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岩江・大峰の和尚坦 大豆生田道綱物語  
岩江・大峰の和尚坦 大豆生田道綱物語  


繁雄東線舞木駅の南方、旧三春・郡山街道からほど遠からぬ山の頂きに大きな古い大きな塚があり・黒人達は和尚壇と呼んでいた。

今から約五百数年前の室町時代永享10年、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を関東管領の命じた戦い「永享の乱」に敗れた鎌倉公方の足利持氏一党と共に鎌倉の永安寺で自刀した叔父の稲村公方足利満貞の弟満直が後難を恐れて、落ち延びて奥州白川(白河)の関川寺に入り、自分だけ仏門に帰依してしまいます。


この時、一緒に逃れた満直の家臣で矢吹の住人大豆生田道綱は、安住に後を探して名地を逃げまわった末に、正神平(現下舞木地内)に来て一寺を建て関根山積雲寺と称し、沙弥道満と称して出家して仏門に入り佛に仕えていました。


しかし、関東管領の増しみは止ます、追討の追っ手を差し向けます。



管領の内意を受けた時の田村庄司、守山の田村庄司(平氏)田村家では、その家臣下枝舘の橋本刑部太夫利政をしてこの積雲寺を攻めさせます。

 


永享十年(1438)、鎌倉公方足利持氏が幕府と対立して起こした「永享の乱」に際して、幕府は南奥の国人十二名に持氏を攻めるよう御教書を下しましたが、そのなかに田村遠江守がいます。


この遠江守は田村氏の系図などから田村直顕と推定されている方です。


 関東で起った永享の乱、それにつづく結城合戦によって、鎌倉府体制は崩壊します。



その後、持氏の遺児が赦されて新公方となって鎌倉府が再興されたが、新公方成氏は管領上杉氏と対立して「享徳の乱」を引き起こし、この事態に室町幕府は、鎌倉公方成氏追討を大々的に行い、将軍義政は関東・奥州の諸将に軍勢催促の御教書を下しました。


その中に「田村次郎と田村一族」の名があり、「直朝と談合加え」て進発せよとある。


道綱は全てをあきらめて縛につき、ついに寺・堂宇は焼かれてしまいます。


永享十二年六月のことだが、こんな非境に立ちながらも一族、里人に危難の及ぶことを恐れて潔く生き埋めの刑に服することになります。


これを知った、一族郎党や里人たちの悲しみはその極に達します。


道網は、白い法衣に念仏鐘を首にかけ、小量の水を持って生理の刑場に向ったとこう沿道の郎党や里人たちの号泣は、道綱をかこんで止まず。

やがて通綱は北方のお寺跡の方に向い悲しくも処刑されてしまいます。



里人たちは、一夜を付近で泣きあかしたが、生理めになった道綱の打つ念仏の鐘の音が地下から三日三晩に亘って悲しく響いたといわれています。


生理の枢の上方には、竹の節を抜いて地上まで出して呼吸が出来ねようになっていたとのことです。


いまの間明日屋数は、大豆生田道綱の遺族が帰農しにとこねで、元は大豆生田と大豆生田と書いて、間明日といったそうです。


いまもなお間明日の雑木林の峰の上に鎮座する和尚壇と称される黒く巨大な塚が風雨に曝され、寂しく昔の物語を伝えています。


また、その周囲には全滅したと伝えられる間明田屋敷の墓碑が無気味に乱立していて詣でる人達の涙を誘っている。


丑三つの刻、この雑木林の峰を通ると、無気味な鐘の音が土の中から、泣くが如く、むせぶが如く聞こえてくるという身の毛もよだつ昔話が残っています。



尚、積雲寺跡は現在の旧農協岩江支所建物の北側に焼けた石などと共にありますが、和尚檀は、支所の正面に見える磐越東線南に小高い峰にあり、直径20メートル、高さ10メートルほどの円形の檀でした。


三春町公民館 地区高齢者学級編 「おらが里のざっと昔 その1」 平成元年発行 参照


編集、及び発行に対しまして、敬意を表します




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
本日放送NHKBS3 「にっぽん縦断 こころ旅」 火野正平さんが三春に来ました。




「にっぽん縦断 こころ旅」の火野正平さんが三春に来ました。


NHKBS3 「にっぽん縦断 こころ旅」・・・

俳優・火野正平さんが、あなたの「こころ」にある忘れられない風景を自転車で訪ねる「にっぽん縦断 こころ旅 」 NHKBS3







私や三春昭進堂は映りませんが、三春茶屋社長の村田さんからお裾分けということで、こころ旅特製手拭いとクリアファイルをいただきました。


放送は ~ 明日11月19日朝7時45分

とうちゃコ編も11月19日午後7時〜 からです。

詳細は見てからのお楽しみです^ ^

お楽しみに〜😊






三春茶屋社長の電話に先がわたくしでした〜




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
三春物語558番「大峰の天神様」


 「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。

 菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
 延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。

 

菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。

 

やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。



| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
三春物語509番「大峰稲荷大明神」




大峰の稲荷様です。



戦国大名田村氏の要害、田村四十八舘大峰舘の跡と考えられています。


村の鎮守の神様の
今日はめでたいお祭り日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞こえる笛太鼓

子どものころ、こんな歌をよく歌った。
氏神や産土神を祠った森、鎮守の森。
かつて、コミュニティは自分たちの住んでいるまわりのさまざまな物の 霊や魂を信仰し、これらの神を核としてつくられてきた。
今は静まりかえった森のなかにも人々の歓声がこだまする賑わいがあった。
地域がいかに変ろうとも、ここだけは動かない。




| ryuichi | 04:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
三春物語506番「大峰地蔵様」


上舞木地区大峰にある地蔵様です。


祠に入っています。
様々な石碑も祀られています。


大峰・寺山・小峰集落は、旧江戸海道の分岐・追分け旧道沿いに点在しています。

如意林観音

オンバサマ



| ryuichi | 05:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
三春物語274番「上舞木寺山、大峯界隈」







虫歯の痛み鎮めの御利益がある、寺山の真言宗延命寺
紙に虫と書き、細く折って柱に打ち付けると痛みが治まるとされています。








大峯の天神様

| ryuichi | 20:12 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
三春物語29番 「三春の石塔婆(板碑)」


三春の石塔婆(板碑)

三春の石塔婆は、三春城下を除く全域で確認  されています。
平安末期の弘安年間に造られた、上舞木を最古として鎌倉期から室町そして南北朝の動乱期である応安年間のものまで、約百年にわたる貴重な資料です。
梵字によって人々の信仰と所願、そして精神文化のあり方がわかり、筆法によって時代を表しています。
また、願文や偈文(仏の功徳を褒め称える詩)から、信仰宗派や時代の書法が紀年銘・造建者名からは、その土地の支配階級者や寺院と僧侶などが推測されます。
さらに、石塔婆は中世の交通路を示し交易場跡である可能性も示唆しています。
石塔婆たちは、積年の中で、路傍や山林の泥に埋もれ、木の葉に隠れ、または、人為的に土留めや石垣や橋の材料にされたり受難の年月を送ったことでしょう。
時代を超えて現存するまでには戦火や長年の風雪に耐えてきました。

下舞木蛇田 種子金剛界大日如来
北山    種子胎蔵界大日如来
上舞木   胎蔵界阿弥陀如来「過去慈父幽霊 出離生死往生極楽也」
下山田寺作 阿弥陀如来
熊耳    金剛界大日如来
庄司    阿弥陀如来と金剛界不空成就・胎蔵界天皷雷音
斎藤場上田 阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、金剛界大日如来、阿弥陀如来
      不動明王結衆石塔婆
斎藤新田  阿弥陀如来、双式阿弥陀如来・天皷雷音仏
斎藤戸ノ内 二尊塔婆は、戦乱の渦中で、生きる苦しみ老少不定の現実を体験した場合、あらかじめ死後の仏事を生前におこない修することを逆修と云われていますが、極楽に往生する仏果を得るとして造られたもので、中世の世相と人々の信仰観念がうかがわれます。 
 




鎌倉期建立の斎藤場上田の石塔婆
付近には、和尚壇の地名が残り、法院屋敷跡や豪族舘跡などがあります。



| ryuichi | 04:21 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |