



 鎌倉末の南北朝期の三春地方は、荘司田村氏が南朝方として最期まで奮戦したこともあって、その戦禍は田村郡内の村々に広く及んでいます。
後醍醐天皇は、鎌倉から南北朝時代の第96代天皇。謀術策にたけた専制君主といわれた。

1288(正応〈しょうおう〉元)年11月2日生まれ。後宇多天皇の第2皇子。母は参議藤原忠継(ただつぐ)の子忠子(ちゅうし=談天門院〈(だんてんもんいん)。第95代花園天皇(はなぞのてんのう。1297~1348 在位 1308~1318。持明院統の伏見天皇の皇子)の譲位をうけて31歳で即位した大覚寺統の天皇。



1318(文保2)年に記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努め、天皇親政(天皇自らが政治をおこなう体制)を企て、1321(元亨元)年に院政を廃して親政を開始、吉田定房(さだふさ=天皇の信任厚く、建武新政府に重きをなした。南北分裂後は初め北朝、のち南朝方)、北畠親房(きたばたけちかふさ=建武政権成立後、東北経営にあたった。南北朝分裂後、天皇を吉野に遷して南朝の重鎮として活躍)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ=藤原宣房〈ふじわらののぶふさ〉の別名=吉田定房・北畠親房とともに「後(のち)の三房」と称される。正中の変では鎌倉に赴き事件の解決をはかった)、日野資朝(ひのすけとも=参議・権中納言などを歴任。討幕運動の中心人物となった)・俊基(としもと)らの人材を集め、鎌倉幕府討滅計画したが、1324(正中元)年、鎌倉幕府が承久の乱(じょうきゅうのらん=1221〈承久3〉年後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件)後、京都の政情を監察し、かつ治安を維持するために設置した、政務・軍事を統轄する執政官の六波羅探題(ろくはらたんだい)に露見して失敗(正中〈しょうちゅう〉の変)した。

その責任を日野資朝(佐渡に流されて処刑された)に押しつけ、危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王(もりよししんのう。1308~1335)を天台座主(てんだいざす=比叡山延暦寺の最高位の僧職で天台宗一門を統轄する者)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れて、再度倒幕計画を進めたが、1331(元弘元)年4月、吉田定房が計画を幕府に密告して失敗した。

後醍醐天皇は同年8月、奈良・東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ。現・京都府相楽〈そうらく〉郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけたが、幕府は大軍を送って笠置を包囲して後醍醐天皇を捕らえ、1332年隠岐(おき)に流した(元弘〈げんこう〉の変〈乱〉)。



翌1333年(元弘3)年閏(うるう)2月、後醍醐天皇は隠岐脱出し成功、それに呼応して各地の諸将が蜂起、同時に、新田義貞(にったよしさだ。1301~1338。後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を滅ぼし、新政権で足利尊氏と対立、尊氏に破れ、戦死)や足利尊(高)氏、楠木正成(くすのきまさしげ=大楠公【だいなんこう】)らの支援を受けて鎌倉幕府を討滅し、伯耆(ほうき=鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの援助で6月京都にたどり着き、復古的新政権(建武〈けんむ〉の新政=建武中興ともいう)を樹立、幕府の擁立していた持明院統の北朝第1代光厳(こうごん)天皇を廃し、建武新政を開始する。



後醍醐天皇は、雑訴決断所等を設けて一般政務や訴訟問題の処理にあたったが、武士階級の不満を解消できず、1335(建武2)年、武士らの不満をになう尊氏が、別に北朝第2代光明(こうみょう)天皇を擁立して室町幕府を開いたため、新政権はわずか2年半で崩壊、後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝をたて、北朝や尊氏と対立した(南北朝の内乱)。

だが、吉野に従う公家は少なく、孤立が深まるなかでは、1339年義良(のりよし/のりなが)親王〈後村上天皇〉に譲位、同年8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。





| ryuichi | 16:24 | comments (0) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
三春物語83番 「富沢の稲荷様」




小社 稲荷神社 御由緒調査書 

祭神  蒼稲魂神 

社掌 飛田昭辰調進 (筆者 現代文訳・修正加筆)

往古、鎮座の由緒不詳
中古、文歴元年(鎌倉時代1234年)鎌倉幕府将軍藤原頼経、執権北条泰時 
三春城主 田村利顕の二男 田村刑部少輔則顕が富澤橋本舘に住居す。
右宅地内の氏神社なり。

その玄孫顕道の代に至り、国主北畠顕家公(南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍)に従って上洛、建武合戦に参戦しますが討ち死にし後倅顕盛の代に及んで字北の内二百六十二番地に遷坐す。
其の後天正十七年四月九日、伊達政宗と戦って橋本舘は落城してその子孫帰農となる。
然りと現子孫の○四戸存在して右社の祀りを不絶繁栄するなり。

明治三十五年十二月 社掌 飛田昭辰







富沢の稲荷様は、大変あらたかな稲荷様で、氏子の家に異変があると知らせてくれるといいます。


良いことがあると、オイナリさまは「コン」と鳴くが、悪いことがあると「ガイガイ」と鳴くという。

富沢の山中の文蔵という大工がいた。仕事にかけては真面目で上手な大工なのだが、どんなときも裾を端折ったことがない。

長裾のままいつも仕事をしているので、誰からも「すそなが文蔵とあだ名で呼ばれている。

すそなが文蔵が、イナリさまに御幣束を上げて「もし、イナリさまに御利益があるなら、俺の家さ来て鳴いて見せろ」と云って帰った。

家の門口を入ったところまで来ると、イナリさまの鳴き声がします。


そこで文蔵は、これは、これはイナリさまの御利益は本物だと、自分で立派な鳥居を造って奉納したという。」







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 06:41 | comments (0) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |