2024-11-27 Wed
郷社下枝鎮守 菅布祢神社
下枝郷社 菅布禰神社 由来書
鎮座地 郡山市中田町下枝字長久保421
祭神 猿田毘古命
祭日 例大祭十月二十八日 春祭四月二十八日 新嘗祭十一月二十三日
当社は、人皇五十代桓武大皇の御宇延暦二十年、坂ノ上田村麻呂勅命を奉じ征夷大将軍となり、東征下向の砌(みぎり)り、
正三位藤原朝臣遠藤斉月郷従事し給い、勢州(伊勢国)より猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮「椿大神社」の御分霊を奉じ、
この地に戦勝祈願のために小祠を建て奉斎給いて、田村南郷の鎮護に当り太元惣社管船大明神と称し管船大神宮の神号を賜り
明治維新管布禰神社と改称 磐前県に至るまで郷社に列せられは、明治9年改県の際制限されて下列
昭和3年、郷社となり、
戦前の当社三大祭には、県知事共進使として神饌幣料を奉じる格式ある神社なり
御祭神は天孫降臨のとき、国ツ神として道先案内をして功を立て神とし育名で、武運長人、農耕守護、交通安全の祖神として崇敬され 昔より庶民に親まれている。
三春領下にあり藩公の崇敬も厚く 正保、元禄、寛保のころ 藩公の寄進奉納等数々あり、現本殿は元文二歳の改築にて 金穀の寄進あり その後度々の修復もまた同様なり
正保年間、藩主秋田俊季公、田村将軍の事績追懐のため鶴石山に遊びし折り、当社に参拝
帰路また社殿前に至れるとき大雷雨に逢い、これ龍神の怒りなりと報賽のために「双龍之旗」二簱を奉納せしという
また東方御舘山城主橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂の後裔)の武器数種あり、
安永二年、藩公安倍(秋田)千季、同内の奉納懸額あり
明治四十三年拝殿改築
昭和二年社務所新築
昭和三十四年本殿銅板葺き替え
昭和六十一年幣殿拝殿営繕銅板葺き替え
又、一の鳥居も新築
下枝八景「社森の月」
“伏し拝む 神の姿は鏡なり 影さす月ぞ 己がまごころ”
宮司 植田義信
副宮司 植田瑞男
祢宣 植田倉夫
旧御舘村下枝には、後に云「田村四十八舘」の三春城主田村氏の一門、の居舘「下枝上舘」がありました。
尚、橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善) の名前が見えます。
田村庄司田村家一門とも考えられます。
後に、三春城主に平姓田村義顕公が築城して田村庄及び小野保を領地としています。
当時の田村氏は、相馬氏、岩城氏、佐竹氏、蘆名氏などの仙道進出を図る諸氏に囲まれて四面楚歌的な苦しい立場でしたが、天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻してきます。
隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。
当時の下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされて田牟田亮から追放されています。
後々にも田村領城郭要害絵図には、下枝舘橋本刑部の名前が記載されています。
城郭も本丸となる郭の西手は切り立った断崖となっています。
東側は尾根が幾筋か伸びておりその上に郭の中心となる平場が段々に普請された丸を持つ大きな城になっています。
1589 年 (天正17年) 岩城常隆下枝城攻め
天正17年7月3日、岩城常隆は下枝城 (郡山市中田町) の攻略に掛ります。
田村、伊達勢による迎撃により、攻めあぐね形勢を立て直そうと引き上げる岩城勢を、田村、伊達勢が追撃します。
この当時、小野城主田村清康は、主家田村家に離反して相馬勢に組しており、相馬氏組する岩城勢として、殿を勤め、城主清康以下多数の小野勢がが討ちとられます。
翌4日にはその清康と郡司某 (飯豊城主郡司敏良か?)等の首級が注進書状と共に会津黒川城にいる政宗のもとに届けられている。
岩城常隆は、 天正17年4月中頃に小野に進出し 4月21日には鹿股城 (神俣駅北西)を落城させ下旬には大越城を占領し、6月9日には伊達の援軍も籠もった門沢城 (船引町門沢)を落城させています。
三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-11-21 Thu
木目沢鎮守「三渡神社」では木目沢三匹獅子舞が伝承。
口伝によれば平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征討でこの地を訪れた際、凶作・疫病で民衆が疲弊している様子を見て、厄難退散祈願の為に村の子供達に獅子舞を教えたことが始まりであると言われています。
境内には、八雲神社、そして、稲荷神社があります。
講主は、代々木目沢家が継承されています。
「木目沢表舘(このめざわおもてたて)」
木目沢式部内蔵之助 田村家御一門中御家門方
内蔵之助の一男善次郎。 田村家宿老田村月斎末裔
孫大槻内蔵之助。(田母神氏旧記)
出城として、「明神館(みょうじんたて)」木目沢善五郎顕継(田村月斎の7男)の居館
そして、「岩入館(いわいりたて)」下方主膳の居館などがありました。
木目沢傳重郎氏の名前も見えます。
三春城下御菓子 三春昭進堂
2024-11-04 Mon
九字供養塔 嘉永元年
申年八月建立 講中十一人
牛縊本郷字亀石地内 延命地蔵尊山内(郡山市中田町牛縊本郷)
テレビ番組「本当にあった怖い話・本怖クラブ」の中でMC稲垣吾郎さんが子供たちと一緒に護字切り!といって何か呪文を唱えています。
その元になっているのが「九字」の呪文です。
これは真言宗の僧侶や修験道の山伏などが悪魔怨敵を退散させ我が身を護るための禁呪の秘法とされています。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・行」の九文字を唱えながら横縦交互に指頭で空中に描きながら九字を切ると伝わっています。
牛縊本郷字亀石地内に於いても明治の末ごろまでは伝染病などが流行する時に法印師によって祈祷を行い「九字」を唱えて各戸を巡回して悪行除祈を行っていたとのことです。
他ではなかなか見ることが出来ない「九字供養石塔」です。
亀石延命地蔵堂には馬頭観音石塔や廿十三夜供養塔、庚申塔なども安置されています。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
2023-12-21 Thu
「五老山 十三塚」 『藤葉栄衰記』より
岩代国・岩瀬郡須賀川城主の娘が、 政略結婚の犠牲者として、須賀川の新領主二階堂為氏の新妻となったが父と夫の不和のため破鏡のなげきをみることとなり、それを苦にして新妻は自害した。
その後幽霊となって、 毎夜夫のまくらもとに立った。修験行者·陰陽師·諸山の名僧などの加持も、 すべて効果がない。
そのうち為氏も病気になったが、これまた基現の祈祷も、 医者の治療も、一向にききめがない。
そこで、神として頼ることになり、 神社をたててこれを姫宮と称した。
いっぽう菩提を弔うため、 追善の大法要をおこなった。
高台に13の塚をついて、 卒塔婆をたて、その塚のまえで、後の長禄寺開山月窓和尚を請じて供養したという。
そこで幽霊も出なくなり、 為氏の病気も全快した。
上記は、文安4年(1447) のこととされ、 神社は翠ヶ丘公園内の五老山南側にある「三千代姫堂」、そして、十三塚は昭和 28年頃に五老山の林中で6基が発見されています。
なお、同公園内に「十三塚坂」があり、その説明板には「西側の林には、須賀川領主であった二階堂家(天正17年[1589]、 伊達政宗に滅ぼされた)追善供養止めの13の土盛りの塚があった。
現在は雑木に覆われ、場所も判然としない」 とし記されています。
追伸、五老山の由来:天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が、この場所で和睦交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったという。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2023-09-16 Sat
先ごろ発行した「塵壺9月号」のコラム欄「御春輩・田村四十八舘小野保」に記載した小野六郷衆、金田式部少輔・東方与力五十騎。
江戸時代に書かれた軍記物を参照して記載しましたが、地元の多い苗字や他の資料に記された、小塩舘主会田遠江守重信 赤沼切戸館主会田遠江頭、菖蒲谷会田左馬助と記載のある通り「会田氏」ではないかと考えています。
小野与力衆
田村兵部人政顕
郡司豊前守敏良 飯豊鴨カ舘の舘主 愛姫侍従おさきの父
天正17年7月3日下枝城攻の帰路討死
郡司雅楽頭敏貞 郡司豊前守の嫡子 天正17年7月3日下枝城攻めの帰路討死
猪狩中務人親満
野内伊予守正兼
城下衆
高山蔵人助清実
会田遠江守重信 小塩舘主 天正11年赤沼無量寺の仏像を修理し中興開基といわれる
吉田越後守信綱
吉田将監 包貴
今泉山城守行隆 天正17年5月19日門沢の戦いに活躍、飯豊源松山洞円寺の開基
熊谷下野守直光
神又久四郎房親 鹿股(神俣)城主
大越紀伊守信貫 大越城主
阿生田舘主 大竹築後守秀延
大倉舘主 先崎主水介徳近 塩釜神社の御幣を運んだとされる。
城代衆(三十六騎衆)
春山隼人佐忠顕
西牧館主 西牧帯刀 貞苗 山神 小野城代衆(三十六騎衆)
大江左衛門尉輝氏
阿部筑前守忠英
逸見刑部人清高
田母神十郎正堯
草野加賀守直常 塩庭 草野舘主
村上掃部頭義高
村上河内守忠総(信)
二瓶主膳 豊房 槻木内舘主
吉田躑躅 直寛
吉田石見守信弘
吉田宮内少輔赴(元)久
中条越前守光国
国分左京太夫信通
根本若狭守泰重
富沢丹波守匡次
中野道満(入道)景安 皮篭石舘主
宗方左近 康久
宗方内蔵介定英
荻野杢之介泰時
大塚尾張守経玄
鈴木左衛門忠暁
鈴木外記 清則
塩田監物 屋政
草野大学 清光
宗方丹波守時広
吉田入道 直寛
佐藤五郎 常成
郡司内膳 道綱 塩釜神社の御幣を運んだとされる。
郡司玄蕃 屋満
郡司大膳 頼行
先崎周防守常可
宗方弾正 家継
村上源一郎義房
吉田和泉守光広
小野町史参照
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
2023-06-12 Mon
以前、ある食事会で隣席でご一緒させていただいた方ですが、奥様の旧姓が海老名で級は会津藩湖南奉行そして戊会津戦争の折には白川口軍事奉行として白河城攻防戦の指揮官だった、海老名衛門季久の末裔でした。会津藩家老海老名家を最近調べていたもので、あまりの御縁に驚きました。
白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた東北諸藩の列藩同盟戦没者を供養した石塔があり、その傍らに会津藩軍事奉行「海老名衛門季久慰霊碑」があります。
海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行です。
嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。
海老名衛門は、会津藩では公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。
最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものです。
現地案内板参照
長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。
後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。
戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。
会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。
後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。
2023-04-27 Thu

大越城址 山麓に鎮座する大越見渡神社
案内板によれば・・・
大越見渡神社 火産霊命
見渡神社は、南北朝時代の興国二年(一三四二年)の鎮座で、守永親王を奉じた北畠顕信卿によってお祀りされた田村郡内の見渡神社四十数社の中で最も古い歴史を持っている。
その後大越城主が鳴神城に城を移した永禄九年(一五六六年)に下大越柏原から現在地にうつされ、貞享二年(一六八五年)には、本殿が改築された。
愛宕神社
見渡神社境内に鎮座する愛宕神社は、平安時代初期の延暦三年(七八四年)の鎮座といわれ、大越町では、最も古い神社であると伝えられる。
この境内は、見渡神社が現在地に遷座されるまでは愛宕神社の神域であった。

よく手入れされた境内
立派な拝殿が建立されています。

よく見ると、屋根の桁を「餓鬼」が支えています。
お洒落な装飾ですね!
また、拝殿には宮司様直筆の干支の絵馬画家有られていました。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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