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三春物語493番「西方霧舘守護神北辰妙見尊星王宮」





西方霧舘 北辰妙見尊星王宮

三春城下の南、旧西方村にある西方舘。

三春ダム展望台付近になりますが、三春城主戦国田村氏時代の防御要塞田村四十八舘の一つ西方舘千葉紀伊守の居城がありました。

千葉氏一党とその舘の守護神として峰続きの高台に鎮座しています。




祭日を、旧二月十八日にとして、作神様といって参拝しています。

現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされています。

千葉神社は、「通称・千葉の妙見様」と呼ばれ千葉氏の守護神、北辰妙見尊星王を主祭神として長保2年(1000年)に北斗山金剛授寺として中興開山されました。

千葉氏の祖・平良文が守護神として御尊体を迎え、嫡孫の平忠常に至り現在地に勧請されました。

千葉県の字にもなっている千葉氏でありますが、妙見信仰が関東地方に伝わったのは、天智天皇の666年から霊亀(716年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた帰化人を、関東地方に移住させたことで、文化の1つとして伝わったようであります。
 
千葉氏は、鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に離散しますが、その一家が三春に住み着き、田村氏の配下となったと考えられています。

| ryuichi | 18:48 | comments (x) | trackback (0) | 🌸旧中妻村::西方 |
鷹巣「石の宮様・五龍神社」




鷹巣「石の宮様・五龍神社」

鷹巣八雲神社の境内に、「石の宮様」と呼ばれ旧鷹巣領内総鎮守「大元帥明王」と共に村人の崇敬を集める石の社「鷹巣神社」があります。

由来は、平安時代である永保年間の頃、(1083年頃)。







鎮守府将軍陸奥守八幡太郎源義家公の奥州東征の折に、源氏の家臣鎌倉権五郎景政の休息した處ということで村人がその由緒をお祭りして「五郎権現」として祀ります。

後に別当等が「五龍」と改め「五龍大権現」としました。








明明治維新後の廃仏毀釈や鎮守に関する沙汰の折「五龍神社」と改めています。


明治四十四年十二月 田村真記



建久6年(1195)11月19日の条、「…鎌倉権五郎景政が在生に、伊勢大神宮の御殿二十年に一度の造り替えするとき、 かの心の御柱を伐採し、これを造立したてまつる。…景政は源家の忠士たり・・・・」 吾妻鏡より







社が小さな「石の宮様」の意味

昔は大木や巨岩、山など、特異な自然物に神が宿ると考えられおり、崇拝する対象のある神聖な場所に臨時で仮設の祭場を設けて、祈祷や祭事を行っていました。
時代は下がって、鎌倉後期ごろからその神聖な場所に神様を祀るところとして「やしろ」「みや」と呼ばれる社殿が造られるようになります。

これが現在全国にある寺社仏閣の社殿の成り立ちと考えられています。

石の宮様はその過程に於いての社であり、貴重な資料だと考えています。








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣 |
寛政九丁己歳 御年貢割集事 奥州 三春藩之内 鷹巣村




寛政九丁己歳 御年貢割集事

一 石高六百九拾二石八斗入升


奥州 三春藩之内 鷹巣村








栗原新田の記載済








田部井、梶塚、滝田の役人名と、荒木氏の署名捺印




| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |
鷹巣村 総鎮守「大元帥明王」 明治維新により鷹巣神社と改称 由来書




鷹巣村 総鎮守「大元帥明王」 明治維新により鷹巣神社と改称 由来書

祭神 国常立命 (旧 大元帥明王)

由来
當社勧請之儀者 弘任十己亥年二月二十五日
磐城守山より奉還、同藩管内山中村神主柳沼市太夫神勤仕、己亥歳毎に営来
是即ち、一天泰平国家平穏之神事に御座候

その後、文明十七巳年、藩記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭の折に鷹巣村近郷より寄付方控左書綴奉するとの記しあり。





今般(明治三年頃)
王政御一新に付き、柳沼安芸方を明治二年に譲って以来、田村大和、そして、鷹巣村鷹林和泉の両神主を神勤仕して鷹巣神社頭往右勤請


明治三年 庚牛 鷹巣村 神主 田村大和 (威徳院賢晃改名、さらに大和を経て清見と再度改める)田村清見氏は鷹巣小学校初代校長

※明治新政府が神仏分離令を副布告した際の答弁書とおもわれます。











三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣 |
鷹巣の鎮守様の歴史について





鷹巣の鎮守様の歴史について

部落の鎮守「八雲神社」の右側、本殿の社の横の所より、山道を上り裏の小高い所に、先祖の方々が鎮守様として奉っていた社があります。

今も石の宮様とお呼びして、大勢の人がお参りをしております。

十坪ほどの広さの所に、間ロ二尺 奥行き四尺の総石造りのお宮が二社並びて祀られ、さらに周りに十三体の小さな祠が奉られています。





石のお宮に、奉られている神様は、

鷹巣神社、祭神 国之常立命『クニノトコタチノミコト」

五龍神社 祭神 大綿積見命『オオーワダッミノミコト」






神の名祥が板札に記されており、日本の神々の辞典に書き記すところによれば、「大綿積見命」とは、伊邪那岐神、伊邪那美神二神の御子で、家宅の守護神であり又農の神であると記されております。





「国之常立命』とは、神の名の国とは天に対する地の意味で、浮脂の如く漂よう水のに固まった所が十地となり、国土となり、その国をお守りする神であり、神世七代の第一代の神と記されています。

部落でこの神様を勧請建立し奉り始めた年代は、弘仁十年と記されて、『嵯峨天皇の時代」その後社を改築、石のお宮の裏の壁には文政五年九月吉日建立村惣氏子と刻まれ読むことが出来ます。







鷹巣村 総鎮守「大元帥明王」 明治維新により鷹巣神社と改称

祭神 国常立命 (旧 大元帥明王)

由来
當社勧請之儀者 弘任十己亥年二月二十五日
磐城守山より奉還、同藩管内山中村神主柳沼市太夫神勤仕、己亥歳毎に営来
是即ち、一天泰平国家平穏之神事に御座候

その後、文明十七巳年、藩記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭の折に鷹巣村近郷より寄付方控左書綴奉するとの記しあり。







今般(明治三年頃)
王政御一新に付き、柳沼安芸方を明治二年に譲って以来、田村大和、そして、鷹巣村鷹林和泉の両神主を神勤仕して鷹巣神社頭往右勤請


明治三年 庚牛 鷹巣村 神主 田村大和 (威徳院賢晃改名、さらに大和を経て清見と再度改める)田村清見氏は鷹巣小学校初代校長

※明治新政府が神仏分離令を副布告した際の答弁書とおもわれます。


然る處に、嘉元乙己年 再造立之遷宮式







十三体の小さな祠 詳細

・三渡神社 天牟良雲命 琴平様
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護社地
・天 神社 天穂日之命 鎮護所
・愛宕神社 火産霊命  鎮護所
・山神神社 大山津見命 鎮護所
・地 神社 埴山毘賣命 鎮護所
・荒 神社 久延比呂神 鎮護所
・地 神社 埴山毘売命 鎮護所
・戸隠之神社 磐戸別命 鎮護所
・神明社  撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 北之内
・稲荷神社 宇迦之御魂命 鎮護所
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護所
 威徳院賢晃 傳錦汝  右之通御座候也  明治三年 鷹巣村神主 田村大和(威徳院賢晃改名)








時代が明治となり、明治四年、政府は「神仏判然の令』を下し、神道国家の教化の政策を進めて、国中の神々の社格の律令制を確立し、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社等のよっての定めにより、部落の鎮守神としての、格付の申し渡しが有ったと記されています。

右の様な世代の流れの中で、鷹巣地区の石のお宮の鎮守様が、国の定めによる村社としては認められず、その筋より、鷹巣地区では、沼沢部落の鎮守様「春日神社」を沼沢と一緒に奉るように、との申し渡しがあったと記録に記されています。





この様な神社の移り変わりのなかで、鷹巣の部落では、部落単独の鎮守の建立の会議を重ね、字瀬山にお奉りされていた「牛頭天王様』を部落の鎮守と定め、泉田地区に社を建立し、明治九年牛頭天王を分霊して「八雲神社」と名祥祭神 は『健速須佐男命』

遷座遷宮して、同十年に奥の院本殿を建立、総工費七百拾四円参拾弐銭五厘をもって完一成と書き記されております。また、明治二十二年御輿を買入し代金 五十七円六十二銭と記され、以て村中の渡御を行なって、明治三十五年には猿田彦装束一通りを整えて、金額武十八円と記されています。








その後、昭和四年十月改築工事により、奥の院の覆社、拝殺の屋根を銅版葺に、改築され、工費二千八百八十五円也と記されております。
さらこ、昭和十四年参道の敷石布設工事を行なっており、以上のことが神社記録に記入されております。

瀬山地区の牛頭天王様の勧請は、七竈の首長橋本刑部左ェ門が、尾恊津島より勧請し奉ると記されていますが、尾恊津島の場所とは、愛知県津島市で、八雲神社の総本社は津島神社と推測されます。


津島神社の祭神は、『健速須佐男命』、「津島牛頭天王」社と奉じ、今日でも「津島の牛頭天王様」と尊称され、全国牛頭天王の総社として三千社の御分社があります。

この様に、鎮守様の歴史を知り、建立、改修工事にと、さらに本殿回りの彫刻のあまりにも見事な荘厳さ、拝殿の銅板葺屋根等の工事記録を見聞した時、先人たちが村中一丸となって完成された神殿造にまことに深い感銘を受けます。

昭和の時代になり、私たち(本年齢90)小学生の頃、春のお祭りの時には小学校四年生より以上の人たちによりお祭りの奉納剣道を行っていました。



鷹巣菖蒲作 影山勇氏文書 参照





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣 |
宇賀石様 周辺整備最終段階完了! 2021.11.18



宇賀石様の境内整備 



境内に残っていた桑の切り株を撤去しました。


沼之倉にある吉村管工所代表で、友人の吉村さんのご協力のもと懸案だった「桑の切り株」と撤去と宇賀神桜下の水路確保を完了することが出来ました。






桑の木は生命力が強く、切り株からも成長して、3年もすれば巨木になると云います。

このままほったらかしにしていくと、折角元のお姿に戻った宇賀神様の周辺が、また雑木林に戻る可能性もあります。

私もあと50年はどう足掻いても生きられません。

次世代へつなぐためには、切り株をどうしても撤去しなくてはなりません。






そして、もう一つ気の気がかりは湧き水の排水路です。

こちらも元の姿を取り戻した「宇賀神桜」が根腐れするとも限りません。


私たちが携われる今生の世に、思い切って整備しておかないと次世代へ繋げません。


宇賀神様とのご縁から、テレビ「ナニコレ珍百景」、そして、桜にまとった藤の巨弦及び桑の木伐採撤去、駐車場整備等の周辺整備の最終段階です。







お陰さまで無事作業が終了して、地主である鷹巣北ノ内橋本吉正様にご報告をしてまいりました。







ちょうど、昨今の新型コロナウイルス拡大・発生とと共にご縁をいただいた宇賀石様です。


橋本様や高屋敷稲荷神社様と懇意にしていただけるご縁をいただき、整備に携わった友人たちとの絆もなお一層深くなりました。


そして、コロナ禍の中で商売が順調に推移していることなど、感謝しかありません。


コロナの終息の兆しが見えた昨今に最終の作業完了して、私たちも気持ちが晴れ晴れしたところです。


今後とも、お車、そして足元に注意してお詣りくださいますようお願い申し上げます。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:12 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::宇賀石さま |
河野廣中、明治35年の衆議院選挙当選御礼の手紙です。




河野廣中、明治35年の衆議院選挙当選御礼の手紙です。

あて名は、鷹巣村旧名主だった橋本氏となっています。






粛啓 時下益御清穆慶賀之至ニ奉
存候 陳者今回之衆議院議員総選
挙二(罷)而者萬般御高配越辱
ふし、御尽力之結果 多数之得票
を以当選之栄を荷へ候段 深く奉
鳴謝候 右御禮申述度如斯 ニ御坐
候 敬具

三十五年八月(明治)

河野広中

橋本忠吉様

訳責 渡邉 日向







こちらは、河野廣中書「魔訶般若心経」の写経です。

天澤寺の本堂に掲げてあります。







面白いのは、当時城下大町にあった山中ホテルの社長が河野廣中さんの祐筆だったらしく、書の上手いのは全てこの山中さんの代筆だそうです。

何せ河野は寺子屋をクビになってる悪ガキでしたので読み書きはからっきしだったと言う逸話が残っています。

尚、晩年は禅宗に帰依し、晩年の実筆揮毫のほとんどが、禅宗の和尚さんの書らしく記されています。





三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂


| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::鷹巣組頭橋本家文書 |