CALENDAR
S M T W T F S
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
<<  2018 - 11  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




旧三春藩秋田家五万石領内総鎮守「大元帥明王」、現三春城下新町鎮守「田村大元神社」の晩秋




旧三春藩秋田家五万石領内総鎮守「大元帥明王」、現三春城下新町鎮守「田村大元神社」の晩秋です。


山内にある大銀杏の葉も随分と落ちて黄色い絨毯がお目見えです。







佐内穂落葉はきれいに掃き清められていますが、宮司、総代さんの計らいで、このイチョウの葉が創る黄色い絨毯は残してあります。







山内にある社務所前を見ますと「田村大元神社(旧三春藩秋田氏五万石領内総鎮守大元帥明王)災害修復事業」の御寄付御芳名の表記版がございます。







お蔭様で、境内に鎮座する熊野宮(現熊野神社)、そして八幡宮(現八幡神社)の屋根吹き替え及び改修工事が終了しました。






この両社(柱)さんは江戸初期の秋田氏三春入部の頃に三春場内よりこの場所に移築再建されたものです。



熊野神社は、屋根の三角の方に入口を作る「妻入り」で、向拝が屋根の三角の方から出ている切妻造・妻の出雲系の大社造。







拝殿の向かって左手にある境内社、熊野神社







中世より三春を含む仙道・田村地方一帯は熊野新宮の荘園「田村荘」とされていました。






熊野新宮の田村荘司の滅亡後に、平姓三春田村氏が田村荘代官的な役割を得ていたとも考えられます。

この熊野神社(熊野宮)もその辺にルーツがあるのやもしてません。







熊野神社(境内社・町文化財)は、寛文10(1670)年消失後再建されたものです。






拝殿の向かって右手にある境内社、八幡神社。

八幡神社(境内社・町文化財)は寛文10(1670)年消失後再建されたもので、平入り一間社流造。







「田村郡郷土史」には、永正元年三春田村氏の初代田村義顕が居城を守山(現郡山市)より三春に移した際に、田村家祖先以来尊信してきた八幡大菩薩と大元帥明王を三春に移し、ともに三春城の大志田山の一郭(現田村大元神社境内)に勧請(分霊)したと記されてあります。



後に江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。






八幡様は、本源を九州の宇佐八幡といわれます。

この宇佐八幡という人(?)は、奈良時代に奈良東大寺造営など大和朝廷の国家建設に埒腕を発揮して、朝廷より大菩薩号を贈られ王城鎮護の神として崇められました。



後に征夷大将軍となる源義家が、宇佐八幡大菩薩の生まれ変わり八幡太郎と称したこともあり、甲州武田信玄をはじめ代々清和源氏系の氏神として崇められ、戦国時代の武家政権の発達とともに、武人的性格の中で武家に篤く信仰されるようになりました。










しかし、三春藩主安倍姓安東秋田氏は、その祖先安倍安東一族が「前九年の役」「後三年の役」で大和朝廷と源八幡太郎義家に敗れたと言う歴史があるためか、秋田氏からは冷遇されて、三春城下の境を示す黒門(現在も黒門遺構として桜川沿いに古い石垣が僅かに残っています)の外に移転されたと言われます。








上記の経緯から、江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。



この石板は20年ほど前、まだ別火講中の講員だった頃に、この付近から掘り起こしたものです。




社伝によると延暦年間(782~805年)に坂上田村麻呂が征夷大将軍として東夷征伐の途中、磐城國岩瀬郡小山田村今明王壇に国常立命を奉斎し、武運長久を祈願したというのがはじまりとされています。

永正元年(1504年)に田村義顕の三春移城に伴って、大元帥明王を三春城三ノ丸下に遷し、領内総鎮守とします。






時代は下がって、秋田氏時代からは城下新町の秋田氏祈願所真照寺が別当職を務めます。

明治進の廃仏毀釈・神仏離反までは神仏混習合であったため『明王さま』と呼ばれていたが、明治時代に入ると神仏分離令により、明治三年に『大志太山神社』、明治十二年に『田村大元神社』と改称。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:19 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
平成30年度 新町大宴会 歌うアイドル魔女っ子マジシャン「瞳ナナ」マジックショー




三春城下新町睦会

平成30年度 新町大宴会 歌うアイドル魔女っ子マジシャン「瞳ナナ」マジックショー








今年で3回目の出演となる瞳ナナさん



ご挨拶に来ていただきました~


早速差し入れをもって楽屋見舞です。


今年結婚をされナナさんです。



人妻パワー全開で素敵なステージを見せてくれました!






    瞳ナナちゃん、東北チンドン夢乃屋さんとの記念写真




都内の路線で人身事故、さらには、新幹線までが人身事故で1時間遅れ(゜o゜;

とりあえず、ホームにいる新幹線(1時間前の新幹線)の自由席に乗って無事に郡山に到着したとのことでした。

お疲れさまでした~




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::新町睦会 |
萬年山天澤寺 扁額




寺院には山号と寺号があります。

天澤寺の山号の「萬年山」は、万年もの長い繁栄を祈念してつけられました。





寺号の「天澤寺」は“天地御佛の深いお恵みによって世の人が幸せに”との御心から嘉吉3(1443)年、開山の栄峰覚秀(えいほうかくしゅう)禅師初代住職がつけたものです。






この額は、二代山口文太郎氏が明治百年を記念し先祖菩提供養のために寄進されたものです。

書は大本山総持寺貫主独住第19世・岩本勝俊禅師揮毫であります。

寺号の記 昭和四十四年 山主記之







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:12 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
庚申坂弓町新地妓楼「二葉楼」解体




三春昭進堂の向かい側の道を入ったところが弓町です、この一番奥が「新地」とも「新庚申坂」とも呼ばれた、遊里遊郭跡があります。


“三春庚申坂七色狐、わしの二、三度騙された”


この三春甚句にも歌わるほど、旧藩時代より、三春城下新町末の庚申坂の色街は有名でした。

大正・昭和となり、場所が庚申坂から新地(弓町)に移転してから最盛期を迎え5軒の妓楼に約30名を超える遊女が在籍し、昼夜もない繁盛ぶりだったと伝わっています。







そして、その華やかさの陰には、花街につきもの事柄がたくさんあったことでしょう。

庚申坂秘話

悲恋の恋の花が咲き、心中あり、駆け落ちあり、円満身請けあり、倒産あり・・・数々の秘め事話を残しています。







その遊郭、先の花屋楼に続き二葉楼の取り壊しが始まりました。

老朽化のために傷みがひどく、取り壊しとなったんでしょう。

以前、知人が借家として借りていたこともあり、二葉楼には度々お邪魔をしていました。







この二葉楼も、赤線廃止後から下宿「二葉荘」として営業していた時期もありました。







平成の初頭まではアパートとして知人が家族で借りていましたが、その頃になると奥座敷や奥の間がある二階建ての建物は廃墟と化しており、知人の借りていた玄関横にある一間以外は人の入れる場所ではありませんでした。







しかし、時には肝試し感覚で妓楼の建物内部を探検させていただきました。







この二葉楼は、建て増し建て増しによる建築と見えて、手前の二階建ての構造物一階には帳場や宴会場的な部屋があり、2階は個室が並びます。

また、中にはを挟んで第二の妓楼が渡り廊下上下二段によって連絡されています。

またその奥には、奥座敷がありここも二階建てで上下二段の連絡橋で結ばれています。






二階へ通る階段が2か所ずつあり、計6っか所設けられており、すべての階段が一方通行になっていました。


これは客同士が会わない仕掛けなんだと聞いたことがあります。

トイレに行くにも入り組んでいて複雑な構造の大きな建物です。









二階には小さな部屋がいくつもあり、いろいろと想像を膨らませていました。

郡山駅前アーケードの一角にあった旧妓楼跡が自宅という郡山商業の同級生がいまして、遊びに行った時の建物の構造と同じだったことを覚えています。



取り壊し前の風景



今は、妓楼も朽ち果て、その面影をしのぶだけです。

三春の歴史が、また一つ消えていきます。









撮影は平成30年9月17日です。


現在は更地になっています。



尚、ここはすべて私有地です。



常識ある行動にて、無断での侵入はご遠慮ください。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
「身代り地蔵尊祭典」 天澤寺山内



三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。

地蔵盆の昨日、「身代わり地蔵尊祭礼」が開催され、法要と大数珠繰り、そして、ご詠歌がありました。


地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。

大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。

古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。





天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
 
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。




この政道が、安寿と厨子王の父親です。

しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。

安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。

安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。




後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。




 
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。

 かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。



 
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。

 今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 04:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
「御霊まつり 子育一時地蔵尊」 三春城下新町の天翁山州伝寺



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
妓楼の解体 三春城下弓町 新庚申坂”新地”





三春昭進堂の向かい側の道を入ったところが弓町です、この一番奥が「新地」とも「新庚申坂」とも呼ばれた、遊里遊郭跡があります。


“三春庚申坂七色狐、わしの二、三度騙された”


この三春甚句にも歌わるほど、旧藩時代より、三春城下新町末の庚申坂の色街は有名でした。

大正・昭和となり、場所が庚申坂から新地(弓町)に移転してから最盛期を迎え5軒の妓楼に約30名を超える遊女が在籍し、昼夜もない繁盛ぶりだったと伝わっています。





そして、その華やかさの陰には、花街につきもの事柄がたくさんあったことでしょう。

悲恋の恋の花が咲き、心中あり、駆け落ちあり、円満身請けあり、倒産あり・・・数々の秘め事話を残しています。







その遊郭の一軒の取り壊しが始まりました。

老朽化のために傷みがひどく、取り壊しとなったんでしょう。

以前、知人が借家として借りていたこともあり、一度だけ座敷で宴会をしたことがあります。

この時には、妓楼の建物内部を探検させていただきました。






2階へ通る階段が2か所あり、一方通行になっていました。
これは客同士が会わない仕掛けなんだと聞いたことがあります。

トイレに行くにも入り組んでいて複雑な構造の大きな建物です。

二階には小さな部屋がいくつもあり、いろいろと想像を膨らませていました。

郡山駅前アーケードの一角にあった旧妓楼跡が自宅という郡山商業の同級生がいまして、遊びに行った時の建物の構造と同じだったことを覚えています。




取り壊し前の風景



今は、妓楼も朽ち果て、その面影をしのぶだけです。

三春の歴史が、また一つ消えていきます。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |