2009-11-09 Mon
むかし、三春城下の切り通し付近にあった吉祥院の裏手に、樹木がこんもりと繁り、中へ入ると昼間でもうす暗いという塚があった。この塚に次のような話が伝えられている。
毎年夏から秋にかけて、毎晩のように大きさ一尺ぐらいの火の玉が、この塚から飛び出してきて、空中をゆらゆらとただよい、さらにまわりの村々までも飛びまわって、明け方になると、もとの塚に帰ってくるのである。別に、村人たちに危害を加えるわけでもないので、村人たちはだれも恐れていない。
むかし、この塚のところに山伏が住んでいた。
山伏は他界してから、どうしたわけか不運にもその魂が安住の地を見つけることができず、霊火となって夜な夜なさまようようになり、常に人里近くまでやってくるようになったと言われている。
2009-11-07 Sat
「魂呼ばい(たまよばい)」西方や御祭では、人が亡くなりそうな時に塩竃神社でお千度を踏みます。
これは、魂呼ばいと言われる行為で、民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為とされています。
死も仮死もともに肉体から霊魂の離れた状態であるとして、その遊離した霊魂を再び肉体に戻すという観念が働き、復活の可能性が信じられたところから来ていると考えられています。
現代日本では死体は火葬に付され、一般的で復活の観念は生じにくいものです。
それは後世になって火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流でした。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託したとされ、具体的なものとしては、死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習があったと伝えられています。
2009-11-06 Fri
観音堂の遺書恨みを残して死んだ人間の怨念ほど怖いものはないと度々思います。
感情と言ってもいろいろありますが、怨念こそ人間の深い業に一番起因している感情ではないでしょうか。
恨み、怒り、嫉妬と言った感情が怨念に変化する時、人間の持つ底知れぬ恐ろしさを感じてしまいます。
三春城下に伝わる古い話です。
材木問屋に、体の弱い和助という一人息子が居ました。
和助に、いつの頃からか近所に住む次一と呼ばれる男がまとわりつくようになりました。酒癖が悪く、遊ぶ金ほしさに強請やたかり、さらに付け火するなど城下では評判の男でした。
次一は、遊ぶ金ほしさに目をつけたのが和助で、人のいいことを良いことに、金品を巻きあげていました。
それに気づいた材木屋のおかみは、息子近づけまいと次一を遠ざけていました。
しかし、ずる賢い野良犬のように次一は、女将の目を盗んでは、「悩みを聴くから」「嫁を世話するから」と言葉巧みに再び和助に近づき、連れだしては、飲み屋にある自分の借金も払わるなど、度々銭をむしり取り、遊び金に使っていました。
周囲の者も、二人のことは知っては居ましたが、次一に関わるのが嫌で見て見ぬふりです。
それに落胆の差した和助は、救いを求めてはお寺の和尚さんに相談に行くようになりましたが、世をはかなんで、遺書をお寺に預け首をくくってしまいました。
遺書には、次一からの仕打ちがしたためられ、現世では怖くて出来ないが、死んで怨霊に変化して恨みをはらすと言うことが書かれていたそうです。
葬式の日、何食わぬ顔でお寺に現れた典次をみた母親は、発狂し息子を亡くした悲しみと相まって病にかかり、程なく亡くなったそうです。
後に、次一には、父親の変死や母親の失明、子供の発狂など次々と災難がつきまとうようになり、自らも狂い死にしてしまいました。
現在でも、この遺書は、母親が和助供養のために、お寺の境内に建立した観音堂に納められています。
憎しみに燃えた執念ほど恐ろしいものはありません。
その人間は、恨み故にそのかたきを殺し、それにも満足せずにその子孫を次々と殺し尽くし、ついにかたきを根絶やしにしてしまいます。
しかし、そこまでしても、憎悪の炎は消えるどころか、怨念となってますます激しく燃え盛る一方で、ついには恐ろしい鬼の姿に成り果ててしまいます。
鬼になった怨霊は、自らの呪われた運命をしきりに泣いて悔いるが、いつまでも消えることがない怨念ゆえに、永久に生き続けていかねばならないといわれますが、死ねば生まれ変わることも出来るが、それすらも出来ないのでしょう。
| ryuichi | 22:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
2009-09-26 Sat
鎌鼬(かまいたち)は、 鎌風(かまかぜ)とも呼ばれ、元来は「構え太刀」の訛りであると考えられていますが、つむじ風に乗って現れるイタチに似た妖怪とされています。
両腕には鋭い鎌を持ち、通り過ぎると刃物で斬りつけたような傷を負う。時には骨まで達する場合もあるが、直後は痛みも感じないし出血もない。しかししばらくすると激痛が襲い苦しむことになると云います。
不思議話を集めた江戸時代の随筆集『耳嚢』には、鎌鼬が動物の姿をしていると想像される記述があります。
「つむじ風に巻かれている子供を助けたところ、着物の背中一面にイタチの足跡のようなものが無数につけられていた」と云うことらしい。
三春では、鎌鼬は三体一組で現れると云われ、一体目が人を倒し、二体目が斬りつけ、三体目が薬をつけていくから傷口は痛まないと伝えられている。
また、人の生首の形をして落ち葉の上を車のように飛んだりする魔風である。
人がその風に会うと大熱を起こすと言われ、その正体は死後に行き場のない、風になってさまよっている亡霊であるという。
鳥山石燕は、鎌鼬を中国の妖怪である窮奇(きゅうき)という字をあてている。しかし鎌鼬と窮奇、実は全く似ても似つかない。『山海経(西山経)』では、ケイ山に住み、針鼠の毛を持ち、犬のように吠え、牛のような人を喰らう怪獣と紹介され、また『春秋左伝』では四境(四方の国境)を守護する怪神であるという。
2009-09-20 Sun
三春に伝わる民話に、「おむすびころりん」があります。
お爺さん或はお婆さんが転がり落したおむすびを追いかけて穴の中或は他界へと導かれ、そこで地蔵や鬼と出合って試練を潜り、最後には宝物を持ち帰るという三春版「おむすびころりん」の昔話です。
一般には、鼠が出てくる話ですが、それは子供向けに話の内容が弱められてできた話なのでしょう。
この物語の内容をよくよく考えてみると、この話が一種の冥界への往来話であることに気づきます。
お爺さんやお婆さんが転げ込む穴の底の世界には、お地蔵様や鬼たちが出てきます。
地獄は仏教の影響を受けておどろおどろしいイメージを持つようになりますが、古の三春人にとっては、祖霊の住む異界という観念があり、それが地獄のイメージと習合し、異界は恐ろしい世界である転化しますが、一方では祖霊たちがこの世の子孫を見守っているというように考えられていました。
川平不動明王
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