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「田村将軍夜明石」 明石神社 




「田村将軍夜明石」 明石神社 

延暦二十年(801年)桓武天皇の御字
征義大将軍坂上田村麻呂陸奥へ下向の際、此地に来りで大滝根山を叔根拠とする蒙族大多鬼丸の強賊なるを知り、此処に武甕槌神 (たけみかづちのかみ)を勧請して皇敵の降伏と戦勝祈願を行いました。

その夜将軍はこの石に腰をおろして夜を明かれたと伝えられています。

以来、この石を「田村将軍夜明石」と呼ばれています。







坂上田村麻呂は、今から1200年ほど前の平安時代初期の武将で、征夷大将軍として奥州の蝦夷(えみし)を討伐した人物です。

 奈良から平安時代にかけて、朝廷は、敵対(反抗)する蝦夷に対して度々東征していました。






 
後に、参議(現在の内閣大臣に相当)・中納言・大納言と出世し、主に政治の中心で活躍しました。

全国にある大同年間建立の有名神社の創建ににその名前を見ることだ出来ます。








明石神社







お人形様

三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
「雪村さんとわたし」 不思議な「縁(えにし)」に導かれて(1)~(4) 李田三悦ノ里 もがみ三悦




「雪村さんとわたし」 不思議な「縁(えにし)」に導かれて(1)~(4)



李田三悦ノ里 里主 もがみ三悦こと最上三男様より、表記の小冊子「雪村さんとわたし」をいただきました。

三悦さまは、表題にもある様に旧李田村旧跡「雪村庵」の近くに居を構えているということもあり戦国の画僧雪村とその隠棲の地(庵)である雪村庵について研究をされ、ボランティアで見学に来庵される方々に案内をされています。








今回の小冊子は、先に発足した雪村顕彰会・機関紙の創刊に際して、同会会長の冨山章一郎様から寄稿依頼があり、その発行を記念し、ご自身もこの小冊子をまとめて発行したということです。

「雪村さんと~」の副題{不思議な「縁(えにし)」に導かれて(1)~(4)}にもある通り、画僧雪村周継師と三悦さまのご縁についての詳細が記されています。

早速中を拝見させていただきますと、先に行われた雪村庵改修工事の際、御本尊木造阿弥陀如来座像(傳観音像)の下から発見された数個のお位牌。

その中に三悦様の旦那寺である片平町常居寺の二代住職東天和尚の位牌が発見され、法要をされたこと等の不思議な「縁」と「お導き」が記されていました。






また、雪村師の出自とされる常陸佐竹氏との関係や、三悦様の御母堂様関連では関ヶ原以後に転封した出羽國秋田久保田藩秋田氏・佐竹南家家老入江氏・・

佐竹宗家―雪村―佐竹南家―最上というご縁もあります。

参考になる書物です。









供養歌「雪村音頭」


画僧雪村周継を偲び (平成31年4月13日) 供養のためにつくられた歌も添えられていました。

作詞 もがみ三悦さま

作曲 MoCoy(増子良一)さま

唄  MAM(増子・藍原・水野)さま



店内に配しておきますので、手に取ってお読みください。



| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
堂山王子神社 (旧堂山観音堂)




堂山王子神社(旧堂山観音堂)  船引町大字門沢字堂山




坂上田村麻呂が創建したとされる神社で、茅葺型銅板葺の拝殿は、一重寄棟造で室町時代中期に建造されたと伝えられ国の重要文化財に指定されています。







拝殿は、かつて堂山寺の観音堂でしたが、明治初頭の廃仏毀釈・神仏離反に際して社殿を守るために王子権現のご神体が祀られるようになりました。









仙道三十三観音第七番札所となっています。








堂山王子神社とされていますが、ここを見ると正式には神仏分離をしておらず神仏習合が三内各所で見られます。









拝殿には観音堂の看板があり、仁王門には白馬も鎮座、梵鐘もあります。






また、至る所に庚申塔が多数建立されています。






奥院には「白山比神社」が建立されています。







傍らには明治9年建立の「山城神社」の石碑も見えます。






ここまで見ますと修験道の影響が深く感じます。





貴重な歴史的神仏習合資料の宝庫です。







堂山王子神社は、もと堂山観世音といい、延暦20年(801)坂上田村麿が征夷大将軍として、この地の巨賊「大多鬼丸」を討つため軍勢を進めたとき、門沢山の小茅のお堂に入り泊られました。
この時、六観音を安置して戦勝祈願をこめ大勝を得ました。
その後、東北を平定して都に帰られた将軍は、大同2年(807)飛騨の巧匠を遺して建造されたのが、この堂山観音堂と言われています。
将軍の戦勝祈願した時の観音中の准胝観世音を中御本尊と奉祭し、戦いの犠牲となった軍馬の霊を弔うために建てられたお堂ともいわれています。
以後、馬の神として広く信仰されました。
明治の廃仏殷釈のとき焼払われようとしましたが朽ちはてた王子神社の御神躰を、堂山観音堂に遷座したため、焼打の難は免れたといわれています。
            (船引町教育委員会 文化課 資料より)








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| ryuichi | 05:01 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」 上移 鎌田勝三郎さまより拝借



先日、上移の鎌田勝三郎様にご来店いただきました。

当店発行の「塵壺」を読んでいていただいているそうで、三春馬の資料にどうぞということで、鎌田様が、平成24年10月に老人会で講演されたときの資料「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」を持参されました。

もちろんご自身で調べられ、まとめた資料です。

先日のNHK「絶品!みちのくモノがたり」もご覧になったと思いますが、鎌田様の手持ちの資料を役立てて欲しいということで持参していただきました。

探していた移村武部氏関連の資料です。よろこんで拝借いたしました。





資料にもありますが、上移曲山地内にある庚申様付近の建立されている「馬頭観世音(大正3年3月17日建立)」の石碑の施主にも武部八十七氏の名前が刻まれています。

少し前にも、やはり田村の歴史を調べるうえでの資料になればということで、同じく移の菅野義徳様にもこの「馬頭観世音」の石碑の写真をいただきご紹介いただいたことがありました。

本当にありがとうございました。

お話を伺ってみますと、勝三郎様の祖父伊三郎氏が几帳面で、昔の資料を保存していたそうです。
それらの資料を勝三郎様が分析された中にこの資料の中心人物である武部為右エ門・武部八十七親子に出会って興味を持ち調べ始めたそうです。






「謎の人物 武部為右エ門・武部八十七」

明治から大正にかけて上移地区に、武部氏なる人物が住み、商売、畜産業を繁盛させた方の文献を少し、見つけまして、興味を持ち、調べてみましたが、何分にも資料が乏しく、あまり良い結果は得られませんでした。
ほとんどの方が、武部と云う姓を開くのが初めてだと思います。
年代から見て,親子二代に渡り上移地区内住んでいたものと思はれます。
父親と思われる為右エ門氏は八幡神社に神前に供える鏡を納入、通い帖を見て、幅広く商いをやった様子がうかがわれます
三春潘は昔から産馬に力をいれ馬産地として、有名であり馬の競り市を開き、各地区かり多くの馬喰が集まり大層な賑わいを見せ、その頃に庚申坂なる遊郭街が生まれたらしい。
八十七氏は馬産に力を入れ,上道の鍋越地区 現在の佐久間記一氏宅辺りに牧場を開いたらしい。
八十七氏は馬産の成功を願い、曲山地内、俗に云う庚申様
は馬産の成功をの場所に「馬頭観世音」を建立したものと思う。
又、八十七氏は上移地区の産馬総代も務められて、明治四十三年には、国有種馬、厩舎の新築にあたりご尽力された方です。
国有種馬は、現在は、その建物はありませんが,上移町のふくだやさんの前の道を少し入った所の高台にありました。






三春町史3を見ますと、慶応4年4月の戊辰の役前夜には町役人として平日帯刀を許された20名の一人に武部為右衛門の名前が記載されています。
また、「三春町役人記(春山文書)」に、町年寄八幡町取締 武部為右衛門年齢58の名前が記載(明治2年8月改正、同年12月罷免)されていますが、武部氏が上記の武部氏と「同一人物なのか?また、同一人物なら移村に移った経緯は判りません。





尚、鎌田様が一緒に見せていただいた資料には、戊辰戦争関連で亡くなった三春藩関係者の名簿がありコピーさせていただきました。
そこには亡くなられた詳細な記録が記されていました。





この資料は、明治末に靖国神社に合祀するために作られた資料かなと考えています。
靖国社合祀、鎌田久八先生と記されている人物は、鎌田様のご先祖様で、当時薩摩藩の軍夫として会津戦争に従軍し若松城下で戦死されたということが記されていました。

享年54とあります。
私の一つ上で、同世代、侍でなく農夫として一家を支え、平和に暮らしていた久八氏、行きたくもない「戊辰の役会津追討戦」に従軍し亡くなっています。

鎌田様に伺うと、薩摩藩から頂いた弔慰金の封筒があり、慰霊石碑建立の資金も拝領し、その図面もあるそうです。
これは新たな資料です。





このように皆様から埋もれた資料を頂けるというのは幸せですね・・・

以前先輩から伺った言葉ですが「本気で欲しいと思っている資料は向こうからやってくる・・・・」

その片鱗が見え隠れしている今日この頃です。


ありがとうございます。

拝   合掌



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
「柳橋歌舞伎」平成28年



「柳橋歌舞伎」平成28年度定期公演

本日(平成28年9月18日)、柳橋歌舞伎伝承館(黒石荘)に於いて開催された、「柳橋歌舞伎」平成28年度定期公演に行ってきました。

あいにくの雨でしたが、会場を黒石荘の室内に移しての歌舞伎上演です。






本来ならば、ご覧の客席が舞台となり、広場に畳や茣蓙を引いて客席となり、観劇していました。

当三春昭進堂初代の“おたりさん”からすると、長男の嫁となる私の祖母の実家(長岡氏)が柳橋にあり、そこの当主も歌舞伎に出演しています。

そういってご縁があり、今回案内をいただいていたので顔を出しに行ってきました。





普段なら、秋彼岸と重なり、繁忙期ということでとても行ける状態ではありませんが、今年は雨、そして彼岸の入りの前ということでなんとか時間を調整して臨場することが出来ました。

初めての柳橋歌舞伎です。





受付で差し入れの饅頭と御祝を納め、早速会場に入り観劇です。

雨の中にも関わらず、会場を埋め尽くす、入りきれないお客さんが来場され、丁度中学生の歌舞伎上演の真っ最中で、白熱した演技で、会場内は熱気に包まれていました。

また、会場内には売店が多数出展されていて、大盛り上がりです。




観光協会の資料によると、

柳橋歌舞伎は、柳橋は江戸時代、天領(徳川幕府が、直轄領地として直接支配していた地域)であったために芸能が自由に行われ、菅布禰神社の祭りに村人が芝居や歌などを楽しんでいたことが歌舞伎の始まりになったといわれています。


柳橋歌舞伎の特長は、舞台のセットから台本まですべて柳橋の農民の手で作られたものであること。

また、江戸の歌舞伎と同じく男性のみで演じられることです。 

明治時代、興行の取り締まりや規制が多くなり一時中断しましたが、昭和55年柳橋地区全戸で「柳橋歌舞伎保存会」結成して、の支援を得て復活しています。
現在では、演じる演目は「一ノ谷嫩軍記」など15を数えます。

この秋彼岸の前。

稲刈りの少し前になりますが、この時期に秋の収穫を願って、柳橋の村人が、見様見真似で芝居や歌を楽しんだと伝えられています。






平成の世になっても、目の前で繰り広げられているのかと思っただけで、是には、正直、感動しました!

かつて天領だった柳橋村の生活手ベルの高さがうかがえます。





演目
1 復興支援交流事業 ひょっとこ踊り(富岡町平沢仮設住宅住民等)
2 白波五人男 稲瀬川勢揃いの場 (御舘中学校生徒)
3 義経千本櫻 伏見稲荷鳥居の場 (御舘中学校生徒)
4 一ノ谷嫩軍記 須磨浦組内の場 (柳橋歌舞伎保存会)
5 一ノ谷嫩軍記 熊谷陣屋の場  (柳橋歌舞伎保存会)





柳橋歌舞伎保存会会長 古川嘉徳

柳橋町内会長 宗像興一

主催 柳橋歌舞伎保存会
後援 柳橋町内会 
問い合わせ 024-973-2323事務局宗像





尚、御舘小学校や御舘中学校生とも出演し伝統文化の継承に力をいれています。


御舘小・中学校は、平成18年から文部科学省伝統文化補助事業実践モデル校に指定され、御舘小・中では連携して柳橋歌舞伎の授業を行っています。

来月の10月24日の御舘中学校文化祭でも柳橋歌舞伎が上演されます。


この日も、会場内には、子どもたちから年配者までが、柳橋のほとんどの方々が来場され、一般公開当日の”柳橋の文化祭”的な雰囲気の中で、歴史ある伝統芸能を楽しんでいました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 17:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
鹿沼市光明寺「三春の梵鐘」
先日、鹿沼市古峰ヶ原にある「古峯神社」権禰宜横山さまにご来店いただきました。

少しお話をということでしたが、内容が興味をそそる事柄だったので、仕事も忘れつい長話になって今いました。
横山さま、申し訳ありませんでした。

その内容と云うのは、鹿沼市光明寺にある「三春の梵鐘」という梵鐘(釣鐘)の件でした。
横山様からのお話を元に、鹿沼市教育委員会の説明を見ると、この光明寺の梵鐘は、銘文に「奥州三春 遠山澤村 金剛院 役末流養信」や「奉納金剛山」とあり、寺では「三春の鐘」とも呼ばれているそうです。
本来は、天保3年(1832)に遠山澤村(現 福島県田村市船引町)の金剛院とその修験の“金剛山講”中により古峯原金剛山に奉納されたものとされています。
梵鐘には、遠山澤村の養信を願主、庄屋の柴原栄三郎を勧進元として、世話人11人により、田村郡内の村々を主とした30ヵ村87人、および講中2、寺院・坊7を加えた名前が、池の間と縦帯に陽鋳あるいは陰刻されているとありました。



早速休日の朝、芦沢遠山沢付近の探索と相成りました。



まず、芦沢高梨子の石碑群・・・ありました「金剛山」の石碑



そして、遠山沢の寺内石碑群・・・・ありました「金剛山」



探せばあるもんです。
金剛山・・・・見逃していました。



さらに、芦沢「曹洞宗 龍泉寺」・・・・ありました「金剛山」



尚、 「三春の梵鐘」が、古峯ヶ原様から、光明寺に移ったいきさつについては、昭和17年の金属類回収令によって従来の梵鐘を失った光明寺が、本梵鐘を受け継いだとされています。
三春の講中による梵鐘の寄進は、江戸時代の古峯原金剛山の東北地方の修験の活動と分布を示す貴重な資料とされているとのことでした。

「梵鐘」・・・・?
上記しましたが、太平洋戦争勃発後、金属不足を補うために出された「金属回収令」に伴って全国の寺社仏閣から梵鐘が供出されて以来、三春の地にも鐘楼はありますが“梵鐘は無し”というのが普通でしたので、梵鐘から歴史を手繰るというのはすっかり抜けていた事柄でしたので、大変に興味をそそられました。

現在“火伏の神様”として全国から参拝者が後を絶たない“古峰ヶ原さま”と親しまれている「古峯神社」
私も、三春町消防団の一員でしたので、何度か参拝したことがあります。

この古峯神社は、かつては金剛山とも呼ばれ、修験道の一大修行道場でした。
大芦川の源流に近い緑なす渓間、優美を醸す山麗に鎮まる古峯神社はご祭神に日本武尊をいただく由緒深い神社です。
・・・・古峯神社を中心とする古峯ヶ原は日光全山26院80坊の僧たちが、修行に励む霊地となり、明治の初めの神仏分離令で現在の古峯神社となりました。
・・・・古峯神社ホームページより

山岳信仰と修験道

修験道の開祖と言われている役行者(役小角)(えんのおづぬ)はこの金剛・葛城山系にて修行され、全国に広めていかれました。

平安時代になると修行者はさらに増え、空海の導きによる密教系の人々も山岳修行にはげみ、各地に伝説を残されています。
平安時代の末期になると、修験道は密教や道教、陰陽道の要素をも取り入れ独特のものとして完成していきます。

山伏とは、まさに山野に伏して修行し、呪術的験力を獲得した者のことで、中世以降になると役行者は修験道の開祖と仰がれるようになり、役行者1100年の御遠忌を迎えた寛政8(1799)年には「神変大菩薩」の諡号を授与され、現在に至るまで篤く尊崇されてきました。

三春の修験についてはこちらをクリックください



龍泉寺・・・同じ龍の付くお寺さんでしたので興味があったのですが、今回初めてお邪魔しました。
田村三十三観音第二十一番千手観音をご本尊としています。



禅寺らしく綺麗に整備され、当に龍の口から湧きです泉の力によって心が洗われかの如く、清々しい居心地のいいお寺さんです。



また、宇内奥に鎮座する”瑠璃光薬師如来”を安置する「大風薬師堂」




この建築美!
しばし見とれてしまいました。



龍泉寺の扁額です。
この”龍”の字!素晴らしいです。

| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村庄六十六郷 |
三春物語725番「岩代國白沢村五斗内「三輪大明神(三輪神社)」


岩代國白沢村五斗内「三輪大明神(三輪神社)」



ご覧のように、県道沿いの断崖絶壁のところに建立されています。
石造鳥居は本震災で崩れてしまいましたが、拝殿は無傷です。



境内には、庚申や十三夜の講中石碑に混ざって三輪大明神の本尊である石造大黒天もあります。

大黒天の信仰が一般に広まるようになったきっかけは大黒天と大国主命の習合によるといわれています。
これは、大国主命の大国と大黒の音が通じ合うことから、両者が同一視されるようになったことにもよりますが、初期仏教の天台宗や真言宗からの働きかけもあったと考えられます。
 
旧白沢村には寺院が四ヶ寺(金礼寺、岩角寺、観音寺、円福寺)ありますが、すべて天台宗の寺院です。

安達三十三観音
31番札所
天台宗高松山観音寺  馬頭観世音
白沢村糠沢字高松27  

32番札所
天台宗白岩山金札寺  千手観世音
白沢村白岩字根岸386  

33番札所
天台宗岩角山岩角寺  聖観世音
白沢村和田字東屋口84 



調べた所によると、十四世紀に書かれたとされる「三輪大明神神縁起」によると、最澄の前に大黒天に姿を変えた三輪大明神が現われたとされ、三輪大明神は大国主命を祀っており、そこから大国主命=大黒天と伝えられてきました。

また、大黒天の信仰が広がると、台所の神様としての側面は、台所の中心となるカマドを守ってくれる神様ということで、カマド神の側面も持ち始め、大黒天が踏む米俵に象徴されるように、白沢村のような農村では田の神との役割もはたし、商家では商売繁盛の神様という役割もはたすようになります。
 




大神神社(おおみわじんじゃ)三輪さんと呼ばれる由来
ミシマノミゾクヒの娘のセヤダタラヒメ(勢夜陀多良比売)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。セヤダタラヒメに何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、セヤダタラヒメが用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。
こうして生れた子がヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)で、後に神武天皇の后となった。

スエツミミ命の娘のイクタマヨリビメの前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかしイクタマヨリビメはそれからすぐに身篭ってしまった。
不審に思った父母が問いつめた所、イクタマヨリビメは、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。

「日本書紀」参照


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