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天正13年 四家氏 天澤寺住職 儀岩行信=天澤寺二十一世悦岩海信




清酒「又兵衛」で知られる、いわき市の酒蔵四家酒造の四家社長より「四家家に伝わる幕末に写された系図の中に、先祖が三春の天澤寺の住職に入ったり、落隠したとありました。なにぶん系図なので信憑性に欠けますが、何か手掛かりでもありましたら〜」という問い合わせがありました。





天澤寺は当髙橋家の菩提寺でもあります。



早速、古い資料を引っ張り出したり歴代住職墓所に参って墓石を調べてきました。

四家氏から天正13年三春天澤寺住職に入ったのは儀岩和尚という法名です。

資料や墓跡には当該のお名前はありませんでした。





しかし、二十一世住職「悦岩海信大和尚」が年代的にも名前的にも該当しています。というのも天正13年というのは、田村家も娘婿伊達政宗の伊達家も戦国乱世の戦いの真っ最中。

天澤寺も高野村鹿島(現郡山市西田町)から三春平沢村に移転し、さらに会下谷(三春城下会下谷)に移転している頃です。

後に時の城主松下石見守長綱によって焼き討ちされ現在の場所である城下清水に再々度の移転しています。








清水建立以前の資料が焼けて残っていません。

また、清水移転後も江戸末期には火災に遭っています。

その中で写し違い書き違いがあったと想像されます。





「悦岩海信」と「儀岩行信」...字が似てませんか?  崩し文字ならなおさらです。






尚、境内に安寿と厨子王の物語りを伝える身代わり地蔵を安置した地蔵堂があります。

当寺開創の栄峰と同門下の青岑珠鷹禅師が岩城氏菩提寺龍門寺を開いており、この辺に地蔵堂建立物語り発展の素因が考えられます。





尚、三春田村氏初代田村義顕公の正室は岩城常隆の娘です。



曹洞宗 萬年山天沢寺

室町時代の嘉吉(かきつ)3年(1443)丹伊田村(現在の郡山市西田町)に開かれ、戦国時代に三春会下谷、江戸時代初期には城下清水の現在の地に移転しました。
領内18の末寺を束ねていた古刹です。

天沢寺本堂の豪壮華麗な禅宗様式は地方に珍しいものである。 境内に安寿と厨子王の物語りを伝える身代わり地蔵を安置した地蔵堂がある。

天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」
安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
現在の本堂は、文化13年(1816)から6年かけて完成したもので、大きく美しい彫物で飾られています。境内には安寿と厨子王の伝説にまつわる身代わり地蔵堂や、四軒丁の修験常楽院から移された西国三十三観音巡りの石塔が立ち並んでいます。

開創の栄峰と同門下の青岑鷹禅師が、岩城氏菩提寺龍門寺を開いており、この辺に田村氏と岩城氏の関係性から身代わり地蔵堂の建立にかかわる事柄があるように見受けられます。


龍門寺は岩城の国主岩城家の菩提寺で、初代朝公氏が施主で建造に着手して間もなく亡くなり、二代目常朝公が石を継ぎましたが工事半ばで死亡、三代目清胤公が完成させて応永17年頃(1,409年)に青岑鷹禅師を開山主に迎え開創されたといわれている。


岩城氏については、水戸の佐竹氏と同郷に関ヶ原の戦いでに参戦せず曖昧な態度であったことから、田村家同様その仕置きとしていわきを追われることとなり、最終的には現在の秋田県由利本荘市(旧亀田町)の国替えとなってしまいます。

国替えの際、岩城の龍門寺の和尚を秋田に招いて龍門寺を再建しており亀田藩主(岩城氏)の菩提寺となっています。実際、由利本荘市の龍門寺は市の「史跡」に指定されており、岩城氏ゆかりの土地となっています。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:26 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
三春城下曹洞宗萬年山天澤寺 晋山式 「結制 首座法戦式」



三春城下曹洞宗録所萬年山天澤寺

「結制 首座法戦式」

当家菩提寺の新住職をお迎えする晋山式です。





おめでとう御座います。











三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:13 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
三春城下曹洞宗天澤寺「カワガンジョウ」




三春城下曹洞宗天澤寺「カワガンジョウ」

カワガンジョウには「南無三曼多没駄南梵」と彫りこんであります。

この経木は春秋の彼岸会とお盆のときに、志300円で配布されています。

「南無三曼多 没駄喃梵 (なむさまんだー ほどなんばん)には、「あまねく諸仏に帰命いたします」という意味があります。

施餓鬼会【せがきえ】とい法要では開甘露門【かいかんろもん】というお経をお唱えしますが、その一説と教えていただきました。




 
当家では、カワガンジョウ経木をお寺から迎えて自宅の仏壇に安置・供えして供養しています。

それぞれの仏事期間が終わると家の中の納経袋に入れて年末寺処分しています。

三春城下の「カワガンジョウ」という習俗の由来や謂れははっきりとは見いだせていません。







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:58 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
三春産軽種馬




三春産軽種馬

昭和23年、三春畜産組合創立当時の三春方部に在籍した軽種馬は、岩江、白岩、逢隈方面に飼養されており、数の多い東部、文球、 芦沢、七郷各村は大越産馬組合員でありました。

三春畜協が畜産の総合的な組合である為、管内の軽種馬発展の為に管内の関係者が種々協議の上、軽種馬飼養農家が組合に加入する事が決定(ごく一部農家未加入) 関係当局の協力により船引町の市場北側に種付所を新築し、軽種馬の事業の推進と発展を図りました。

年々少しづではあるが、(軽種馬飼育は特別であり) 増え生産頭数も30数頭となり、飼養農家の熱心な努力により優秀な馬が生産され、競馬協会買上も数多くなり、昭和55年には軽馬協会買上馬4頭が、10万10万の売上げで、軽種馬の盛んな時代でしたが、種々関係で徐々に馬の数が減少し出し昭和60年代には管内においは、ほんの1部乗馬用が残り繁殖用の軽種馬は居なくなました。

飼育に適した広い牧場での生産に適した環境で生産のみが、軽種馬生産地となって参りました。


| ryuichi | 04:16 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
滝桜古写真 2022



三春滝桜天然記念物指定100周年記念

三春滝桜は、大正11年(1922年)に桜の木として初めて国の天然記念物に指定され、令和4年(2022年)をもって100周年を迎えます。






画像は、庚申坂弓町新地の妓楼にあった当時の写真です。







よく見ますと、天然記念物に指定された看板と、真新しい着物を支給された娼妓さんたちの姿が写っています。






記念のセレモニーかなんかに花を添えたんでしょうか・・・・



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 2021 御霊まつり



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり


本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員のみ臨席して法要で執り行います。


子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれています。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:13 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 2020 御霊まつり 本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員の実の法要で執り行います。



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 2020 御霊まつり


本年度は、新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して、役員のみ臨席して法要で執り行います。


子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:35 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |