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 「曹洞宗大本山總持寺 輪番住職と三春城下」 
塵壺391号 「曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下」 令和6年2月発行
 

曹洞宗諸嶽山總持寺 輪番住職と三春城下

「令和6年能登半島地震」により被災された皆様のご無事と被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

この地震の影響で、輪島市門前町にある曹洞宗の諸嶽山總持寺祖院でも、国の登録有形文化財に指定された建物が全壊するなど大きな被害を受けました。







總持寺祖院は、かつての曹洞宗の大本山「總持寺」で、明治31年に発生した火災の災禍により七堂伽藍の大部分を焼失。

これを機に、本山として神奈川県横浜市鶴見へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなっています。


元亨元年(1321年)、本年700回大遠忌を迎える開山太祖、瑩山紹瑾禅師によって開創され翌年には禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。


瑩山禅師の跡を次いだ総持寺第2世・峨山韶碩(がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が参禅し、彼らが曹洞禅を全国的に広めたことによって更に門下が増えていきました。






そこで、曹洞宗開祖道元禅師の教えの「相承」と優秀な僧を育むために、峨山禅師の死後の「輪番住職制」で運営されるようになります。

もう一方の大本山永平寺は独住制です。

この輪番住職とは、全国末寺の「五院輪番地」(江戸中期記載17,361寺)から1〜3年おきに輪番住職として總持寺の住職を「五院(塔頭庵主も輪番)」と呼ばれる5つの塔頭寺院(普蔵院107ヶ寺、妙高庵86ヶ寺、洞川庵51ヶ寺、伝法庵49ヶ寺、如意庵58ヶ寺)から各塔頭から1名、計5名が選ばれて75日交代で住職を勤めました。


元和元年、徳川幕府より法度が出されて永平寺と並んで大本山となります。明治維新後の諸嶽奕堂(もろたけ えきどう)大和尚以降は輪住を取りやめ独住制となりますが、貞治3年から明治3年まで約500年間、実に5万人近い僧侶が本山住職を勤めました。

輪番住職の交替期(10月2日)には、上番下番の僧呂や寺院関係者1,000人以上も集まり、短期に住職が変わることで、全国の輪住地寺院から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。






三春城下からは普蔵院輪番地として清水にある曹洞宗録所萬年山天澤寺。そして、三春藩主に秋田氏が入城以降の「僧録(国僧録)」論争とは別に、藩主菩提寺の曹洞宗録所秋田山龍穏院も宍戸以来、總持寺直末三十六門、洞川庵輪番地となっています。


「能州大本山總持寺輪住心得并一回中手控」安政4年(天澤寺蔵)によれば、天澤寺の属する普蔵院末寺の場合は約50年毎、龍穏院は本山末寺三十六門及び洞川庵末寺数により、数年毎に輪番住職に赴任していました。







その際に赴く和尚は、供回りとして伴僧3名、従者1名を含めた滞在・往来費用は、年代にもよりますが180両は必要との記録が残り在勤中の諸経費はすべて自前だったといいますから事前の貯蓄が必要で天澤寺の記録には10年前から蓄えたと記されています。

また、その蓄えにしても末寺数の多さや藩主や大商人など強大な庇護のある有力寺院の僧侶しか本山の住職は務めることができなかったと思われます。


当家の菩提寺である天澤寺歴代住職の位牌堂を見ますと、御位牌には、「前總持 當寺廿一世 悅巖快禅大和尚禅師」または「前永平兼總寧 當寺 随意會中 霊海崐山大和尚禅師」と記されたお位牌を目にすることができます。







この「前總持」とは、悅巖快禅大和尚が總持寺の輪番前住、又は当住が總持寺に赴いた場合の資格を示し、そして、「前永平兼總寧」は、霊海崩山大和尚が永平寺に赴いた際の資格ないし待遇を示したものだと考えられます。

「随意會中」とは、江戸時代に用いられていた曹洞宗寺院の格式(寺格)「三法幢地(常恒会地、片法幢地、随意会地)」の一つで、3年ごとに1回、参加者七十人以上にて結制安吾を執行する資格を持つ寺格を現していると考えられ「今の世にいふ認可僧堂と同義である」と『總持寺史』では解説しています。



       蒼龍謹白  がんばれ能登! 拝 




三春城下清水 曹洞宗 萬年山天澤寺 歴代住職一覧

開 山 榮峯覺秀大和尚 享徳二年九月二十五日
二 世 以心良傳大和尚 長禄二年一月十九日
三 世 越叟祖超大和尚 明応五年一月二十三日
四 世 満室慶湛大和尚 文明十六年七月二十四日
五 世 聖庵慶富大和尚 永正十四年二月十四日
六 世 心叟道存大和尚 広度寺 宗源寺 天文二十年三月二十九日
七 世 天庵瑞長大和尚 観照寺 弘治三年九月十八日
八 世 音室髙威大和尚 東禅寺 常円寺 松岳寺(桂蔵寺) 永禄七年十二月八日
九 世 龍山怒悦大和尚 天正五年八月二十七日
十 世 天山文漢大和尚 長源寺 慶長七年十月二十日
十一世 峰室太雄大和尚 吉祥寺 真福寺 長泉寺 広沢寺 寛永十一年六月八日
十二世 秀巖文譽大和尚 長盛寺 寛永十三年七月十九日
十三世 耕外大作大和尚 龍光寺 万治元年二月一日
十四世 一安徐麟大和尚 全応寺(天真寺)大本山總持寺輪番住職 元禄十五年一月20日
十五世 髙室麟道大和尚 大本山總持寺輪番住職 正徳四年
十六世 揚山玄播大和尚 享保二年四月八日
十七世 實元祖璨大和尚 寛保元年五月十一日 ※法名祖璨實元の記載有(町史9)
十八世 雲洞眞龍大和尚 寛保元年八月二十八日
十九世 天陰黙丕大和尚 宝暦二年九月十一日
廿 世 霊海崩山大和尚 ※霊海崐山の記載有(町史9)宝暦十三年五月二十三日 
廿一世 悦岩海信大和尚 悅岩快禅大和尚(位牌) 
儀岩行信和尚(四家氏家系図)宝暦九年四月八日
廿ニ世 即山重觀大和尚 大本山總持寺輪番住職 明和五年三月二十二日
廿三世 享寛戰貞大和尚 天明五年三月二十二日
廿四世 大空洞牛大和尚 ※法名洞牛大空の記載有(町史9)安永六年三月三日
廿五世 石庵正頭大和尚 天明八年二月十七日
廿六世 瑞巖道光大和尚 享和二年二月二十三日
廿七世 悟山寛了大和尚
廿八世 維石俊巖大和尚 大本山總持寺輪番住職
廿九世 便成正覚大和尚
三十世 快運道寧大和尚
丗一世 祖翁達三大和尚
丗二世 洞巖良宗大和尚
丗三世 佛母信元大和尚
丗四世 天狗米三山大和尚
丗五世 洞山道白大和尚
丗六世 耕眞禾山大和尚
丗七世 孝道戒順大和尚
丗八世 満海龍眉大和尚 大本山總持寺輪番住職
丗九世 全嶺恵玉大和尚 ※金領恵玉の記載有(町史9)
四十世 興山豊隆大和尚 ※興山實隆の記載有(町史9)
四一世 英法瑞雄大和尚 
四二世 東旭天秀大和尚
四三世 玉圓道秀大和尚
四四世 忍嶽賢秀大和尚
四五世 禪戒達堂大和尚



秋田山龍穏院 歴代住職 洞川庵輪番住職誌 總持寺住山記

開山 月泉良印大和尚応永七年二月二十四日夜
第二世 無等良雄大和尚 応永三十五年十月十日寂
第三世 龍谷良清大和尚 永亨十二年七月十三日寂
第四世 圓鑑良昭大和尚 康正元年五月十二日寂
第五世 機外良玄大和尚 文明五年三月十九日寂
第六世 鑑能吞昭大和尚 永正三年正月十八日寂
第七世 雲峰良集大和尚 永正十七年十月二十七日家
第八世 察心守鑑大和尚 天文十五年二日五日寂
第九世 草庵守瑞大和尚 永禄九年二月二十五日寂
第十世 光室源瑞大和尚 天正十七年七月八日寂
第十一世 天室宗龍大和尚 慶長十一年九月五日寂
第十二世 舜庵大堯大和尚 元和六年八月四日寂
第十三世 宏菴源奕大和尚 元和六年四月二十九日寂
第十四世 關室雲察大和尚 寛永十五年十二月十六日寂
第十五世 正眼雲祝大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛文七年二月十二日寂
第十六世 本祝松秀大和尚
第十七世 月宮慧閑大和尚  大本山総持寺輪番住職
   (宍戸より三春へ) 元禄六年十月二十三日寂

第十八世 鑑室良亀大和尚 貞享五年三月二十三日寂
第十九世 麟元雲祥大和尚  大本山総持寺輪番住職 正徳四年正月二十五日寂
第二十世 高山本立大和尚  大本山総持寺輪番住職 享保十七年四月十九日寂
第二十一世 大重本孝大和尚 寛延元年十月二十七日寂
第二十二世 海翁祖印大和尚 不詳
第二十三世 泰山活玄大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛延四年正月二十日寂
 月泉派 再公文龍穏院  
 一萬九千二百六十八世活玄和  元文二丁巳年八月十二日
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師良悟和尚
  
第二十四世 亮廓普宗大和尚 大本山総持寺輪番住職 明和六年十月十九日寂
 月泉派再公文 
  弐萬参千九百壱拾九世亮廓和尚 宝暦八戊寅年八月七日
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師鐵崖和尚

第二十五世 萬巖普白大和尚 天明六年十一月二十四日寂
第二十六世 萬元一如大和尚 大本山総持寺輪番住職 寛政元年六月十九日寂
 月泉派再公文 弐萬八千九百世 萬元和尚 
 受業師梅峰和尚 奥州之住僧也 嗣法師亮廓和尚

第二十七世 九苞丹山大和尚 文化九年十一月十八日寂
第二十八世 本然量義大和尚 大本山総持寺輪番住職 天保九年七月二十五日寂
第二十九世 祥鳳忍瑞大和海 天保泗年十月十五日寂
第三十世   佛國泰然大和尚 大本山総持寺輪番住職 嘉永六年五月二十一日寂
 無端派海蔵寺 四萬七百三十九世 泰然和尚 天保十四年三月十六日
 授業師徳運和尚 嗣法師同 

第三十一世 耕真禾山大和尚 安政五年人月二十一日寂
第三十二世 至仙卍定大和尚 明治九年入月十六日寂
第三十三世 微岩一筋大和尚 明治三十六年正月二十二日寂
第三十四世 大英大和尚 不 群
第三十五世 大機謙道大和尚 昭和四年三月二十一日寂
第三十六世 大心弘道大和尚 昭和三年八月二十六日寂





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:07 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::萬年山天澤寺 |
パフォーマー”不思議の国のアリス”さんにご来店いただきました。




三春大神宮祭礼奉納 新町睦会「新町大宴会」のメイン


パフォーマー”不思議の国のアリス”さんにご来店いただきました。







4年ぶりの開催と、アリスさんも4年ぶりの再出演で子供たちも大喜びです!



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
2023「セリ場」の横をつたう湧き水に居住する沢蟹君の子供たちにご来店いただきました。



今年も、旧三春家畜市場、通称「セリ場」の横をつたう湧き水に居住する沢蟹君にご来店いただきました。


毎年、決まって同じこの時期のご来店です。


道に迷っているんでしょう、元の澤に返してやりました。






安全な場所に逃がしてきましたが、眞照寺の池を中心に鷺(さぎ)が飛来したり、最近強面の野良猫が姿を見せ始めたりと沢蟹くんもひやひやもんでしょう・・・


”沢カニ?” 昔からせり市場横、真照寺側にある大石の隙間から清水が沸いており、沢蟹や蛍、トンボのヤゴなどを見かけます。





また、最近は見ていませんが「ウシガエル」もお出ましになることがあります。

お寺の池で春から秋にかけて生活して子供を産んで、冬眠は道路を挟んだ弓町の山で生活しているんでしょうか?

生態が不明です・・・


何はともあれ、次世代迄残したい小さな風景です。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:45 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
お客様より、「三春新町 後見」の法被を頂戴しました。




お客様より、「三春新町 後見」の法被を頂戴しました。


三春町消防団第六部、通称「新町消防団」の退団者で組織された新町後見会の法被です。






見覚えのある「〇新」が背中に染められています。








家をかたずけていたら出てきたそうで、私の下へ届けられたという次第です。


現在の新町消防の後見会へ寄贈しました。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め地蔵盆には“御霊まつり“が開かれています。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。

亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。

 こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
 
親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。

人々は「地蔵和讃」の御詠歌を唱和、詠じて、親は死んだ子を地蔵に託すことで悲しみを軽減したり、地蔵尊をを敬い賛美して幼子の供養や子供の無事成長を祈ったのでしょう。






私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原地蔵和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。


賽の河原地蔵和讃

これはこの世のことならず

死出の山路の裾野なる

さいの河原の物語

聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ

十にも足らぬおさなごが

父恋し母恋し

恋し恋しと泣く声は

この世の声とは事変わり

悲しさ骨身を通すなり


かのみどりごの所作として

河原の石をとり集め

これにて回向の塔を組む

一重組んでは父のため

二重組んでは母のため

三重組んではふるさとの

兄弟我身と回向して

昼は独りで遊べども

日も入り相いのその頃は

地獄の鬼が現れて

やれ汝らは何をする

娑婆に残りし父母は

追善供養の勤めなく

(ただ明け暮れの嘆きには)

(酷や可哀や不憫やと)

親の嘆きは汝らの

苦患を受くる種となる

我を恨むる事なかれと

くろがねの棒をのべ

積みたる塔を押し崩す


その時能化の地蔵尊

ゆるぎ出てさせたまいつつ

汝ら命短かくて

冥土の旅に来るなり

娑婆と冥土はほど遠し

我を冥土の父母と

思うて明け暮れ頼めよと

幼き者を御衣の

もすその内にかき入れて

哀れみたまうぞ有難き

いまだ歩まぬみどりごを

錫杖の柄に取り付かせ

忍辱慈悲の御肌へに

いだきかかえなでさすり

哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 03:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::天翁山州傳寺 |
天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」



三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。

地蔵盆には「身代わり地蔵尊祭礼」が開催され、法要と大数珠繰り、そして、ご詠歌がありました。


地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。

大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。

古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。





天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
 
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。




この政道が、安寿と厨子王の父親です。

しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。

安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。

安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。




後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。




 
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。

 かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。



 
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。

 今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。

親が子供の代わりに善根を積むことによってを積めず亡くなり、地獄 へ堕ちても、お地蔵 様はやはり身代わり となって地獄 の苦を引き受けてくださるのです。

亡くした我が子のためを思うならば、他の子供たちのためになって善根 (ゼンコン…善い結果をもたらす善い種)を積むことと説かれています。

 こうしたお地蔵 様は「常に衆生の傍らに応現す」と説かれており、心一つでお地蔵 様のご加護をいただけます。
 





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 03:00 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町::萬年山天澤寺 |
「千客鰻来」 令和5年 土用の丑の日。 7月30日(日)



「千客鰻来」

令和5年 土用の丑の日。 7月30日(日)



三春城下新町では、当店の隣にある城下一の魚屋「橋長」さんに、鰻のかば焼きを頼みます。



画像でお分かりになりますか?

国産浜松の鰻を、東京の料亭で修業した社長が、その自慢の腕前を見せてくれます。

裁き、蒸してからのかば焼き・・・・このふっくらとした身と黒あめ色に光るタレ!






当店女将など、知人や実家などにお中元としていそいそと配っています。

もう夕食まで待てません!


当家の分は、一人一匹。







お昼には”うな重”で頂き、夜は残りを肴に冷えたビールで一献!


これでこの夏を乗り切れそうです。










夏土用”あんころ餅” ~御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍~






三春昭進堂の土用餅は、7月29日(土)、30日(日)の2日間のみの販売となります。








当店の土用餅は、柔らかい口当たりのお餅をなめらかな自家製こし餡で絡めてみました。

冷房のない時代に暑さを乗り切るため、様々な知恵を絞ってきたことがうかがえます。

私たちも先人の知恵に倣って、体調には十分注意をし元気に夏を乗り切りたいものです。






北海小豆のこし餡からのぞくお餅も愛らしいた土用餅。

古人の知恵にならった暑気払いの素朴なお菓子で、この夏を健やかにお過ごしください。







数量限定販売です。


あんころ持ちを食べて、暑い夏を乗り切りましょう!


ご自愛くださいませ。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂









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