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三春物語108番 西方「水かけまつり」
 

西方「水かけまつり」泥かけ祭り
大滝根川に沿った三春町西方地区の塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、毎年元旦に行われている行事です。

西方地内に伝わる三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は15日に行われていましたが、現在は元旦に行われています。
この祭りは、バケツで激しく水をかけ合い、無病息災・子孫繁栄・五穀豊穣を祈願する「みそぎ」の行事です。
神事は、村に疫病が流行ったとき水場(井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病がおさまり一村全滅にもなりかねない 伝染病が霧のごとく消滅した喜びに、村人達は「これは鎮守塩釜 神霊の加護に相違ない」と感じて陸前の本社で行っている、水祝い の行事で水垢離(みずごり)をとったことに始まったと言われています。



また、天正年間(1573~1591)三春城にあった田村氏の武将として名をはせた田村四十八舘で、「霧舘」と呼ばれた「西方舘」城主千葉紀伊守が、与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。



まず、前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、桶やばけつで水をかけあいます。
井戸水はたちどころになくなるため、田の泥水まで汲み出し、前後の判別 のつかないほど泥まみれの者も出てきます。
やがて、区長の合図で止め、「万歳三唱」して終了します。
水かけまつりの本義は、若者仲間の婚姻承認の祝福であり、氏子のひとつの試練で、新しい年を迎えての厄払い、五穀豊穣、村内安全の祈願などが習合したものと思われる。



村内にある「西方不動堂」です。
この不動様は、「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人のひたいには墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。

また、「ちちつけ観音」と呼ばれる観音様も鎮座し、祭礼に配られる「走る馬」の焼き印を押した小板は仔馬のたてがみに結ぶとその馬が丈夫に育つといわれています。
尚、「ちちつけ観音」とは、仔馬が乳を飲みつけないときに参詣すると乳を飲むようになる。




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| ryuichi | 04:43 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::西方 |
三春物語110番 西方御前滝「機織御前」
御前滝の機織御前

三春城下南西を流れる大多鬼川流域には、河にまつわる様々な伝承が残されている。

不動滝の下流、西方郷は、戦国田村時代は、千葉紀伊守が駐屯した田村四十八舘西方舘があり、西方舘毎年正月元旦に奇祭「西方の水かけ祭り」挙行されている。
その集落を流れる大多鬼川の畔に御前滝と呼ぶ滝がある。



御前滝は、昔は滝音がすさまじく、せまい峡谷にこだまして響き、道行く人たちも普通の声では話ができないほどであった。この御前滝には大蛇が住んでいて、滝つぼに石を投げ込むと一天にわかに掻き曇って大雨が振り出すと言われていた。
 

ここには機織御前の伝説がある。

昔、オトヨという娘が隣村から嫁に来たが、機織ができなかった。縫い物や機織は女として当然の仕事であったが、オトヨは山仕事は男勝りで力もあったものの縫い物は不得手でそのことが心配であった。
 
そのうちに、村の祭りの日のためにどうしても機織をしなければならない日が来て、姑に「あねよ、うちでも山仕事も片付いたから機を織ってくんねぇか」と言いつけられた。

オトヨはハイと返事をしたものの、できるものでもなく、2日2晩悩み続け3日目の夕方、とうとうハタンを背負ったままこの滝つぼに身を投げてしまった。

 その後、村人がそこを通ると滝の中からかすかに機織の音が聞こえるようになった。 村人は哀れなオトヨに同情して滝の岩の上にお堂を建て、供養をした。それから機織の音は聞こえなくなったという。
 
のちに機織・縫い物の神として、若い女はオサや褄などを供えて信仰したという。滝は御前滝と呼ばれるようになった。



| ryuichi | 06:21 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::西方 |