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「目明かし金十郎の生涯 江戸時代庶民生活の実像」 阿部善雄著 



「目明かし金十郎の生涯」

先輩から、面白い本をご紹介いただきました。
「目明かし金十郎の生涯 江戸時代庶民生活の実像」阿部善雄著 です。

著者の阿部善雄氏が、旧三春藩とは隣接する旧磐城守山藩の陣屋日記である「御用留帳」という貴重な史料を発見、その研究をされた方です。





この「目明し金十郎の生涯」という本は、その守山藩陣屋「御用留帳」に基づいて書かれています。

この本の主人公、目明かし金十郎は、もちろん実在した人物で、姓を吉田といい、陣屋のある守山に居住していました。

若い頃から博打や遊興の世界にどっぷり漬かり、もっぱら裏の世界で生きてきました。
いわゆる“やくざ者”ですね。
そしてその方面で顔役になり、それを買われて目明しになりました。



三春町史参照 守山城下 三春藩参勤交代絵図より

享保9年(1724年)~元文3年(1766年)までの46年間目明かしをつとめました。
徳川将軍家でいうと徳川吉宗・家重・家治の時代です。

目明かしというと、私たちは伝七捕物帖や銭形平次など岡っ引きの親分、そして、紫房の十手を思い浮かべますが、この本を見ますと、守山藩の目明かしは十手は持ちませんでした。その代わり藩士と変わらない身なりの帯刀が認められていましたから、藩の取り締まり方の役人という風貌だったのが想像されます。

十手を調べてみますと、官給品ではなく自前で鍛冶屋には注して造るものらしいんです。
そして、武器としての機能ではなく現在の警察手帳や裁判所発行の捜査令状的なものでした。




読み進めてみますと、江戸期の当該守山藩(現田村町守山から蒲倉・舞木・山田・郡山市西田町三城目など阿武隈川の東岸地域)や旧三春藩領などだけでなく、江戸時代の地方の治安や村の様子が描かれています。

博打を摘発されて菩提寺に欠入り赦免を頼む農民の姿。

また怒濤のように押し寄せる百姓一揆の喊声。

山の湯をめざして道中を連れ立っ老夫婦たちの笑い声も聞こえる。

そうかと思うと、困窮の果てに出奔を決意した親子三人が、夜の闇に消えていく情景よでが目に浮かんでくる。
しかも、こうした領民たちの生々しい姿にまじって、目明しのいびつな顔が彼らにつきよとうようにして去来する・・・・目明し金十郎が大活躍いたします。




享保からといえば飢饉や大地震、長雨など天変地異が立て続けに起こり、庶民の生活にも重大な影響を及ぼしていました。
また、世情の不安定の中で庶民の心の中も不安が付きまとうような時代。
その時代を生きた庶民の生の声が聞こえてきそうです。




磐城守山藩は、松平氏で御三家の水戸藩の分家でした。
藩祖は水戸黄門で有名な徳川光圀の異母弟で、家康の孫にあたります。
当然幕府内での家格が高く、江戸城では仙台伊達氏や長州毛利氏、薩摩島津氏と同じ大広間詰でした。

また、本家である水戸藩は、江戸幕府特例で江戸に常在していました。
即ち参勤交代がありませんでした。
これに伴い、守山藩もいわゆる江戸常府で参勤交代が免除されていました。

上記のような事情から守山藩主である松平氏は勿論藩士でさえも代官の藩士3人以外は一度も守山を訪れたことはないのではないか思います。

これは幕府御家人八万騎とよばれた直参旗本家のほとんどがそうでしたから、この守山藩でも、藩主も藩士も自分の領地を代官や村役人に任せて年貢だけ集めていたんではないでしょうか。

守山領は、現田村町守山から蒲倉・舞木・山田・郡山市西田町三城目など阿武隈川の東岸地域30ケ村、約2万石と常陸の行方郡に約1万石ありました。






守山藩領30ヵ村
木村、山田村、芹沢村、根木屋村、南小泉村、北小泉村、阿久津村、下白岩村、上舞木村、下舞木村、白岩村、荒井村、蒲倉村、大平村、横川村、安原村、手代木村、下行合村、上行合村、大善寺村、金屋村、徳定村、御代田村、正直村、山中村、守山村、岩作村、大供村、金沢村、小川村、三町目村(半分)


