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元正天皇・村上天皇勅願 鳳凰山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像




先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・








塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季(愛季)、実季木造座像」令和5年8月発行

   


福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。


 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。

平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。







鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。


応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。

この時分は、盛季死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。

この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。

羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。








安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が盛季(父・愛季?)の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。



 

また本堂前の梵鐘は、実季の嫡男で三春藩主俊季公が寄進しています。


梵鐘名
若州遠敷郡本浄山羽賀寺者奥州十三湊
安倍康季公再興之地也依是臻
秋田城介實季公八代胤皆其善志然
先師真通雖浦牟百支損日久而不聞
微妙之声兮也九代之檀越秋田河内守
俊季公之以信心心洪鐘令成就有采庶幾
所者檀越貴福寿域千秋牟

銘日
金輪聖皇 地久天長
国家安泰 寺院繁昌
一聞必満 二世願望
洪鐘得益 功徳無量
正保三丙戊年八月吉日
伝燈阿闍梨権大僧都印良秀敬白
大工江州辻村住田中忠兵衛藤原正次


各種資料によれば、実季と俊季の親子仲は大変悪く、戦国武将の気風を残す實季の行跡を俊季以下家臣団が否定し、その行為に實季が憤慨するという資料も多数残っています。

この羽賀寺も例外ではなく三春藩として寄進額を大幅に減らし、それを知った実季が憤る当時の住職に宛てた書状が現存しています。


これは、伊勢朝熊の永松寺も一緒です。






こちらは、山内にある實季の実弟 安東玄蕃亮英季の宝篋印塔です。


大坂の陣では兄實季と共に出陣していますが、その後は小浜藩の家老職となっています。


再建当時、常陸宍戸藩主であった実季が羽賀寺修復に当たって信頼できる弟、英季を伽藍造営修復の管理の為に派遣・常駐させたという文献ものこります。

落慶以降も宍戸、しして、三春へ転封した安東秋田氏の繋がり残りますので、そのまま小浜藩に出仕して両藩や洛内はもちろん畿内との調整役を担っていたのかもしれません。


尚、羽賀寺山内には秋田実季の供養塔もあります。




もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》









もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
「時空を超えた・伊勢神宮代参日記」 KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 三春担当 三春昭進堂 髙橋龍一 


 
「時空を超えた・伊勢神宮代参日記」

KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 三春担当 三春昭進堂 髙橋龍一 







1、 三春城下荒町 三春藩主秋田氏菩提寺「高乾院」
挨拶・髙橋龍一、深谷悠大 三春城下で一番早く開花する紅枝垂れ桜






2、伊勢神宮  内宮 宇治橋前 二見ヶ浦 夫婦岩 ・外宮・・・・バックの映像






3、 江戸時代の三春藩士 絵師でもある中村寛亭による代参日記「伊勢代参記」

 三春藩士 寬亭は、本名を中村匡(ただし)
文政3年(1820)、御小姓役で家中勤めに入りますが、文政12年(1829)、藩主の命により、絵師荒木寬快に師事し絵の修業に入り、三年後には寛快より「寬亭」の号を許されています。





三春藩領在郷・東郷(三春藩領在郷・東、西、中、南郷に分かれている)代官から始まり、四十五才で町奉行及び宗門奉行、起発奉行を務め、五十四才で三春町町奉行を拝命しています。


時に幕末、三春藩も激動の渦に巻き尾まれます。
三春藩鉄砲物頭(鉄砲組組頭)から外交を担う三春藩外事掛へ転じて諸藩との応接折衝やとなりこの激動動乱の時期を乗り越えました。







4、 伊勢神宮の参拝後のお楽しみ!おかげ横丁とおはらい町で食べ歩き 赤福付近 MC









5、秋田實季(あきたさねすえ)墓所「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。








朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

また、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。






幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。

「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓






尚、現在、永松寺の本堂は新築の為工事中です。


5、 三春へ帰ってきて、三春城下三春藩主秋田家菩提寺「高乾院」にある秋田家累代墓所の墓前に實季公の墓参の報告

三春城下安日山高乾院 尚、實季公の戒名院号が「高乾院」です。

龍一・深谷悠大コメント  シェア!







神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。





※永松院什物、実季公御作之硯箱、御納之天国之[太刀?]

御筆御歌之懸物、三十六歌撰之御筆画像屏風、[其?]外

御紋付御膳椀尤雁金御紋、天国ト二字銘弐尺八寸程□
  (太刀の図)

内宮ニ納候俵藤太之太刀同形同作之由住寺吐候へは?

 萬治二亥年 秋田城介

高乾院殿前侍従……      姫君様御妾之廟有

 十一月廿九日 安倍実季入道



三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。

天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後して蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。

大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。






幕府からの命で、宍戸藩主を長男秋田俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。

實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。

その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。

菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 令和5年正月






「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参 塵壺380号 令和5年2月発行


 今年、還暦を迎えるので“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ妻を伴って初詣に行ってきました。


かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。





また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。

自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。




神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

禅寺「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。






この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。

即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。

三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。





天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。


同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。






後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。

幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。





實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。


また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。

幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。


]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。


我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓

尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の再建工事が令和5年2月26日より始まります。







蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春!  拝



以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書

右として

高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。

そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。

家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。

しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。

宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。

【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】

宝永六年三月
(日向訳)

伊勢度会郡朝熊村

石城山永松庵

中巌座元


※ 渡邊日向 訳




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胆沢城跡で出土した硯に「宇曹」の文字を発見したことを岩手県奥州市埋蔵文化財調査センターが5日、発表

先の福島民報朝刊に、胆沢城跡で出土した硯に「宇曹」の文字を発見したことを岩手県奥州市埋蔵文化財調査センターが5日、発表したとの記事が掲載されていました。

奥州市の国史跡「胆沢(いさわ)城跡」で出土した硯(すずり)に、蝦夷(えみし)の有力豪族「宇漢米公(うかめのきみ)」を示す文字が墨書されていたことが判明したとの事でした。

胆沢城は、陸奥国胆沢郡にあった日本の古代城柵で、坂上田村麻呂が802年に築き、1083年の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。

 この硯は1976年度の発掘調査で、正門にあたる外郭南門付近から見つかった「風字硯(ふうじけん)」(縦17・8センチ、横15・7センチ、高さ6センチ)。

出土当時は墨痕が薄く文字を認識できなかったが、その後の再調査で裏面と側面に「宇曹(うそう)」の文字が確認できたという。

当該の胆沢城を守っていた蝦夷の豪族「宇漢米公」は、田村麻呂の計略によって殺された阿弖流為(アテルイ)や母礼(モレ)の死後、蝦夷衆の中心となって奥州人を蝦夷、南蛮大和朝廷に対抗してきたが、後に朝廷側から長岡京(京都府長岡京市)に招かれ、朝廷側の接待を受けた記録が残っている。

他にも朝廷に従う一部の蝦夷がおり、朝廷の大軍勢を相手に果敢に戦った阿弖流為と母礼の亡き後の蝦夷の勢力は急激に衰え、対立してきた朝廷に近づこうとする豪族たちもあったと考えられます。

桓武天皇が即位されると大和朝廷は奥州平定を目指して蝦夷征討が本格化します。
紀古佐美(きのこさみ)を将軍として大軍が派遣されますが、地の利を生かした阿弖流為と母礼が率いた蝦夷衆の巧みな迎撃によりに惨敗します。

朝廷は再度蝦夷征伐の軍を編成し、蝦夷民と大和民両方の血を引く坂上田村麻呂を征夷大将軍副将軍に任じ奥州に攻め込み、何とか和睦します。
兵力が温存している蝦夷長として阿弖流為と母礼は、平安京へ訪問することになりますが、朝廷は彼らを処刑してしまいます。
もちろん坂上田村麻呂は阿弖流為と母礼の助命嘆願を行いますが、朝廷は二人の処刑を断行したのであった。

その最中に朝廷軍によって胆沢城が建設されるに至ります。

何の因果か三春町の歴史史上に於いて戦国時代の三春城主三春田村氏の祖を坂上田村麻呂、そして、江戸期の三春城主秋田氏の祖を阿弖流為(アテルイ)という歴史的な事実があります。

今を生きる三春町民にとってはその因果関係を含めて、何とも気になる記事となります。


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令和4年「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅 





令和4年「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅 
 

江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」

三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。






伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松寺にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にも参っています。

私も春商戦の三連休となりますので、コロナ禍の中ではありますが感染対策を十分とって伊勢参りと安倍實季公の墓参にでかけました。

「世界平和・疫病退散祈願・家内安全・商売繁盛」を祈願したく、外宮、そして内宮さんに於いて御祈祷を受け参拝してまいりました

祭神の豊受大御神は約1,500年前、天照大御神の食事を司るために招かれた食と産業の神様です。

御祈祷の祝詞の中で代表の方々お一人お一人の住所と名前が呼ばれます。

自分の番になり福島県田村郡三春町新町にて三春昭進堂を営む髙橋龍一〜 と呼ばれますと畏敬の念に駆られます。

やはり日本人でよかったなぁと思う瞬間です。







宿泊は外宮さん近くの定宿「紅葉軒」


名物女将さんと記念写真!


お土産までいただきまして、ありがとうございます。





内宮参詣

俗界と聖界との懸け橋といわれる宇治橋を渡り、五十鈴川で手を洗い清めます。

そして、御正殿、風日祈宮さま、荒祭宮さまへ!

日本人の総氏神である天照大御神がお祀りされています。







御神楽御祈祷を受けて身が引き締まりました。


丁度この日は、裏千家献茶式が大神楽殿で行われていたので、御神楽殿での御祈祷となりました。







直会です。


清々しい気持ちで一献!
伊勢神宮内宮参道 門前町“おはらい町”

宇治橋から五十鈴川に沿って続くおよそ800mの美しい石畳の通りには、お伊勢さん特有の切妻・入母屋・妻入り様式の町並みが軒を連ねます。

この通りには、伊勢名物赤福餅で有名な赤福さんの本店、榊原物産店さんはじめ、たくさんの土産物店や飲食店などの商家が建ち並び、参拝後の町歩きがたのしめます。

江戸時代には、伊勢参宮を「お蔭参り」と呼んでいました。






語源を辿りますと、江戸時代伊勢神宮に参拝する間、ことに20年に一度の遷宮のとき、人は身分制度に縛られないという考えがあり、奉公人が主人に無断で伊勢参りをしても咎められることはなかったとされています。

しかし、雇い主に無断で出るわけですから、満足な旅費などあるはずもありません。

それでも、伊勢へ通じる街道筋の裕福な人たちがお金や食物を提供してくれる「お蔭」で、困ることはなかったとされています。

“おかげでお伊勢さんに参詣することが出来た” そこから「お蔭詣り」という語源が出来たとされています。






榊原物産店は伊勢神宮内宮への宇治橋に近い場所にあります。

ご存知の方も多いと思いますが、以前、女将さんにその話を伺ったことがあります。

「伊勢参りには、来るだけでお金がかかります。これは今も昔も変わりません。私たちお伊勢さんの門前で参拝の方々に商いをさせてもらっています。ここで利益を多く載せて商売をしていては罰が当たります。お伊勢さんに支えられている商人は昔からみなそうして商売を続けてまいりました。」


”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。
心の芯から浄化されるような気がいたします。





お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。

かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ誰も居ない内宮さんで共有することができます。

この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。

そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。

一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。

これがお伊勢さんの神威なんでしょう。
ありがとうございます。

三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、来て良かった!






丁度この日は、11日。御神馬の参勤の日です。

出発前に高屋敷稲荷神社の鈴木宮司様より、1の付く日には御神馬様の参勤が朝あるので拝見して御利益を頂いたら・・とのレクチャーを居受けていました。

午前8時、早朝内宮さん参道に御神馬のお出ましです。





約五十人の方々のその光景を一目拝見し御利益を頂こうと参集していました。

私も臨場することが出来ました。





秋田実季公墓所 伊勢朝熊永松寺へ墓参。

秋田城之介・安倍姓安東入道実季公墓所

永松寺、伊勢神宮より少し外れた伊勢朝熊山の麓にある臨済宗南禅寺派の禅寺。





山門脇の階段を上った小高い丘に実季公の墓所はあります。

戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
 
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季(あきたさねすえ)はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。







長男の初代三春藩主秋田俊季との不和に加え、従来からの檜山系と湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとも考えられています。


寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)、同地にて死去。
享年85


実季には、正室円光院と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけていますが、朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。






片山というのは姓であり、出身や俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を「穹静院」と号しています。
お千世方は、実季公の第二子であると思われます。

千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山氏は実季に最も尽くし、そして、最も愛された側室であった事だろうと想像がつきます。





 しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、愛娘の千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。

片山は、不遇の中、異郷の地で娘を亡くしたことを憐れんで、落飾し“穹静院”と号して、夫である実季と共に、亡き愛娘の菩提を弔いながら余生を送ります。

そして、片山氏本人も、承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。







永松寺住職様には、墓所まで足をお運びいただきありがとうございます。


また、本堂にご案内いただき、實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌に手を合わせることが出来ました。


重ねて御礼を申し上げます。







秋田教方萬金丹

伊勢神宮参拝のお土産として名高い「秋田教方萬金丹」

萬金丹は、江戸時代、旅の道中に常備する万能薬とされていましたが、主に胃腸の不調を改善するもので、その効能は、食欲不振、消化不良、胃弱、飲みすぎ、食べすぎ、胸やけ、胃もたれ、はきけ(胃のむかつき、二日酔い、悪酔、悪心)などとなっており、又、配合されている生薬には、下痢、腹痛にも効果があり、その用途は幅広いものでした。

この処方の起こりは奥州三春城主の祖、生駒安倍・安東ノ姓秋田城之介・秋田実季によると伝えられている。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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三春秋田氏と家臣団




三春秋田氏と家中

正保二年(1645)、秋田俊季公が常陸宍戸(茨木県友部)より入封以来、慶応四年(1868)まで、秋田氏は11代に亘って三春地方を領し、文化・経済の面でも県内有数の近世都市に創り上げてきました。

秋田俊季公の父實季公は、出羽国秋田地方のに勢力を持った戦国大名でした。

慶長七年(1602)の関ケ原の合戦後、宍戸五万石に所替えとなり、大坂冬・夏の陣に父子共々出陣し、先陣を賜ったこともあり、その功もあってか息子俊季に五千石増加されて三春五万五千石への移封が許可されました。







慶安二年(1649)には、俊季の次男季久公に五千石(富澤村等7ケ村)をもって分知し、以後奥州三春藩として徳川幕府譜代格の大名として幕末まで続きます。

大名に譜代と外様があったように、家臣にも譜代と新参(三春に来てからの家臣)とがあり、譜代にも家臣に取り立てられた時期(場所)によって「秋田由来」「宍戸由来」などと呼ばれていたようです。
家臣団の中核は、秋田由来の中でも「秋田姓」を許された家にあたります。





藩の職制は当初から一貫していたものではなく数回にわたって加除変更がありました。
城代や大老の役職が固定化されたのは、正徳三年(1713)以降です。
城代の山館秋田氏、大老は荒木氏、細川氏の二家が世襲となります。





尚、浪岡秋田氏は別格です。

その他の重職も、役席上之衆と称された御譜代11家で構成されていました。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





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「猫冢(塚)」 旧三春藩上席家老屋敷より発見!



旧三春藩秋田氏の居城「三春城」


その御城坂にある家老屋敷跡から「猫冢(塚)」が発見されました。

旧三春藩秋田家上席宿老(家老)山舘秋田氏の家老屋敷跡をの庭を修復している当家御庭番のから注進が入りました!






昨年から手掛けている秋田氏庭園のお城側の土手の雑木を伐採中に、紅枝垂れ櫻の根本付近から出土したということです。







三春藩と「猫」といえば「三春藩化け猫騒動」が連想されます。

その中心人物別格家老荒木玄蕃。

•化け猫騒動として三春城下が大火災に見舞われ御城まで消失します。

•大雨の影響で荒木屋敷が土砂崩れで崩壊し多数の死者を出します。




この枝垂れ桜は樹齢200年以上です。
又、枝垂れ桜は土砂崩れ防止にために植樹したと考えると、その樹下に猫冢を置くというのは、何か因縁めいたものを感じます。


これらの事を年代順に置いて行けば面白いことが判明しそうです。

己丑(つちのとうし、きちゅう)2月6日の刻印が彫られています。


三春御家騒動以後の”己丑”の歳付近の三春藩での出来事を紐解いていくと面白いことが分かるかもしれません・・・


己丑 明和6年(1769年) 2年前の明和4年、秋田千季(荒木玄蕃の孫)従五位下信濃守に叙任される。
                前年に新町大火、
                 
己丑 文政12年 (1829年) この年12月、秋田肥季従五位下信濃守に叙任される。
 
己丑 明治22年 (1889年)  ・・・・



尚、家老屋敷跡は個人所有の私邸ですので現在は非公開です。











三春城下新町にある旧三春藩所祈願所真照寺の本堂須弥壇左右に鎮座する「弘法大師木造座像」と「興教大師木造座像」。




この己丑(つちのとうし、きちゅう)の日に因んで、三春の火事の歷史をひもといて見た

これは伝説ではない記録である。

延享2年(1745年)3月15日 
北町亀井の光岩寺から出火、御旗町、北町、大町、中町、荒町まで延焼した。
 焼失家屋377軒、四ケ寺、御堂四つを焼失。


宝暦12年(1762年)5月27日 
大町より出火、中町、八幡町、荒町、北町に延焼。焼失家屋305軒程が焼けた。


安永元年(1772年)年3月22日
大町より出火。北町、荒町、中町、八幡町に延焼。
焼失家屋400軒余。 紫雲寺本堂焼失


天明5年(1785年)2月22日
 この火事は「滋野火事」と呼ばれている三春城下未有の大火である。

これにからむ伝説については前号に書いた通りである。

尼ヶ谷の御厩(おんまや)番小屋から出火、中町、大町、山中、清水、北町、荒町の侍屋敷、町家、神社、寺院、そして殿樣の御殿 で総なめにした。

夕方までに三春城下を焼き尽くし、荒町は龍穏院前、新町は真照寺前、入清水の中ほどで何とかくい止めましたが、夜中までには城も本丸表門を除いてすべて焼け落ちました。

当時、三春にいた藩主倩季は、最初は北町の黒門辺りに陣を構えていましたが、城に火が迫ると三階櫓に納めていた幕府からの「御朱印状」とともに亀井の祈願所宝来寺へ入ります。

夜には祈願所真照寺へ御座所を移し、同寺古四王堂に朱印状を納めました。


その後、5月には馬場に新設した仮御殿へ移りますが、11月には馬場御殿も焼失しまし、近郷の庄屋宅を臨時宿所として歩いたという。

天明3年(1782年)から連続凶作だったので、人足、炊出し等も思うに任せず、炊出しは“かゆ飯”で、罹災民には非常な苦しみだった。


天保元年(1829年)12月5日
「御厩火事」 裏町、後免町、中町、大町類焼。


天保12年4月4日
山中より出火。山中を全焼し南町まで延焼。


天保13年(1830年)8月5日
荒町の町屋敷全焼。


嘉永3年(1850年)2月5日 江戸大火。
愛宕下三春藩上屋敷全焼


明治6年(1873年)5月8日
中町、荒町、大町130軒焼失。



明治15年(1882年)5月6日
北町大火。焼失家屋80戸。


明治27年(1894年) 2月10日 義勇消防組より公設消防組へ改変 「消防規則」公布。


明治39年(1906年) 3月22日 中町大火。中町町屋敷全焼。焼失家屋115戸。


明治43年(1910年) 11月23日  八幡町踊り場付近より出火。130戸を焼失。


明治44年(1911年) 11月14日 二十三夜様の灯明残火で八幡町から発火、八幡町、馬場尼ヶ谷、御免町、中町から荒町の一部まで延焼、335戸を焼失。


昭和3年(1928年) 火の見櫓の鉄骨化。中町、北町、新町が完成


昭和4年(1929年) 3月25日 新町大火。 30戸・40棟を焼失



昭和22年2月22日、三春小学校第一校舎、三春高等女学校校舎焼失。


享保十三年から慶応四年の140年間に、三春城下で発生した複数軒の火災発生件数は、98件に登り、その半数近くが、字全て以上を焼き尽くした大火となりました。
三春の火事は歴史の示す通り、2月3月に多い。



 






天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季。

その孫である7代藩主倩季(千季)公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。

この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。






三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件。

そして、家老荒木玄蕃高村および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件。

徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ三春藩の御家騒動です。
 
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。

しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。






今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場します。




 
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
 
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった




 
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。








三春城御花畑にあったという「主夜神」

紫雲寺山内にもあったと記録に在ります。

主夜神という名称の「主夜」は「守夜」と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる大変なご利益をもつ神様であるとされています。

夜を守る神と、闇夜に眼を光らせる猫がむすびつき、主夜神は古くから猫、とりわけ黒い猫が御使いであるとされています。

この辺にも「三春城下化け猫伝説」との何かしらの因果が見えてきます。


主夜神 夜神

主夜神は、「婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)」として、「華厳経入法界品」に「恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせる」 と説かれ、恐怖の厄を免れさせて安隠を与へるなど、古くからすべての衆生を救護する神として篤い信仰を受けてきました。





三春藩秋田家「町火消し組」と「家中火消し組」
  江戸期の三春城下は、山間に位置しており、丘陵の谷筋を縫うように家並みが軒を連ねて城下町を形成していました。

また、火消し組の消防設備・資機材の未発達と茅葺屋根、障子戸等の建物構造の上に、城下が山間地であるために、水源が乏しく、水利の不便に加えて谷筋を吹きぬける風は強風となり、
一度火の手が上がると風にあおられて、数件から字全て、さらには「天明五年の大火」の様に城下町の約八割焼失の上にお城が焼け落ちるほどの大火に、たびたび見舞われていました。

 三春藩藩士足軽組による「家中火消し組」と、町奉行支配町方による「町火消し組」が組織されて火災鎮圧に立ち向かっていました。
 江戸中期の正保二年(1645年)に秋田家三春藩、初代藩主秋田俊季公入府の折りに火防に就いてのお触れが出されました。
 「火事出来事は、町中の面々水桶を持ち、早速火下へ可馳せ参じる事」
 大火に危険性を危惧した三春藩では、ことの重要性から「火消し人足組」の指揮命令系統及び組織編成の度々改革を実施し、現代の三春町消防団と同じ「現場対応型の火消し組」の組織編成に着手しました。

 城下「町火消し人足組」は、一番組50名(大町、北町)、二番組41名(中町)、三番組42名(八幡町)、四番組63名(荒町)、五番組40名(新町)で構成して、「町方火消し組」として火災の際には火災鎮圧に向け、消火・類焼・防火を各組の連携協力で、消火活動に従事していました。

 一方、「家中火消し組」の編成は、足軽組の御籏組・御弓組・御持弓組・御持筒組・御先筒組を一番組から三番組に別て構成され、一組37名で編成し計111名(内町方人足90名程度)で構成して火災に備えました。

 その他、城下町以外の在方在住の者は、御殿・現三春小学校の裏山にあった太鼓堂の太鼓の早打ちと、大元神社境内にあった鐘撞堂の早鐘を合図に、北町口には熊耳村・笹山村、荒町口には七草木村・南北成田村など、各部落単位でそれぞれ割り当てられた地区や、寺社仏閣の消火・防火・残火処理並びに警護のため城下に参集して、「家中火消し組」、「町火消し組」の消火手伝いに出向きました。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





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