2025-04-25 Fri
塵壺406号 「直毘神社(なおびじんじゃ)と四道将軍(しどうしょうぐん)」 令和7年5月発行
岩江地区の舞木や日影、そして郡山市西田町の根木屋、木村などの地名が直毘神社に由来した話が伝わっています。
昔、上舞木にある権現さまと呼ばれる二社大明神(現直毘神社)の境内に大きな櫟(くぬぎ)がありました。
夕方になると、この櫟の影が十町(1090m)も延び、影が届いたところは、「日影」と名付けられたと伝わっており、三春茶屋のちょっと三春よりにある橋、これを日影橋と呼ばれています。
そして「舞木(もうぎ)」という地名の由来は、ある時、もの凄い風が吹いてこの大木が根こそぎ空に舞い上がった。それからこの地を舞木と呼ぶようになったといわれています。
さらに、根が落ちたところを根木屋と名付けられ、幹が落ちたところを木村と名付けられたといいます。
※根木屋は、根際(ねきわ)から”ねぎや”へ転じ、木村は、きうら、木末(きうら)、きむらへ転じたと伝わっているそうです。
そうした由来の元となる今の上舞木に鎮座する旧舞木村の村社「直毘神社」は、御祭神として、伊奘諾命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、神直毘神(かみなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の四柱の神が祀られています。
社伝を観ますと、今から二千有余年前、第10代崇神天皇御代10年に諸国鎮撫の為、「まつろわぬ者たち」を征伐するために遣わされた四道将軍(しどうしょうぐん)のゆかりの場所と伝えられています。
この四道将軍とは『日本書紀』に見られる、崇神天皇が全国平定を目指して派遣した皇族の四人の将軍のことで、東海方面には武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、北陸方面には大彦命(おおひこのみこと)、西道(山陽)方面には吉備津彦命(きびつひこのみこと)、そして丹波(山陰)方面には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、それぞれ将軍として皇軍を率いて平定に向かい出陣します。
直毘神社(旧二社権現)の由来書には、磐城に入られた四道将軍の一人である武渟川別命将軍率いる皇軍の軍勢は、夏井川の南西の山道より陸奥の真冬を田村郡(たむらこおり)の山奥に進軍して行きます。
その行軍中、道がますます険しくなるばかりか寒さが一段と厳しく、さらに連日の吹雪で疲労と凍傷に悩まされます。阿武隈川の流れを渡り、氷雪の安積平野を横切って、奥羽山脈を越すことは情けにおいても偲び難く、部下思いの武渟川別命将軍は、『朝日さし夕日なお照る』向きの良い場所を選んで軍勢を休めることにしました。
これが今の直毘神社の周辺であったとされています。
その休息の際に、武渟川別命将軍は、手頃な櫟の木を求めて幣を結んで四柱の神をお祀りし、草々のお供えものを捧げた。
この四柱の神を二つの社(やしろ)に祀ったので二社権現と称し、凍傷や病気に悩む兵の平癒と戦勝の祈願したのが、現在の直毘神社であるとされていると記されています。
尚、二社権現を直毘神社と改称したのは、明治六年(1873)のことです。
四道将軍といえば、会津の地名の由来も関連してきますので添えておきます。
先の武渟川別命は、東海方面を海路進軍して常陸に上陸、岩城から小野、仲田、中郷、鷹巣を経て、後の直毘神社付近で一泊し、二社権現にて戦勝祈願し、さらに北小泉から阿武隈川を越えて、保成(母成)峠から会津に入ります。
一方、その父である大彦主命は、北陸方面を進軍して阿賀川を上り、今の会津まで進軍したところで、武渟川別命と戦陣にて親子の対面を果たしたと伝えられています。
※大彦主命(大毘古命)と武渟川別命(建沼河別命)親子が、無事に会えた場所から相津、転じて“会津”の地名が付いたとされています。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
直毘神社参道石段入口に立つ石灯籠
江戸時代後期の奉納ですが、内藤氏、栗山氏、荒木氏、影山氏、のご先祖様のお名前が見えますが、薄井氏の御名前も見えます。
夢のデパート うすいの薄井家のご先祖様です。
「塵壺」出版のお知らせ
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」 歴史春秋社 ISBN:978-4-86762-057-1
上製本四六版 444ページ 定価:3,080円(税込)
5月2日(金)より販売開始です。
三春昭進堂店頭はもちろん三春はカネサン書店はじめ、県内の有名書店、出版元の歴史春秋社、そしてAmazonでも販売します。
三春城下の饅頭屋主人が販売促進を意図して平成3年から一生懸命に書き記した新聞折込チラシ「塵壺」。その中のコラム396号(令和6年7月号)分までの中から今回の書籍化に際して130号まで絞り込み、三春を中心に歴史や寺社仏閣、そして身の回りのことなど今までの塵壺に加筆・校正を加えまして単行本にまとめました。一家に1冊、そしてご親戚の方にもいかがでしょうか。
皆様のご用命をお待ちしています。
店主敬具
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 17:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
2024-05-27 Mon
岩江・大峰の和尚坦 大豆生田道綱物語 磐越東線舞木駅の南方、旧三春・郡山街道からほど遠からぬ山の頂きに大きな古い大きな塚があり、里人達は”和尚壇”と呼んでいた。
今から約五百数年前の室町時代永享10年、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府6代将軍足利義教が、持氏討伐を関東管領の命じた戦い「永享の乱」。
この敗れた、鎌倉公方足利持氏一党と共に、鎌倉の永安寺で自刀した叔父の稲村公方足利満貞の弟満直が、後難を恐れて落ち延びて、奥州白川(白河)の関川寺に入り、自分だけ仏門に帰依してしまいます。
この時、一緒に逃れた満直の家臣で、矢吹の住人大豆生田道綱は、安住に後を探して名地を逃げまわった末に、正神平(現下舞木地内)に来て一寺を建て関根山積雲寺と称し、沙弥道満と称して出家して仏門に入り佛に仕えていました。
しかし、関東管領は、追討の追っ手を差し向けます。
管領の内意を受けた、時の田村庄司、守山の田村庄司家では、その家臣下枝舘の橋本刑部太夫利政をしてこの積雲寺を攻めさせます。
永享十年(1438)、鎌倉公方足利持氏が幕府と対立して起こした「永享の乱」に際して、幕府は南奥の国人十二名に持氏を攻めるよう御教書を下しましたが、そのなかに田村遠江守がいます。
この遠江守は田村氏の系図などから田村直顕と推定されている方です。
関東で起った永享の乱、それにつづく結城合戦によって、鎌倉府体制は崩壊します。
その後、持氏の遺児が赦されて新公方となって鎌倉府が再興されたが、新公方成氏は管領上杉氏と対立して「享徳の乱」を引き起こし、この事態に室町幕府は、鎌倉公方成氏追討を大々的に行い、将軍義政は関東・奥州の諸将に軍勢催促の御教書を下しました。
その中に「田村次郎と田村一族」の名があり、「直朝と談合加え」て進発せよとある。
道綱は全てをあきらめて縛につき、ついに寺・堂宇は焼かれてしまいます。
永享十二年六月のことだが、こんな非境に立ちながらも一族、里人に危難の及ぶことを恐れて潔く生き埋めの刑に服することになります。
これを知った、一族郎党や里人たちの悲しみはその極に達します。
道網は、白い法衣に念仏鐘を首にかけ、小量の水を持って生理の刑場に向ったとこう沿道の郎党や里人たちの号泣は、道綱をかこんで止まず。
やがて通綱は北方のお寺跡の方に向い悲しくも処刑されてしまいます。
里人たちは、一夜を付近で泣きあかしたが、生理めになった道綱の打つ念仏の鐘の音が地下から三日三晩に亘って悲しく響いたといわれています。
生理の枢の上方には、竹の節を抜いて地上まで出して呼吸が出来ねようになっていたとのことです。
いまの間明日屋数は、大豆生田道綱の遺族が帰農しにとこねで、元は大豆生田と大豆生田と書いて、間明日といったそうです。
いまもなお間明日の雑木林の峰の上に鎮座する和尚壇と称される黒く巨大な塚が風雨に曝され、寂しく昔の物語を伝えています。
また、その周囲には全滅したと伝えられる間明田屋敷の墓碑が無気味に乱立していて詣でる人達の涙を誘っている。
丑三つの刻、この雑木林の峰を通ると、無気味な鐘の音が土の中から、泣くが如く、むせぶが如く聞こえてくるという身の毛もよだつ昔話が残っています。
尚、積雲寺跡は現在の旧農協岩江支所建物の北側に焼けた石などと共にありますが、和尚檀は、支所の正面に見える磐越東線南に小高い峰にあり、直径20メートル、高さ10メートルほどの円形の檀でした。
三春町公民館 地区高齢者学級編 「おらが里のざっと昔 その1」 平成元年発行 参照
編集、及び発行に対しまして、敬意を表します
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
2020-11-18 Wed
「にっぽん縦断 こころ旅」の火野正平さんが三春に来ました。
NHKBS3 「にっぽん縦断 こころ旅」・・・
俳優・火野正平さんが、あなたの「こころ」にある忘れられない風景を自転車で訪ねる「にっぽん縦断 こころ旅 」 NHKBS3
私や三春昭進堂は映りませんが、三春茶屋社長の村田さんからお裾分けということで、こころ旅特製手拭いとクリアファイルをいただきました。
放送は ~ 明日11月19日朝7時45分
とうちゃコ編も11月19日午後7時〜 からです。
詳細は見てからのお楽しみです^ ^
お楽しみに〜😊
三春茶屋社長の電話に先がわたくしでした〜
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2010-05-30 Sun

「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。
菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。

菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。

やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。
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2010-05-02 Sun


大峰の稲荷様です。

戦国大名田村氏の要害、田村四十八舘大峰舘の跡と考えられています。

村の鎮守の神様の
今日はめでたいお祭り日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞こえる笛太鼓
子どものころ、こんな歌をよく歌った。
氏神や産土神を祠った森、鎮守の森。
かつて、コミュニティは自分たちの住んでいるまわりのさまざまな物の 霊や魂を信仰し、これらの神を核としてつくられてきた。
今は静まりかえった森のなかにも人々の歓声がこだまする賑わいがあった。
地域がいかに変ろうとも、ここだけは動かない。

| ryuichi | 04:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
2010-03-11 Thu

上舞木地区大峰にある地蔵様です。

祠に入っています。
様々な石碑も祀られています。

大峰・寺山・小峰集落は、旧江戸海道の分岐・追分け旧道沿いに点在しています。



| ryuichi | 05:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
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