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平成版今昔物語「旗本五千石秋田氏」



旗本五千石秋田氏

三春二代藩主秋田盛季の弟、季久に始まる旗本五千石秋田氏

江戸屋敷は、築地本願寺の西手にありました。

五千石秋田氏は、徳川家直臣の旗本籍ですので、江戸定府と定められていましたので、領主秋田氏が領地の赴くことはありません。
また、大名分地ですので、代官一人の他には、家臣の常駐もなりません。

その代官は淡州様代官(初代季久官職淡路守のちなんだ通称)と称され、屋敷はお不動山の麓にありました。




初代季久
幼名熊之丞。母は土浦城主松平伊豆守信吉の娘。
慶安二年六月十日分知の礼に登城し将軍家光に初見します。
それを機に右衛門季久と改めた。寄合組に編入される。
万治元年閏十二月、従五位下淡路守に任官、以来、度度公役(小普請役)を勤める。

万治二年八月、赤坂口警衛
寛文五年二月、中奥小姓として日光山法会に供奉、高家吉良義冬同行
天和三年八月、駿府城加番

貞享四年六月に,その年1月に始まった生類憐みの令に反して、家臣が吹矢で燕を射落とした事件に連座するところ、取り調べが行き届いていたとの理由で不問に付された。

元禄六年九月御小姓組番頭に昇進し,宝永元年八月辞職、寄合組に入り、同四年六月六十九歳にて死去した。





二代季晶
幼名を万太郎と称し、後に采女季豊
延宝三年十月十四歳にて将軍家綱に初見,宝永四年八月四十六歳にて家を継承。
正徳元年十二月五十歳にて死去。
岳父は、柳生宗冬の女婿朽木則綱(大番頭六千石)であった。

三代季成
季瑞、内膳、また、兵部と称します。
正徳元年、十二歳で家督継承し、同二年二月井伊又五郎直定らとともに将軍家宣に初見の礼を取り、寄合組に入った。
享保二十年五月、定火消役となり、同年十二月布衣着用を許されている。
元文四年に病のため寄合組に入り、寛保元年十二月に致仕し、寛延二年十月に五十歳にて死去した。
妻は三春三代藩主輝季の娘おトヨの方であった。




四代季通
幼名虎之丞、後に内膳とも称した。
元文元年三月、将軍吉宗に初見し、寄合組に入り、寛保元年十二月、父致仕の日に家を継承します。
寛延三年、定火消役となり、その年の暮れに布衣を許された。
宝暦三年九月小姓組番頭となり、その暮れ、大和守に昇任。
同九年十月西城書院番頭となった。
明和二年八月寄合組に戻り、翌年八月致仕し、養老料三百俵を賜わった。
安永九年六月六十一歳にて死去。

五代季高
幼名巳之助、後に兵部を称した。
宝暦十三年三月将軍家治に初見し、西城小姓となる。明和元年十二月内膳正に進み、翌年八月に家督を継承。
明和七年暮れ中奥小姓に転じ、安永九年二月寄合組に戻り、天明元年八月致仕して、康瀛(こうえい)と号し、同七年三月死去。三十九歳であった。
妻は土屋篤直の養女、後妻は三春七代藩主秋田定季の娘お富の方であった。

六代季済(すえまさ)
中務、内膳、季礼とも称した。
毛利高丘の四男である。
天明元年八月家を継ぎ、その年の暮れ将軍家治に初見。
文化元年三月致仕し、文化八年に死去している。




七代季穀(すえつぐ)
左近、中務と称した。
文化元年三月、季済の養子となった。
文化四年、駿府城加番、
文政元年、深珠院殿葬送警衛
文政四年十月、定火消役
同十二年十二月小普讀組支配に転じ、
天保二月九月、浦賀奉行となり,同八年十月小姓組番頭となった。
その暮れに淡路守に任じられる。
翌天保九年、西城書院番頭となり、西城造営に際し百五十両を献じ、時服を賜わっている。嘉永六年没した。

八代季幸(月編に幸)
帯刀、中務を称し筑後守に任じた。
天保二年十二月、家斉に初見し、弘化111年十一月召し出され、嘉永六年家を継承し、中奥小姓となった。
元治元年五月寄合組に戻り、慶応元年に没した。

九代中務 名乗り不詳。
尚、慶応二年八月組合銃隊頭に秋田元吹郎の名を「統徳川実紀」に見いだせるが、委細不詳。
慶応二年十二月布衣を許され、同四年勤仕並寄合より寄合肝煎となった。

領地として、旧三春領仁伊田村、富沢村、荒和田村、大倉村、新館村、石森村(分村)、粠田村で五千石とされています。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 磐城國三春藩主秋田氏 |
「中世の国際港湾都市十三湊」 日ノ本将軍三春藩主安倍ノ称安東秋田氏の本拠地紀行

五所川原市教育委員会発行の十三湊ガイドブック「十三千坊の世界と十三湊」 


五所川原市市浦歴史資料館

GW連休明けに、当店の代休として4月分も入れて3連休とさせていただきました。
丁度、その時に合わせていただいた所用があり、津軽の弘前まで出張と相成りました。


中世十三湊の町屋敷発掘跡案内板


中世十三湊の町屋敷発掘跡

“せっかく”ですので、青森です、日帰りは勿論ですが一泊ではもったいない・・というわけで二泊とさせていただき、ランプの宿として有名な黒石の青荷温泉と、西津軽日本海側の深浦町にある日本海に夕日が沈む黄金不老不死温泉に宿をとりました。




しかし、今回の青森みちくさ紀行の目的は、江戸期の三春藩主秋田氏の祖が本拠地とした津軽五所川原市にある、“中世の国際港湾都市”「十三湊」関連の資料館や遺構の見分、そして三沢にある寺山修司記念館の見学でした。



石浦歴史資料館のある中之島にかかる十三湖橋と十三湖




シジミが名産です。

秋田氏は、その祖を安部安東氏と称し、十三湊を中心に、平安末から鎌倉そして室町まで「日ノ本将軍」「安東水軍」「蝦夷探題」と称し、日本各地はもとより、北の樺太・サハリンから、朝鮮やシナ、東南アジアの沿岸なとに拠点を設けて、世界を相手に貿易をしていました。



市浦歴史資料館

東日流(津軽)十三湊は、平安末期ごろから鎌倉時代を経て室町期にかけて環日本海地域の中心国際港湾都市として、中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられています。

秋田氏祖の安倍氏とは、奈良と大阪に連なる「生駒山」には、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟を長とする一族が住んでいたと伝えられています。
しかし、神武天皇の東征により安倍一族が崩壊、朝廷の手が届かない東国へ落ちのびてきたと伝承されて、その子孫が安倍貞任となります。



十三湖が一望できる高台にある唐川城址


安倍貞任は、奥州に一大勢力を作り朝廷に抗します。朝廷は、その蝦夷征伐のため出羽の豪族清原氏や平泉藤原氏の助けをかりた鎮守府将軍源頼義、義家親子と戦います。
後に“前九年の役“と呼ばれるこの戦いで貞任は敗死して安倍氏は滅亡、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が、津軽へと落ち延び、後に安東氏を起こした始祖と言われています。
やがて、安東氏は「十三湊」を本拠地とし、巨大な勢力「安東水軍」率い、十三湊を国際貿易港として繁栄させていくことになります。

当時、樺太サハリン、蒙古(元)と高麗(朝鮮)、シナ沿岸州、さらには天竺(インド)の各国が相互に交流を行い、日本海、東シナ海、インド洋を中心とした一大交易文化圏を築いていったとされています。

そして中心として栄えた場所が、津軽(東日流)の十三湊だったと言われ、一説には、東シナ海沿岸からインド洋を超えて、紅海・中東まで手を広げていたとされています。




奥州十三湊日之本将軍 安倍安藤氏 顕彰の碑が建てられていました。



安東水軍の勢力を背景とする安東氏は、“日ノ本将軍”として“蝦夷探題”などの諸権利を鎌倉幕府執権北条氏から与えられており、幕府がいかに安東氏を重視していたかがうかがえます。

いわゆる海賊的なニュアンスで「倭寇(輸送船警備や運搬業を生業とする武装海運集団)」とされている部分もありますが、海賊が横行し、東南アジア各地の設けた、安東水軍の倭人街なども時折襲撃を受けるなど、当時の貿易は武装しなければならない状況もあました。

また、様々な国の海賊たちが何でもかんでも、倭寇のせいにしていたということもありますよね?

尚、元寇(蒙古来襲)で元(モンゴル)、高麗(古代朝鮮)連合の艦船撃退(神風伝説)も、近年沈没船の発掘調査が行われ、幕府の記録に残らない組織力を持った水軍の存在が証明され、安東水軍との関連も興味をそそります。


浜の明神跡に建立された湊神社


1991年から始まった十三港遺跡の発掘調査では、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることから、十三湊衰退の要因となった大津波来襲による壊滅も否定できなくなっています。

当時の西の博多に匹敵する東日本では最大規模の都市で、シナ製の陶磁器、高麗青磁器、西域の青ガラスなどが多数出土しており、広く海外とも交易を行っていた国際的な貿易都市だったことが証明されています。



湊神社拝殿



十三湊遺構の一つ「湊明神神社」です。
「湊」・・・三春にも馴染みの深い名前ですよね。


湊神社大鳥居

安東水軍の航海の安全を守って、かつての入り江にあったそうです。
今でも、航海の安全を祈願する十三湊の方々により崇拝され、きれいに整備されています。




帰りには、“せっかく”ですので、三春城下荒町にある高乾院前身、秋田時代の湊安東氏の菩提寺湊福寺の流れをくむ秋田土埼にある蒼龍寺。
そして城下新町の藩主秋田家祈願所の真照寺山内にある「古四王堂」の本山にあたる土崎古四王神社に参拝してきました。



蒼龍寺山門

この蒼龍寺の前身である、湊福寺は湊家初代の安東鹿季によって開基されたものと伝えられています。

三春藩主秋田俊季の父である安東実季が再興しますが、数年後、徳川幕府の政策による安東氏の常陸国転封にともない、実季の意向により寺もこれにより移設します。



曹洞宗蒼龍寺本堂

以後、宍戸藩、そして後の三春転封にともなった三春藩とも、安日山高乾院(宗旨も曹洞宗から臨済宗に改宗)として、安東・秋田氏の菩提寺となります。



蒼龍寺門前の見守り地蔵
 
安東秋田氏転封後に無住となった土崎の湊福寺は、慶長再興時の開山天室宗龍禅師(実季の叔父)にちなんで、延宝元年(1673年)寺号を蒼龍寺となして曹洞宗の禅寺として再興され現在につながってきます。
資料によれば、山門は湊城の裏門を移築したものとされていますが、今はありません。



秋田城麓に鎮座する、古四王神社。


三春城下新町にある三春藩主安東秋田氏祈願所真照寺山内にある古四王堂は、鎌倉期から戦国末期にかけて「日ノ本将軍」「蝦夷探題」として青森から蝦夷にかけて覇を唱えた海将安倍安東氏の直系三春藩主秋田氏が、三春国替えの際に祈願寺真照寺とともに建立したものです。


本拠地である青森十三湊時代は、出羽柵(後に秋田城)に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬されていました。




秋田城麓の土埼古四王神社

秋田県で最も格式の高い神社といわれています。

社殿によれば、崇神天皇が蝦夷平定のために北陸道(北陸・奥羽)へ派遣した四道将軍(しどうしょうぐん:『日本書紀』に登場する皇族の将軍)の一人・大彦命(おおひこのみこと)が、北門鎮護のために武甕槌命(たけみかづちのみこと)を「齶田浦の神(あぎたのうらかみ)」として祀られたことが始まりといわれています。


古四王神社拝殿

その後、斉明天皇4(658)年に秋田地方の遠征に来た阿部比羅夫(あべのひらふ)が、祖先である大彦命(大毘古命)を「古四王」と崇めて祀ったことから、「古四王神社」と称されるようになりました。




奈良時代以降は、蝦夷平定の拠点であった秋田城の守護神として秋田城内に祀られ、中世以降は産土神(土地の守り神)として豪族の安藤氏や秋田氏、近世以降は豪族・佐竹氏に武神として崇められました。



古四王神社参道階段と田村神社

また、境内には歴史の悪戯なんでしょう、征夷大将軍として蝦夷平定にやって来た坂上田村麻呂が古四王神社に戦勝祈願したことから、将軍を祀った田村神社があります。

真照寺は、三春古四王別当(管理長官)です。
尚、古四王天像四体は、秋田家の祖である「安倍貞任」の縁起を伝えていると云われますが、開帳はされていません。





春陽郷三春城下 御菓子 三春昭進堂



市浦歴史資料館、市浦地域活性化センター「十三亀山社中」代表の松橋照彦様からいただいたパンフレットです。
ありがとうございます。

お勧めいただいた、唐川城址の眺望は最高でした!

| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 磐城國三春藩主秋田氏 |
「第5回 安東氏シンポジウム 東アジア大航海時代の上国家(かみのくに)・下国家(しものくに)と秋田 資料集 : 土崎港歴史勉強會(会長 泉谷俊市氏)


「安東氏シンポジウム」

先日、元静岡県で教員をされていた秋田藩安東氏の末裔となる安東先生にご来店いただき、安倍称安東秋田氏に関する資料とともに、表題にある昨年11月に行われた第5回「安東氏シンポジウム」のテキストを拝見せていただきました。

安東先生は、秋田久保田藩士で明治以後の秋田における教育に尽力された安東半助の孫にあたります。




上の画像には、幕末の激動期、藩命により安東半助のともに江戸表明治政府へ派遣された「解体新書」の付図を描いた小田野直武も写っています。



「第5回安東氏シンポジウム 東アジア大航海時代の上国家(かみのくに)・下国家(しものくに)と秋田 資料集 : 土崎港歴史勉強會(会長 泉谷俊市氏)

この講演会は、秋田県の土崎港歴史勉強會主催する勉強会で、毎年、「安東氏シンポジウム」と題して、三春藩秋田家の祖である安藤(東)氏に関する講演会・勉強会を行ってそうです。
今回は、鎌倉時代から室町時代末期の時代に、日本海海運を利用し活躍した安東氏について、北海道から青森・秋田での事例をもとにした講演会・勉強会だったみたいです。




興味がそそられる内容ですので、明記させていただきます。

「東アジア大航海時代の上国・下国と秋田」

 日程と内容
12:30~      会 場・受 付
13:00~13:05 開会行事、主催者あいさつ
13:05~13:55 基調講演1「大航海時代の北方交易-考古学からみる-」
            五所川原市教育委員会 榊原滋高氏
13:55~14:35 基調講演2「東アジアの大航海時代と安東氏
            -東アジアの「海の歴史」の中の安東氏-」
            弘前大学名誉教授 齊藤利男
14:35~14:40 休憩
14:40~15:05 発表報告① 「中世日本海運の北のターミナル 上ノ国
            -勝山館の世界-」
            上ノ国町教育委員会 塚田直哉氏
15:05~15:30 発表報告② 「北部日本海域の中心港湾・秋田湊」
            秋田市教育委員会 神田和彦氏
15:30~15:55 発表報告③ 「下国安藤氏の城館 福島城-中世の方形巨館-」
            青森県埋蔵文化財センター 鈴木和子氏
15:55~16:05 休憩
16:05~16:45 質疑・パネルディスカッション
17:00 閉 会

以上、その資料の次第より





三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋龍一

| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 磐城國三春藩主秋田氏 |
三春物語866番 学習院同窓会「桜友会史」記念誌


平成2年発刊「学習院同窓会・桜友会記念誌「桜友会史」

会合の新年会があり、岳温泉のあづま館で一泊でした。
本当は新潟の温泉の予定でしたが、最強の寒波到来を受けて大雪警報が発令されていたらしく、あずま館に変更となった次第です。



あづま館は、かつて田村大元神社門前に雑貨を営む「柳金商店」があり、ここの旦那さんで柳沼金三郎さんが、あづま館さんと懇意で、あづま館案内所・取次店でもありったので、何やかにやでお世話になっていました。

旧三春郵便局管内の切手販売所組合や旧電電公社三春支局管内の公衆電話組合の総会や忘新年会等、そして30年前の成人の日に、同級会で一泊の宴会をお世話になったのも「柳金」さんのお蔭でした。

しかに、その柳金さんが他界してからは、各種会合の縮小と共や、町内回帰のために足が遠のいでいましたので、15年ぶりのあづま館でした。



宴会前に、ロビーの一角にある、ラウンジの図書スペースを眺めてもらうと「桜友会史」と題された、分厚い記念誌が目に入りました。

桜関連の何かかなぁと思って開いてみますと、学習院の同窓会・桜友会の学校史でした。

何気に冒頭の写真に目をやりますと、昭和63年度桜友会会長秋田一季という名前が飛び込んでまいりました。



そうです。
三春藩秋田家末、秋田家十五代当主の秋田一季さんでした。

三春町名誉町民でもあります。

秋田家十六代に、秋田美篤(男爵・藤大路親美の子)養子を迎えます。

秋田重季・芳子夫妻の子として生まれる。
学習院高等科卒業後、東北帝国大学を卒業。昭和28年(1953年)2月に宮中御歌会諸役となる。

日本教文社専務取締役に就任し、昭和52年(1977年)社団法人出版梓会幹事長に就任し、その後理事長となり、日本書籍出版協会理事にもなっている。
昭和62年(1987年)11月30日、学習院の同窓会「桜友会」の3代目会長、学校法人学習院理事及び学習院剣道部総監督を歴任。

平成9年(1997年)3月、82歳で病没し、父祖代々の菩提寺である福島県田村郡三春町荒町の高乾院に葬られた。法名は冷光院殿吸毛月珊大居士。



秋田さんが会長の時に、学習院の学校史を取りまとめて発刊したと記されていました。

まさか、岳温泉のあづま館でこの本に出会えるとは・・・・奇跡です。



ラウンジを貸切状態で、宴会時間も忘れて読みふけってしまいました。



明治から続く、各年代の役員の名前をみますと、当時の爵位家のお名前が続きます。




御菓子 三春昭進堂 髙橋龍一」





| ryuichi | 05:25 | comments (x) | trackback (x) | 磐城國三春藩主秋田氏 |
三春物語816番・旧三春五万石秋田家及びその周辺の領地一覧


旧三春藩主秋田家及びその周辺の領地一覧



北鹿又村、長外路村、石沢村、南移村、横道村、上移村、中山村、北移村、御祭村、七草木村、北成田村、南成田村、青石村、実沢村、門鹿村、笹山村、熊耳村、貝山村、蛇沢村、春田村、狐田村、柴原村、込木村、楽内村、芹ヶ沢村、滝村、根本村、樋渡村、蛇石村、木目沢村、駒板村、黒木村、下枝村、牛縊本郷村



海老根村、上石村、過足村、平沢村、板橋村、高柴村、土棚村、鬼生田村、大畑村、李田村、鷹巣村、沼沢村、斎藤村、西方村、赤沼村(現・郡山市)、高倉村、細田村、広瀬村、湯沢村、神俣村、菅谷村、栗出村、牧野村、門沢村、堀越村、遠山沢村、永谷村、上大越村、下大越村、今泉村、芦沢村、船引村、春山村、西向村、久保村、鹿山村、新田作村、常葉村、山根村、岩井沢村、古道村、堀田村、早稲川村、関本村、小檜山村、三春城下、葛尾村、津島村




旗本秋田家領
三春藩秋田氏初代の俊季(としすえ)候は、正保2(1645)年8月に三春藩5万5千石を拝領しましたが、慶安2(1649)年5月、二代盛季(もりすえ)が藩主になる時に、徳川幕府との仲を親密にするために、幕閣に許しを乞い、弟である季久候に5千石を与え、旗本秋田氏を創設します。
旗本は江戸に住むこととなっていましたから、5千石旗本秋田氏も江戸に屋敷を構えていました。


新舘村、荒和田村、富沢村、大倉村、ツクモ田村、丹伊田村、石森村




幕府領(天領)

飯豊村、吉野辺村、浮金村、柳橋村、中津川村、小野山神村、雁股田村、糠塚村、栃本村、栃山神村、谷田川村、上道渡村、下道渡村、川曲村、椚山村




磐城守山2万石松平家領
磐城守山松平藩は、江戸中期元禄のころ、水戸黄門徳川光圀の甥にあたる松平頼貞が2万石を拝領してできた藩です。初代頼貞の父頼元は、水戸藩初代藩主徳川頼房(徳川家康の十一男)の四男で、徳川光圀の弟です。

木村、山田村、芹沢村、根木屋村、南小泉村、北小泉村、阿久津村、下白岩村、上舞木村、下舞木村、白岩村、荒井村、蒲倉村、大平村、横川村、安原村、手代木村、下行合村、上行合村、大善寺村、金屋村、徳定村、御代田村、正直村、山中村、守山村、岩作村、大供村、金沢村、小川村、三町目村



常陸笠間藩牧野家領
越後長岡藩牧野家の分家。
幕末に長岡藩家老河井継之助が、笠間藩当主牧野氏と激論を交わしたことでも知られています。

小野新町村、谷津作村、北田原井村、南田原井村、和名田村、上羽出庭村、小塩村、菖蒲谷村、赤沼村(現・小野町)、皮籠石村、下羽出庭村、小戸神村、田母神村



三春昭進堂 髙橋龍一

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三春物語748番「三春藩秋田家御一門」


三春藩の藩士の各家についてまとめた「世臣譜」よると、上中級藩士104家あったことが記載されています。

 三春秋田家の家臣団の筆頭藩士の中に、藩主に近く、世臣譜に公族と記された「御一門」と呼ばれた家がありました。

秋田山舘氏、山舘家は湊家六代宣季の次男の家(藩士の系図を集めた「春士秘鑑」では鹿季の四男の家)屋敷・城坂東上 

秋田中津川氏、中津川家は鹿季の三男の家系 屋敷・南町(現在の高齢者住宅)

秋田竹鼻氏、竹鼻家は鹿季次男の家系 屋敷・清水(天沢寺向)

秋田薦土(檜山)氏、薦土家は貞季次男の家系 屋敷・入清水西側

皆秋田姓を名乗り、藩の要職を占めていました。

 

各家の幕末の当主は、山舘家が秋田調、中津川家が秋田仲之助、竹鼻家が秋田斎、薦土家が秋田作兵衛で、これに小野寺市太夫、秋田(佐塚)広記を加えた6名が最高職の年寄りを勤め、幕末動乱の混乱期を乗り切りました。

また、別格家老として秋田浪岡(北畠)氏があり。
そして、筆頭家老として荒木氏、細川氏など大身の家臣団が藩政を司っていました。



三春昭進堂代表 髙橋龍一


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三春物語742番「秋田実季公朝熊蟄居と穹静院(片山氏)」
秋田実季公と穹静院(片山)
寛永7年、徳川幕府の命令で、わずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。
長男の俊季との不和に加え、従来からの檜山系湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかと考えられています。

実季公には、正室と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけます。
初代三春藩主の俊季公とその実弟、隼人正季信公の母は、正室の円光院で、細川右京太夫昭元と織田信長の娘との間に生まれた娘で、徳川二代将軍秀忠夫人崇源院とは従姉妹にあたり、俊季公は三代将軍家光とは又従兄弟という関係から、本来は外様大名ですが、譜代大名同様の待遇を受けていました。
 
三春秋田に仕官した細川氏が、秋田十三湊以来の親族重臣が居るなかで、宍戸や三春藩政上での位置に大きく影響して行きます。
側室筆頭の瑞峰院は、荒木家の出身で、正室である円光院の侍女でしたが、実季の寵愛を受けるようになり、側室として、お国、季次、季則をもうけます。
このため、実家の当主である荒木高次が三百石で召し出され、その子高綱以来、三春藩内における荒木氏の存在が大きくなって行きます。
 
三平季長公とお振方の母は、「下国家湊両家辨」には天授院としていますが詳細は伝わっていません。
お振方は、後に光舜院と称して、三春に移り住み、没するまで城坂東裏の屋敷で生涯独身で過ごします。
 
実季公は、反抗的として徳川幕府から伊勢朝熊の永松庵に蟄居幽閉されますが、片山氏とその娘お千世方だけが一緒に移りますが、実季公に先立ち亡くなっています。
お千世方は、実季公の第二子であると思われます。

その母片山氏と称しますがその出身は明らかではありません。
 片山というのは姓であり、俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を穹静院と号しています。

片山は、5歳になる実季の娘・千世姫の生母であり、母子共々朝熊への隠遁の旅に随行します。
千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山は実季に最も深く愛された側室であった事だろうと想像がつきます。
 しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、実季と片山の愛娘千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
 
千世姫の死後、片山は落飾し、穹静院と号し、実季と共に娘の菩提を弔いながら余生を送ります。
そして、片山本人も承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。

実季候は、それから8年後の1660年1月11日死去 (万治2年11月29日) 享年84歳。

朝熊での実季は、宗実或いは凍蚓と号して、和歌・俳諧をよくし、仏門に帰依しています。
また、薬にも関心を深くし、風雅の生活を堪能しました。

また、鎌倉から仏師を呼び、自分の肖像を刻ませ、床の上に置いて、「凍蚓、茶を食べよ、食参れ」などと共のように相手にしていたと言います。

「我が庵は道みえぬまで茂りぬる すすきの絲の心ぼそしや」涷蚓(実季雅号)

かつての蝦夷探題日ノ本将軍として五大洲に覇を称えた海将が、草だらけの庵に住む身となった心細さを表して、秋の風情とともに伝わってきます。


| ryuichi | 06:53 | comments (x) | trackback (x) | 磐城國三春藩主秋田氏 |