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三春物語366番「富沢の庚申信仰」


三春城下より北へ二里余り、戦国期には田村北方衆が護った富沢集落の一郭に、この石仏群があります。



見過ごしそうな場所ですが、地元の方々の掃除が行き届いていています。
青面金剛碑には講中拾二人の文字が読み取れ、庶民信仰による供養塔なのでしょう。



今でもそうですが、石塔や石仏を立てるのには、多くの資金が必要となりますので、講中が浄財を出しあって立てたのでしょう。
庚申信仰は、仏教系では「青面金剛」、神道系では「猿田彦大神」が祀られます。

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名も知らぬ石工が仏心をもって彫りきざんだ数々の石仏・石塔・石宮が点在して苔むした石仏に、風雪に耐えたの年輪が感じられます。




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| ryuichi | 05:56 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春物語304番「富沢生田神社(コジラさま)」




三春城下の北、富沢村石田にある

生田神社は、「こじらさま」と呼ばれ、蚕養神を祀っていました。

現在は、豊受姫神・稚産霊神、そして埴安姫神を合祀して祭神としています。











富澤村石田 小社 生田神社 御由緒調査書 社掌 飛田昭辰 参照

祭神 豊宇気姫神(豊受姫神) 埴山姫神(埴安姫神)

往古鎮坐の由緒不詳

中古 弘活永禄年間、三春城主田村家の幕下に武田隼人と云う者がこの地の住居していました。
右武田氏の氏神社です。

然るに、我国慶仁以来七道分離し争乱相踵(そうらんあいつぐ)いでいる天正年中に及び伊達政宗東北の屈強し安達郡小濵(岩代小浜)城に在りて諸国を略取せんとす故に、我が村里の如きは郡境接近の地にして、その衝路に当たり、田村家の幕下皆攻め、滅さる。

田村家救ふ能わず。

茲(ここ)に於いて武田隼人は浪人となる。


天正十八年、太閤秀吉公が小田原城の北条氏政を退治に御發向有之此時、奥州一国御攻めに相成り政宗をして藎押領地厭納めを命ぜられ、奥羽鎮厭の為会津仙道十一郡を蒲生氏郷に封ぜられ、伊達政宗は旧領米沢長井庄に退城する。


時に、田村郡も会津蒲生領となる。


此の時に及んで四隣安堵無事の日に及び、武田隼人浪人中は浮浪中に死亡しますが倅の武田隼津と云う者は富沢に帰国して弓矢を捨てて帰農して農民となります。

以後、氏神社を修繕し子孫相続して元和三年に病死す。


右隼津の墓標は富澤平生田八升蒔田にありその子孫が現在迄八戸相続して二十四戸の氏神として在り上古の通り繁栄するなり。

明治三十五年十二月二十四 社掌 飛田昭辰(宸)




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍









昔から日本は養蚕の盛んな国でした。


養蚕地帯では蚕の繭による収入が家計の大きなささえとなっていたこともあり、その作柄の良し悪しは農家にとってまさに死活問題でした。特に養蚕に関する知識や技術が未熟な時代においては自然災害、天候不順、蚕病等によっておこる収繭量の激減や作柄の低下は人の力ではどうすることも出来ない問題であり、しばしばこうした被害に見舞われていたであろう当時の人々の苦悩ははかりしれません。


誰もが困惑し、なすすべもなくただひたすら神にすがったに違いありません。











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| ryuichi | 13:36 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春物語298番「富沢宮代神社」


三春城下北部、富沢村にある「宮代神社」は,
旧神号を三渡大明神、祭神を、南北朝期の後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮としています。



 鎌倉末の南北朝期の三春地方は、荘司田村氏が南朝方として最期まで奮戦したこともあって、その戦禍は田村郡内の村々に広く及んでいます。
後醍醐天皇は、鎌倉から南北朝時代の第96代天皇。謀術策にたけた専制君主といわれた。

1288(正応〈しょうおう〉元)年11月2日生まれ。後宇多天皇の第2皇子。母は参議藤原忠継(ただつぐ)の子忠子(ちゅうし=談天門院〈(だんてんもんいん)。第95代花園天皇(はなぞのてんのう。1297~1348 在位 1308~1318。持明院統の伏見天皇の皇子)の譲位をうけて31歳で即位した大覚寺統の天皇。



1318(文保2)年に記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努め、天皇親政(天皇自らが政治をおこなう体制)を企て、1321(元亨元)年に院政を廃して親政を開始、吉田定房(さだふさ=天皇の信任厚く、建武新政府に重きをなした。南北分裂後は初め北朝、のち南朝方)、北畠親房(きたばたけちかふさ=建武政権成立後、東北経営にあたった。南北朝分裂後、天皇を吉野に遷して南朝の重鎮として活躍)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ=藤原宣房〈ふじわらののぶふさ〉の別名=吉田定房・北畠親房とともに「後(のち)の三房」と称される。正中の変では鎌倉に赴き事件の解決をはかった)、日野資朝(ひのすけとも=参議・権中納言などを歴任。討幕運動の中心人物となった)・俊基(としもと)らの人材を集め、鎌倉幕府討滅計画したが、1324(正中元)年、鎌倉幕府が承久の乱(じょうきゅうのらん=1221〈承久3〉年後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件)後、京都の政情を監察し、かつ治安を維持するために設置した、政務・軍事を統轄する執政官の六波羅探題(ろくはらたんだい)に露見して失敗(正中〈しょうちゅう〉の変)した。

その責任を日野資朝(佐渡に流されて処刑された)に押しつけ、危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王(もりよししんのう。1308~1335)を天台座主(てんだいざす=比叡山延暦寺の最高位の僧職で天台宗一門を統轄する者)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れて、再度倒幕計画を進めたが、1331(元弘元)年4月、吉田定房が計画を幕府に密告して失敗した。

後醍醐天皇は同年8月、奈良・東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ。現・京都府相楽〈そうらく〉郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけたが、幕府は大軍を送って笠置を包囲して後醍醐天皇を捕らえ、1332年隠岐(おき)に流した(元弘〈げんこう〉の変〈乱〉)。



翌1333年(元弘3)年閏(うるう)2月、後醍醐天皇は隠岐脱出し成功、それに呼応して各地の諸将が蜂起、同時に、新田義貞(にったよしさだ。1301~1338。後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を滅ぼし、新政権で足利尊氏と対立、尊氏に破れ、戦死)や足利尊(高)氏、楠木正成(くすのきまさしげ=大楠公【だいなんこう】)らの支援を受けて鎌倉幕府を討滅し、伯耆(ほうき=鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの援助で6月京都にたどり着き、復古的新政権(建武〈けんむ〉の新政=建武中興ともいう)を樹立、幕府の擁立していた持明院統の北朝第1代光厳(こうごん)天皇を廃し、建武新政を開始する。



後醍醐天皇は、雑訴決断所等を設けて一般政務や訴訟問題の処理にあたったが、武士階級の不満を解消できず、1335(建武2)年、武士らの不満をになう尊氏が、別に北朝第2代光明(こうみょう)天皇を擁立して室町幕府を開いたため、新政権はわずか2年半で崩壊、後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝をたて、北朝や尊氏と対立した(南北朝の内乱)。

だが、吉野に従う公家は少なく、孤立が深まるなかでは、1339年義良(のりよし/のりなが)親王〈後村上天皇〉に譲位、同年8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。





| ryuichi | 16:24 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春物語83番 「富沢の稲荷様」




小社 稲荷神社 御由緒調査書 

祭神  蒼稲魂神 

社掌 飛田昭辰調進 (筆者 現代文訳・修正加筆)

往古、鎮座の由緒不詳
中古、文歴元年(鎌倉時代1234年)鎌倉幕府将軍藤原頼経、執権北条泰時 
三春城主 田村利顕の二男 田村刑部少輔則顕が富澤橋本舘に住居す。
右宅地内の氏神社なり。

その玄孫顕道の代に至り、国主北畠顕家公(南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍)に従って上洛、建武合戦に参戦しますが討ち死にし後倅顕盛の代に及んで字北の内二百六十二番地に遷坐す。
其の後天正十七年四月九日、伊達政宗と戦って橋本舘は落城してその子孫帰農となる。
然りと現子孫の○四戸存在して右社の祀りを不絶繁栄するなり。

明治三十五年十二月 社掌 飛田昭辰







富沢の稲荷様は、大変あらたかな稲荷様で、氏子の家に異変があると知らせてくれるといいます。


良いことがあると、オイナリさまは「コン」と鳴くが、悪いことがあると「ガイガイ」と鳴くという。

富沢の山中の文蔵という大工がいた。仕事にかけては真面目で上手な大工なのだが、どんなときも裾を端折ったことがない。

長裾のままいつも仕事をしているので、誰からも「すそなが文蔵とあだ名で呼ばれている。

すそなが文蔵が、イナリさまに御幣束を上げて「もし、イナリさまに御利益があるなら、俺の家さ来て鳴いて見せろ」と云って帰った。

家の門口を入ったところまで来ると、イナリさまの鳴き声がします。


そこで文蔵は、これは、これはイナリさまの御利益は本物だと、自分で立派な鳥居を造って奉納したという。」







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 06:41 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春物語187番「富沢舘」 北方与力五十騎 富沢衆
 

「富沢舘」北方与力五十騎富沢衆
三春城下の北方、二里余りに富沢という集落があります。
この一角、三春町立沢石小学校付近聖楽地区に、戦国大名田村氏を支えた田村四十八舘の一つ、北方の要害「富沢舘」がありました。

この舘は、同じ仙道地域の小豪族である、会津葦名、二本松畠山義継、須賀川二階堂、そして小浜城の大内定綱らも反田村氏となったため、田村氏は四方を敵に囲まれることとなった。
それに対する備える三春領の中でも最重要拠点とみえて、戦国期の田村領で五十騎以上、足軽百名以上の与力侍が常駐した舘は、10舘位だと記録されていますが、その中でも最大規模といわれています。



城主は、時代ごとに、富沢玄蕃、富沢伊賀、さらに、田村重臣橋本刑小輔部を大将として天正十二年に勃発した「初森の合戦」時には、田村勢の負け戦となった際に敵将小浜城主大内定綱に生け捕りにされた富沢式部の名前があります。
 富沢伊賀は、富沢衆と呼ばれた「北方与力五十騎」の大将として戦国末期まで三春の北方を守護していました。

現在、舘本丸の南には、大山祇神社、蛇神、そして稲荷様が鎮座しています。




| ryuichi | 04:36 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春物語87番 「富沢五本木疱瘡(ほうそう)観音」
富沢五本木 十一面観音堂
 疱瘡(ほうそう)観音



延喜元年のことであった。
長寿と宝伝という二人の法師が遍歴の末、三春北部にある富沢五本木に至った。
二人は、日夜勤行に励み説法に努めていたが、宝伝法師が重い疱瘡にかかり危篤状態となった。
長寿法師は、必死に看病したが、貧しさのため医者にも頼めず、天地に祈るばかりであった。
ある晩のこと、十一面観世音が長寿法師の夢枕に現れ
「我は、この山に住する十一面観世音なり、汝の友愛のために精神を凝らす。その至誠ついに天に感ぜり。汝、我のために一堂宇を創立せば、宝伝法師が病、霜の日に消ゆるより速やかび癒ゆべし。また、広く信者を救わん念に疑いを生ずることなかれ」
と告げた。
夢から覚めた長寿法師は、十万の信者に計り浄財を持って一宇を建立した。
果たして宝伝法師の病は夢のお告げのごとく瞬く間に癒えた。
当時、この十一面観世音さまを、人々は「疱瘡観音」と呼んで、疱瘡を患う者が多く、参詣者が絶えなかったが、その霊験はすこぶるあらたかであったと伝えられています。




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「こじらさま」とよばれる生田神社です。

また、富沢には後醍醐天皇、後村上天皇そして陸奥宮を祭神とする旧三渡権現「宮代神社」宮田さまがあります。

| ryuichi | 06:09 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春物語88番 「富沢子育て水晶 鷲大明神(天日鷲神社)」


延暦年間、坂上田村麻呂東征のとき、を奉斎した。
今の天日鷲神社である。
南北朝の動乱期である延元三年、この地を領し、神官を兼ねていた富沢伊賀守は、南朝の忠臣北畠顕家に従って上洛して畿内はじめ西国各地を転戦の後に、顕家戦死後、阿波国忌部神社に寄宿してのちに帰還した。
 
帰国に際し、南朝の天皇から敬神篤志を賞され水晶石を家宝としていた。
降って天保年間、時の三春藩主が、鷲大明神の水晶石の来歴を聞き及び、その秀麗さを賞し召し上げて座右に置いたところ、藩主の世子が次々と夭折していった。
もしや、水晶石のせいではと、鷲大明神に戻してご神体として祀ったところその後の世子は健やかに成長したという。
これ以降、この鷲大明神の水晶石は、「子育水晶大神」として信仰をあつめたという。

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