2025-11-28 Fri
田村大元神社 (旧社名大元明王社)の参道石橋は、文政十年(一八二七)桜川に架かる橋(宮橋と記載の古地図あり)として出来上がったものです。

当時の桜川(みはる川)は、新町縦町(新町橋付近)下から山中(明王町)の大元帥明王社(現田村太元神社)側を流れ、山中境の南町入口のところで現在の流路とほぼ同じになっていました。
橋の長さは、現在より2メートルほど県道寄りに長かったとしるされています。
今のように道路から反対側の山岸を流れるように大改修されたのは、明治二十五年頃のことで、宮橋は桜川の流路変更を物語る唯一の証になる文化財です。
現在の山中、田村太元神社下の土地の県道側半分は桜川改修の時に埋め立てられた場所です。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-11-19 Wed
田村大元神社 境内の大銀杏 (r7.11.18) 落葉時期に北風が吹き、北側に触れています。
写真撮影を考慮して、社伝の西側だけを掃除しています。
シャッターチャンスです!
残念ながら、この銀杏の木には身はなりません。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:50 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
2025-10-03 Fri
塵壺411号 「明治からのメッセージ! 田村大元神社随神門(ずいじんもん)」 令和7年10月発行
子供の頃より、遊び場や祭礼奉仕などで慣れ親しんだはずの田村太元神社境内の社殿。
その入り口である随神門をよくよく見ると、その右大臣、櫛石窓神の背後の板に、走り書きされたような何やら明治の年号や名前、文字、田村大元神社の名称などと一緒に、天狗を連想するような似顔絵や“へのへのもへじ”の顔、そしてローマ文字などが見え、小若連の文字や大世話人以下、別火講中の講員の名前と思しいような文字も見えます。
チョット見には落書きのように見えますが、これは明治期に書かれたメッセージのようにも思えます。かれこれ50年以上は参内しているはずなのに、これには驚きました。
仁王様が、田村大元神社の随神門(仁王門)へお戻りになったのが昭和36年ごろですので、明治21年からおよそ80年の間に何のために書かれたものなのか、さらに、深く推察するにこの右大臣、左大臣の場所には、何が収まっていたのかははっきりしません。
もしかしたら、この落書きが残る場所には何もなかったのか?とも考えられます。
そして、記載された年号から推察するに、明治期の社殿の新築の記念、もしくは、旧郷社格となったことや、田村大元神社の祭礼復活の記念等々、自称“歴史オタク”の想像は膨らみます。
空白の80年の穴を埋める貴重な資料として、150年の時空を超えた“明治からのメッセージ”には、何か意味がありそうです。
田村大元神社(太元帥明王)は、長い歴史の中で、火災や政治的混乱などによって度々罹災しています。
田村大元神社の創建は、永正の子年としていますので、元年(1504)か13年(1516)に、田村義顕が三春に移城するに際して仮殿を建て大元明王を勧請。天文年間(1532-1554)には伽藍を創建となっています。
後に、豊臣秀吉の田村仕置きによって田村氏改易後、歴代の三春城主を経て江戸期の秋田氏になっても、田村氏配下の御春輩衆の力が侮れず、領民の人心掌握のために秋田氏の守護「古四王」ではなく、田村氏の守護「大元帥明王」をそのまま領内鎮守の守護神として歴代藩主は太元帥明王奉行を置いて領民の尊祟をあつめていました。
三春藩二代藩主・秋田盛季(もりすえ)公代の寛文10年(1670)7月、晦日に発生した火災により伽藍も罹災、炎上消失して、後に再建しています。
さらに七代倩季(よしすえ)公代、天明5年(1785)、そして八代謐季(やすすえ)公代の寛政10年(1798)の城下の大火災により、大元帥明王社の山内も罹災し焼失します。
後に再建し、境内に再建を記念して町衆と戦国武将田村氏の配下である「御春輩」北方在郷衆(青石、實沢等)から文化11(1814)と翌12年(1815)に奉納された石灯籠と、罹災した詳細を記した石板(埋設されていたものを発掘!)が残っています。
明治維新後の明治2年、廃仏毀釈、神仏混淆の禁止により、学頭坊泰平寺は廃棄され、太元帥明王本殿・拝殿、額堂や小教院などの仏教色の濃い施設を改築や取り壊しをして、太志田神社と改称。明治12年、さらに祭神を国常立命として田村大元神社と改称します。
その際、神社の仏教守護の阿吽仁2躰の仁王様金剛力士像は不当ということで、仁王様を別当職だった真照寺に移設して、随神を収めた同社の随神門としました。
この随神門は、慶応3年(1867)、仁王門として新建しました。幕末の秋田藩政下、領内人足役三千人高にて完成した入母屋造り八脚門です。これが秋田三春藩としては最後の建築工事でした。
竣工後二年で廃仏毀釈の災難に遭遇しますが、仁王門自体は、まだ新しいという事で随神門として残されました。
随身とは、御随身(みずいじん)と称し、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。
以後、その随神門の左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神様)を左大臣とも称される豊石窓神(とよいわまどのかみ)、及び右大臣とも称される櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が、それぞれ刀と弓矢をもって「門守神(かどもりのかみ)」として鎮座していました。
時代は下って、終戦間際に行われた帝国軍国主義の後始末等の困難を乗り越えて、昭和36年6月、新町住民の要望と奉仕によって真照寺軒下より阿吽の金剛力士仁王像二躰が田村大元神社随神門に戻され、新町では再び“仁王門”と呼ばれるようになりました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 20:35 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
2025-10-01 Wed
田村太元神社の祭礼で、御祭神の御神輿渡御のなかで、先払い長獅子に先立って、先触れの「触れ太鼓」に続いて「白天狗」と「青天狗」が長獅子の警護的な意味合いで巡行しています。
私たちは、何気に「白天狗」「青天狗」、さらに御神輿のお導きとして御供する「赤天狗」と呼んでいます。
赤天狗は、お導きの神様である猿田彦命だと思いますが、「白天狗」と「青天狗」はいったいどなたなのか?
天狗と山伏、そして神楽や能の面から探ってみました。
明治の三春大神宮祭礼の写真を見ると、長獅子の左に「赤天狗」と今の「白天狗」と思われる白いお面でひげを蓄えた天狗が映っていますが、青天狗は映っていません。
この写真や、江戸時代の大元帥明王祭礼での長獅子掛りが、現八雲神社の荒獅子の前身、牛頭天王のお神楽(長獅子)だとすれば、素戔嗚尊とも考えられます。
牛頭天王は、現八雲神社の御祭神で、疫病を防ぐ神であり、仏教的には薬師如来を本地仏し、神道における素戔嗚尊と同体であるとされています。
そして、素戔嗚命は、明治以降の御祭神「国常立尊」の分神ともされているようです。
一方、青天狗は?と考えると田村太元神社の社殿の中に、別の赤天狗や別途奉納された白天狗の面が残っています。
そこ型推測するに明治以降の長い歴史のなかで、青天狗が追加されたともみて取れます。
尚、青天狗の面は青色に着色されていますが、白とは明らかに顔料が違います。
後に何かの理由で青に塗られた可能性も否定できません。
さらに、この渡御の行列も明治以降に編成されたもので、祭礼の序列を編成する中で、神道系の神楽、能を題材として、赤天狗はじめ、白天狗、青天狗を取り入れたのではないかと考えています。
「白天狗」は、吽形(うんぎょう)の能面の癋見(ベシミ)ではないかと考えます。
下あごに力を入れ、口をぐっと結んだ表情の鬼神面ですが、表情がそっくりです。
主に天狗に用いる大癋見、地獄の鬼などに用いる小癋見などがあります。
吽形とは、口を「へ」の字に閉める鬼を現し、異相の武者をあらわしています。
能の題目『是界(ぜがい)』『車僧(くるまぞう)』では人間界に害をなそうと現われ失敗する天狗、『鞍馬天狗(くらまてんぐ)』では、牛若丸(うしわかまる)の守護を約束する天狗の役に用いています。
そして「青天狗」は、同じく吽形の能面「小癋見」でしょう。
吽形があれば開口している「阿形」が居てもおかしくはありませんが、青天狗の面も閉口し顔つきもシャープなので、能で鬼役の小癋見だと考えています。
癋見面は口を固く結び、力を内に込めた表情が特徴の吽形の面。宝生流では、地獄の鬼としています。
能では天狗の面として用いる、「べしみ」は口をへの字にすることで「へしむ」の名詞形、鬼神の面として、世阿弥のころには既に存在した。全てを威嚇しようとする、大きな目や、鼻にも特徴があります。
この渡御の行列も明治以降に編成されたもので、祭礼の序列を編成する中で、神道系の神楽、能を題材として、赤天狗はじめ、白天狗、青天狗を取り入れたのではないかと考えています。
明治維新前の大元帥明王の渡御では仏教色が強く、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(荒町八雲天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納していました。
現在は、触れ太鼓、神旗、五色旗、白天狗、青天狗、長獅子、赤天狗、御神輿、総代、字役員、各神社総代(於、三春大神宮祭礼)、三匹獅子、ささら、小若連等
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| ryuichi | 03:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
2025-09-21 Sun
田村太元神社境内文化12年(1815)乙亥(きのとい )建立の石燈籠です。
永正の子年、元年(1504)か13年(1516)、田村義顕が三春に移城するに際し、仮殿を建て大元明王を祀ったと伝わっています。
天文年間(1532-1554)には伽藍を新建しますが、天明五年(1785)、そして寛政10年(1798)の大火災により罹災し焼失してしまいます。その後に再建されています。
境内に再建を記念して町衆と戦国武将田村氏の遺臣である北方在郷衆(青石、實沢)から奉納された文化11(1814)と翌12年(1815)に奉納された石灯籠が残っています。
天明五年(1785)「天明の大火災」は、三春本城以下、家中屋敷、下御屋敷を含め、城下六町のほとんどを消失、藩主御座所を真照寺に移すという大火で、大元帥明王も消失しました。
この時には、再建途中か、仮堂のままかはわかりませんが、天明の火災より13年後の寛政10年(1798)の大火でも罹災しています。
その再建復興の記念に、芳名から高木帝釈天鎮守府である青石、実沢、(当時、富沢村は秋田五千石領地に付き村名表記御遠慮?)などの御春輩北方衆の奉納されたものと推察しています。
秋田氏の三春入府の際、元城主田村氏配下の御春輩衆の力が侮れず、人心掌握として秋田氏の守護神「古四王」ではなく田村氏の守護神「大元帥明王」をそのまま領内鎮守として城内にそのまま鎮座した背景が想像できます。
先の震災で被災し割れてしまいましたが、修復しました。
石灯籠は一対で奉納されています。
右は、新城~、油屋~など、城下の商人など町衆の奉納・寄進だと見て取れます。
左石燈籠奉納の前年、文化11年4月(1814)の奉納です。
藩の維持大事業に際して、自分の家屋の再建と同時進行で、領内鎮守の大元帥明王の再建にあたって多額の金品を寄進をしたものと考えられます。
初秋を迎えるにあたって落ち葉掃除も本格的になってきました!
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
2025-07-18 Fri
三春 田村大元神社 写真集
松下修 写真
三春城下新町鎮守 田村大元神社を松下修さんが写真集にまとめられました。
本殿や仁王門、さらには熊野宮、八幡宮は、三春藩秋田家五万石 領内総鎮守 大元帥明王 の遺構(拝殿は明治期の再建)とされています
神社の四季、祭礼など長期間にわたって田村大元神社を記録されています。
三春出身の松下さん
ファインダーの先には・・・・・
三春がアートになっていました。
カッコいいですね!
店内に配してあります。
店内でご覧ください
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
2025-06-11 Wed
田村大元神社 随神門(ずいしんもん)。旧仁王門 明治時代の落書き?
三春五万石の領内総鎮守だった現田村大元神社の三門 旧仁王門・随身門(現在は随神門)
明治維新の廃仏毀釈前の旧藩時代には、正面が仁王門と呼ばれ、社殿側を随神門と呼んでいたんだろうと考えていますが、その随神門の左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、左大臣とも称される豊石窓神(とよいわまどのかみ)、及び右大臣とも称される櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が、それぞれ弓矢をもって鎮座しています。
子供の頃より慣れ親しんだはずの田村大元神社の随神門ですが、よくよく見ると、その右大臣、櫛石窓神の背後の板に何やら明治の年号や名前文字、田村大元神社などと一緒に、天狗を連想するような似顔絵や“ねのへのもへじ”の顔、そして、ローマ文字などが見えます。
これは驚きです。
明治期に書かれた落書きらしきものがあったとは~
中には、小若連の文字や大世話人~ というような文字も見えます。
中に入ってじっくりと調べたいものです。
尚、随身(ずいじん)門とも書かれた書物もありますが、随身とは、御随身(みずいじん)と称し、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。
旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王」の仁王門(現田村大元神社随神門)です。
幕末の秋田藩政下、領内人足役三千人高にて慶応三年に完成した、入母屋造り八脚門です。
これが秋田三春藩としては最後の大工工事でした。
翌年、戊辰の役、会津戦、明治維新と激動期を迎え、竣工後二年で廃仏毀釈の災難に遭遇します。
学頭坊泰平寺は廃棄され、仁王門自体は、まだ新しいという事で随神門として残されましたが、阿吽の金剛力士像は、別当職であった真照寺に移されました。
以後、この門は随身門として、正面には、左大臣、豊石窓神。そして、右大臣、櫛石窓神が鎮座していたんだろうと考えています。
仁王様が、田村大元神社の随神門(仁王門)へ新町氏子によって戻されたのが昭和40年ごろですので、約100年間は、この右大臣、左大臣の場所は何が収まっていたのかははっきりしません。
したがって、この落書きがされた場所にはなのもなかったのか?とも考えられます。
年号から推察するに、明治期の社殿の新築の記念、もしくは祭礼復活の記念等々想像は膨らみます。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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