CALENDAR
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30   
<<  2020 - 04  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




三春城下 真照寺節分会 2020



   真言宗日乗山真照寺

暦も、いつのまにか、もう立春。

春準備の木立の中、静かに佇む真言宗日乗山真照寺。

三春藩安倍安東秋田家五万石の祈願所として隆盛を極めた古刹です。

春には水芭蕉が咲く寺として有名です。


本日は、三春藩主祈願所真照寺の節分会が開催されます。

当店では、夕方より、豆まき終了の午後九時頃まで「お汁粉」を無料で配布しています。


豆拾い(福拾い)の行き帰りにお立ち寄りください。








裏庭は、水芭蕉ばかりではなく、藩主来寺の時、休息に使う、「御成りの間」の、借景として造営された庭があります。

祈願所時代は、噴水のある池や、池中央に立つ弁天堂などがあったそうで、三春五万石別格寺真照寺の、往年の隆盛ぶりが偲ばれます。

現在も、磐梯造園様の匠の技にて整備され、四季を通じて訪れる人々の心を魅了しています。


私も、日々の忙しさや、苛立ちに、忘れがちな心のやすらぎをもとめ、その美しい庭に、足を運び、四季の表情を、楽しませていただいています。

本堂の外側に、絃川会による様々な墨字の額が掛けてあります、その時どきの、自分の心境により,目につく額が違います。


「傳芳」、「端虚」、「如是」と、まさに自分自身の心を文字に表し,励ましや、戒めとして語りかけているような気がします。

本堂の中には、化け猫騒動、天明大火後、時の藩主秋田千季公が納めた弘法・興教大師像があります、これは、夜毎、猫の怨霊にうなされた千季公が、その霊を鎮めるために納めたもので、中に腹切梅の滋野多兵衛の位牌が納められていると聞きました、又、ご本尊の不動明王像や,帝釈天、四天王の立像が在り、邪気を払わんと睨みを利かせています。 

子供の頃,悪い事をしたときなど,母に「お寺につれていくよ」と叱られ,その恐い顔をおもい出だし反省しておりました。

最近は、四歳と,二歳の子供を連れて、お寺へ行きますが,子供の頃に叱られたように自分のこどもにも、同じ口調で叱る、自分にきがつき、墨字の文字額と伴に,他界して随分時が経つ、母の享受が思い出されます。  
                      





かつては「大日堂」そして、「古四王堂」として信仰を集めていました。 

堂内の須弥壇には、大日如来像と四天王・東の持国天,南の増長天,西の広目天,北の多聞天 (→毘沙門天 ) がありました。

大日如来像は、現在はありません。


他の四天王は本堂内に保管されています。







当店では、節分会に協賛して夕方よりお汁粉の御接待をしております。


福拾いの行帰りにお立ちよりください。




春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



親の恩、歯が抜けてから噛み締める    合掌





| ryuichi | 05:09 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
「身代り地蔵尊祭礼」 御供物の菊落雁 天澤寺山内 令和元年




例年、三春城下清水の天澤寺様よりご用命いただいている「身代り地蔵尊祭礼」御供物の菊落雁です。


紅白の菊落雁です。







地蔵盆「身代り地蔵尊」祭礼


平成26年8月24日(日) 午前十時30分より







安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。



当日は、法要とご詠歌があります。








地蔵盆の由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの親となって救ってくれると云れています









この話に元基づいて、地蔵菩薩を建立し、こどもの幸福を祈る民間信仰としてで広まったといわれています。

また、地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。







尚、三春城下の地蔵盆は、この天澤寺身代り地蔵尊の他に、新町の州伝寺「一時地蔵尊 御霊まつり」、「丈六地蔵尊祭礼」も行われ、子どもたちの無病息災を願い町の方々が、参拝に出かけています。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:42 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
身代り地蔵尊祭礼 天澤寺山内 安寿と厨子王伝説



三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。

地蔵盆「身代わり地蔵尊祭礼」


地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。

大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。

古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。





天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
 
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。




この政道が、安寿と厨子王の父親です。

しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。

安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。

安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。




後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。




 
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。

 かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。



 


また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。

 今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 04:38 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
三春城下新町鎮守 田村大元神社 夏季例大祭  お守り切り札と先払い長獅子の髭(ひげ)



三春城下新町鎮守 田村大元神社 夏季例大祭 



御神輿渡御の際に、家の前で頂戴する災除けお守り切り札と先払い長獅子の髭(ひげ)です。


旧秋田氏三春藩領内総鎮守であった大元帥明王社7は、田村大元神社の名称が変わり、御神体は「国常立命(くにとこだちのみこと)」となっていますが、旧神号大元帥明王の時代から例大祭時の御神輿渡御では長獅子が先払いとして先頭を練り歩きます。


「大元帥明王」は、敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われています。

その名残で長獅子の髭が災難除けとして町内に配られています。








明治維新後の三春藩解体に伴い、旧三春藩の総鎮守として三春領田村郡内全域と郡山の一部で運営されてきた「田村大元師明王社」を、紆余曲折はあったものの、混沌とした時代が過ぎた、昭和に成って、新町の大先輩たちが、別火講中を組織して、その心意気で一手に担い、今日まで継承してきました。


「別火」、古くは別の日と書きましたが、別火講中とは文字の如く、家と釜戸の火を別ける特別な「ハレの日」を意味しています。

新町の男たちは、家庭や社会から離れ、別火講中の一連の年間行事の中で、講員一同、正に寝食を供にすることにより「田村大元神社」の行事を司り、講中在籍中に実社会では体験出来ないような、様々な体験を通して思慮分別を養っていました。


さらには「真の三春人」となって、実社会においてこの発展に寄与する人間つくりを目的として、新町の先輩たちから、脈々と受け継がれてきた、三春人として、胸を張って誇れる組織だと思います。






世代が変わり薄れつつある事柄ですが、「別火講中」とは「同志、仲間」という意味であると理解してほしいと思います。


決してただ酒を飲んで大騒ぎをする会ではありません。

仲間がいることで「切磋琢磨」互いに良い影響を与え、学び合いながら、人は一人では生きられない。

また、支え合う人・喜びや悲しみを分かち合う人達がいてこそ、自分自身も、成長し、生きることが出来るということを、心に刻み、「別火講中で培った人格と経験を持って社会生活寄与する」という事を学んでいただければと心より思います。  







私は、よく「別火講中はコミニティーの原点だ」と申し上げていますが、別火講中とはまさにコミュニティそのものなのかもしれません。



辞書によれば 「講」とは、民間の金融上の組合、経典を講釈する会、信徒が催す法会や、神仏に参拝に行く団体」とあります。

また、コミュニティー【community】は、「人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域,およびその人々の集団。地域社会。共同体。」とあります。


昨今「日本からコミュニティが消えつつある」と言われています。

確かに昔はご近所があり、隣組があり、先輩・後輩があり、それに付随した言葉使い、義理や人情等々人付き合いのスキルがたくさんありました。


現在でも確かに存在はするのですが、個人の権利や自由が叫ばれ、仲間意識は表面的になっているように思われます、しかし、我が新町においては、別火講中があるかぎり、無縁の物の様に思います。





新町の先輩たちが築き上げた、別火講中の、心意気を忘れることなく、両番組力を合わせて、修行の場としての別火講中行事の中で、おのおの意味を見出しながら、時に楽しく、時に厳しく、孫子の代まで、「別火講中」を継承していってくれることを切に、お願いします。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍








| ryuichi | 04:52 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子





三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子

寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。

この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。

その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。

ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。

また、三春城下のまちづくりは、大町·中町を中心にして、現在の荒町、そして新町へとその整備が進んでいきました。








新町の巻

昔から、山中、新町、清水を総称して、新町と呼んでいた。

山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大
元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。

山中の入りロ、桜川岸にO家があり、その垣根に狐石というのがあった。
この石に小便をすると、馬鹿されると伝えられていた。

山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家と区分された形だった。







大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。






真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。








家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。

三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。





新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。

清水の方は、今もいくらか侍屋敷の面影が残っている。

天沢寺下、秋田斎(いつき)5 00石の家老屋敷があったという。

この外、入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。

かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
旧三春藩秋田家五万石領内総鎮守「大元帥明王」、現三春城下新町鎮守「田村大元神社」の晩秋




旧三春藩秋田家五万石領内総鎮守「大元帥明王」、現三春城下新町鎮守「田村大元神社」の晩秋です。


山内にある大銀杏の葉も随分と落ちて黄色い絨毯がお目見えです。







佐内穂落葉はきれいに掃き清められていますが、宮司、総代さんの計らいで、このイチョウの葉が創る黄色い絨毯は残してあります。







山内にある社務所前を見ますと「田村大元神社(旧三春藩秋田氏五万石領内総鎮守大元帥明王)災害修復事業」の御寄付御芳名の表記版がございます。







お蔭様で、境内に鎮座する熊野宮(現熊野神社)、そして八幡宮(現八幡神社)の屋根吹き替え及び改修工事が終了しました。






この両社(柱)さんは江戸初期の秋田氏三春入部の頃に三春場内よりこの場所に移築再建されたものです。



熊野神社は、屋根の三角の方に入口を作る「妻入り」で、向拝が屋根の三角の方から出ている切妻造・妻の出雲系の大社造。







拝殿の向かって左手にある境内社、熊野神社







中世より三春を含む仙道・田村地方一帯は熊野新宮の荘園「田村荘」とされていました。






熊野新宮の田村荘司の滅亡後に、平姓三春田村氏が田村荘代官的な役割を得ていたとも考えられます。

この熊野神社(熊野宮)もその辺にルーツがあるのやもしてません。







熊野神社(境内社・町文化財)は、寛文10(1670)年消失後再建されたものです。






拝殿の向かって右手にある境内社、八幡神社。

八幡神社(境内社・町文化財)は寛文10(1670)年消失後再建されたもので、平入り一間社流造。







「田村郡郷土史」には、永正元年三春田村氏の初代田村義顕が居城を守山(現郡山市)より三春に移した際に、田村家祖先以来尊信してきた八幡大菩薩と大元帥明王を三春に移し、ともに三春城の大志田山の一郭(現田村大元神社境内)に勧請(分霊)したと記されてあります。



後に江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。






八幡様は、本源を九州の宇佐八幡といわれます。

この宇佐八幡という人(?)は、奈良時代に奈良東大寺造営など大和朝廷の国家建設に埒腕を発揮して、朝廷より大菩薩号を贈られ王城鎮護の神として崇められました。



後に征夷大将軍となる源義家が、宇佐八幡大菩薩の生まれ変わり八幡太郎と称したこともあり、甲州武田信玄をはじめ代々清和源氏系の氏神として崇められ、戦国時代の武家政権の発達とともに、武人的性格の中で武家に篤く信仰されるようになりました。










しかし、三春藩主安倍姓安東秋田氏は、その祖先安倍安東一族が「前九年の役」「後三年の役」で大和朝廷と源八幡太郎義家に敗れたと言う歴史があるためか、秋田氏からは冷遇されて、三春城下の境を示す黒門(現在も黒門遺構として桜川沿いに古い石垣が僅かに残っています)の外に移転されたと言われます。








上記の経緯から、江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。



この石板は20年ほど前、まだ別火講中の講員だった頃に、この付近から掘り起こしたものです。




社伝によると延暦年間(782~805年)に坂上田村麻呂が征夷大将軍として東夷征伐の途中、磐城國岩瀬郡小山田村今明王壇に国常立命を奉斎し、武運長久を祈願したというのがはじまりとされています。

永正元年(1504年)に田村義顕の三春移城に伴って、大元帥明王を三春城三ノ丸下に遷し、領内総鎮守とします。






時代は下がって、秋田氏時代からは城下新町の秋田氏祈願所真照寺が別当職を務めます。

明治進の廃仏毀釈・神仏離反までは神仏混習合であったため『明王さま』と呼ばれていたが、明治時代に入ると神仏分離令により、明治三年に『大志太山神社』、明治十二年に『田村大元神社』と改称。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:19 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |