2023-08-30 Wed

明治12年発行 「地券」同8年改正をお預かりしました。
お客様のお宅に眠っていたもので、参考になればということです。

調べてみると・・・国税庁のホームページに仔細が記載されていました。
下記は、参照要約です。
地租改正法は、明治6年7月、太政官布告第272号として公布され、地租改正条例・地租改正施行規則・地方官心得書、の三法により構成されます。
地租改正では、土地の所有者を確定し、土地の収益を基礎に地価を算出して、その3パーセント(明治10年に2.5パーセントに引き下げる)を、地租として課税することにし、納税は「税金」で行うことが定められました。

地券
地券 明治11年~12年(1878~79)
地租改正に際して、地主に交付された土地の権利証です。地券に表示された地価にもとづいて、その3パーセント(のち2.5パーセント)を、地租として課税しました。
これにより、新政府は毎年一定税率の地租収入が得られるようになりました。
現在より
2023-01-08 Sun
元旦「西方水かけまつり」 三春在西方
コロナ禍の関係で3年ぶりの開催となりました。
この”水かけ”の神事は、村に疫病が流行ったとき、水場(行井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病が治まります。
一村全滅にもなりかねなかった疫病が、霧のごとく消滅したことを村民皆で喜び「これは西方鎮守塩釜神社神霊の加護に相違ない」と、村民が「水祝いの行事」で水垢離(みずごり)をとって御礼参りをしたことに始まったと言われています。
もう一説、古老の説明によれば、西方城主千葉紀伊守が、配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。
この祭りは、大滝根川に沿った三春町西方地区の塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は小正月の十五日に行われていましたが、現在は正月元旦に行われています。
まず、前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。
続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、地区内の田んぼに入り桶やバケツで泥水を掻け合います。
水かけ祭の泥を、観客の方も浴びると、ご利益があり「自身の厄が落ちる」とされていますので、新年初めの厄払いに大勢の参拝者が訪れています。
尚、付近には駐車場がありません。
三春田園生活館「三春の里」駐車場をご利用ください。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
2022-11-30 Wed
鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記
太祖、征夷大将軍従三位大納言坂上田村麻呂より三十一代の末、田村右衛エ門隆信(船引舘主)の嫡子善内俊顕。
天正十六年六月、伊達政宗に随い常陸の佐竹義重、白川義親等と安積郡久保田に於いて合戦するも敗北となり単騎田村郡に帰還し鷹巣邑舘(たかのすむらたて)に居す。
其の後、文禄四年に至り本山修験(聖護院か?)となり般若院顕光と号す。慶長二年、卒す。
是より五代般若院清山周光般若院跡継、田中山讃州金毘羅大権現は軍中心願の依り慶長二年、当所謹請にして金毘羅様、金神様、不動様の三体ありと言い伝えがあり。
その後文政十一年金毘羅堂を再建せりという。
明治元年、王政維新の際、発布された神仏習合不相成御趣意(神仏離反・廃仏毀釈)に付き右(前記)三体を疎開して御堂を壊したという。
現在は一体で、之は昭和六年亀元翁北ノ内橋本喜平宅より戻せしなり 石段と石造の手洗い鉢一個を現存す。
字梅乃木作山頂の般若檀に無名の石碑あり、之は般若院般若坊を葬したという。
尚、前記五代般若院清山という法印故ありて上大越の修験喜明院に入夫に行き院家中絶す。
清山法印に弟あり善衛エ門という瀬山の橋本仁衛門方にいる聟(婿)となり、仁平と改名す。享保十一年十二月卒す。
此の人我が生家の断絶を嘆き男子を引き連れて来り、安達郡和田の岩角寺に遣り学問をなさしめ修験となし威徳院存光と称する。之によって院家再興せり。
之により姓を橋本という。
明和四年、方光(よしみつ)梅右衛門十八才となり北ノ内に分家せり。文政二年七月上京、前正別当権大僧都三僧祇法印賢光 天保十年七月。
嘉永五年十一月再度上京、若王子殿御直院となる。
明治二年御一新につき神主職琴平神社神主となり復姓し田村大和と号した後に清見と改む。明治五年二月、磐前縣より五番中学区鷹巣小学校校長を申し付けられる。
明治三年二月上京、品川神社神官小泉勝麿の門に入り神拝式奉幣式の伝授を受けて帰国。同年十二月家督相続神職を継ぐ。
同四年八月太政大臣の公布に依り全国一般神官神職の世襲を解かれ帰農の上民籍編入。
神職田村真紀、明治二十一年教導小講義に補され、明治四十一年社掌となる。
嫡子亀元翁、明治二十年より小学校教師、同三十一年より三春葉煙草専売局員、同三十四年、郡山地方裁判所職員、同三十六年縣蚕病予防史員を歴任す。
本宅の造築は何年頃か詳かならざれども凡そ三百年以前(令和余年記す)のものと推考する。
土蔵は明治十年頃、勇翁の新築也と伝之聞く、その後湿地の為大破に及び、昭和二十八年一月泰寿地上八尺通り石を以て改造せり。
以上は田村家の秘蔵並びに言い伝えを拝承に記して先祖代々の霊祭執行及び建立の記念とす。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
2022-07-02 Sat
先に歴史の話をさせていただいた中妻スズラン学級の神山様より、「中妻歴史を守る会」が昭和57年12月のまとめられた「小社・小祠乃調査」中妻文化愛を守る会発行の写しを拝領いたしました。
中を見ますと、中妻地区(鷹巣・沼澤・斎藤・西方)に残るそれぞれの氏神、屋敷神の祠が詳細に記載されていました。
正に先人が地域の歴史を子々孫々へつたへようとした貴重な証・調書・調べであります。
そして、神山様のご先祖に関する資料も添付されていました。
(1) 伊達天文の乱に際し、暗宗に覚した蒲倉相模守(修験大祥院か) の赦免及び買得地の知行を承認した伊達稙宗方三春城主田村好閑・隆顕・胤義の起請文。
(2) 同じく伊達天文の乱に際し、福原大蔵大輔のたっての懇望に任せ、暗宗に覚した蒲倉相模守の身体を安堵する旨を福原に伝えた伊達稙宗方田村隆顕の起請文。
2 通共に熊野牛王を用いているのが特徴である。
また、これらは、 東京大学資料編纂所が「仙道田村荘史」 の著者青山正方で収録した青山文書に含まれ、 その後原本の所在は不明であったが、 青山一族の神山家に当該文書2通が保存されていた。
塵壺の資料にさせていただきます。
ありがとうございます。
塵壺を発行しているご縁から、饅頭屋の私が高座より歴史のお話する理由は、故郷の歴史を知るということ 自分自身の足元を見る、自分自身を見る「照顧却下」と考えています。
昨今、子供の中で「自己肯定」する割合が低いとされていますが、このような三春のお話をすることによって三春に興味を持ってもらいそれらを自身につなげてもらえればいいなあと考えています。
最後に出席された方々のお願いとして、是非、家に帰ったら子供さん、そしてお孫さんに対してこういうお話をしていただいて、三春で生まれたこと、三春に縁がある事を通じて「どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない」「三春に生まれたことを誇れる」という自身の自己肯定を以て、成長の過程に少しでも寄与していただければと考えています。
「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
2022-02-21 Mon
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三春千葉氏
昨夜は、源頼朝による平家追討戦に於いてターニングポイントとなった佐藤浩市さん演じる上総介廣常、そして、岡本信人さん演じる下総国の千葉一族の中興の祖と言われる千葉常胤(ちば・つねたね)も重要な役割で出演していました。
千葉氏も上総氏も共に平将門に縁のある平氏一門です。
千葉氏といえば三春千葉氏の祖でもあります。
千葉氏は、鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に離散しますが、その一家が三春に住み着き、田村氏の配下となったと考えられています。
古の昔「西方の霧舘」と称された舘がありました。
戦国時代の天正年間、三春城主田村氏の構築した防御要の出城、いわゆる「田村四十八舘」の一舘で、その重臣千葉紀伊守(桓武平氏、後の坂東八平氏・関東八屋形の一つ下総千葉氏の末裔)が城主を務めた「西方舘」です。
西方霧舘の在る西方村は、三春城下の南部に位置し、大滝根川沿いの山麓にある西方霧舘址は、今でも寒暖の差が生じる時節には霧が立ち込め、「霧の舘」の幻想的な姿を彷彿とさせてくれます。
"中妻文化財を守る会"の案内板によれば、「東に大滝根川南西は急崖の要害の地で山裾にある"行井戸"より立昇る霧がこの城にたなびいて神霊を崇めて霧舘と称し、峯続きにある千葉氏の氏神である北辰妙見宮(尊攘王)が、この舘(城)の守護神であるという」と記されています。
現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされています。
千葉神社は、「通称・千葉の妙見様」と呼ばれ千葉氏の守護神、北辰妙見尊星王を主祭神として長保2年(1000年)に北斗山金剛授寺として中興開山されました。
千葉氏の祖・平良文が守護神として御尊体を迎え、嫡孫の平忠常に至り現在地に勧請されました。
西方村内にある「西方不動堂」は「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人の額には墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。
さらに、「乳付け観音」と呼ばれる馬頭観音堂も鎮座しています。この観音様は「馬産安全」「子孫繁栄」に霊験あらたかで、田村地方では小野の東堂山と並んで信仰され、かつての祭礼は旧三月十七日で、西方の各戸では、団子を持参して参拝者に「団子撒き」をしていました。
その祭礼は大変賑わっていたと伝えられ、御手洗の水に笹を浸して神前に供えておき、参拝者にこの笹と、小さな板に馬の走る焼き印を押して配ります。
これは、馬が丈夫に育つようにと、たてがみに結んでいたとされています。
また、仔馬が乳を飲みつけないときに参詣すると乳を飲むようになると伝わっています。
尚、堂の内外には江戸期三春の馬画名匠と云われた徳山研山の書かれた大絵馬をはじめ四十六面の親子絵馬が奉納されています。
毎年元旦に同地区で開催される、「西方水かけまつり」
古老の説明によれば、西方城主千葉紀伊守が、配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。
この祭りは、大滝根川に沿った三春町西方地区の塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は小正月の十五日に行われていましたが、現在は正月元旦に行われています。
まず、前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、地区内の田んぼに入り桶やバケツで泥水を掻け合います。
この水かけの神事は、村に疫病が流行ったとき、水場(行井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病が治まります。一村全滅にもなりかねなかった疫病が、霧のごとく消滅したことを村民皆で喜び「これは西方鎮守塩釜神社神霊の加護に相違ない」と、村民が「水祝いの行事」で水垢離(みずごり)をとって御礼参りをしたことに始まったと言われています。
2022-02-20 Sun
西方霧舘 北辰妙見尊星王宮
三春城下の南、旧西方村にある西方舘。
三春ダム展望台付近になりますが、三春城主戦国田村氏時代の防御要塞田村四十八舘の一つ西方舘千葉紀伊守の居城がありました。
千葉氏一党とその舘の守護神として峰続きの高台に鎮座しています。
祭日を、旧二月十八日にとして、作神様といって参拝しています。
現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされています。
千葉神社は、「通称・千葉の妙見様」と呼ばれ千葉氏の守護神、北辰妙見尊星王を主祭神として長保2年(1000年)に北斗山金剛授寺として中興開山されました。
千葉氏の祖・平良文が守護神として御尊体を迎え、嫡孫の平忠常に至り現在地に勧請されました。
千葉県の字にもなっている千葉氏でありますが、妙見信仰が関東地方に伝わったのは、天智天皇の666年から霊亀(716年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた帰化人を、関東地方に移住させたことで、文化の1つとして伝わったようであります。
千葉氏は、鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に離散しますが、その一家が三春に住み着き、田村氏の配下となったと考えられています。
2022-02-11 Fri
鷹巣「石の宮様・五龍神社」
鷹巣八雲神社の境内に、「石の宮様」と呼ばれ旧鷹巣領内総鎮守「大元帥明王」と共に村人の崇敬を集める石の社「鷹巣神社」があります。
由来は、平安時代である永保年間の頃、(1083年頃)。
鎮守府将軍陸奥守八幡太郎源義家公の奥州東征の折に、源氏の家臣鎌倉権五郎景政の休息した處ということで村人がその由緒をお祭りして「五郎権現」として祀ります。
後に別当等が「五龍」と改め「五龍大権現」としました。
明明治維新後の廃仏毀釈や鎮守に関する沙汰の折「五龍神社」と改めています。
明治四十四年十二月 田村真記
建久6年(1195)11月19日の条、「…鎌倉権五郎景政が在生に、伊勢大神宮の御殿二十年に一度の造り替えするとき、 かの心の御柱を伐採し、これを造立したてまつる。…景政は源家の忠士たり・・・・」 吾妻鏡より
社が小さな「石の宮様」の意味
昔は大木や巨岩、山など、特異な自然物に神が宿ると考えられおり、崇拝する対象のある神聖な場所に臨時で仮設の祭場を設けて、祈祷や祭事を行っていました。
時代は下がって、鎌倉後期ごろからその神聖な場所に神様を祀るところとして「やしろ」「みや」と呼ばれる社殿が造られるようになります。
これが現在全国にある寺社仏閣の社殿の成り立ちと考えられています。
石の宮様はその過程に於いての社であり、貴重な資料だと考えています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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