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「愛染塔」愛染明王 旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)下




三春城下山中「愛染塔」 旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)下の「愛染塔」


明治初頭に実施された三春に於ける「廃仏毀釈」「神仏離反」関連を記した古文書に記載がある「大元帥明王社宇内より投棄された「愛染明王」の石碑を確認することが出来ました。






同地にある元の酒屋さんの裏庭にひっそりと鎮座していました。


家主の方にお話を伺うと、物心がついた時にはすでにあったとのこと・・・






表には「愛染塔」と刻印されています。


右側には再建昭和6年・・・ 以前の建物を新築した際にこの場所に移したのではないかとの事・・・ 土中に埋もれていたものか?横の伏せてあったものか?詳細は不明です。






左側には、揮毫されたか奉納者のお名前だと思うんですが・・・・読めません







裏面には、本来の建立した年号だと思うんですが、「丑月庚申」と読めます。

庚申の丑月で1月・・


庚申の年といえば60年に一回です。

永正子年間の田村義顕公による三春築城と大元帥明王社の勧請を考えると--- そして、秋田候三春入城正保2年を考慮して愛染塔の建立は...

永禄3年 1560  この前年の永禄2年10月に義顕公が大元帥明王に大般若経二百巻を奉納しています。
           また、永禄4年3月25日に義顕公が死去しています。

元和6年 1620  蒲生代官時代
          
延宝8年 1680  延宝4年 三代藩主盛季公大阪勤番中に同地死去、秋田輝季公が家督相続 

元文5年 1740   十年前の享保14年(1730)~15年 三春藩騒動「享保騒動」  

寛政12年 1800  十五年前の天明五年(1785) 「天明の大火災」発生、三春本城以下、家中屋敷、下御屋敷を含め、城下六町のほとんどを消失 藩主御座所を真照寺に移す


(天保暦)1860
安政6年12月9日 - 安政7年3月17日、万延元年3月18日 - 万延元年11月20日 幕末風雲の声が聞こえ始めています。

これらを鑑みるに、やはり、義顕公死去の前年、そして、大般若経二百巻奉納の間となる、永禄3年庚申の丑月(1月)が有力ですが、天明五年(1785) 「天明の大火災」で愛染堂が焼け落ちその代わりとして「愛染塔」の石碑を建立したか・・・・?

あれこれ想像するだけでワクワクしてきます。









さらに、前面に文字が刻まれています。

云われかともいますが・・・


今度拓本を取ってみたいと思います。



この石塔には「愛染塔」との揮毫の刻印が気にかかります。


石碑単体として祀っているのであれば「愛染明王」とい刻まれているのではないかと思います。



もしかしたら、明治以前に大元帥明王宇内(境内)に設置されていた時にはこの石塔が看板で、他に「愛染明王」を祀る本来の仏塔(堂)があったのでなないかとも考えられます。

場所は、この巨大な石を人力で落とせる場所ですので現在の手水社の後ろ側、現在の宝物殿附近かなあとも想像しています。





こちらは、現社務所の裏になりますが、かつては大元帥明王学頭坊、そして、別当泰平寺があったとされています。

廃仏毀釈関連の資料には宇内に7間の6間の大きさの額堂や小教院等の構造物も確認できます。





年号も含めて、様々な角度から調べていきたいと思います。


参考までに、下記の画像は三春城下に移築される前に鎮座していた磐城守山大元帥明王社・泰平寺(現田村神社)の絵図です。

まだ神仏習合の片鱗が残っています。






これくらいの規模があってもおかしくない三春城下領内総鎮守大元帥明王だと考えています。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




| ryuichi | 03:25 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
最上流和算佐久間派



最上流和算佐久間派


 田村大元神社の拝殿の中に古い和算(算術)の算額が掲げてあります。

これは三春藩領船引の石森村庸軒塾主宰佐久間庸軒と、その一門が明治初期に奉納した和算の問答「当用算法」算額です。算額は,神社や仏閣に奉納した数学の絵馬の一種で、江戸時代中期,寛文年間の頃から始まった風習といわれ,現在全国に約820面の算額が現存しています。


数学の問題が解けたことを神仏に感謝し,益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと思われます.人の集まる神社仏閣を発表の場とし,難問や問題だけを書いて解答を付けないで奉納するものも現われ,その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことが行われました。

この算額奉納の習慣は世界に例を見ず,日本独自の文化であり,明治になり洋算の導入を容易にしたのも算額を奉納する風習が貢献しました。






江戸期の三春藩に普及した和算は、奥州で主流を成す最上流和算で、特に三春では、佐久間質・庸軒親子の業績に負うところが多く、最上流和算の中でも、佐久間派と呼ばれ、庸軒は、「当用算法」を著わすなど、三春における算学・和算の普及に努めました。明治初めの佐久間庸軒の私塾庸軒塾には、旧三春藩士以外にも、県内外の一般庶民や女性も師事していました。

中には、三春藩内の知識層を形成していた藩お抱えの絵師や儒学者、そして影山正博や岡野知荘など自由民権運動家の旧三春士族も入門しています。

この庸軒塾は、師匠の庸軒自身が諸国を回り諸芸の修行を深め、庸軒の号も郡山の儒学者安積艮斎の知遇を受けて送られた名前が示すとおり、和算のみならず、さまざまな知識を吸収するサロン的場所だったのではないでしょうか。







また全国の諸藩を見ても、藩士以外の庶民が和算を学んだ例は一部の富裕階級以外では珍しく、三春に於ける知的レベルの向上にも寄与して、明治初期の自由民権運動の輩出に繋がっていたと考えています。




      

 蒼龍謹白・・・・・合掌



| ryuichi | 03:17 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
「寺社明細調」 三春町 ・「大志太神社」(現田村大元神社)編 旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王」




明治初年の旧三春藩領の三春町の「寺社明細調」です。


その中の旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」の項を見ますと・・・「大志太神社」です。


祭神は国常立命と記されています。




その中で、社殿の項を見ますと・・


神殿 縦に尺三寸 横に尺八寸

窟 縦二間、横二間

随神門 縦二間半 横六間半

そして、額殿 縦七間、横二間との記載がありました。

額殿・・・奉納した額を納めた社という意味ですが、神仏習合の江戸期にあっては「大元帥明王」の神式でいう所の「拝殿」に相当する建屋と思われます。


そして、小教院・・・学問所とでも言いますか・







益々調べる価値が高まった「田村大元神社」です。


ワクワクが止まりません!



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
田村大元神社(旧三春領内総鎮守大元帥明王社) 埋設遺構 2022.8



田村大元神社(旧三春領内総鎮守大元帥明王社) 埋設遺構


別火講中在講中、夏例大祭で御籠(おこもり)の際や、正月別火講祭の時などに、後かたずけと称して境内を掘り起こして明治維新以前の以降探しをしていました。





梵字のような文字が刻まれている石碑


大元帥明王社の罹災した記録を記した石板


多数の束石・・・





埋め戻すのの忍びないので、境内の隅に置いておきました。





まだまだありそうです。

一度、神社の許可を正式にとって、本格的に境内を掘って調べたいものです。





束石の多さから言って、江戸時代には記録に残されていない別の建造物があったと想像されます。






鳥居の束石かなぁ?














三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
旧三春城主田村氏領内総鎮守「大元帥明王」別当泰平寺の大井戸




旧三春城主田村氏領内総鎮守「大元帥明王」別当泰平寺の大井戸





田村大元神社宇内、旧泰平寺寺坊にありました。

井戸側の石積の見事さとその深さは立派だったと伝わっています。










三春名物「おたりまんじゅう」本舗 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
城下山中の田村大元神社参道に新しくアルミ製の旗立て場が新設されました。





城下山中の田村大元神社参道に新しくアルミ製の旗立て場が新設されました。







神社参道ということで祭礼時には、新町町内の氏子2班が順送りで、大旗用の柱を社殿下から降ろしてきて、祭礼大旗を2振り建立していました。


しかし、高齢化と少人数化の為に、難儀していたことでしょう・・・







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍







| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門 KFBの新番組シェア







「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門

KFBの新番組シェアの中、県民リポーターで三春町を担当する三春昭進堂の髙橋龍一です。
どうぞよろしくお願いいたします。








今日私がお届けする三春まちの自慢は、旧三春藩領内総鎮守の田村大元神社です。
この神社は、私の営む三春昭進堂のある三春城下新町に鎮座する旧三春藩領内総鎮守の明治維新前は、「大元帥明王社」称する神仏習合の鎮守でした。
創建は、約500年前の戦国時代、戦国武将の田村義顕公が防御を固めるために、三春城を築城し、三春入城に伴い三春田村氏領内総鎮守として郡山市田村町守山より三春舞鶴城内の”三の丸”であるこの地に移されました。

以来、三春五万石の領民の崇敬を受けてきました。
今でも城下では「明王さま」(訛ってミオさま)と呼んで親しまれています。






伊達政宗も来たことがある・・・

この大元帥明王社(泰平寺・学頭坊)には、田村家の三代の田村清顕公の娘「愛姫」を正室とする伊達政宗三春滞在の際の宿泊所としていました。
その際には、田村家中および近隣の豪族の殆どが御目通りを願いに訪れたと記録されています。

また、伊達政宗が宴席を設け、伊達成実や片倉小十郎などの伊達の重臣一同、そして、義理の父である田村家当主清顕公以下、齢100歳にもなるだろう田村の軍師田村月斎、橋本刑部などの三春の重臣達が一堂に会して配を酌み交わし、宴席共にしがら戦種祈願や、伊達・田村ご両家の安泰を願ったとされています。
歴史のロマンを感じませんか?

祭礼や初詣などで、みお様を訪れ拝殿に上がるたびに、伊達政宗や歴代のお殿様が見た光景が広がっているのかなあと、殿様気分を味わっています。

コロナが収まれば、夏の祭礼の際には参詣の方にはお屠蘇を差し上げていますので、拝殿に上がり景色を眺めてはいかがですか?もちろん車の運転の方はだめですよ!






その夏祭りですが、
旧暦の6月15日に夏まつりがありました。江戸時代の祭礼は、城下新町の真照寺住職の別当職・監督指揮ですね、それにより、三春藩明王奉行の下で三日三晩行われていました。  
その際は近隣より大勢の祭り見物のお客さんが三春城下を訪れ、その監視と整理のために櫓を立て役人が寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       

今は、田村大元神社として新町字民に引き継がれ、真夏となる7月の「海の日」、丸一日かけ田母野宮司以下・神職、神社総代・新町の若者で構成される別火講中によって二泊三日で祭礼を挙行し、祭典一式、御神輿町内渡御、長獅子舞を奉納しています。
そして、三匹獅子の奉納や、神社の旗持ち、神楽楽人の楽器持ちの子供たちも一緒に参加しています。
これが夕刻となり、神様の神社へのお帰「還御(カンギョ)」の頃になれば、上は80代から下は小学生まで老若問わず妙な連帯感と親密度が深まっていて、祭礼以外の日常でも挨拶するようになります。

自分の家族でもない、お爺ちゃん、親でもない大人、まして兄妹でもない。
町内に住む氏子というだけの関係です。
世代も、住む環境もまったく違う、様々な人々と仲良くなるという不思議な人間関係が、気が付いたら出来上がっています。

人の成長には、親の庇護を離れ”世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、綺麗なものや汚いもの、時には危険なことなどに触れ、そこで感じたものが、子供たちの今後の人生に、どれだけ役に立つか計り知れませんよね。






そしてもう一つ、紹介したいのはこの金剛力士像、通称「仁王さま」です。
神社に金剛力士像?仁王様?
先ほど説明した通り、この神社は仏教色が濃かったので仏教の守護神として仁王像を安置していました。

現在の田村大元神社及び随身門(ずいしんもん)は、明治の前年となる慶応三年に建築され、この仁王像もこの時製作されこの門に安置されました。
後に明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊されますが、仁王門は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、「仁王様」の二尊は、神社にはふさわしくないということで、旧三春藩主祈願所真照寺の軒下に仮安置され、以来約80年の間“真照寺の仁王さま”として親しまれてきました。
しかし、昭和43年になって、町内氏子による「仁王様の神社へ帰還」という熱望により、現在の姿になっています。

仁王様の下絵は、三春藩士で絵師の中村寛亭が描き、三春の彫刻士伊藤光運の彫刻です。


この仁王さまも、時代の流れの中で かつては鮮やかであったであろう色彩も消え、半ば朽ちた木造の巨大な仏像でありましたが、平成11年に、町内有志の寄進があり、仁王像二尊の修復がなされ往年の姿に戻っています。

この時の修復を手掛けた仏師の方から「この仁王様の姿は全国的に見ても珍しいお姿です。仁王像と云えば東大寺の金剛力士像・仁王様に象徴されるような“筋肉隆々、胸を反らして威を張るような姿”をしていますが、こので仁王様はお相撲さんのように全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢は、どこか愛くるしいお姿をされています。まるで、参道石段を上がってきた参詣の方々に何か優しく諭しているようにも見えます。

 これは、先の殿様である三春秋田氏がもともとの本拠地が青森津軽・十三湊など、北の日本海沿岸部となれば、「佞武多祭り」「ねぶた祭り」そして「なまはげ」を連想させるものでもあります。」とお話されていました。



私たち三春城下の者は、見慣れたお姿ですので、気にもしませんでしたが、言われてみればねぶた祭の武者姿を連想します。

また「子供の頃、悪いことをした時などミオ様に叱ってもらうよ!」と親から叱られたことを思い出します。






そして、この仁王様でもう一つ、口元を見てください、左側の仁王様は「阿(あ)」と口を開き、右側は口を「吽(うん)」と閉じています。

阿吽呼吸の阿吽です。
この「阿」「吽」とは、本来人は、生まれたときに“あ”と口を開いて生まれ、この世を去るときには“うん”と納得・満足して旅立つとされています。
これは生きるということは全て修行であり、今を一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いていると眞照寺の和尚さんに習ったことがあります。
  
随身(ずいじん)門正面の欄間には、やはり阿吽の二尊の龍が勇ましい姿で彫られています。自分の名前に龍の文字がついているものですから、幼き頃よりこの龍たちには特に親しみがあります。


また、門の彫刻には
・聖人が出現する前兆の「麒麟」
・百獣の王と言われ、魔除けや護獣を意味する「唐獅子」。
・「法華経」の功徳を示した「海人(あま)」
・三国志にも登場する漢の国の名軍師「張良」の彫刻があります。

人の生き方を学べる見どころ満載の田村大元神社の門となっています。

皆さんもぜひ三春にお越しの際にはお詣りいただければ幸いです。


以上、三春城下田村大元神社からお届けしました。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 13:49 | comments (x) | trackback (x) | 三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |