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三春物語346番「魂呼ばい(たまよばい)」
「魂呼ばい(たまよばい)」
西方や御祭では、人が亡くなりそうな時に塩竃神社でお千度を踏みます。
これは、魂呼ばいと言われる行為で、民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為とされています。
死も仮死もともに肉体から霊魂の離れた状態であるとして、その遊離した霊魂を再び肉体に戻すという観念が働き、復活の可能性が信じられたところから来ていると考えられています。
現代日本では死体は火葬に付され、一般的で復活の観念は生じにくいものです。
それは後世になって火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流でした。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託したとされ、具体的なものとしては、死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習があったと伝えられています。




| ryuichi | 06:12 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
平成版三春城下怪奇奇談「観音堂の遺書」
観音堂の遺書

恨みを残して死んだ人間の怨念ほど怖いものはないと度々思います。
感情と言ってもいろいろありますが、怨念こそ人間の深い業に一番起因している感情ではないでしょうか。
恨み、怒り、嫉妬と言った感情が怨念に変化する時、人間の持つ底知れぬ恐ろしさを感じてしまいます。

三春城下に伝わる古い話です。
材木問屋に、体の弱い和助という一人息子が居ました。

和助に、いつの頃からか近所に住む次一と呼ばれる男がまとわりつくようになりました。酒癖が悪く、遊ぶ金ほしさに強請やたかり、さらに付け火するなど城下では評判の男でした。

次一は、遊ぶ金ほしさに目をつけたのが和助で、人のいいことを良いことに、金品を巻きあげていました。
それに気づいた材木屋のおかみは、息子近づけまいと次一を遠ざけていました。

しかし、ずる賢い野良犬のように次一は、女将の目を盗んでは、「悩みを聴くから」「嫁を世話するから」と言葉巧みに再び和助に近づき、連れだしては、飲み屋にある自分の借金も払わるなど、度々銭をむしり取り、遊び金に使っていました。

周囲の者も、二人のことは知っては居ましたが、次一に関わるのが嫌で見て見ぬふりです。
それに落胆の差した和助は、救いを求めてはお寺の和尚さんに相談に行くようになりましたが、世をはかなんで、遺書をお寺に預け首をくくってしまいました。

遺書には、次一からの仕打ちがしたためられ、現世では怖くて出来ないが、死んで怨霊に変化して恨みをはらすと言うことが書かれていたそうです。

葬式の日、何食わぬ顔でお寺に現れた典次をみた母親は、発狂し息子を亡くした悲しみと相まって病にかかり、程なく亡くなったそうです。

後に、次一には、父親の変死や母親の失明、子供の発狂など次々と災難がつきまとうようになり、自らも狂い死にしてしまいました。

 現在でも、この遺書は、母親が和助供養のために、お寺の境内に建立した観音堂に納められています。

憎しみに燃えた執念ほど恐ろしいものはありません。
その人間は、恨み故にそのかたきを殺し、それにも満足せずにその子孫を次々と殺し尽くし、ついにかたきを根絶やしにしてしまいます。
しかし、そこまでしても、憎悪の炎は消えるどころか、怨念となってますます激しく燃え盛る一方で、ついには恐ろしい鬼の姿に成り果ててしまいます。

鬼になった怨霊は、自らの呪われた運命をしきりに泣いて悔いるが、いつまでも消えることがない怨念ゆえに、永久に生き続けていかねばならないといわれますが、死ねば生まれ変わることも出来るが、それすらも出来ないのでしょう。


| ryuichi | 22:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
三春物語238番 「三春の戻橋」
生活の場、いつも見慣れたおなじみの風景、そこには日常があります。
しかし、その日常の場所が、時として非日常である異界に変わってしまうことがあります。
 まだ、役場の隣、桜川沿いに警察署があった明治の初め頃の話です。
早朝、ある少年が警察署の武道場で行われていた剣道の寒げいこに向かう途中、櫻川沿い裏通りにある「桜谷橋」という橋が二つに増えていた。
石を投げると右からは石が水中に落ちる音が、左からは石が木に当たる音がした。
左の橋を渡ると右は消えたという。
また、同じ裏町の「小金橋」という橋では、川底の石があります。
通行人が深夜これに笑われると必ず異変があると言われていた。
ある士族が石に笑われたので自分も石に笑い返して引き返すと、何事もなかったという。



| ryuichi | 07:08 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
三春物語237「三春夜這い夜話」
夜這いは、掟もあり、古くは求婚の意味もありました。
掟破りには、時には村に住めなくなるほどの仕置きもあり、掟破りはほとんど無かったといわれます。
また、結婚相手を見定めるための真面目な面もあったのであり、若い男が、他人の家に忍び込んで、強姦するという類の話では、けっしてなかった。
 夜這いの掟は、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではく、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものです。
相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされました。
 男は、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられます。
まず、先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものだと聞き及んでいます。
 
 娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしがあったといわれます。
そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。
そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての指導がなされてきました。




| ryuichi | 06:47 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
三春物語230番 「三春の怪猫談」


 三春には「怪猫」の話がいくつか伝わっています。
江戸期のお家騒動絡みに話がほとんどですが、明治以降に作られた話です。
明治維新後、三春町民は、不安な世情と大火や大雨など天変地異から、憶測が憶測を呼び少しずつ物語が作られていったのでしょう。
 お家騒動の怪猫話に、家老の荒木家がよく取りあげられます。
お家騒動は、享保年間に発生し、天明の滋野火事の大火までは70年という時間が経過しています。また、明治の大火での怪猫騒ぎまでは、なんと170年という時間が経過しています。この時間差に因果を求めるのは無理な話ですが、世情不安のなかで人々は不安を抱き、悪役を作りたかったのでしょう。



現在、荒木家の墓が、荒らされ放置されていますが、筆頭家老職にあった家の墓所を当時荒らせるはずもなく、明治期初頭に誰かが意図的に、荒木家を追い込み、跡取りがないことを良いことに三春から追い出しました。
さらに大火の直後に「大火の化け猫」話を作り上げ、焼け出された人々を翻弄して、一部の人々が、腹いせ紛れに、墓所を荒らしたのでしょう。
裏には、威信のどさくさに紛れて、三春藩の解体での利を独り占めしたと考えても不思議はありません。



この話も、明治期に作られた化け猫話の一つです。
新町にある禅寺には化け猫の話が残っています。
昔、「御大尽」とよばれた大金持ちが突然死にました。
葬儀行列の際、突然空が暗雲に覆われ豪雨となり、雷光が走りました。
すると、雲間から猫の目が光り、猫は棺桶に足をかけてきます。
和尚は払子を猫にはらうと猫の尾は斬られ天空へ逃げ去りました。
また、和尚様が可愛がっていた老いた「トラ」という猫と暮らしていましたが、
食うに食えなくなり、化ける力を身に付けたトラが和尚様にある提案をします。
他の大きな寺であった葬儀の死体を奪うので「トラヤトラヤ」と唱えれば下ろすから、
と和尚に語りました。
果たして化け猫トラが死体を奪うと何をしても棺桶は下りてきません。
困った村人たちはワラにすがる思いですぐそばの貧乏寺の和尚を呼びに行きます。
和尚は、ははぁこれがトラの言っていたやつだな、と早速
「トラヤトラヤ」と経を唱えた。すると棺桶はスルスルと地に下り、城下の人は、和尚の法力に驚きました。





| ryuichi | 05:28 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
三春物語59番 「塔頭光照寺の小僧」


大元帥明王の塔頭光照寺の小僧
その昔、新町に三春領内総鎮守大元帥明王社の配下に修験光照寺という寺があった。
この寺の役目は、大元帥明王の祭礼も含め年間の社殿維持管理の手伝いをする役目を負い、秋田藩政下では大元帥明王別当真照寺の指揮下にありました。

 ある時、小僧が和尚の使いで明王党屋当番の赤沼集落名主へ書状を持って行く途中、どうしたわけだろうかその書状を失くしてしまい、一晩中捜し求めたが、遂に見当たらず、
小僧は申し訳ないと思い、哀れにも大滝根川に身を投げて果ててしまった。

その後、春のから秋の初めにかけての草木も眠る丑満刻の頃、大滝根川に沿う荒井と斉藤の間の川の堤の上を、突然現れて、ふわりふわりと行きつ戻りつしながら、ふっと一瞬にして消えてしまう怪火が出ることがあります。

 ある年の夏、屈強の若者が数名、盆踊りの帰りに、この怪火の正体を見届けてやろうと、川堤に出かけ、稲の茂みに隠れて見守っていたが、ほとんどのものはその怪火が現れたとたん恐れをなし、その正体を確認することはできなかった。
それでも1人だけ気丈夫の者がいた。

彼は、怖いながらも、その怪火に気付かれぬように後を追い、やっとのことでその正体を確認したところによれば、裾のあたりは、ぼやっとしてはっきり見えなかったが身長が6尺または7尺もあり、蒼白い衣服を着け、ややうつむき加減に、その表情は無限の悲哀、憂愁、怨恨にもだえ苦しんでいるような大男が、足早に過ぎ去った姿であった。
この怪火は、この投身した小僧の怨霊と言われています。

 尚、光照寺は明治維新後の廃仏毀釈により廃寺となりますが、その後火災により伽藍は消失し、後にその地で三春一、二の商いをしていた造り酒屋は二代と持たずに廃業し、残った家屋も不審火により焼けてしましました。

また、三春の寺社仏閣に付き物の「光照寺の枝垂れ桜」も、心ない者のたき火によって半焼けとなり未だに桜花が、二割ほどしか咲きません。





| ryuichi | 06:14 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
三春物語122番 「貝山狐イタズラ」
貝山のイタズラ
貝山村の堀之内で、学校開きのお祝いがあって、酒を飲んでほろ酔い気分で夜道を帰ってきた。
いろいろお包み物があったので、風呂敷に包んで首に引っかけて途中まで来たら、なんぼ前さ出っぺとしても、首が引っかかってでらんにい。
力任せに、引っこ抜いたら、つん抜けた。
家さ帰って、我が家との隣のカジジサマのものも預かって来たのだが、どちらの包みも魚だけがなくなっていたという。
また、小正月の三春だるま市には必ず町に年始にゆく家があった。
その年も、年始回りをした「だるま市」の帰りでした。
いつものように、年始先で酒をごちそうになり、いい気分でで帰って来たが、いくら歩いても自分の家に着かない。そうこうするうちに、やっと我が家に着いたらしく、「さあ、上がれ」と言われて座敷へ上がった。そしておみやげにもらったお包みを開いて皆に食わせた。そのうち、酔いも覚めてきたのか我が家と違うことに気づいた。
よく周りを見ると、しいたけのホダ木を積んだ上に座っていた。



| ryuichi | 16:37 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |