2024-12-07 Sat
三春城下清水にある曹洞宗 萬年山天澤寺の墓地への土手崩落の補修が完了しています。
一昨年の長雨により崩落していましたが、きれいに治っています。
安心してお墓参りが出来ます。
秋の落ち葉拾いも快適です。
三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2024-08-25 Sun
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり
子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め地蔵盆には“御霊まつり“が開かれています。
わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。
やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。
一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。
親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。
亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。
こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。
それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。
人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。
私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。
その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。
そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。
後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。
その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。
地蔵菩薩の縁日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。
お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。
「賽の河原地蔵和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。
賽の河原地蔵和讃
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む
一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく
(ただ明け暮れの嘆きには)
(酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる
我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出てさせたまいつつ
汝ら命短かくて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2024-08-18 Sun
三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。
地蔵盆には「身代わり地蔵尊祭礼」が開催され、法要と大数珠繰り、そして、ご詠歌がありました。
地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。
大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。
古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。
天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」
安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。
この政道が、安寿と厨子王の父親です。
しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。
安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。
丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。
安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。
一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。
後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。
それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。
かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。
今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。
親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。
亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。
こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2024-07-24 Wed
「千客鰻来」
令和6年 土用の丑の日。
7月24日(水)
三春城下新町では、当店の隣にある城下一の魚屋「橋長」さんに、鰻のかば焼きを頼みます。
画像でお分かりになりますか?
国産浜松の鰻を、東京の料亭で修業した社長が、その自慢の腕前を見せてくれます。
裁き、蒸してからのかば焼き・・・・このふっくらとした身と黒あめ色に光るタレ!
当店女将など、知人や実家などにお中元としていそいそと配っています。
もう夕食まで待てません!
当家の分は、一人一匹。
お昼には”うな重”で頂き、夜は残りを肴に冷えたビールで一献!
これでこの夏を乗り切れそうです。
夏土用”あんころ餅” ~御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍~
本日、7月24日、土用の丑の日!
最近では土用の入りではなく、土用の丑の日にあんころ餅食べる方の方が圧倒的に多くなってます
確かに土用の入りっていつ?ってなりますもんね
今日は、あんころ餅!食べましょう!!いーっぱい作ってお待ちしてます ❗️
当店の土用餅は、柔らかい口当たりのお餅をなめらかな自家製こし餡で絡めてみました。
冷房のない時代に暑さを乗り切るため、様々な知恵を絞ってきたことがうかがえます。
私たちも先人の知恵に倣って、体調には十分注意をし元気に夏を乗り切りたいものです。
北海小豆のこし餡からのぞくお餅も愛らしいた土用餅。
古人の知恵にならった暑気払いの素朴なお菓子で、この夏を健やかにお過ごしください。
数量限定販売です。
あんころ持ちを食べて、暑い夏を乗り切りましょう!
ご自愛くださいませ。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
2024-07-13 Sat
三春城下新町鎮守 田村大元神社 令和五年夏季例大祭
7月14日(日) 夏季例大祭神事 社殿 午前9時
町内神輿渡御 新町行政区一円 午前10時頃^
還御(神輿が神社に還る) 新町縦町 午後7時 ”庚申坂郭堺区分燈”出立
旧秋田氏三春藩領内総鎮守であった大元帥明王社7は、田村大元神社の名称が変わり、御神体は「国常立命(くにとこだちのみこと)」となっていますが、旧神号大元帥明王の時代から例大祭時の御神輿渡御では長獅子が先払いとして先頭を練り歩きます。
「大元帥明王」は、敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われています。
その名残で長獅子の髭が災難除けとして町内に配られています。
明治維新後の三春藩解体に伴い、旧三春藩の総鎮守として三春領田村郡内全域と郡山の一部で運営されてきた「田村大元師明王社」を、紆余曲折はあったものの、混沌とした時代が過ぎた、昭和に成って、新町の大先輩たちが、別火講中を組織して、その心意気で一手に担い、今日まで継承してきました。
「別火」、古くは別の日と書きましたが、別火講中とは文字の如く、家と釜戸の火を別ける特別な「ハレの日」を意味しています。
新町の男たちは、家庭や社会から離れ、別火講中の一連の年間行事の中で、講員一同、正に寝食を供にすることにより「田村大元神社」の行事を司り、講中在籍中に実社会では体験出来ないような、様々な体験を通して思慮分別を養っていました。
さらには「真の三春人」となって、実社会においてこの発展に寄与する人間つくりを目的として、新町の先輩たちから、脈々と受け継がれてきた、三春人として、胸を張って誇れる組織だと思います。
世代が変わり薄れつつある事柄ですが、「別火講中」とは「同志、仲間」という意味であると理解してほしいと思います。
決してただ酒を飲んで大騒ぎをする会ではありません。
仲間がいることで「切磋琢磨」互いに良い影響を与え、学び合いながら、人は一人では生きられない。
また、支え合う人・喜びや悲しみを分かち合う人達がいてこそ、自分自身も、成長し、生きることが出来るということを、心に刻み、「別火講中で培った人格と経験を持って社会生活寄与する」という事を学んでいただければと心より思います。
私は、よく「別火講中はコミニティーの原点だ」と申し上げていますが、別火講中とはまさにコミュニティそのものなのかもしれません。
辞書によれば 「講」とは、民間の金融上の組合、経典を講釈する会、信徒が催す法会や、神仏に参拝に行く団体」とあります。
また、コミュニティー【community】は、「人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域,およびその人々の集団。地域社会。共同体。」とあります。
昨今「日本からコミュニティが消えつつある」と言われています。
確かに昔はご近所があり、隣組があり、先輩・後輩があり、それに付随した言葉使い、義理や人情等々人付き合いのスキルがたくさんありました。
現在でも確かに存在はするのですが、個人の権利や自由が叫ばれ、仲間意識は表面的になっているように思われます、しかし、我が新町においては、別火講中があるかぎり、無縁の物の様に思います。
新町の先輩たちが築き上げた、別火講中の、心意気を忘れることなく、両番組力を合わせて、修行の場としての別火講中行事の中で、おのおの意味を見出しながら、時に楽しく、時に厳しく、孫子の代まで、「別火講中」を継承していってくれることを切に、お願いします。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-07-11 Thu
三春城下新町鎮守「田村大元神社夏季祭礼」 宵祭
※ 旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」のお祭でしたが、現在は城下新町の鎮守様 田村大元神社夏季例大祭
旧三春藩の領内総鎮守の祭礼 起源は古く戦国末期より500年余続く祭礼
新町字民をはじめ城下を中心に三春の町民が広く氏子として奉仕しています。
令和6年度
7月13日(土) 宵祭 還御 新町縦町 午後7時ごろ ”庚申坂郭堺区分燈”出立
7月14日(日) 夏季例大祭神事 社殿 午前9時
町内神輿渡御 新町行政区一円 午前10時頃^
還御(神輿が神社に還る) 新町縦町 午後7時 ”庚申坂郭堺区分燈”出立
旧三春藩領内総鎮守太元帥明王社 (田村大元神社)
本来、太元帥明王は四天王·二十八部衆を従え、悪獣や兵火の災難を除き、国を守り人々を保護する明王であった。
国常立命は記紀神話の神で、日本書紀では天地開闘の最初に出現した国土生成の中心的神として位置づけられている。
八幡神社、能熊野神社、神明宮、秋葉神社に対する篤い信仰を持ち続け、例祭には神輿渡御があり、長獅子、三匹獅子舞を奉納し祭礼を行う。
祭儀は一月元旦歳旦祭、四月二十八日春祭り、例祭は七月二十日(現在は第三の日曜日)、十月二十八日秋祭り、秋葉講祭が四月二十日と十月二十日、他に正月別火講祭奈が行われる。
別火講一番組と二番組が祭りの準備と執行に当たっている。
田村大元神社から勤請された神社と思われる大元神社が大越と船引にある。
坂上田村麿公は、坂上苅田麿公の子として天平宝宇二年(758年))に生まれている。成長して蝦夷征伐に関係し、延暦十六年(797年)には征夷大将軍に任じられている。
田村麻呂は、観音への信仰もあつく、同十七年(798)には京都に清水寺を建立している。朝廷や天皇からの信頼あつく、正三位まで授けられるとともに、参議や大納言などの要職に任じられている。
また、武門に対する信頼もあつく、右近衛大将や兵部卿なども歴任している。
弘仁二年(811)五月二十三目、都にて没している。
延暦年間(782~805)
坂上田村磨、征夷大将軍として征討の途上、磐城国岩瀬郡小山田村今明王壇に図常立命を安置奉斎、武運長久治国平天下を祈願したことに由来する。(社伝による)
永仁三年(1295)
社宝銅製松喰鶴鏡にこの年の墨書銘がある。
歴応年間(北朝年号1338~1342)
坂上田村麻呂・田村将軍の裔田村輝定、之を三春雲集山古城跡に遷し、祠官を置く。
(社伝による)
永正元年(1504)
田村麻呂から26代目の子孫とする田村義顕、居城を田村郡守山字山中(現郡山市)より三春大志多山に移した時、太元明王をも併せ移し、その社殿を同じく大志多山に建立、之を奉遷。
三春城の東舘(後の三ノ丸)の南麓に社地を定め、社地及び門前の町名を守山山中を模して山中とし、守山の泰平寺を移して別当寺とする。
天文年間(1532~1554)
境内末社、八幡宮、熊野宮を勧請。
天文十八年 (1549)
田村氏の変遷により、この年まで田村家領内六十六郷の総鎮守とする。
天文十八年(1549)~慶長三年(1598)
会津蒲生氏による三春支配、景仰奉祀する。
慶長三年(1598)~慶長五年(1600)
会津上杉氏による三春支配、景仰奉祀する。
慶長五年(1600)~寬永四年(1637)
再び会津蒲生氏三春支配、景仰奉祀する。
寬永四年(1637)~寛永五年(1628)
会津加藤氏支配、景仰奉祀する。
寛永五年(1628)~正保元年(1644)
三春城主松下氏支配、景仰奉祀する。
正保二年(1645)
秋田俊季、常陸国宍戸城より三春に移り、本神社を尊崇。
別当を真照寺とする。
寬文十年(1670)
仏殿、本堂火災により焼失。
元禄二年(1689)
秋田輝季、大般若経六百巻を奉献。
天明八年(1788)
秋田倩季、神号額を奉納。
慶応三年(1867)
秋田映季、仁王門(後随神門・表門・八脚門)を建造。
金剛力士像完成(石森の彫工伊藤光雲.同九賀之助の合作)
明治元年(1868)
神仏分離令布告。
明治三年(1870)
大志多山神社と改称。
三月、御神体·突鐘·金剛力士像を真照寺に移し、社殿を破却。
六月一日遷宮
明治四年(1871)
三春藩社詞方より国常立命を祭神として、三春町の鎮守とし、当屋制廃止を命ぜらる。
旧三春藩の総鎮守であった大元帥明王が明治四年の廃藩置県の際に無格社となり、一方三春町の一地域の信仰であった神明社が明治三十三年に県社に列せられた。
明治十二年(1879)
社名を田村大元神社と改称。
明治三十二年(1899)
本殿拝殿を建立。
昭和三年(1928)7月18日、
郷社に列せられる。銅板屋根にする。
昭和十六年(1941)
銅製松喰鶴鏡、国指定重要美術品に認定される。
昭和二十年(1945)
太平洋戦争終結・GHQ、神道指令を出す。
昭和三十六年
阿吽仁王像が氏子によって真照寺からこの随神門に戻された。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-07-07 Sun
三春城下新町の鎮守田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」)の祭礼を、今週末に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。
梅雨の時期独特の湿った気候、夕方の蜩、楽内のホタル、真照寺下セリ場の旗や大元神社山内の提灯、そして、この三匹獅子や長獅子の太鼓や笛の音を聞こえると「夏が来るんだなあ~」と思います。
350年余は続いてきたんであろう、正に初夏の三春城下を彩る風物詩です。
三匹獅子掛では、年長者が後輩に教えるという新町では当たり前の光景ですが、他では中々見られなくなった光景です。
長獅子舞の練習風景です。
田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.
やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。
自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。
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