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「五老山 十三塚」 『藤葉栄衰記』より




「五老山 十三塚」 『藤葉栄衰記』より

岩代国・岩瀬郡須賀川城主の娘が、 政略結婚の犠牲者として、須賀川の新領主二階堂為氏の新妻となったが父と夫の不和のため破鏡のなげきをみることとなり、それを苦にして新妻は自害した。

その後幽霊となって、 毎夜夫のまくらもとに立った。修験行者·陰陽師·諸山の名僧などの加持も、 すべて効果がない。

そのうち為氏も病気になったが、これまた基現の祈祷も、 医者の治療も、一向にききめがない。

そこで、神として頼ることになり、 神社をたててこれを姫宮と称した。

いっぽう菩提を弔うため、 追善の大法要をおこなった。

高台に13の塚をついて、 卒塔婆をたて、その塚のまえで、後の長禄寺開山月窓和尚を請じて供養したという。

そこで幽霊も出なくなり、 為氏の病気も全快した。






上記は、文安4年(1447) のこととされ、 神社は翠ヶ丘公園内の五老山南側にある「三千代姫堂」、そして、十三塚は昭和 28年頃に五老山の林中で6基が発見されています。

なお、同公園内に「十三塚坂」があり、その説明板には「西側の林には、須賀川領主であった二階堂家(天正17年[1589]、 伊達政宗に滅ぼされた)追善供養止めの13の土盛りの塚があった。

現在は雑木に覆われ、場所も判然としない」 とし記されています。






追伸、五老山の由来:天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が、この場所で和睦交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったという。




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| ryuichi | 03:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
小野六郷衆 赤沼切戸館主会田遠江頭、菖蒲谷会田左馬助 




先ごろ発行した「塵壺9月号」のコラム欄「御春輩・田村四十八舘小野保」に記載した小野六郷衆、金田式部少輔・東方与力五十騎。

江戸時代に書かれた軍記物を参照して記載しましたが、地元の多い苗字や他の資料に記された、小塩舘主会田遠江守重信 赤沼切戸館主会田遠江頭、菖蒲谷会田左馬助と記載のある通り「会田氏」ではないかと考えています。



  小野与力衆

田村兵部人政顕

郡司豊前守敏良  飯豊鴨カ舘の舘主 愛姫侍従おさきの父 
天正17年7月3日下枝城攻の帰路討死

郡司雅楽頭敏貞 郡司豊前守の嫡子 天正17年7月3日下枝城攻めの帰路討死

猪狩中務人親満

野内伊予守正兼

  城下衆
高山蔵人助清実

会田遠江守重信 小塩舘主 天正11年赤沼無量寺の仏像を修理し中興開基といわれる

吉田越後守信綱

吉田将監 包貴

今泉山城守行隆 天正17年5月19日門沢の戦いに活躍、飯豊源松山洞円寺の開基

熊谷下野守直光

神又久四郎房親 鹿股(神俣)城主

大越紀伊守信貫 大越城主

阿生田舘主 大竹築後守秀延 

大倉舘主  先崎主水介徳近  塩釜神社の御幣を運んだとされる。

  城代衆(三十六騎衆)

春山隼人佐忠顕

西牧館主 西牧帯刀 貞苗 山神 小野城代衆(三十六騎衆)

大江左衛門尉輝氏

阿部筑前守忠英

逸見刑部人清高

田母神十郎正堯

草野加賀守直常 塩庭 草野舘主

村上掃部頭義高

村上河内守忠総(信)

二瓶主膳 豊房  槻木内舘主

吉田躑躅 直寛

吉田石見守信弘

吉田宮内少輔赴(元)久

中条越前守光国

国分左京太夫信通

根本若狭守泰重

富沢丹波守匡次

中野道満(入道)景安 皮篭石舘主

宗方左近 康久

宗方内蔵介定英

荻野杢之介泰時

大塚尾張守経玄

鈴木左衛門忠暁

鈴木外記 清則

塩田監物 屋政

草野大学 清光

宗方丹波守時広

吉田入道 直寛

佐藤五郎 常成

郡司内膳 道綱  塩釜神社の御幣を運んだとされる。

郡司玄蕃 屋満

郡司大膳 頼行

先崎周防守常可

宗方弾正 家継

村上源一郎義房

吉田和泉守光広


小野町史参照



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| ryuichi | 13:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
会津藩軍事奉行 海老名衛門季久 白河口差配
以前、ある食事会で隣席でご一緒させていただいた方ですが、奥様の旧姓が海老名で級は会津藩湖南奉行そして戊会津戦争の折には白川口軍事奉行として白河城攻防戦の指揮官だった、海老名衛門季久の末裔でした。


会津藩家老海老名家を最近調べていたもので、あまりの御縁に驚きました。


白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた東北諸藩の列藩同盟戦没者を供養した石塔があり、その傍らに会津藩軍事奉行「海老名衛門季久慰霊碑」があります。


海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行です。

嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。

海老名衛門は、会津藩では公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。

最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
 
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものです。
現地案内板参照


長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。

後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。

戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。

会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。

後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。


| ryuichi | 03:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
大越城址 山麓に鎮座する大越見渡神社




大越城址 山麓に鎮座する大越見渡神社


案内板によれば・・・

大越見渡神社 火産霊命
見渡神社は、南北朝時代の興国二年(一三四二年)の鎮座で、守永親王を奉じた北畠顕信卿によってお祀りされた田村郡内の見渡神社四十数社の中で最も古い歴史を持っている。

その後大越城主が鳴神城に城を移した永禄九年(一五六六年)に下大越柏原から現在地にうつされ、貞享二年(一六八五年)には、本殿が改築された。

愛宕神社
見渡神社境内に鎮座する愛宕神社は、平安時代初期の延暦三年(七八四年)の鎮座といわれ、大越町では、最も古い神社であると伝えられる。
この境内は、見渡神社が現在地に遷座されるまでは愛宕神社の神域であった。






よく手入れされた境内


立派な拝殿が建立されています。







よく見ると、屋根の桁を「餓鬼」が支えています。


お洒落な装飾ですね!



また、拝殿には宮司様直筆の干支の絵馬画家有られていました。



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| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
「赤沼村の鋳物師」遠藤金兵衛  小野赤沼村金屋



 「赤沼村の鋳物師」遠藤金兵衛  小野赤沼村金屋

調査の結果、 遠藤家先祖で最初の記録に名を表したのが、元禄時代の遠藤金兵衛と遠藤善兵衛の父子である。 金兵衛の父、祖父等の先祖については全く不明である。

赤沼遠藤家の口伝によると「奈良の寺に先祖の鐘が在った」 、または「先祖が奈良大仏修理に参加していた」 の話が伝わっていると云います。

歴史的にみれば、奈良の東大寺及び大仏さま、正式なお名前は盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、創建以来何度も戦火のため被災しています。


最後の被災は、戦国時代の永禄10年 ( 1567年) 、三好三人衆と松永久秀の戦い (三好・松永の乱) で東大寺が全焼「永禄の兵火」して、奈良の大仏様も頭と首が溶けて無くなったと記録されています。

二回目の復元修復は、罹災から約90年後の貞享元年(1684年)から、三輪僧公慶が大仏の修理のために勧進を、大仏の功徳を説き、民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用を確保しました。

元禄4年(1691年)から、鋳物師広瀬弥右衛門国重らを中心して、5年の歳月を要してやっと3度目の大仏が完成し、翌年3月8日~4月8日まで盛大に開眼供養が行われた記録にはあります。

遠藤氏はこの事業に参加した一派と考えられます。

遠藤氏の先祖がこの大仏修理に鋳物師の一人として参加したと伝わっています。


尚、大仏様は、江戸中期の元禄4年(1691年)に修復を終え、大仏殿は創建当時の4/3程度の規模で宝永6年(1709年)に再建が完成しています。

理由は不明とされていますが、この大仏修理を終えたころに鋳物師遠藤氏の一族は、当時白河藩十五万石の領地であった小野保仁井町の赤沼へ移住して小野保、三春領の田村庄をはじめいわき・須賀川当のお寺の梵鐘や半鐘を精力的に制作しています。

その高い技術力は大仏修理の鋳物師のなせる業で、赤沼金屋の鋳物師として現代風に言えば「ブランド」として引く手あまたの受注があったと想像されます。

惜しくもその作品の9割は先の大戦で供出され現存していませんが。供出を免れた半鐘等からもその技術力の高さを垣間見ることが出来ます。


「赤沼村の鋳物師」 遠藤貴美著 参照



奈良東大寺の大仏さまは、2回焼失しています。

一度目は、1180年の源平合戦。

平重衡(たいらのしげひら)が放った火が、大仏殿にも燃え移り焼け落ちてしまいました。

この時は、「俊乗坊・重源」(しゅんじょうぼう・ちょうげん)と言う僧侶が寄付を集め、5年後に東大寺大仏・大仏殿は立て直されました。

2度目は、1567年の戦国時代。

松平久秀の兵火により大仏殿と大仏さまが焼失してしまいます。

「永禄の兵火」

その後、大仏さまは首がない状態のままで10年以上、雨ざらしで放置されていたと伝えられています。

そして、1691年に公慶上人によって大仏さまは修復されました。

奈良東大寺の大仏さまは、長い年月の間に幾度となく、焼失や補修をされています。

頭部は江戸時代。

体部の大半は、鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などは、建立当時である天平時代ままの部分も残っています。

台座の蓮の花弁に線刻されている華厳経の世界観を表す画像も、天平時代のもので大変貴重です。



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| ryuichi | 03:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
光明山無量寺阿弥陀堂「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」 小野新町赤沼



代々、小野仁井町(現小野新町)赤沼で、お寺の梵鐘などを手掛ける鋳物師の末裔となる遠藤様にご来店いただきました。

ご自身でご先祖様が生業とされてきた鋳物師の仕事お寺の梵鐘を県内各地に尋ねて丁寧にお調べになられ、まとめられた「赤沼村の鋳物師」、そして小野新町赤沼にある、光明山無量寺阿弥陀堂に納められている「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」福島県指定重要文化財(彫刻)の資料をご持参いただきました。





光明山無量寺阿弥陀堂「木造阿弥陀如来及び両脇侍像」は、赤沼の区長さんはじめ地域の皆様の熱意により、(公財)三菱財団からの浄財により2年の歳月をもって修復完了し、今年1月より一般公開(要予約)されています。

中尊 (本尊) が、阿弥陀如来像、中尊の左脇侍(向かって右) が観音菩薩、中尊の右脇侍(向かって左) が勢至菩薩という三尊像の形式で、小野町内に唯一残されてい平安末期のの仏教資料としても大変貴重な阿弥陀様と阿弥陀堂です。


この阿弥陀様が鎮座する平安時代末期の建立の阿弥陀堂は一度も火災に遭ったことがなく、江戸中期の元禄期に改装されていますが、福島県唯一の国宝建造物の「白水阿弥陀堂」のように、拝殿部分の柱や欄間には極彩色の装飾が行われています。

時代の流れと共に色は醒めていますが、完成当時の阿弥陀堂は鮮やかな色彩で彩られ浄土そのものであったろうと想像できます。






以下資料より抜粋


光明山無量寺について

無量寺 阿弥陀堂の南西側の奥で、現在は杉林となっている場所に、 平安時代 (794~1192) 末、 天台宗の寺として無量寺が開山されたと伝わっている。

長い年月の中で荒廃が続き、 天正11年 (1583) 良拾和尚が再興した時に、 浄土宗に改宗して現在に至る。

現在の無量寺 阿弥陀堂は、元禄4年(1691) に改築、大きく変わらない姿で現在に残っている。

阿弥陀三尊は定朝様で、 平安時代の開山時からのものである。

堂内は阿弥陀三尊を中心に、 改築時に近隣信者から寄進された、 飛天図、 雲龍図、鳳凰図、 絵馬等が四方の内部壁面に見られる。

江戸か京都の絵師を招いて描かせたものと思う。


飛天図は琵琶、太鼓、鼓、 笙、 笛などの楽器を持ち、 音楽を奏でる様子が窺える。

雲龍図は本堂が火災に遭わない為にゲンを担いだ意味なのか?子が鮮明な色彩で描かれ、 本堂内を極楽浄土の世界に創りあげていたものと思える。

絵図や本堂中央の柱など色褪せが多く見られるが、 往時は壁面や天蓋に浄土界の様






浄土宗に改宗してからの無量寺

小野新町字舘廻の専光寺が開山した永禄年間(1558~69) から約十数年後、天正11年(1583)無量寺は、専光寺を開山した良補和尚 (浄土宗梅福山専称寺 : いわき市平山崎)の弟僧である良拾和尚が再興したことから、 専称寺の末寺となった。

中世末から近世初期のこの時期は、浄土宗寺院の開創成立が多い時期でもあり、当時の小野地方への浄土宗名越派拡充の様子を窺わせる。

当時の専称寺は、浄土宗名越派の奥州総本山で、修行僧も多く抱えていた。

専称寺からの令により、江戸末期まで僧侶が無量寺に赴き、住職を務めていたことが、残された位牌及び墓石から判断できる。

嘉永2年12月 (1845) 無量寺に賊が入り、三十世良傳和尚が遭難し落命する事件が発生。


以後は住職不在の無人寺となり、 専光寺住職が無量寺兼務住職(現三十五世)となって今に至る。



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「今泉神社」 由緒  (境内の石碑参照) 田村庄 船引町今泉鎮座




今泉神社 田村市船引町今泉字砂田

由緒  (境内の石碑参照)

当社は、武甕槌大神を奉斎し、霊現新たかにして「氏子繁昌」「悪魔免消除式神」として皆人の知るところなり、




その由来と尋ねるに五代桓武天皇の延暦年間に奥州に大多鬼麿という逆臣の党類を催し旧城を浸さんとせし、先鋒は既に常陸國に乱入、頻りに天聴脅かしたれば、従四位御霊季頭坂上刈田丸の子田村麿に追討の勅を賜えしかぞ





即ち刈田丸に下向う折柄道に賊党合戦し遂に高野原に迫りさらにもう陳居退治し、評定教数日に及べり、これより大滝根岩屋迄は山茂り茨の道開きし、他の山岳なり、諸卒くっして困為をみつける。田村麿を采をふり遂に下向う甲斐空し帰洛るの他なきなり。





尊々下知せり、諸卒之に勇気百倍し藤に伝え岩角に取りつき追討。

多鬼磨は頻りに応戦難戦に陥り如何ともしがたく気をもみをつかす戦いけり




賊はついに散乱す、

しかれども暑中の事ゆい喉は乾き息は弾む、沢辺の水をのんだけるに賊は毒を流して飲むことあたわず、

この時田村麿は武甕槌大神を祈り我らを助けたよえして念じ、岩間を窺うければ湧ききいずるに「甘露の酒」なり、諸卒これを飲み一気を得てを賊を一時におい崩し、平定の砌大神の霊験にてここに御社を建立ありたりと伝えられる。




正中二年、新田市正藤原秀光に命じ里方より此の地に勧請。





今は泉にし地開墾をなさりと間伝の甘露路の酒は諸民飲む水なり

其の昔、申せし酒は今はもて今泉と命名村名となりせとか、御神徳の難ある汁なり







吉昔は田村家より社領の寄進等ありたるも没落及びて社領も消失せりしとぞ


右は明治八年三春藩庁に提出せる本文の写してある







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