CALENDAR
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31     
<<  2017 - 10  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




~マジシャン プチ☆レディー ここあマジックshow!~祝・三春大神宮秋季例大祭 新町睦会花車奉納記念「新町大宴会」 



祝・平成29年度三春大神宮秋季例大祭 新町睦会花車奉納記念「新町大宴会」 

奉納 ~マジシャン プチ☆レディー ここあマジックshow!~






毎度お馴染みNAVIステーション憲ノ介プロディユース!






三春大神宮祭礼を祝って、国際マジック大会第3位・ストリートマジックユニット「プチ☆レディー」のここあチャンのマジックshowが、三春城下新町の旧三春畜産セリ市場二て華やかに開催されました!






事前に、高齢となった演者と憲ノ介さんとの”チャッカリ記念写真大会”があり、三春昭進堂店内にて”おたりまんじゅう神輿”と永ちゃん語録”前向きな己惚れ”をバックに記念撮影です!







実はこれで3回目となるここあちゃん。

以前に、ピンで一回、プチレディーで1ッ回、そして今回のソロで3回目の出演です。

初めて見てからファンになった子供たちも沢山いまして、ここあマジックに酔いしれていました!





前座のビンゴ大会も大盛り上がりです!






DJ憲ノ介も舌好調!







子供たちに向けた、手作り感満載の地元のおまつりです。


三春を巣立っていく子供たちが心のどこかにこの光景を留め置いてもらって、いつか懐かしむ、そして自分が大人になったとkに先人たちのガンバリを少し手も判ってもらえたらいいなあと考えています。

何はともあれ、孫子の代まで続けていきたいものです!





春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 05:35 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::新町睦会 |
萬年山天澤寺山門修復



三春城下清水にある曹洞宗萬年山天澤寺の山門の修復が無事終了し、その落慶式が地蔵盆「身代わり地蔵尊祭典」の日に合わせて執り行われました。





永年風雨に寄よって、屋根や柱が朽ちてきていました。



(修復前の写真)


その修復が檀家の願いでした。





使える部材はそのまま使用し新しく生まれ変わりました。






修復落慶記念に配られた手拭です。





これは洒落てますよね!


早速店内に配させていただきました。





さあ、お盆も終わり、そろそろ少しずつ秋の気配が来るんでしょうか?





春陽郷三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
「身代り地蔵尊祭典」 天澤寺山内



三春城下清水にある萬年山天澤寺山内にある、安寿と厨子王伝説の残る「身代り地蔵尊」堂です。

地蔵盆の昨日、「身代わり地蔵尊祭礼」が開催され、法要と大数珠繰り、そして、ご詠歌がありました。


地蔵尊祭典では、大数珠繰りが行われます。
参集した方々が大数珠を手繰ります。

大きな房が自分の前に来るまでの間は、お地蔵様の御真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」を一心にお唱え致します。

古来より地蔵盆の大数珠を体に当てると、邪気を払い除け、身を清めてくれると言い伝えられています。





天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城判官平政氏は、康保4年に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城に国守として着任してきました。
 
政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。




この政道が、安寿と厨子王の父親です。

しかし、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。

安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。

安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。




後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。




 
この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。

 かつては1月24日の初地蔵と8月24日の地蔵盆には、多くの参拝者でにぎわい、地蔵和讃や御念仏を唱えてお地蔵さまに感謝し、家族の安全を祈願していました。



 
また、戦前には出征兵士の武運長久を願う家族の参拝が絶えなかったといいます。

 今でも参拝する方々やご家族のその身に降りかかる病気や怪我などの災難を身代わりとなって負っていただけるという有り難いお地蔵さまです。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
「三春城下 曹洞宗萬年山天澤寺のツツジ」



春陽郷三春城下では、初夏の眩い日差しの中で新しい若葉が芽吹き、美しい緑のコントラストが楽しめるこの時期となりました。

「夏が来た!」と思えるような暑い日も続き、帽子や日傘、日焼け止めクリームなど紫外線対策に追われる日々が続いています。


今、城下清水の曹洞宗旧録所萬年山天澤寺のツツジが見ごろを迎えています。


身代わり地蔵堂とツツジです。






禅寺らしく純白の花が咲き誇っています。

昭進堂さんは、どこの檀家?と聞かれることがあります。

この天澤寺は、三春昭進堂高橋家の檀家寺です。






説明文によると、室町時代に丹伊田村(現在の郡山市西田町)に開かれ、江戸時代初期に三春会下谷、そして、江戸時代中期に現在地に移りました。

江戸時代には、三春領内18の末寺を束ねた曹洞宗寺院となっていました。

その伽藍は壮麗な彫刻で飾られ、宇内には安寿と厨子王の伝説にまつわる身代わり地蔵堂や、四軒丁の修験常楽院から移された西国三十三観音巡りの石塔が立ち並んでいます。






いつ来ても、お寺・禅寺云うのは隅々まで掃き清められていて、清々しい気持ちと共に、心が休まります。

ご先祖様と会える場所なんでしょうか・・






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:08 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::萬年山天澤寺 |
弓町鉄砲操練所跡出土大筒(大砲)の弾



先の塵壺で、江戸末期の安政の頃にあったという並松末の大砲場での三春藩士熊田嘉膳(くまだかぜん)淑軒指揮、町田貢指令による大筒(大砲)試射を記載させていただきました。

この砲弾は、当店の東、弓町のどんづまりにある庚申坂弓町新地遊郭跡の奥の畑から出土したものです。




当店の東。弓町奥にある庚申坂弓町新地遊郭跡は幕末の頃には、三春藩鉄砲操練所があり、熊田嘉膳指揮の元、町田貢が主となって製造した鉄砲の試射をしていたと伝わっています。

この頃、先の塵壺に記載した並松の大砲場にて大砲の発砲訓練をしますが、その前にこの操練所にて試射した時の弾丸ではないかと考えています。






錆や土に紛れていますが、よく見ると歴史書や博物館にある幕末に砲弾に似ていますね。

早速店に飾ってみました。

ずっしりとして歴史の重みを感じます。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 06:52 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
三春町消防団三春分団第六部新屯所落成式 



三春町消防団三春分団第六部新屯所落成式

三春分団三春分団第6部(新町消防)の新屯所落成式がありました。

県道の拡幅工事に伴っての移設新築です。

私も第6部出身の元分団長として”むらさき会”名でお招きを受け、喜んで出席してまいりました。





旧屯所は、現役時代16年、そして正副分団長として4年間お世話になった思い出深い消防屯所でした。


三春城下新町では、消防団と別火講中(お祭り)、そして若連(盆太鼓)の3つはワンセットだといわれ、このセオリー通りもれなくこの”フルセット”に加入です。





現役当時、三春の和菓子屋として仕事がら、三春の商人が一年で一番忙しい花見の最盛期に開催されていた、春季検閲式にはほとんど出たことがない不良消防団員でしたが、火災現場出場は三春で一番ではないかと思います。

もっとも、副分団長就任時には私たちの意見をもとに4月から5月に時期が移されました。

災害現場での若いころの失敗した経験をもとに、三春分団内の商工会青年部の先輩でもある他の部諸先輩方から火災防御消火活動の手ほどきを現場で徹底的に叩きこまれました。

組織論を八幡町の洋菓子屋さん、町内火災防御論を大町のお茶屋さん、火災防御のテクニックを中町の役場職員から等々といった具合で、良き先輩に恵まれました。

当時の先輩方は、プロ級の消火隊を形成していました。




厳冬期、真夜中、各種建物火災。

山を越えての一線延長放水。

水利が無く、放水後の戻り水をせき止めての放水。

小川を土のう、シート、はしご、さらには外皮など様々な部材を使っての水利確保。

夜通しの火災現場保持。

一日3回の火災現場出場。

林野火災での、8時から17時までの放水。

水害での2泊3日屯所泊まり込みでの対応。

人探しの12時間徹夜体制対応等々・・・・・。

経験と閃きをもとに様々な工夫をしながらの消火活動。

まさに、多くの旗下団員の方々に支えられました。

そして、現場の有事対応指揮官として、様々な火災現場を体験する中で、人生に必要ないろんなことを学んでまいりました。





部長時の一年間では火災はもとより、水害も含めた有事出動回数が70数回を超えました。

また、分団幹部である正副分団長時の4年間でも有に100回は超えていました。

その中で、現着一番もざらにあり、第6部の指揮者が広域消防も含めた全出場消防隊へ火災防御体制構築の支持を出す・・・・


火災現場に出場途中に様々なことを想定しながら、出場団員の安全確保を最優先に、火災現場へ出場指令を出します。

現着後、水利にポンプ吸水管をブッコミホースを延ばして放水し、火災鎮圧を目指す・・・・たったこれだけの単純なことなんです。

しかし、100の現場があれば100通りのアプローチがあり、水利確保が難しい。


有事の現場に於いて、どれだけ冷静に分析、判断、即決、そして実行できるかが勝負でした。


よくやっていたなあと思います。

また、消防団に入っているから商売が疎かになっては本末転倒です。

商売にも身が入りました。

しかし、私たちのような消防団活動は、当時商工会青年部員が100名を超えていた時代。

そのほとんどが消防団員で、三春分団6部体制(後7部体制)で、平日日中の出動率が最大7割、夜間でも8割出場可能といった、今では考えられないような出動率を誇っていた分団という恵まれたな事情があります。




時代は変わり、消防団に入ったころに生まれた子供が部の幹部となって司会進行、挨拶をつとめ、大勢の来賓を迎えて滞りなく新屯所落成式をこなしている姿に、時を感じると共に新町消防として”町火消マインド”が受け継がれているんだろうなあと安堵した次第です。





ちょっと当店のマスコットも乗車させていただきました!


三春町からの無火災無災害をご祈念申し上げます。


福島民報 民報サロン 
「一隅を照らすもの是国宝なり 髙橋龍一」


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂








| ryuichi | 05:06 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |
平成版三春産馬(三春駒)



三春産馬(三春駒)

三春駒の起原は古く、その歴史はつまびらかではありません。

伝説をたどってみると、後冷泉天皇の天喜年間、 安倍貞任を八幡太郎義家が攻めた「前九年ノ役」に、八幡太郎の軍馬として従軍したと記録されています。

更に田村義顕の頃、三春城下荒町と堂坂(現郡山市西田町堂坂)に、馬頭觀世音を建立、信仰したといわれていますから、三春地方の馬は千年近い歴史を有していることになりましょう。

天正六年、三春城主田村氏の時代に、三春の片寄助右ヱ門氏(後に渡辺姓)と云う人が家康公が小山御陣の節乗馬を奉献し、其のとして「右領地内で引馬10匹荷物10駄分諸役免除の特許再た」と云う証書が同氏の末葉である渡辺嘉十郎氏宅に遺っています。

尚、田村氏に次いで寛永5年正月(1628年)松下石見守の治世に至って始めて、馬匹糶売法を設けてその販路を広める対策を講じ馬の生産頭数は漸次多くなったが、その当時の産馬は、もっぱら自然の地勢風土により、牧養したものであって、人為的何等の施策も講じなかった様であった。

(秋田家以前三春に馬糶(馬セリ)のあったことは浪岡氏の記録による)



正保2年、秋田河内守俊季公三春入府後には、ますますその増殖がはかられています。




延室7年、黒鹿毛刀駿馬を幕府に献じて、大いに名声を博します。

以後、藩主参勤の際には、駿馬の献馬が恒例となっていたと記録されています。

貞亨2年頃からは、藩主が卒先して馬匹の改良特励に意をもちい、三春二代藩主信濃守輝季公は馬奉行、駒付役の制度を設けて産馬改良につとめます。

元禄12年には、駒付役早川、白岩の両名を 仙台、南部に派遣し、五百金を下付して良馬を購入させ、領内古道、岩井沢、葛尾などの放牧適地に貸し与えて増殖を奨励し、同時に競り市法を改めます。

これにより飼育数年で、三春産馬の各声高く、馬の産地として全国に知れわたるようになっていきました。

明治3年には、明治政府による競売法が改められ、 同6年には駿馬10頭が帝国陸軍省の買上げるところとなって、更に名声をあげました。

明治10年、県は産馬改良を計画、同11年認可を得て県産馬会社を設立し、須賀川に本社を置き、三春と若松に分社を設けます。
三春の分社長には三春の人、松本芳長が就任しています。

後に県産馬会社は、もともと県下全体で組織されたものでしたが、次第に主体は三春分社に移ります。

明治14年の国内勧業博覧会に三昏産馬会社から出陳した3才青毛馬が天覧に供されこの外9頭も有功賞を得て、大いに面目をほどこした。と記録されています。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町 |