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三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップ2016 「天翁山州傳寺」



三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップ2016 「天翁山州傳寺」

三春城下曹洞宗寺院冬のライトアップが始まりました。


12月25日(日)まで


曹洞宗天翁山州傳寺は、江戸初期悲劇の三春城主松下石見守長綱が三春入府の際、二本松より移した寺で、重綱公、長綱公、豊綱公と松下家三代の位牌所です。
 
松下石見守長綱公は三春在籍十七年の間に、最後の戦国大名として三春城や城下町を整備して、現在の城下町三春の基礎を築いたと言われます。

 長綱公は豊臣秀吉が日吉丸と名乗る十六の頃、最初に使えた松下加兵衛之綱の孫で、初期徳川幕府にとっては、他の豊臣恩顧の大名と同じく目障りな存在であり、理不尽な理由を徳川幕府より押し付けられ、改易の憂き目に合いました。




 その後、江戸時代秋田家藩政下では先の領主菩提寺として厚遇され、全国的に有名な名僧高僧が在籍し、歴代住職への曹洞宗永平寺・総持寺両本山並びに関三箇寺から要職の下命等があり、管内の由緒ある寺院として「録所」を勤めました、また歴代住職の下へ、徳を慕いその教えを乞いに全国から雲水が参禅し、片法憧(格地)、東北の禅修業道場として名を馳せました。

近年に於いても、先の住職大地玄亀老師や、その弟子現住職石龍木童和尚が在籍し、この三春で禅宗の要として人々を導いておられます。
 
また丈六仏と呼ばれる御本尊の木像阿弥陀如来坐像は、坂上田村麻呂東夷追討に由来し、鎌倉期作とみられます、その昔郡山赤沼に安置され、戦国期田村氏三春入府に伴い、三春町丈六、廃寺万徳寺へ移り、その後丈六堂へ移り、明治期に州伝寺に移された仏像で、その長い歴史の中で、火災や様々な災難に遭遇しながらも、現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。




 州傳寺の玄関に「照顧脚下」の墨跡を見つけました、「脚下を照顧せよ」自分の足元を見よ、つまり自分自身をよく見つめなさいと言う教えです。

 山内には一時地蔵があり、子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親達の信仰を集め、八月二十四日には“みたま祭り“が開かれます。

 「拝む手から 一家円満の ひかりかがやく」  州伝寺立て札より





三春州伝寺第三十二世住持 大地玄亀大和尚
 
「最後の説法」大地玄亀  前州伝寺住職故石龍正孝老師著(非売品)

  この本は、即妙玄亀大和尚の接心での最後の説法を故石龍木堂老師がまとめられた貴重な本です。

前住職石龍和尚ご存命であったころ、塵壺に州伝寺を掲載するための資料集めにお邪魔した折に、頂戴したものです。




タイトル通り、石龍和尚の師匠である大地玄亀和尚の最後の説法を録音テープなどから編集して本にまとめられたものですが、
玄亀老師発願の書(原文は血書)からはじまり

・ 総参の話(この接心会の直後に胃癌の診断を受ける)

・ 臨終の時の法話(門弟一同への経誨)

・ 最後の説法(浅草曹源寺での遷化直前の接心 綿に水を浸し唇を潤しながらの提唱)

・ 無門関提唱

・ 玄亀和尚示衆

・ 出家の本懐

・ 菩提心と無常観

・ 托鉢印施

・ 策励句集と続きます。




合掌


尚、お参りの代は足元に気を付けて参拝ください。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
「子育一時地蔵尊 」 御霊まつり28 天翁山州伝寺山内



三春城下新町の天翁山州伝寺の「子育一時地蔵尊」 御霊まつり

子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親御さんたちの信仰を集め、八月二十四日には“御霊まつり“が開かれます。

わが子が、災いを被るようなとき一時お地蔵さんに、親代わりとなってわが子を守ってくださいとの願いを込めて参詣するといわれています。

やはり、戦前には出征するわが子を間もてくれることを願う、親御さんたち家族の参拝が絶えなかったといいます。


一時地蔵さんの由来には、いくつかの説があります。

親に先立って亡くなった子供達が、三途の川の”賽(さい)の河原”で、両親や兄弟たちを恋しがり、小石を積み上げ石の塔を築いてきます。
しかし、日が暮れると鬼達がやってきてそれを壊してしまいます。

それを哀れんだ地蔵菩薩が、子供たちを抱いて錫杖(しゃくじょう)の柄に取り付かせ、自分が子供たちの一時の親となって救ってくれると云れています。





私たちが子供のころの夏休みには、州伝寺の山内はラジオ体操の会場となっていました。

その頃は、一旦家に帰って朝食を食べ、その後に州伝寺の本堂に再度集まり、夏休みの宿題をみんなでしていた記憶があります。

そして、この一時地蔵尊祭典の時には、新町の盆踊りがあり、州伝寺の山内で盆踊りをしていたこともありました。

後に、盆踊りは弓町遊郭跡でも開催したこともありますが、本来のせり市場での盆踊りなります。

その頃になると、せり市場での盆踊りも、同24日でしたので、一時地蔵尊祭典に参拝し、綿あめと花火をもらったりしていました。






地蔵菩薩の縁日である8月24日に、死後に餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を布施しその霊を供養する法要です。

お盆の施餓鬼とは、釈尊の弟子である阿難尊者が、一切の餓鬼に食物を布施し供養して、死を逃れ長寿を得たことに由来しています。





「賽の河原和讃」にうたわれるように、この世とあの世との境にあって、特に哀れな幼児を助けてくださるので、賽神(サエノカミ)や道祖神信仰と結びついているんでしょう。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春物語43番 「戦国武将三春城主松下氏」


戦国武将三春城主松下氏
松下氏は宇多源氏佐々木氏庶流とされ、当初は今川家の家臣飯尾氏に従属して遠江国にあった頭陀寺城を負かされていました。
之綱の代になると今川家が滅び、徳川家、豊臣家と主君を変え次第に禄も加増され遠江久野1万6千石の大名となりました。
重綱の代では関ヶ原の戦い、大坂の陣と東軍に組したため、石高も常陸小張1万6千石から下野烏山2万石、二本松5万石と加増されていきました。
特に重綱の正室が加藤嘉明の娘だった事で加藤家の与力大名として地位を確立していきます。
重綱が死去した後は長綱が二本松藩を継ぎましたが寛永5年に若輩であるという理由で三春藩3万石に減封され、三春城の改築や城下町の建設など積極的に行いますが、寛永21年には乱心、もしくはキリシタンを理由に改易となっています。
実際は先代から加藤家の与力大名化していた為、加藤家が会津藩40万石から水口藩2万石へ減封、一族が改易となっている中連座的な意味合いが強いと言われています。
特に加藤家先代の嘉明は賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる豊臣恩顧の大名として幕府から敵視され、松下家も豊臣家縁の大名として見られていたようです。
改易になった長綱は土佐藩に預けられ、二男長光が寄合旗本として松下家の家名は後年まで存続しました。



三春城主松下家菩提寺 天翁山州伝寺
 江戸時代初期の三春城主松下長綱(在城寛永5年~21年)が、父重綱を開基として建立した松下家の菩提寺です。
山号は少年期の豊臣秀吉を養った祖父加兵衛之綱の法号天翁長珊(てんのうちょうさん)に、寺号は重綱の法号州伝寺殿にちなみます。



本堂の左上には重綱・長綱・豊綱三代の墓があり、町の史跡に指定しています。本堂の阿弥陀如来坐像は、高さ2.3の所謂丈六仏で、町重要文化財に指定しています。
境内の一時地蔵尊は子育て地蔵として信仰をあつめ、8月24日の一時地蔵祭が縁日です。 





| ryuichi | 06:57 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春物語176番 「三春州伝寺第三十二世住持 大地玄亀大和尚」
 

大地玄亀大和尚
 三春州伝寺第三十二世住持
 
 


「最後の説法」大地玄亀  
前州伝寺住職故石龍正孝老師著(非売品)
 この本は、即妙玄亀大和尚の接心での最後の説法を故石龍木堂老師がまとめられた貴重な本です。
前住職石龍和尚ご存命であったころ、塵壺に州伝寺を掲載するための資料集めにお邪魔した折に、頂戴したものです。タイトル通り、石龍和尚の師匠である大地玄亀和尚の最後の説法を録音テープなどから編集して本にまとめられたものですが、
・ 玄亀老師発願の書(原文は血書)からはじまり
・ 総参の話(この接心会の直後に胃癌の診断を受ける)
・ 臨終の時の法話(門弟一同への経誨)
・ 最後の説法(浅草曹源寺での遷化直前の接心 綿に水を浸し唇を潤しながらの提唱)
・ 無門関提唱
・ 玄亀和尚示衆
・ 出家の本懐
・ 菩提心と無常観
・ 托鉢印施
・ 策励句集と続きます。
読むたびに、心に響いてありがたさで涙が溢れ出ます。









| ryuichi | 07:34 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |
三春物語180番 「曹洞宗天翁山州傳寺」   
 
 
「曹洞宗天翁山州傳寺」    
新町の上り口に、小さな墨跡の立て札があります、これは州傳寺の方丈様が仏様の教えを、通る人々に教授されようと書かれているもので、私なども人生の指針として拝見しております。
曹洞宗天翁山州傳寺は、江戸初期悲劇の三春城主松下石見守長綱が三春入府の際、二本松より移した寺で、重綱公、長綱公、豊綱公と松下家三代の位牌所です。
松下石見守長綱公は三春在籍十七年の間に、最後の戦国大名として三春城や城下町を整備して、現在の城下町三春の基礎を築いたと言われます。
長綱公は豊臣秀吉が日吉丸と名乗る十六の頃、最初に使えた松下加兵衛之綱の孫で、初期徳川幕府にとっては、他の豊臣恩顧の大名と同じく目障りな存在であり、理不尽な理由を徳川幕府より押し付けられ、改易の憂き目に合いました。
その後、江戸時代秋田家藩政下では先の領主菩提寺として厚遇され、全国的に有名な名僧高僧が在籍し、歴代住職への曹洞宗永平寺・総持寺両本山並びに関三箇寺から要職の下命等があり、管内の由緒ある寺院として「録所」を勤めました、また歴代住職の下へ、徳を慕いその教えを乞いに全国から雲水が参禅し、片法憧(格地)、東北の禅修業道場として名を馳せました。



近年に於いても、先の住職大地玄亀老師や、その弟子現住職石龍木童和尚が在籍し、この三春で禅宗の要として人々を導いておられます。




住職大地玄亀老師


大地玄亀著「最後の説法」

また丈六仏と呼ばれる御本尊の木像阿弥陀如来坐像は、坂上田村麻呂東夷追討に由来し、鎌倉期作とみられます、その昔郡山赤沼に安置され、戦国期田村氏三春入府に伴い、三春町丈六、廃寺万徳寺へ移り、その後丈六堂へ移り、明治期に州伝寺に移された仏像で、その長い歴史の中で、火災や様々な災難に遭遇しながらも、現存するその福与かな御姿に心が和み、自然と手を合わせます。
州傳寺の玄関に「照顧脚下」の墨跡を見つけました、「脚下を照顧せよ」自分の足元を見よ、つまり自分自身をよく見つめなさいと言う教えです。



州傳寺境内には一時地蔵があり、子育て地蔵として、我が子を健やかに育てと願う親達の信仰を集め、八月二十四日には“みたま祭り“が開かれます。
拝む手から 一家円満の ひかりかがやく。    州伝寺立て札より         
合掌
                         




| ryuichi | 22:13 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下新町::天翁山州傳寺 |