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安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)




塵壺393号 令和6年4月発行


安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)

安東愛季は、後の三春五万石秋田氏初代藩主となる秋田俊季の祖父で、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された戦国武将です。

津軽地方の下国檜山家・安東氏の御屋形(当主)安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。

母はもう一方の安東氏、上国湊家安東氏出身の嶺松院です。


安東愛季が御屋形となる安東氏は、平安期の武将・安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。



その繁栄ぶりは国内外に広く知れ渡り、ルイス・フロイスが著した永禄8(1565)年の書簡にも愛季の蝦夷交易のことが記されています。


愛季は、長年に亘って利権争いなどから二分して争ってきた安東一門を統一するため、婚姻関係と養子縁組など政略的な縁組を行って弟・茂季を湊・安東家に養子入りさせ、湊家安東氏を吸収する形で、桧山・安東氏と湊・安東氏を統一して一流の戦国大名として本格的な領土拡張に動きます。


そして、愛季は戦国時代となる室町幕府末期の中央との政治工作も忘れてはいません。

強大な海軍力を備えた安東水軍を率いて日本海北前船交易で収集した畿内情報をもとに、娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使し、「言継卿記」を現した公家の山科言継などを使って織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。


また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。

さらには、北前貿易で蓄えた安東一門の財力をもって豊臣政権下での戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していたと考えています。


その一例として、蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられ、その時に殿様(愛季・實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。

愛季はさらに領地拡大を目指して領国経営戦略を打ち出し、比内郡を含む出羽国北部の大部分を領地としました。

同年には、「本能寺の変」が起こり、信長が明智光秀に討たれて、天下が豊臣秀吉に移っても安東氏の立ち位置は変わりません。

これが結果として、後の安東家に大きな役割を果たします。






天正15(1587)年、愛季は仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いの最中、淀川の陣中で病により世を去りました。

享年四十九。戒名は龍穏院殿萬郷生鐡大禅定門。

墓所は三春城下荒町の秋田家菩提寺秋田山龍穏院にあります。

愛季の知略は、息子である實季(俊季の実父)にも受け継がれます。

天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。


實季の姉、慶松院・北畠(浪岡)顕村夫人と婿養子慶好らが公卿北畠氏の権威を利用した禁裏・公家工作を行い、さらには、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開して安東家の安堵を画策します。

特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な配慮を受けることに成功して無地、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。

尚、慶松院は、常陸宍戸(現茨城県笠間市)で亡くなりますが、法名・昌安恵繁と刻された墓石は、父愛季の墓石同様に秋田氏の三春入部に伴って移された菩提寺龍穏院の秋田家墓所に運ばれて建立されています。






      蒼龍謹白  さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 21:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一


  三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏


三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。

安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。 


三春初代秋田俊季の祖父安東愛季

安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。

また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。


蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。

「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。



「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)

天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。

特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。

この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。

「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。

後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。

以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。

蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。



若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像 

奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。

羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。

この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。


さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。

若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。



高野山奥之院三春秋田家墓所 

奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。

 他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。

尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。



蒼龍謹白  拝 




付記


「高野山金光院 三春家中過去帳 享保十七年始」 全61折

「三春家中過去帳 自永正十六年 至享保十七年」  
        
「南無大師遍照金剛 高野山 金光院」

   永室妙久大姉  
永壽院殿御局伊井殿為自身逆修
 御石塔奥院有之 萬治三年十一月八日
               
   越山了公禪定門     
施主秋田豊嶋武藏殿立之 永正十六年八月三日

   乗重禪定門       
施主秋田豊嶋惣右衛門殿為逆修立之 永正十六年己卯七月廿六日
                  
   妙光禪定尼       
施主同人 右同時立之
                
   乗泰禪定門       
施主秋田豊嶋惣右衛門立之 永正十六年七月廿六日

   浄雲禪定門       
施主秋田大平坂口次平殿立之 永正十六年七月廿六日
                  
   善祐禪定門       
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 永正十六年七月廿六日
                  >

   藤参禪定門       
施主秋田豊嶋次郎左衛門殿 大永二年八月
                  
   華月浄春居士      
施主秋田湊藏人殿立之 大永五年九月十八日
                  
   月窓妙光大姉      
施主秋田御屋形様内村松源之焏殿 大永六年六月十七日
                  
   妙高          
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
                  
   本高          
施主同人 右同時立之
                  
   妙西禪定尼       
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 大永五年七月
                  >

   道永神居        
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
                  
   道順禪定門       
施主秋田大平兵右衛門立之 天文三年六月十四日
                  
   那智阿弥陁佛      
施主秋田豊嶋 天文四年八月十日
                  

   舊山妙香定尼      
施主秋田御屋形様内湊左京進殿 天文十九年二月十五日
                  
   妙光大姉        
施主秋田御城内古屋左衛門尉殿立之 天文三年七月廿一日
                  
   志父尊霊        
施主秋田御屋形様内大平左京進殿 天文廿二年四月廿一日
                  
   高範禪定尼       
施主秋田御屋形様内湊伊豫守殿 天文八年八月四日
                 
   高山春公沙弥      
施主秋田御屋形様内石塚衛門四郎殿 天文廿三年四月廿一日
                  
   妙金禪定尼       
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿 天正廿年二月八日
                  
 日 春月宗陽禪定門     
施主秋田御屋形様内湊五郎殿立之 天正十一年六月廿四日
                 
 日 南臺香林童女      
施主秋田御屋形様内大平殿 但為御息女也 天正十六年十一月十九日
                  
   即法禪定門       
施主秋田御屋形様内 取次内膳殿 天正廿年正月十二日
                  
   花心禪定尼       
施主秋田御屋形様内桓崎衛門殿立之 天正十七年三月十四日
                  
   道光禪定門       
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿立之 天正廿年二月八日
                  
 日 高月禪定門       
施主秋田御屋形様内田口彦助殿 但為弥四郎追福立之 天正廿年二月八日
                  
   龍然禪定門       
施主秋田御屋形様内伏部沢二位殿為父 文禄三年七月廿二日
                  
   鉄舩庵殿大虚洪廓庵主  
秋田奉為為御屋形様尭季公御菩提也 
施主石塚衛門四郎立之  天文廿三年七月廿八日 
                          
九月十三日忌
   鉄舩庵殿大虚洪廓庵主  
秋田奉為御屋形様𠒖季公御菩提也
施主湊尾張守立之 天文廿三年七月廿八日
                           
九月十三日忌 
   鉄舩庵殿大虚洪廓庵主  
秋田奉為為御屋形様𠒖季公御追福也
施主金光院 天文十九年二月十五日
                  
九月十三日忌    
源安徹公居士      
施主秋田大平摂津守殿 永禄八年十一月 日
                 
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士 
秋田奉為為御屋形様愛季御菩提也 施主桓崎衛門尉 天正十七年三月十四日
                          
天正十六年九月朔日忌
   龍穏院殿萬郷生鉄大居士 
秋田奉為為御屋形様愛季公御菩提也 天正十八年七月一日 城之助殿御父
                  
   湖光妙正大姉      
秋田二郎殿御祖母為御逆修也 施主大平岩見守 天正十八年七月七日
                           
   香林月照大禪定尼    
施主秋田大平岩見守殿 天正十八年七月七日
                  
   高月      
逆修 施主秋田御屋形様内垣崎衛門殿 天正十七年三月十四日
                     
華窓心公大禪定門    
奥州深浦物主木場袋右衛門頭吉季為御菩提也
    御施主安東藤太郎様御老母 文禄二年二月十六日 三十三回忌
                  
   高月大禪定尼      
施主秋田御屋形様内御湊専十郎殿 為老母立之
                  文禄五年四月二日

   壽山妙宗禪定尼     
施主秋田御屋形様内御千代様立之
                  文禄五年四月二日>

   熒月榮公沙弥      
施主秋田御屋形様内傳右衛門殿立之
                  慶長二年八月十一日

   巨海大姉    
逆修  施主同人 為老母立之
                  慶長二年八月十一日

   松月頂上大禪定尼    
施主秋田御屋形様内 相模守殿 取次兵右衛門殿
                  慶長二年八月十一日

   塒清春公大姉      
施主同人
                  右同時立之

   晏叟宗清大居士     
施主同前
                  右同時立之

   心月秋芳大禪定尼    施主同前
                  右同時立之

 日 光含宗圓大禪定門    施同前
                  右同時立之

   雲林宗月大禪定門    
施主秋田御屋形様内勝三郎 但為半兵衛菩提也
                  慶長五年九月廿四日

   榮山宗觀禪定門     
施主秋田御屋形様内新山将監 但為内方立之
                  慶長七年五月十八日>

   高林常秀禪定門     
施主秋田御屋形様内御虎様 但為舎弟立之
                  御使者中村織部
                  慶長十二年閏四月十三日

   月暉      逆修  
施主秋田御屋形様局立之 取次紅梅殿
                  慶長十三年八月朔日

   珎齡永松禪定尼     
施主秋田御菊様 但御局為菩提立之
                  御使者中村織部
                  慶長九年正月十四日

   池盛妙蓮禪定尼     
施主秋田御菊様 但為御老母立之
                  御使者中村織部
                  慶長十二年壬四月十三日

   秋月妙圓禪定尼     
施主秋田御菊様 但為伯母立之
                  御使者中村織部
                  慶長十二年潤月十三日

日牌 春嶺晴雲禪定尼     
施主常州宍戸城主秋田城介様内湊道久息女御宿様
                  但姉中殿為菩提也  取次三光院(金光院)久尊
                  寛永元年二月廿一日忌

      慶長十三年十一月四日 十七回忌
   梅節妙紅禪定尼     
施主常州宍戸城主秋田城介様内秋田仁左衛門子息
                  七兵衛殿 為悲母也   取次久尊
                  寛永元年八月廿三日

      元和九年八月四日忌
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉  
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
                  施主秋田将監殿
                  元和九年十一月朔日

日牌 瑞祥院殿東明清関大姉  
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
                  施主金光院祐實
                  元和九年十一月朔日

   玉窓妙金禪定尼     
施主常州宍戸城主秋田城介様内岡道與内方
                  但為悲母也
                  元和六年庚申二月廿五日

   心庵宗徳沙弥      
施主常州宍戸城主秋田城介様内三光院久尊
                  為父立之
                  寛永二乙夘年七月廿六日>
               (後略)




三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 19:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
「奥州下国殿之代々之名法日記」 熊野那智大社関連文書 安東氏
「奥州下国殿之代々之名法日記」 熊野那智大社関連文書

安藤又太郎宗季、其御子息師季、其子ニ法季、其子二盛季、其子ニ泰季と申、今の下国殿也。永享十二年(1440)ノ頃。嘉吉元年 

「奥州下国殿之代々之名法日記」米良文書(和歌山県熊野那智大社所蔵)によれば、嘉吉元年(1441)、紀伊国熊野郡那智神社の先達(尻引三世寺別当)が、檀那・安東・安藤氏の嫡流の系図を作成し、御師の実法院に提出している。

熊野那智社の檀那となった氏族は一代に一度は那智社に参詣し、宝前に願文と系図を奉納するのが慣例であり、この系図は、当主の署名・花押に先達の署判を加えた正文が宝前に捧げられ、その写しが御師のもとに残されたものです。
※師季(高季)の父と書かれている宗季が譲状と合わせて、季久であること、高季の子・盛季の父が法季であることがわかる。

 安藤又大郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季と申候也、今安藤殿師季と申候也、

 この史料は、貞和五年(1349)一二月二九日「陸奥国持津先達旦那注進状案」、熊野那智大社文書である。師季が下国と号し、当主は又太郎と名乗っていたことがわかる。
「伝承と史実のあいだに」他 参考

熊野と津軽はこの文書に示されているように結ばれており、安東(藤)氏の祖先は糠部建部に拘わり合いを持ち、それは紀州からあの白浜の地名が残る沿岸を少しずつ北上してきた集団ではなかったのかとも考えられます。

そこに安東水軍という海運水軍構築の形成過程が見え隠れしてきます。

その延長線上に、安東氏の本拠地が古八戸湾であるように思えてしかたがありません。

さらに、その本拠を古八戸湾から下北へ、そして十三港へと時代と共に飛躍させていったように思える。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:50 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号 




塵壺390号「高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所」 令和6年1月号 


     高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所 




     高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所 

今も尚、禅定(永遠の瞑想)を求め入定した空海が生き続ける霊域「高野山奥之院」。その入口「一ノ橋」から弘法大師御廟へと続く参道には厳粛な雰囲気が広がっていて、古木に覆われ静寂な空間の中には20万基を超える五輪塔等の供養塔や墓石群が広がっています。




 

その中に、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、そして、結城秀康といった戦国武将・大名の墓所として約110家の墓所があります。

武田の近くに上杉、そして、信長と光秀、徳川と結城等々・・・敵同士として戦った家中であっても関係なく、安らかに眠っているように感じられます。





これは高野山「御廟」に在る空海・弘法大師のそばで眠りたいとの先人たちの願いがこめられていると伝わっています。






 
磐城三春藩秋田家も、同じく高野山に墓所(供養塔)を求めた大名一家で、「奥之院」へ向かう参道「中之橋」のたもと手前右側にあります。









「金剛峯寺境内奥之院地区大名墓総合調査報告(高野町教育委員会編)」を見ますと、三春秋田家の墓所には、大型の五輪塔5基と中型五輪塔9基ほか多数の石塔があると記載されており、秋田家の墓所に五輪塔5基は南北方向に並んでいます。






三春藩初代後室 永壽院殿 本壽院真誉春覚照法 万治3年 盛季母

三春藩初代 真如院殿実岩常固 秋田俊季公 
           慶安2年 勤大阪城番於城中病没 

三春藩2代 陽雲院殿龍天蒼松 秋田盛季公 
            延宝4年 勤大阪城番於城中病没  

三春藩3代 乾元院殿剛山瑞陽 秋田輝季公 享保5年 

三春藩4代 廣運院殿俊徳玄明 秋田頼季公 寛保3年 


 秋田家墓所中之橋の手前右に3代輝季公の嫡子で、秋田伊豆守就季(廣季)公(大通院殿心源自性)の五輪塔もあります。

 就季公は、三春藩家督争いとされる「正徳事件」渦中の人として家督せぬまま正徳5年6月4日に父に先だって亡くなっています。

 この五輪塔は旗本秋田家から秋田本家輝季公の養子を経て4代藩主になった頼季公(家老荒木高村長男)が建立したものです。







 そして、「施主奥州三春城主秋田信濃守安倍頼季 三男秋田安五郎行歳八年而卒」「元文四己未 二月廿三日」と記された供養塔が見えますが、この方は、頼季公の3男で8
歳という幼さで亡くなった慈光院本性長了薫・安五郎・後の秋田民部公です。早世した為でしょうか高野山に供養のための石塔・墓が建てられています。







 尚、5代藩主の秋田延季(治季)公・法名天稟院殿令徳永顕から歴代の藩主は、三春城下秋田家菩提寺高乾院墓所に埋葬されており、以後藩主の高野山への埋葬はありません。(初代俊季公から四代頼季公の分骨された墓も高乾院にあります。)






 しかし、三春8代藩主秋田長季(謐季やすすえ)公だけは、もう一つの秋田家菩提寺である龍穏院の墓所に大仰院殿法鑑高輪大居士の法名で埋葬されています。

4代頼季までは高野山、そして、8代の長季(謐季)公は龍穏院にお墓がありますが、他の歴代の藩主は全て高乾院に埋葬されているというのは、家督騒動絡みの家中混乱や祟り伝説等の事情が見え隠れしているような気がします。






 高野山は空海の御廟を中心とする聖域で、古くから奥之院と呼ばれます。


承和2年(835)に没した空海・弘法大師、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するその時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると(宗教的に)信じられていて、弘法大師のもとには「生身供(しょうじんぐ)」称して1日2回の食事が運ばれてきます。







 高野山への分納骨の風習は鎌倉時代から始まったとされており、石造の五輪塔を墓石代とし始めたのが戦国期の室町時代末期。

現在は、江戸時代初期造立した諸大名家の五輪塔が多数見受けられます。

 これは徳川家康が高野山を分骨墓提所と定めたため、諸大名がこぞって高野山に墓石を建てたことに由来するとされています。






      蒼龍謹白  拝  さすけねぇぞい三春!



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元寇に係る安東水軍(安東船)の出撃 「夷千島王(えぞちしまおう)」一条写し




「夷千島王(えぞちしまおう)」一条写し

十三湊往来(抜粋)に元寇に係る安東水軍(安東船)の出撃の記載がありました。

前後の海外交流と共に記載します。

1186年には唐船が16隻来た。

1198年には唐国に安東邑を築成。

1222年には安東船が粛慎国から多数の馬を持ち帰った。韓国貿易盛んになり、また、水軍6隻で流鬼国(樺太)に渡陸し、帰途靺鞨に寄る。

1242年には安東船が西蕃より珍品を得た。1254年には安東船が金国より種馬3頭を得た。
1266年元寇起てる。

1268年安東船18隻筑紫に行く。

1270年安東船16隻沈む。

1274年安東船32隻出撃、元船6隻を撃沈、安東船12隻沈む。

唐涛丸 熊野丸 安涛丸 伏見丸 青竜丸 安東丸 東諸丸 天誅丸 弁歳丸 涛浄丸

十三宗丸 渡鳥丸 巌鬼丸 追手丸 天竺丸 平将丸 大峯丸 大日丸 往来丸 北条丸

大歲丸 皇帝丸 五行丸 竜王丸 神名丸 韓国丸 修験丸 波羅蜜丸 八幡丸 京師丸

蔵王丸 神風丸 白雪丸 大宰丸 金神丸 伝法丸 東日流丸 朝日丸 法城丸 月氏丸

右の安東船は、後の弘安辛日年に参戦して皆減せし軍船名である。


1275年十三湊に唐船21隻来る。

1285年渡島のこんぶを唐国に売益する。

1287年唐船来る。

1290年 安船にて元兵28人帰す。元船が貢宝を献ず。

1303年唐船と韓船34隻来る。

1306年唐船を以てこんぶ、千貝、千魚を商益。

1314年唐船28隻来る。

1319年韓船19隻来る。

1325年紅毛人漂着。

1327年唐船18隻、1401年唐船12隻来る。

その後1607年に至るまで、十三湊に来た唐船の記録はいるされていません。



夷千島王(えぞちしまおう)

1482年、夷千島王遐叉(かさ)の使者と称する宮内卿という者が、「日本国王」足利義政の使者栄弘首座とともに朝鮮王朝漢城に入り朝貢します。
この夷千島王の使者は、蝦夷地と本州の交易に関わっていた東日流(津軽)安東氏が日本国王使の派遣に合わせて送り込んだのだろうと考えられている。

このとき朝鮮側は日本国王の使者には大蔵経を下賜したが、夷千島王の使者には偽物として下賜しなかった。

室町時代、朝鮮王朝との朝貢貿易を行った足利室町政所が、朝鮮国王からの下賜品(回賜品)の中で最も好まれたのが「高麗版大蔵経」でした。

15世紀後半になると大蔵経の印本が減少し出し渋るようになると、有力国主・大名や琉球国王などの名を騙って「大蔵経」を入手しようとする偽使が横行するようになった。






三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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豊臣秀吉「関東・惣無事令」石田三成と安倍實季




豊臣秀吉「関東・惣無事令」と安倍實季


天正13(1585)年、関白となった豊臣秀吉は、同十五年 関東・奥羽の諸大名にあらゆる合戦を停止し上洛臣従するよう命じます。


「惣無事令」がそれです。

しかし、安東實季が収める北奥羽では、天正17年2月、元秋田湊城主湊茂季の嫡男で、茂季死後に豊島城主の豊島通季が湊家嫡流と称し、戸沢盛安や三戸城主南部信直らの支持を取り付け、湊城を急襲します。

実季は、脇本城を経て檜山城に逃れて籠城の末、漸く勝利を収めました。

この「湊合戦」は、実季には蠇崎氏や由利諸氏らの後援があり、南部信直の脅威を受ける津軽の大浦為も実季と手を結びぶという、北奥羽全体を巻き込む争乱の様相を帯びた合戦でありました。

秀吉は惣無事令違反を口実に北奥羽で攻め込む姿勢をしめして、實季を天下人の大軍を以て攻めてその所領を没収して「豊臣蔵入地」とするという話が北奥羽にも伝わってきます。。

實季がこの危機を安東家一族郎党と家臣団の結束をもって乗り切ります。

浪岡から檜山入りしていた北畠顕村夫人と養嗣子慶好らも実季を援けたます。

この顕村夫人とは、實季の姉で、後に宍戸領で亡くなり慶松院昌安恵繁と追号された方で、法名・昌安と刻された墓石は三春転封の際に運三春まで運ばれ、龍穏院墓所にある父愛季の墓の隣に建てられています。

また、實季は家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを秀吉の下へ上洛させて必死の政治工作を展開します。


特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受け、天正18年2月になって領地お安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。


この時の石田三成への恩と御縁もあって、實季公の朝熊へ蟄居の際に近習となって生涯付き添った交野(かたの)十兵衛は、三成の御落胤で関ヶ原合戦の際に石田軍敗走直前に安倍(秋田)實季に預けられたと交野家(郡山在住)には代代伝わっています。


領地安堵後のの天正18年7月、實季は下野国宇都宮城で秀吉に謁見を許され、会津まで従っています。


天正十19年6月、再度の奥羽仕置を行なった秀吉は、實季に出陣を命じた朱印状で所領の安堵を約す「秋田安藤太郎」と明記しますが、海外貿易権利のお墨付きともいうべき「蝦夷探題」蝦夷沙汰は、新たに松前(蠣崎)慶広の任務とされ、中世以来の蝦夷系譜安藤氏による蝦夷沙汰はここで打ち切られました。



安倍・安東(安藤)、秋田氏に関する系図をひもといてみると、安東氏が早くから「日之本(日下)将軍」を称していたと伝えられています。

この呼称は室町時代から用いられたものであると考えられています。

 永享八年(一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が、後花園天皇の勅命を受けまして、前年三月に焼失した若狭国羽賀寺(はがじ)の再建をしています。

この康季が安倍・安東氏では初めに「日之本将軍」と呼称及び告知しています。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
元正天皇・村上天皇勅願 鳳凰山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像




先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・










「羽賀寺本堂上葺勧進帳」

永正11年(1514)、羽賀寺本堂上葺の勧誘文、青蓮院入道尊鎮法親王

「又經卅八年永享七年三月失火、衆徒等焦胸墔肝者領土、唯以本尊無恙、雖為懐餘哀未休タ、聞説、奥州十三湊日之本将軍、作壇契、寄巨多之棒、闋功匠成風之功然、然文安四季霜月十八日本尊遷座以来六十余年、于此今般欲致上葺勧誘、挙唱旧貫之旨、

また三十八年を経て、永享七年三月に失火あり、衆徒等胸を焦し肝を墔きたることは両度なり、唯だ以て本尊は恙無し、おもいをなすと雖も余哀は未だ休むことなかりき、説を聞き、奥州十三湊日之本将軍、壇契と作り、巨多の棒を寄す、功匠成風の功をおこること然り、然るに文安四季霜月十八日本尊遷座して以来六十余年、ここに今般上葺の勧誘を致さんと欲して、旧貫の旨を挙唱す」


「中世の青森を旅する~北の両雄、安藤氏と南部氏の世界~」 参照

○羽賀寺本堂上葺勧進帳は、現存最古の羽賀寺縁起、原本は永正11年(1514)作、現存のものは大永4年(1524)頃、青蓮院入道尊鎮法親王の清書本と考えられています。

羽賀寺が永享七年(14535)三月に焼失したこと、奥州十三湊日之本将軍が、多額の経費をかけて羽賀寺を再建したことが読み取れます。

それを指揮した安倍・安東康季公は日之本将軍と称されていました。


塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季(愛季)、実季木造座像」令和5年8月発行

   


福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。


 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。

平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。







鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。


応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。

この時分は、盛季死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。

この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。

羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。








安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が盛季(父・愛季?)の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。



 

また本堂前の梵鐘は、実季の嫡男で三春藩主俊季公が寄進しています。


梵鐘名
若州遠敷郡本浄山羽賀寺者奥州十三湊
安倍康季公再興之地也依是臻
秋田城介實季公八代胤皆其善志然
先師真通雖浦牟百支損日久而不聞
微妙之声兮也九代之檀越秋田河内守
俊季公之以信心心洪鐘令成就有采庶幾
所者檀越貴福寿域千秋牟

銘日
金輪聖皇 地久天長
国家安泰 寺院繁昌
一聞必満 二世願望
洪鐘得益 功徳無量
正保三丙戊年八月吉日
伝燈阿闍梨権大僧都印良秀敬白
大工江州辻村住田中忠兵衛藤原正次


各種資料によれば、実季と俊季の親子仲は大変悪く、戦国武将の気風を残す實季の行跡を俊季以下家臣団が否定し、その行為に實季が憤慨するという資料も多数残っています。

この羽賀寺も例外ではなく三春藩として寄進額を大幅に減らし、それを知った実季が憤る当時の住職に宛てた書状が現存しています。


これは、伊勢朝熊の永松寺も一緒です。






こちらは、山内にある實季の実弟 安東玄蕃亮英季の宝篋印塔です。


大坂の陣では兄實季と共に出陣していますが、その後は小浜藩の家老職となっています。


再建当時、常陸宍戸藩主であった実季が羽賀寺修復に当たって信頼できる弟、英季を伽藍造営修復の管理の為に派遣・常駐させたという文献ものこります。

落慶以降も宍戸、しして、三春へ転封した安東秋田氏の繋がり残りますので、そのまま小浜藩に出仕して両藩や洛内はもちろん畿内との調整役を担っていたのかもしれません。


尚、羽賀寺山内には秋田実季の供養塔もあります。




もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》









もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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