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鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記
  
  鷹巣北ノ内 田村家略系 田村泰寿書掛け軸 昭和28年記

太祖、征夷大将軍従三位大納言坂上田村麻呂より三十一代の末、田村右衛エ門隆信(船引舘主)の嫡子善内俊顕。

天正十六年六月、伊達政宗に随い常陸の佐竹義重、白川義親等と安積郡久保田に於いて合戦するも敗北となり単騎田村郡に帰還し鷹巣邑舘(たかのすむらたて)に居す。

其の後、文禄四年に至り本山修験(聖護院か?)となり般若院顕光と号す。慶長二年、卒す。

是より五代般若院清山周光般若院跡継、田中山讃州金毘羅大権現は軍中心願の依り慶長二年、当所謹請にして金毘羅様、金神様、不動様の三体ありと言い伝えがあり。

その後文政十一年金毘羅堂を再建せりという。

明治元年、王政維新の際、発布された神仏習合不相成御趣意(神仏離反・廃仏毀釈)に付き右(前記)三体を疎開して御堂を壊したという。

現在は一体で、之は昭和六年亀元翁北ノ内橋本喜平宅より戻せしなり 石段と石造の手洗い鉢一個を現存す。

字梅乃木作山頂の般若檀に無名の石碑あり、之は般若院般若坊を葬したという。

尚、前記五代般若院清山という法印故ありて上大越の修験喜明院に入夫に行き院家中絶す。

清山法印に弟あり善衛エ門という瀬山の橋本仁衛門方にいる聟(婿)となり、仁平と改名す。享保十一年十二月卒す。

此の人我が生家の断絶を嘆き男子を引き連れて来り、安達郡和田の岩角寺に遣り学問をなさしめ修験となし威徳院存光と称する。之によって院家再興せり。

之により姓を橋本という。


明和四年、方光(よしみつ)梅右衛門十八才となり北ノ内に分家せり。文政二年七月上京、前正別当権大僧都三僧祇法印賢光 天保十年七月。

嘉永五年十一月再度上京、若王子殿御直院となる。

明治二年御一新につき神主職琴平神社神主となり復姓し田村大和と号した後に清見と改む。明治五年二月、磐前縣より五番中学区鷹巣小学校校長を申し付けられる。

明治三年二月上京、品川神社神官小泉勝麿の門に入り神拝式奉幣式の伝授を受けて帰国。同年十二月家督相続神職を継ぐ。

同四年八月太政大臣の公布に依り全国一般神官神職の世襲を解かれ帰農の上民籍編入。

神職田村真紀、明治二十一年教導小講義に補され、明治四十一年社掌となる。


嫡子亀元翁、明治二十年より小学校教師、同三十一年より三春葉煙草専売局員、同三十四年、郡山地方裁判所職員、同三十六年縣蚕病予防史員を歴任す。

本宅の造築は何年頃か詳かならざれども凡そ三百年以前(令和余年記す)のものと推考する。

土蔵は明治十年頃、勇翁の新築也と伝之聞く、その後湿地の為大破に及び、昭和二十八年一月泰寿地上八尺通り石を以て改造せり。

以上は田村家の秘蔵並びに言い伝えを拝承に記して先祖代々の霊祭執行及び建立の記念とす。




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鷹巣「石の宮様・五龍神社」




鷹巣「石の宮様・五龍神社」

鷹巣八雲神社の境内に、「石の宮様」と呼ばれ旧鷹巣領内総鎮守「大元帥明王」と共に村人の崇敬を集める石の社「鷹巣神社」があります。

由来は、平安時代である永保年間の頃、(1083年頃)。







鎮守府将軍陸奥守八幡太郎源義家公の奥州東征の折に、源氏の家臣鎌倉権五郎景政の休息した處ということで村人がその由緒をお祭りして「五郎権現」として祀ります。

後に別当等が「五龍」と改め「五龍大権現」としました。








明明治維新後の廃仏毀釈や鎮守に関する沙汰の折「五龍神社」と改めています。


明治四十四年十二月 田村真記



建久6年(1195)11月19日の条、「…鎌倉権五郎景政が在生に、伊勢大神宮の御殿二十年に一度の造り替えするとき、 かの心の御柱を伐採し、これを造立したてまつる。…景政は源家の忠士たり・・・・」 吾妻鏡より







社が小さな「石の宮様」の意味

昔は大木や巨岩、山など、特異な自然物に神が宿ると考えられおり、崇拝する対象のある神聖な場所に臨時で仮設の祭場を設けて、祈祷や祭事を行っていました。
時代は下がって、鎌倉後期ごろからその神聖な場所に神様を祀るところとして「やしろ」「みや」と呼ばれる社殿が造られるようになります。

これが現在全国にある寺社仏閣の社殿の成り立ちと考えられています。

石の宮様はその過程に於いての社であり、貴重な資料だと考えています。








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寛政九丁己歳 御年貢割集事 奥州 三春藩之内 鷹巣村




寛政九丁己歳 御年貢割集事

一 石高六百九拾二石八斗入升


奥州 三春藩之内 鷹巣村








栗原新田の記載済








田部井、梶塚、滝田の役人名と、荒木氏の署名捺印




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鷹巣村 総鎮守「大元帥明王」 明治維新により鷹巣神社と改称 由来書




鷹巣村 総鎮守「大元帥明王」 明治維新により鷹巣神社と改称 由来書

祭神 国常立命 (旧 大元帥明王)

由来
當社勧請之儀者 弘任十己亥年二月二十五日
磐城守山より奉還、同藩管内山中村神主柳沼市太夫神勤仕、己亥歳毎に営来
是即ち、一天泰平国家平穏之神事に御座候

その後、文明十七巳年、藩記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭の折に鷹巣村近郷より寄付方控左書綴奉するとの記しあり。





今般(明治三年頃)
王政御一新に付き、柳沼安芸方を明治二年に譲って以来、田村大和、そして、鷹巣村鷹林和泉の両神主を神勤仕して鷹巣神社頭往右勤請


明治三年 庚牛 鷹巣村 神主 田村大和 (威徳院賢晃改名、さらに大和を経て清見と再度改める)田村清見氏は鷹巣小学校初代校長

※明治新政府が神仏分離令を副布告した際の答弁書とおもわれます。











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鷹巣の鎮守様の歴史について





鷹巣の鎮守様の歴史について

部落の鎮守「八雲神社」の右側、本殿の社の横の所より、山道を上り裏の小高い所に、先祖の方々が鎮守様として奉っていた社があります。

今も石の宮様とお呼びして、大勢の人がお参りをしております。

十坪ほどの広さの所に、間ロ二尺 奥行き四尺の総石造りのお宮が二社並びて祀られ、さらに周りに十三体の小さな祠が奉られています。





石のお宮に、奉られている神様は、

鷹巣神社、祭神 国之常立命『クニノトコタチノミコト」

五龍神社 祭神 大綿積見命『オオーワダッミノミコト」






神の名祥が板札に記されており、日本の神々の辞典に書き記すところによれば、「大綿積見命」とは、伊邪那岐神、伊邪那美神二神の御子で、家宅の守護神であり又農の神であると記されております。





「国之常立命』とは、神の名の国とは天に対する地の意味で、浮脂の如く漂よう水のに固まった所が十地となり、国土となり、その国をお守りする神であり、神世七代の第一代の神と記されています。

部落でこの神様を勧請建立し奉り始めた年代は、弘仁十年と記されて、『嵯峨天皇の時代」その後社を改築、石のお宮の裏の壁には文政五年九月吉日建立村惣氏子と刻まれ読むことが出来ます。







鷹巣村 総鎮守「大元帥明王」 明治維新により鷹巣神社と改称

祭神 国常立命 (旧 大元帥明王)

由来
當社勧請之儀者 弘任十己亥年二月二十五日
磐城守山より奉還、同藩管内山中村神主柳沼市太夫神勤仕、己亥歳毎に営来
是即ち、一天泰平国家平穏之神事に御座候

その後、文明十七巳年、藩記山中村神主柳沼玄蕃、神人柳沼山ノ守、同民部代則、祭の折に鷹巣村近郷より寄付方控左書綴奉するとの記しあり。







今般(明治三年頃)
王政御一新に付き、柳沼安芸方を明治二年に譲って以来、田村大和、そして、鷹巣村鷹林和泉の両神主を神勤仕して鷹巣神社頭往右勤請


明治三年 庚牛 鷹巣村 神主 田村大和 (威徳院賢晃改名、さらに大和を経て清見と再度改める)田村清見氏は鷹巣小学校初代校長

※明治新政府が神仏分離令を副布告した際の答弁書とおもわれます。


然る處に、嘉元乙己年 再造立之遷宮式







十三体の小さな祠 詳細

・三渡神社 天牟良雲命 琴平様
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護社地
・天 神社 天穂日之命 鎮護所
・愛宕神社 火産霊命  鎮護所
・山神神社 大山津見命 鎮護所
・地 神社 埴山毘賣命 鎮護所
・荒 神社 久延比呂神 鎮護所
・地 神社 埴山毘売命 鎮護所
・戸隠之神社 磐戸別命 鎮護所
・神明社  撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 北之内
・稲荷神社 宇迦之御魂命 鎮護所
・熊野神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 鎮護所
 威徳院賢晃 傳錦汝  右之通御座候也  明治三年 鷹巣村神主 田村大和(威徳院賢晃改名)








時代が明治となり、明治四年、政府は「神仏判然の令』を下し、神道国家の教化の政策を進めて、国中の神々の社格の律令制を確立し、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社等のよっての定めにより、部落の鎮守神としての、格付の申し渡しが有ったと記されています。

右の様な世代の流れの中で、鷹巣地区の石のお宮の鎮守様が、国の定めによる村社としては認められず、その筋より、鷹巣地区では、沼沢部落の鎮守様「春日神社」を沼沢と一緒に奉るように、との申し渡しがあったと記録に記されています。





この様な神社の移り変わりのなかで、鷹巣の部落では、部落単独の鎮守の建立の会議を重ね、字瀬山にお奉りされていた「牛頭天王様』を部落の鎮守と定め、泉田地区に社を建立し、明治九年牛頭天王を分霊して「八雲神社」と名祥祭神 は『健速須佐男命』

遷座遷宮して、同十年に奥の院本殿を建立、総工費七百拾四円参拾弐銭五厘をもって完一成と書き記されております。また、明治二十二年御輿を買入し代金 五十七円六十二銭と記され、以て村中の渡御を行なって、明治三十五年には猿田彦装束一通りを整えて、金額武十八円と記されています。








その後、昭和四年十月改築工事により、奥の院の覆社、拝殺の屋根を銅版葺に、改築され、工費二千八百八十五円也と記されております。
さらこ、昭和十四年参道の敷石布設工事を行なっており、以上のことが神社記録に記入されております。

瀬山地区の牛頭天王様の勧請は、七竈の首長橋本刑部左ェ門が、尾恊津島より勧請し奉ると記されていますが、尾恊津島の場所とは、愛知県津島市で、八雲神社の総本社は津島神社と推測されます。


津島神社の祭神は、『健速須佐男命』、「津島牛頭天王」社と奉じ、今日でも「津島の牛頭天王様」と尊称され、全国牛頭天王の総社として三千社の御分社があります。

この様に、鎮守様の歴史を知り、建立、改修工事にと、さらに本殿回りの彫刻のあまりにも見事な荘厳さ、拝殿の銅板葺屋根等の工事記録を見聞した時、先人たちが村中一丸となって完成された神殿造にまことに深い感銘を受けます。

昭和の時代になり、私たち(本年齢90)小学生の頃、春のお祭りの時には小学校四年生より以上の人たちによりお祭りの奉納剣道を行っていました。



鷹巣菖蒲作 影山勇氏文書 参照





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 旧中妻村::鷹巣 |
河野廣中、明治35年の衆議院選挙当選御礼の手紙です。




河野廣中、明治35年の衆議院選挙当選御礼の手紙です。

あて名は、鷹巣村旧名主だった橋本氏となっています。






粛啓 時下益御清穆慶賀之至ニ奉
存候 陳者今回之衆議院議員総選
挙二(罷)而者萬般御高配越辱
ふし、御尽力之結果 多数之得票
を以当選之栄を荷へ候段 深く奉
鳴謝候 右御禮申述度如斯 ニ御坐
候 敬具

三十五年八月(明治)

河野広中

橋本忠吉様

訳責 渡邉 日向







こちらは、河野廣中書「魔訶般若心経」の写経です。

天澤寺の本堂に掲げてあります。







面白いのは、当時城下大町にあった山中ホテルの社長が河野廣中さんの祐筆だったらしく、書の上手いのは全てこの山中さんの代筆だそうです。

何せ河野は寺子屋をクビになってる悪ガキでしたので読み書きはからっきしだったと言う逸話が残っています。

尚、晩年は禅宗に帰依し、晩年の実筆揮毫のほとんどが、禅宗の和尚さんの書らしく記されています。





三春城下真照寺参道 おたりまんじゅう 三春昭進堂


| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 旧中妻村::鷹巣 |
「続埋木」(ゾクウモレギ) 今泉恒丸著 柿壷蔵版



「続埋木」(ゾクウモレギ) 今泉恒丸著 柿壷蔵版



「参考にしてくださいと」鷹巣の歴史家橋本史紀様より、先祖伝来の蔵書である貴重な古書をお預かりしました。


今泉恒丸(今泉与右衛門) 雅号 石巌山人 葛斎 

宝暦元年(1751年)、三春藩領常葉中町(現:福島県田村市常葉町)出身で、父親は三春藩の土着給人今泉楢右衛門

今泉家は、三春城主田村清顕の重臣橋本刑部少輔貞綱(顕徳)の嫡男で、今泉(現船引町今泉)、後に常葉で給人格(食録100石)とする信綱(今泉岡右衛門)の末裔と伝えられています。







恒丸は、小林一茶と交流を深め、浅草の札差「井筒屋」五代目で俳人夏目成美の主催する成美亭に出向いて歌仙(連句)を開催していたようです。

恒丸は52歳の時に他所の奥方だった女流俳人もと女(恒丸没後、京都で髪をそり、素月尼と改名)と駆け落ちして江戸表へ出ます。

下総、常陸地方で四千人を超える門下生を従えたともいわれています。


今泉恒丸と素月松尾芭蕉の次世代では、夫婦で最も著名な俳人でした。



先に史紀さんから頂戴した『鴛鴦(えんおう) 俳人恒丸と素月』(歴史春秋社)矢羽勝幸・二村博共著にも詳しく記載。








寛政10年(1798年)、恒丸が、会津、江戸、名古屋を経て大坂まで旅をした折の記念句集。 寛政11年(1799年)、刊行。


如月の末高田なる二竹庵のあるじをとふに、かしらいたきとて臥ながら病る身にほかほか来たり花の風といゝ出、心よげに笑ひかたる。
扨とゞむるまゝに春も暮ん頃、別れを告て下つけの國にこゆ。
卯月の五日ばかり黒かミ山の奥にて

  夏霧に打濡て深山ざくら哉










笠はほつれて面を焦し草の枕も熱くるしきに何くれとなくつかれしを、むさしの成美おふぢがいたハるにいこひける。
それの別荘はかつしかといふ處にありてすミだの川風吹こゆるに夏も紙衣のほしきまでなり。

蓮のさくはヅミにうつる嚏かな 成美

石にからりと春せミの殻 恒丸

成美は、俳人夏目成美のことで、浅草蔵前の札差で、通称「井筒屋八郎右衛門」






三春の俳人平田掬明(三春城下荒町 平田治右衛門俊雅) 天保2年(1831年)没、83歳




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


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