尚、「守山藩御用留(ごようどめ)帳」は、県指定重要文化財に古文書としては初めて指定されています。

守山藩は江戸時代の徳川御三家の一つ、水戸藩の支藩で1700(元禄13)年に成立。
守山藩御用留帳は藩成立時から1867(慶応3)年までに至る168年間の政務日誌で、今回指定されたのは市保管の141冊と個人保管の1冊。
このほか、東北大が1冊を保管している。

守山藩御用留帳は比較的保存状態が良く、江戸時代の支配機構や米穀の流通、農民の湯治など、当時の庶民生活の実態をより確かなものとする貴重な史料群とされる。

 藩政史料が県内に残るのは会津藩「家世実記」、中村藩「相馬藩世記」などに限られています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:20 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |
「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」 上移 鎌田勝三郎さまより拝借



先日、上移の鎌田勝三郎様にご来店いただきました。

当店発行の「塵壺」を読んでいていただいているそうで、三春馬の資料にどうぞということで、鎌田様が、平成24年10月に老人会で講演されたときの資料「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」を持参されました。

もちろんご自身で調べられ、まとめた資料です。

先日のNHK「絶品!みちのくモノがたり」もご覧になったと思いますが、鎌田様の手持ちの資料を役立てて欲しいということで持参していただきました。

探していた移村武部氏関連の資料です。よろこんで拝借いたしました。





資料にもありますが、上移曲山地内にある庚申様付近の建立されている「馬頭観世音(大正3年3月17日建立)」の石碑の施主にも武部八十七氏の名前が刻まれています。

少し前にも、やはり田村の歴史を調べるうえでの資料になればということで、同じく移の菅野義徳様にもこの「馬頭観世音」の石碑の写真をいただきご紹介いただいたことがありました。

本当にありがとうございました。

お話を伺ってみますと、勝三郎様の祖父伊三郎氏が几帳面で、昔の資料を保存していたそうです。
それらの資料を勝三郎様が分析された中にこの資料の中心人物である武部為右エ門・武部八十七親子に出会って興味を持ち調べ始めたそうです。






「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」

明治から大正にかけて上移地区に、武部氏なる人物が住み、商売、畜産業を繁盛させた方の文献を少し、見つけまして、興味を持ち、調べてみましたが、何分にも資料が乏しく、あまり良い結果は得られませんでした。
ほとんどの方が、武部と云う姓を開くのが初めてだと思います。
年代から見て,親子二代に渡り上移地区内住んでいたものと思はれます。
父親と思われる為右エ門氏は八幡神社に神前に供える鏡を納入、通い帖を見て、幅広く商いをやった様子がうかがわれます
三春潘は昔から産馬に力をいれ馬産地として、有名であり馬の競り市を開き、各地区かり多くの馬喰が集まり大層な賑わいを見せ、その頃に庚申坂なる遊郭街が生まれたらしい。
八十七氏は馬産に力を入れ,上道の鍋越地区 現在の佐久間記一氏宅辺りに牧場を開いたらしい。
八十七氏は馬産の成功を願い、曲山地内、俗に云う庚申様
は馬産の成功をの場所に「馬頭観世音」を建立したものと思う。
又、八十七氏は上移地区の産馬総代も務められて、明治四十三年には、国有種馬、厩舎の新築にあたりご尽力された方です。
国有種馬は、現在は、その建物はありませんが,上移町のふくだやさんの前の道を少し入った所の高台にありました。






三春町史3を見ますと、慶応4年4月の戊辰の役前夜には町役人として平日帯刀を許された20名の一人に武部為右衛門の名前が記載されています。
また、「三春町役人記(春山文書)」に、町年寄八幡町取締 武部為右衛門年齢58の名前が記載(明治2年8月改正、同年12月罷免)されていますが、武部氏が上記の武部氏と「同一人物なのか?また、同一人物なら移村に移った経緯は判りません。





尚、鎌田様が一緒に見せていただいた資料には、戊辰戦争関連で亡くなった三春藩関係者の名簿がありコピーさせていただきました。
そこには亡くなられた詳細な記録が記されていました。





この資料は、明治末に靖国神社に合祀するために作られた資料かなと考えています。
靖国社合祀、鎌田久八先生と記されている人物は、鎌田様のご先祖様で、当時薩摩藩の軍夫として会津戦争に従軍し若松城下で戦死されたということが記されていました。

享年54とあります。
私の一つ上で、同世代、侍でなく農夫として一家を支え、平和に暮らしていた久八氏、行きたくもない「戊辰の役会津追討戦」に従軍し亡くなっています。

鎌田様に伺うと、薩摩藩から頂いた弔慰金の封筒があり、慰霊石碑建立の資金も拝領し、その図面もあるそうです。
これは新たな資料です。





このように皆様から埋もれた資料を頂けるというのは幸せですね・・・

以前先輩から伺った言葉ですが「本気で欲しいと思っている資料は向こうからやってくる・・・・」

その片鱗が見え隠れしている今日この頃です。


ありがとうございます。

拝   合掌



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |
鹿沼市光明寺「三春の梵鐘」
先日、鹿沼市古峰ヶ原にある「古峯神社」権禰宜横山さまにご来店いただきました。

少しお話をということでしたが、内容が興味をそそる事柄だったので、仕事も忘れつい長話になって今いました。
横山さま、申し訳ありませんでした。

その内容と云うのは、鹿沼市光明寺にある「三春の梵鐘」という梵鐘(釣鐘)の件でした。
横山様からのお話を元に、鹿沼市教育委員会の説明を見ると、この光明寺の梵鐘は、銘文に「奥州三春 遠山澤村 金剛院 役末流養信」や「奉納金剛山」とあり、寺では「三春の鐘」とも呼ばれているそうです。
本来は、天保3年(1832)に遠山澤村(現 福島県田村市船引町)の金剛院とその修験の“金剛山講”中により古峯原金剛山に奉納されたものとされています。
梵鐘には、遠山澤村の養信を願主、庄屋の柴原栄三郎を勧進元として、世話人11人により、田村郡内の村々を主とした30ヵ村87人、および講中2、寺院・坊7を加えた名前が、池の間と縦帯に陽鋳あるいは陰刻されているとありました。



早速休日の朝、芦沢遠山沢付近の探索と相成りました。



まず、芦沢高梨子の石碑群・・・ありました「金剛山」の石碑



そして、遠山沢の寺内石碑群・・・・ありました「金剛山」



探せばあるもんです。
金剛山・・・・見逃していました。



さらに、芦沢「曹洞宗 龍泉寺」・・・・ありました「金剛山」



尚、 「三春の梵鐘」が、古峯ヶ原様から、光明寺に移ったいきさつについては、昭和17年の金属類回収令によって従来の梵鐘を失った光明寺が、本梵鐘を受け継いだとされています。
三春の講中による梵鐘の寄進は、江戸時代の古峯原金剛山の東北地方の修験の活動と分布を示す貴重な資料とされているとのことでした。

「梵鐘」・・・・?
上記しましたが、太平洋戦争勃発後、金属不足を補うために出された「金属回収令」に伴って全国の寺社仏閣から梵鐘が供出されて以来、三春の地にも鐘楼はありますが“梵鐘は無し”というのが普通でしたので、梵鐘から歴史を手繰るというのはすっかり抜けていた事柄でしたので、大変に興味をそそられました。

現在“火伏の神様”として全国から参拝者が後を絶たない“古峰ヶ原さま”と親しまれている「古峯神社」
私も、三春町消防団の一員でしたので、何度か参拝したことがあります。

この古峯神社は、かつては金剛山とも呼ばれ、修験道の一大修行道場でした。
大芦川の源流に近い緑なす渓間、優美を醸す山麗に鎮まる古峯神社はご祭神に日本武尊をいただく由緒深い神社です。
・・・・古峯神社を中心とする古峯ヶ原は日光全山26院80坊の僧たちが、修行に励む霊地となり、明治の初めの神仏分離令で現在の古峯神社となりました。
・・・・古峯神社ホームページより

山岳信仰と修験道

修験道の開祖と言われている役行者(役小角)(えんのおづぬ)はこの金剛・葛城山系にて修行され、全国に広めていかれました。

平安時代になると修行者はさらに増え、空海の導きによる密教系の人々も山岳修行にはげみ、各地に伝説を残されています。
平安時代の末期になると、修験道は密教や道教、陰陽道の要素をも取り入れ独特のものとして完成していきます。

山伏とは、まさに山野に伏して修行し、呪術的験力を獲得した者のことで、中世以降になると役行者は修験道の開祖と仰がれるようになり、役行者1100年の御遠忌を迎えた寛政8(1799)年には「神変大菩薩」の諡号を授与され、現在に至るまで篤く尊崇されてきました。

三春の修験についてはこちらをクリックください



龍泉寺・・・同じ龍の付くお寺さんでしたので興味があったのですが、今回初めてお邪魔しました。
田村三十三観音第二十一番千手観音をご本尊としています。



禅寺らしく綺麗に整備され、当に龍の口から湧きです泉の力によって心が洗われかの如く、清々しい居心地のいいお寺さんです。



また、宇内奥に鎮座する”瑠璃光薬師如来”を安置する「大風薬師堂」




この建築美!
しばし見とれてしまいました。



龍泉寺の扁額です。
この”龍”の字!素晴らしいです。

| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |
いわき市平「子鍬倉神社」合格祈願
先日、いわき市平に行く用事があったので、ついでにというわけではありませんが、平駅前にある「子鍬倉神社」に息子の合格祈願に参拝しました。
神頼みというわけです。



子鍬倉神社の創建は、やはり大同年間(806~10)に勧請されたと伝わります。
また、延喜式神名帳に記載されている式内社です。
当時の磐城4郡の総鎮守として広く信仰されてきましたが江戸時代に入り社殿を焼失して以前の記録や社宝など失い詳細が不明となってしまいました。



祭神は宇迦御魂命で五穀豊穣を司り殖産興業や商売繁盛にも御利益があるそうです。
案内板によれば、古来平桜町(現在の磐城女子高校内)に鎮座したが、慶長7年(1602年)平城主鳥居忠政公が平城を築くに当たり社地を収め神社修復を怠り荒廃するに至った。
その後平城主内藤公は敬神の念篤く、由緒ある当神社の荒廃を嘆かれて現在の揚土台に社地を賜り復興させたのである。
しかし、天保2年4月(1831年)火災の為に神殿・古文書・神宝など殆どを焼失し、現在価値ある古文書・神宝などがないのが残念である。
その後、嘉永6年5月(1853)官民協力して社殿を復興させ、その当時のものとして現在の本殿と額殿(旧拝殿)が現存している。
と、ありました。



その後順次境内を整備し現在の拝殿・幣殿は昭和4年建築のものである。
例祭は新暦の4月18日に祭典が行われ、4月の最終土曜日・日曜日に神輿渡御が行われている。




1200年の歴史の中で盛衰の波はあったようで、平の領主が岩城氏から鳥居氏になってすたれ、内藤氏になって再興した。
御輿渡御も1687年に始まったが何度もとぎれたらしく、最近では上記の通り十数年前に復活したという。
子鍬倉という独特の名は他にはないとのことで、子はカイコつまり衣、鍬は農業つまり食、倉は住を意味し、すなわち子鍬倉で衣食住を表すということだそうです。

平の鎮守。



かつては磐城4郡の総鎮守



| ryuichi | 06:09 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |
三春物語671番「鬼生田里の馬頭観音」


鬼生田里にある馬頭観音堂です。
廣度寺の別当で、嘉永六年の再建とあります。



「鬼生田(おにうだ)」の地名は、鬼生田(おにうた)の地名は、鬼が生まれた田ということから、この名がついたと伝えられています。
また、田村麻呂に追いつめられた鬼が田の中に鬼の子を捨てて逃げたので、村人が育てると、毎日庭先で大石と遊んだ。
この石を鬼石と呼び、鬼の子が捨てられていたので、「鬼生田」の地名がついたという。
 


郡山市史によれば、
桓武天皇の御世、ある女が田の仕事へでかけると急に腹を痛めて、田の中でひとりの男の子が生まれた。 この男の子、近くで死人が出ると這い這いしてまでも死体を見に行くという不思議な子で、7歳ごろになると5尺にもなる体格の持ち主となった。
そして、墓をあばいて死体を食べたり、暴力をふるったりするようになったので、親も恐れその子を殺そうと思った。
男の子は、それを察して家を出て行ってしまった。
 時が下って、その子どもは田村の大滝根に棲み、滝根丸と名乗るようになった。
そして、手下を率いて、旅人や土地の人を襲って暴れまわっていた。
村人たちは滝根丸のことを、「あいつはまるで鬼だ」とささやきあった。



 滝根丸の勢力はどんどん強くなってきたので、桓武天皇は坂上田村麻呂を征討に向かわせた。そこで滝根丸は田村麻呂に滅ぼされたという説と、紀州の熊野まで逃げたという説があり、鬼生田の人達は「熊野権現に参拝すると鬼の魂がのりうつる」と言って熊野参拝はしないとされています。


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| ryuichi | 06:21 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |
三春物語651番 南小泉村鎮守「國祖神社」


南小泉村鎮守「國祖神社」


三春城下の西三里余、磐城国と岩代国を分ける阿武隈川と桜川南岸に挟面した南北小泉村
江戸期には御三家水戸徳川家の分家、磐城守山藩徳川家領でした。
祭神を、武甕槌神と天照大御神とする南小泉村の鎮守です。



旧水戸藩の分家の領地ということで、茨城の鹿嶋市に鎮座の常陸国の一宮鹿島神宮の勧請です。
旧神号鹿島神宮
鹿島神宮は、社殿が北面していることからも伺えるように、8世紀以降の大和朝廷の蝦夷征討の水軍の発信基地であり、東国経略の拠点だと考えられています。





神代の昔、武甕槌大神は経津主大神(香取神宮)と共に天照大御人の命を受けて出雲へ下り、
国譲りから国造りに至るわが国の建国に、その御人威が大いに発揮されました。それ以来、
強い心と体をもたらす武の神、開運の神様といわれ篤く信仰されてきました。



静けさと歴史の重みをたたえたこれらの寺社は、歴史的な建物,地域に根ざした文化活動などは,それ自体が独自の価値を持つだけでなく,郷土への誇りや愛着を深め,住民共通のよりどころとなります。



祭礼は、11月3日です。(かつては旧暦5月1日)


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| ryuichi | 04:47 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |
三春物語650番北小泉村鎮守「二荒山神社」


北小泉村鎮守「二荒山神社」


三春城下の西三里余、磐城国と岩代国を分ける阿武隈川と桜川に挟面した旧北小泉村
江戸期には御三家水戸徳川家の分家、磐城守山藩松平家領でした。
二荒山神社は、その代官屋敷付近にあります。



祭神を、事代主命としています。
起源は不明ですが、北小泉村の鎮守として日光大権現を勧請。
旧神号を日光権現としています。



二荒山(ふたらやま)の名は、諸説あるが観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。



境内末社に、稲荷神社と蚕養神社を祀っています。
また、古代遺跡もこの附近から出土しています。



かつては、旧暦の五月一日が祭日でしたが、現在は新暦11月3日です。



神社とは、人々の信仰を集める祭祀の場であるとともに、古来より地域のコミュニティの場として機能してきました。


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守山藩 松平氏2万石は、 水戸藩祖の徳川頼房の四男、徳川光圀の異母弟である松平頼元は、水戸家から常陸国額田に2万石を拝領された。
次代・頼貞の時、幕府より陸奥国・常陸国に2万石を与えられ、常陸国額田を水戸家に返上し、陸奥国・守山(現郡山市田村町)に陣屋を構えて守山藩が成立した。
水戸家同様、江戸定府大名で、歴代藩主は江戸小石川の藩邸に定住し、参勤交代を行なうことは無かった。
藩主以下殆どの家臣は江戸にあった。

尚、幕末期の元治元年(1864年)、武田耕雲斎ら天狗党の乱のとき、守山藩でも乱に関わった者が多数いたため、藩士の多くが処罰されている。



| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |