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弓町鉄砲操練所跡出土大筒(大砲)の弾



先の塵壺で、江戸末期の安政の頃にあったという並松末の大砲場での三春藩士熊田嘉膳(くまだかぜん)淑軒指揮、町田貢指令による大筒(大砲)試射を記載させていただきました。

この砲弾は、当店の東、弓町のどんづまりにある庚申坂弓町新地遊郭跡の奥の畑から出土したものです。




当店の東。弓町奥にある庚申坂弓町新地遊郭跡は幕末の頃には、三春藩鉄砲操練所があり、熊田嘉膳指揮の元、町田貢が主となって製造した鉄砲の試射をしていたと伝わっています。

この頃、先の塵壺に記載した並松の大砲場にて大砲の発砲訓練をしますが、その前にこの操練所にて試射した時の弾丸ではないかと考えています。






錆や土に紛れていますが、よく見ると歴史書や博物館にある幕末に砲弾に似ていますね。

早速店に飾ってみました。

ずっしりとして歴史の重みを感じます。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 06:52 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
三春町消防団三春分団第六部新屯所落成式 



三春町消防団三春分団第六部新屯所落成式

三春分団三春分団第6部(新町消防)の新屯所落成式がありました。

県道の拡幅工事に伴っての移設新築です。

私も第6部出身の元分団長として”むらさき会”名でお招きを受け、喜んで出席してまいりました。





旧屯所は、現役時代16年、そして正副分団長として4年間お世話になった思い出深い消防屯所でした。


三春城下新町では、消防団と別火講中(お祭り)、そして若連(盆太鼓)の3つはワンセットだといわれ、このセオリー通りもれなくこの”フルセット”に加入です。





現役当時、三春の和菓子屋として仕事がら、三春の商人が一年で一番忙しい花見の最盛期に開催されていた、春季検閲式にはほとんど出たことがない不良消防団員でしたが、火災現場出場は三春で一番ではないかと思います。

もっとも、副分団長就任時には私たちの意見をもとに4月から5月に時期が移されました。

災害現場での若いころの失敗した経験をもとに、三春分団内の商工会青年部の先輩でもある他の部諸先輩方から火災防御消火活動の手ほどきを現場で徹底的に叩きこまれました。

組織論を八幡町の洋菓子屋さん、町内火災防御論を大町のお茶屋さん、火災防御のテクニックを中町の役場職員から等々といった具合で、良き先輩に恵まれました。

当時の先輩方は、プロ級の消火隊を形成していました。




厳冬期、真夜中、各種建物火災。

山を越えての一線延長放水。

水利が無く、放水後の戻り水をせき止めての放水。

小川を土のう、シート、はしご、さらには外皮など様々な部材を使っての水利確保。

夜通しの火災現場保持。

一日3回の火災現場出場。

林野火災での、8時から17時までの放水。

水害での2泊3日屯所泊まり込みでの対応。

人探しの12時間徹夜体制対応等々・・・・・。

経験と閃きをもとに様々な工夫をしながらの消火活動。

まさに、多くの旗下団員の方々に支えられました。

そして、現場の有事対応指揮官として、様々な火災現場を体験する中で、人生に必要ないろんなことを学んでまいりました。





部長時の一年間では火災はもとより、水害も含めた有事出動回数が70数回を超えました。

また、分団幹部である正副分団長時の4年間でも有に100回は超えていました。

その中で、現着一番もざらにあり、第6部の指揮者が広域消防も含めた全出場消防隊へ火災防御体制構築の支持を出す・・・・


火災現場に出場途中に様々なことを想定しながら、出場団員の安全確保を最優先に、火災現場へ出場指令を出します。

現着後、水利にポンプ吸水管をブッコミホースを延ばして放水し、火災鎮圧を目指す・・・・たったこれだけの単純なことなんです。

しかし、100の現場があれば100通りのアプローチがあり、水利確保が難しい。


有事の現場に於いて、どれだけ冷静に分析、判断、即決、そして実行できるかが勝負でした。


よくやっていたなあと思います。

また、消防団に入っているから商売が疎かになっては本末転倒です。

商売にも身が入りました。

しかし、私たちのような消防団活動は、当時商工会青年部員が100名を超えていた時代。

そのほとんどが消防団員で、三春分団6部体制(後7部体制)で、平日日中の出動率が最大7割、夜間でも8割出場可能といった、今では考えられないような出動率を誇っていた分団という恵まれたな事情があります。




時代は変わり、消防団に入ったころに生まれた子供が部の幹部となって司会進行、挨拶をつとめ、大勢の来賓を迎えて滞りなく新屯所落成式をこなしている姿に、時を感じると共に新町消防として”町火消マインド”が受け継がれているんだろうなあと安堵した次第です。





ちょっと当店のマスコットも乗車させていただきました!


三春町からの無火災無災害をご祈念申し上げます。


福島民報 民報サロン 
「一隅を照らすもの是国宝なり 髙橋龍一」


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂








| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
平成版三春産馬(三春駒)



三春産馬(三春駒)

三春駒の起原は古く、その歴史はつまびらかではありません。

伝説をたどってみると、後冷泉天皇の天喜年間、 安倍貞任を八幡太郎義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと記録されています。

更に田村義顕の頃、三春城下荒町と堂坂(現郡山市西田町堂坂)に、馬頭觀世音を建立、信仰したといわれていますから、三春地方の馬は千年近い歴史を有していることになりましょう。

天正六年、三春城主田村氏の時代に、三春の片寄助右ヱ門氏(後に渡辺姓)と云う人が家康公が小山御陣の節乗馬を奉献し、其のとして「右領地内で引馬10匹荷物10駄分諸役免除の特許再た」と云う証書が同氏の末葉である渡辺嘉十郎氏宅に遺っています。

尚、田村氏に次いで寛永5年正月(1628年)松下石見守の治世に至って始めて、馬匹糶売法を設けてその販路を広める対策を講じ馬の生産頭数は漸次多くなったが、その当時の産馬は、もっぱら自然の地勢風土により、牧養したものであって、人為的何等の施策も講じなかった様であった。

(秋田家以前三春に馬糶(馬セリ)のあったことは浪岡氏の記録による)



正保2年、秋田河内守俊季公三春入府後には、ますますその増殖がはかられています。




延室7年、黒鹿毛刀駿馬を幕府に献じて、大いに名声を博します。

以後、藩主参勤の際には、駿馬の献馬が恒例となっていたと記録されています。

貞亨2年頃からは、藩主が卒先して馬匹の改良特励に意をもちい、三春二代藩主信濃守輝季公は馬奉行、駒付役の制度を設けて産馬改良につとめます。

元禄12年には、駒付役早川、白岩の両名を 仙台、南部に派遣し、五百金を下付して良馬を購入させ、領内古道、岩井沢、葛尾などの放牧適地に貸し与えて増殖を奨励し、同時に競り市法を改めます。

これにより飼育数年で、三春産馬の各声高く、馬の産地として全国に知れわたるようになっていきました。

明治3年には、明治政府による競売法が改められ、 同6年には駿馬10頭が帝国陸軍省の買上げるところとなって、更に名声をあげました。

明治10年、県は産馬改良を計画、同11年認可を得て県産馬会社を設立し、須賀川に本社を置き、三春と若松に分社を設けます。
三春の分社長には三春の人、松本芳長が就任しています。

後に県産馬会社は、もともと県下全体で組織されたものでしたが、次第に主体は三春分社に移ります。

明治14年の国内勧業博覧会に三昏産馬会社から出陳した3才青毛馬が天覧に供されこの外9頭も有功賞を得て、大いに面目をほどこした。と記録されています。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
平成版三春今昔物語「天沢寺炎上 恵下谷(現会下谷)」



天沢寺炎上

三春城下清水にある天沢寺は、江戸初期の三春城主松下石見守長綱の時代には恵下谷(現三春城下南町の会下谷)にありました。

或る時、松下家の行く末を案じた忠臣が、殿様の常軌を逸脱した日頃の言動を諫めようとして進言します。
しかし、松下石見守は、家来の無礼を憤り、之れを手打にしようとして刀を抜きはらいます。




其臣は、周囲の者に引き立てられ、慌てて逃れ、菩提寺である天沢寺に匿れ、時の和尚は、これを庇護します。

和尚に、引き渡しを下命しますが、これを拒否し、石見守の態度を戒め、政務を批判します。

石見守、益々怒って手勢を率いて天澤寺の伽藍を焼払ってしまいます。

この暴挙に対し、曹洞宗本山総持寺や永平寺ともつながりの強い和尙は、“城主狂乱”と公儀幕府に訴えでます。

早速公儀取り調べがあり、その他暴政も含めて乱心の廉で松下家の御家継断絶となります。





現在の天沢寺は、慶安年間に三春城下清水の創建されます。

影山常次著「田村小史」参照

 
かつてこの天澤寺があった場所の南の高台に、葛尾村住宅「恵下越団地」が整備されています。国道288号バイパスにも看板が立っていますが、恵下越?と三春の方でも初めて目にする地名ではないかと思います。

この恵下越の地名は、上記の天澤寺に由来します。

”恵下(えげ)”とは高名なお坊さんに教えを乞うために会(参禅)するという意味。

恵下(会下)する天澤寺を超えた場所という意味




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| ryuichi | 05:15 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップ2016 「天翁山州傳寺」



三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップ2016 「天翁山州傳寺」

三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップが始まりました。


12月25日(日)まで


曹洞宗天翁山州傳寺は、江戸初期悲劇の三春城主松下石見守長綱が三春入府の際、二本松より移した寺で、重綱公、長綱公、豊綱公と松下家三代の位牌所です。
 
松下石見守長綱公は三春在籍十七年の間に、最後の戦国大名として三春城や城下町を整備して、現在の城下町三春の基礎を築いたと言われます。

 長綱公は豊臣秀吉が日吉丸と名乗る十六の頃、最初に使えた松下加兵衛之綱の孫で、初期徳川幕府にとっては、他の豊臣恩顧の大名と同じく目障りな存在であり、理不尽な理由を徳川幕府より押し付けられ、改易の憂き目に合いました。




 その後、江戸時代秋田家藩政下では先の領主菩提寺として厚遇され、全国的に有名な名僧高僧が在籍し、歴代住職への曹洞宗永平寺・総持寺両本山並びに関三箇寺から要職の下命等があり、管内の由緒ある寺院として「録所」を勤めました、また歴代住職の下へ、徳を慕いその教えを乞いに全国から雲水が参禅し、片法憧(格地)、東北の禅修業道場として名を馳せました。

近年に於いても、先の住職大地玄亀老師や、その弟子現住職石龍木童和尚が在籍し、この三春で禅宗の要として人々を導いておられます。
 
また丈六仏と呼ばれる御本尊の木像阿弥陀如来坐像は、坂上田村麻呂東夷追討に由来し、鎌倉期作とみられます、その昔郡山赤沼に安置され、戦国期田村氏三春入府に伴い、三春町丈六、廃寺万徳寺へ移り、その後丈六堂へ移り、明治期に州伝寺に移された仏像で、その長い歴史の中で、火災や様々な災難に遭遇しながらも、現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。




 州傳寺の玄関に「照顧脚下」の墨跡を見つけました、「脚下を照顧せよ」自分の足元を見よ、つまり自分自身をよく見つめなさいと言う教えです。

 山内には一時地蔵があり、子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親達の信仰を集め、八月二十四日には“みたま祭り“が開かれます。

 「拝む手から 一家円満の ひかりかがやく」  州伝寺立て札より





三春州伝寺第三十二世住持 大地玄亀大和尚
 
「最後の説法」大地玄亀  前州伝寺住職故石龍正孝老師著(非売品)

  この本は、即妙玄亀大和尚の接心での最後の説法を故石龍木堂老師がまとめられた貴重な本です。

前住職石龍和尚ご存命であったころ、塵壺に州伝寺を掲載するための資料集めにお邪魔した折に、頂戴したものです。




タイトル通り、石龍和尚の師匠である大地玄亀和尚の最後の説法を録音テープなどから編集して本にまとめられたものですが、
玄亀老師発願の書(原文は血書)からはじまり

・ 総参の話(この接心会の直後に胃癌の診断を受ける)

・ 臨終の時の法話(門弟一同への経誨)

・ 最後の説法(浅草曹源寺での遷化直前の接心 綿に水を浸し唇を潤しながらの提唱)

・ 無門関提唱

・ 玄亀和尚示衆

・ 出家の本懐

・ 菩提心と無常観

・ 托鉢印施

・ 策励句集と続きます。




合掌


尚、お参りの代は足元に気を付けて参拝ください。


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| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップ2016 「萬年山天澤寺」


三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップが始まりました。

天澤寺、州伝寺、そして龍穏院がライトアップされています。




夜空に浮かび上がる、天澤寺の伽藍

曹洞宗独特の禅宗様式寺院建築が綺麗に見えます。




安寿と厨子王伝説の身代わり地蔵どうです。

ため息の出る美しさです。




天澤寺は、室町中期開山の古刹です。
戦国時代の三春城主田村家から江戸時代幕末まで三春藩主だった秋田家の時代を通じて三春領内に末寺十カ寺を数えました。

江戸初期、三春城主松下家の時代に藩主松下長綱の短慮な言行を諫めたことにより、会下谷にあった伽藍を焼かれてしまい、後の清水の現地に再建されました。




以後も、三春藩のご意見番的役割を務めたと云われ、御領内曹洞宗之録所として隆盛を極めます。

その面影は今も室町禅様式建築の本堂や、境内に在る安寿と厨子王伝説に因む地蔵堂に見ることが出来ます。





  境内の柿の木に地蔵の様なこぶがあり、いつの頃からか柿の木地蔵と呼ばれています。

現在は移転してありませんが、三春町立第二保育所へ通う子供たちを温かく見守っていました。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:24 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
「新町大宴会」28 マジシャン瞳ナナさんとNAVi・STATION憲ノ介さんご来店!



祝三春大神宮祭礼 新町睦会 花車奉納記念「新町大宴会」28

表記の新町大宴会に出演される魔女っ娘マジシャン瞳ナナちゃんと、ナビゲートするNAVi・STATIONの憲之介さんがあいさつのためにご来店いただきました。

憲之介さんとはもう二十年来の付き合いになりますが、新町大宴会の演出家としてその才能を発揮していただいています。





ちゃっかり、当店スタッフの豪栄道も一緒にパチリ!







ナナちゃんは、ご覧のとおりとてもキュートな方で、可愛いだけではなく、どこか妖艶で、美魔女的な妖艶な怪しさを醸し出してくれています。

新町っ子のリクエストにお応えしての二回目の出演となります。






今から、出演が楽しみです。

今年も大勢の方々にご来場いただきました。






瞳ナナマジック・ショーや婦人会の催しの合間に売店は大混雑です。


瞳ナナ姐さんによるマジックショーも大人気です。







おばちゃん受けの良い、憲ノ介兄貴の司会もいいアクセントです。

さすがです。





何気に、憲ノ介兄貴のファンもいたりして・・・・






当日、記念撮影した写真は、25日以降に三春昭進堂で無料配布します。

ナナ姐さんの魔力で、すっかり新町っ子も大はしゃぎです。
これもマジックですかね?

餓鬼んちょパワー全開でした。




瞳ナナさんと記念写真です。

子供の時のこういった一コマが、思い出だけではなく、生来の人生を構成していくんだろうと思います。

みんな~取りに来てくださいね。





ナナ姐さん、そして憲ノ介兄ィ、お世話になりました。


録画しておいた、BS朝日[お笑い演芸舘]のナナ姐さん出演コーナーを見させていただきました。。

ナイツさんのと掛け合いばっちりで、マジックもトークも面白かったですぅ~!




ここ数年、チンドン「東北夢の屋」さんの興行が見れなくて寂しい限りです・・・・



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:15 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::新町睦会 |