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「寺社明細調」 三春町 ・「大志太神社」(現田村大元神社)編 旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王」




明治初年の旧三春藩領の三春町の「寺社明細調」です。


その中の旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」の項を見ますと・・・「大志太神社」です。


祭神は国常立命と記されています。




その中で、社殿の項を見ますと・・


神殿 縦に尺三寸 横に尺八寸

窟 縦二間、横二間

随神門 縦二間半 横六間半

そして、額殿 縦七間、横二間との記載がありました。

額殿・・・奉納した額を納めた社という意味ですが、神仏習合の江戸期にあっては「大元帥明王」の神式でいう所の「拝殿」に相当する建屋と思われます。


そして、小教院・・・学問所とでも言いますか・







益々調べる価値が高まった「田村大元神社」です。


ワクワクが止まりません!



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
田村大元神社(旧三春領内総鎮守大元帥明王社) 埋設遺構 2022.8



田村大元神社(旧三春領内総鎮守大元帥明王社) 埋設遺構


別火講中在講中、夏例大祭で御籠(おこもり)の際や、正月別火講祭の時などに、後かたずけと称して境内を掘り起こして明治維新以前の以降探しをしていました。





梵字のような文字が刻まれている石碑


大元帥明王社の罹災した記録を記した石板


多数の束石・・・





埋め戻すのの忍びないので、境内の隅に置いておきました。





まだまだありそうです。

一度、神社の許可を正式にとって、本格的に境内を掘って調べたいものです。





束石の多さから言って、江戸時代には記録に残されていない別の建造物があったと想像されます。






鳥居の束石かなぁ?














三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
旧三春城主田村氏領内総鎮守「大元帥明王」別当泰平寺の大井戸




旧三春城主田村氏領内総鎮守「大元帥明王」別当泰平寺の大井戸





田村大元神社宇内、旧泰平寺寺坊にありました。

井戸側の石積の見事さとその深さは立派だったと伝わっています。










三春名物「おたりまんじゅう」本舗 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
城下山中の田村大元神社参道に新しくアルミ製の旗立て場が新設されました。





城下山中の田村大元神社参道に新しくアルミ製の旗立て場が新設されました。







神社参道ということで祭礼時には、新町町内の氏子2班が順送りで、大旗用の柱を社殿下から降ろしてきて、祭礼大旗を2振り建立していました。


しかし、高齢化と少人数化の為に、難儀していたことでしょう・・・







三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍







| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門 KFBの新番組シェア







「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門

KFBの新番組シェアの中、県民リポーターで三春町を担当する三春昭進堂の髙橋龍一です。
どうぞよろしくお願いいたします。








今日私がお届けする三春まちの自慢は、旧三春藩領内総鎮守の田村大元神社です。
この神社は、私の営む三春昭進堂のある三春城下新町に鎮座する旧三春藩領内総鎮守の明治維新前は、「大元帥明王社」称する神仏習合の鎮守でした。
創建は、約500年前の戦国時代、戦国武将の田村義顕公が防御を固めるために、三春城を築城し、三春入城に伴い三春田村氏領内総鎮守として郡山市田村町守山より三春舞鶴城内の”三の丸”であるこの地に移されました。

以来、三春五万石の領民の崇敬を受けてきました。
今でも城下では「明王さま」(訛ってミオさま)と呼んで親しまれています。






伊達政宗も来たことがある・・・

この大元帥明王社(泰平寺・学頭坊)には、田村家の三代の田村清顕公の娘「愛姫」を正室とする伊達政宗三春滞在の際の宿泊所としていました。
その際には、田村家中および近隣の豪族の殆どが御目通りを願いに訪れたと記録されています。

また、伊達政宗が宴席を設け、伊達成実や片倉小十郎などの伊達の重臣一同、そして、義理の父である田村家当主清顕公以下、齢100歳にもなるだろう田村の軍師田村月斎、橋本刑部などの三春の重臣達が一堂に会して配を酌み交わし、宴席共にしがら戦種祈願や、伊達・田村ご両家の安泰を願ったとされています。
歴史のロマンを感じませんか?

祭礼や初詣などで、みお様を訪れ拝殿に上がるたびに、伊達政宗や歴代のお殿様が見た光景が広がっているのかなあと、殿様気分を味わっています。

コロナが収まれば、夏の祭礼の際には参詣の方にはお屠蘇を差し上げていますので、拝殿に上がり景色を眺めてはいかがですか?もちろん車の運転の方はだめですよ!






その夏祭りですが、
旧暦の6月15日に夏まつりがありました。江戸時代の祭礼は、城下新町の真照寺住職の別当職・監督指揮ですね、それにより、三春藩明王奉行の下で三日三晩行われていました。  
その際は近隣より大勢の祭り見物のお客さんが三春城下を訪れ、その監視と整理のために櫓を立て役人が寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       

今は、田村大元神社として新町字民に引き継がれ、真夏となる7月の「海の日」、丸一日かけ田母野宮司以下・神職、神社総代・新町の若者で構成される別火講中によって二泊三日で祭礼を挙行し、祭典一式、御神輿町内渡御、長獅子舞を奉納しています。
そして、三匹獅子の奉納や、神社の旗持ち、神楽楽人の楽器持ちの子供たちも一緒に参加しています。
これが夕刻となり、神様の神社へのお帰「還御(カンギョ)」の頃になれば、上は80代から下は小学生まで老若問わず妙な連帯感と親密度が深まっていて、祭礼以外の日常でも挨拶するようになります。

自分の家族でもない、お爺ちゃん、親でもない大人、まして兄妹でもない。
町内に住む氏子というだけの関係です。
世代も、住む環境もまったく違う、様々な人々と仲良くなるという不思議な人間関係が、気が付いたら出来上がっています。

人の成長には、親の庇護を離れ”世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、綺麗なものや汚いもの、時には危険なことなどに触れ、そこで感じたものが、子供たちの今後の人生に、どれだけ役に立つか計り知れませんよね。






そしてもう一つ、紹介したいのはこの金剛力士像、通称「仁王さま」です。
神社に金剛力士像?仁王様?
先ほど説明した通り、この神社は仏教色が濃かったので仏教の守護神として仁王像を安置していました。

現在の田村大元神社及び随身門(ずいしんもん)は、明治の前年となる慶応三年に建築され、この仁王像もこの時製作されこの門に安置されました。
後に明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊されますが、仁王門は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、「仁王様」の二尊は、神社にはふさわしくないということで、旧三春藩主祈願所真照寺の軒下に仮安置され、以来約80年の間“真照寺の仁王さま”として親しまれてきました。
しかし、昭和43年になって、町内氏子による「仁王様の神社へ帰還」という熱望により、現在の姿になっています。

仁王様の下絵は、三春藩士で絵師の中村寛亭が描き、三春の彫刻士伊藤光運の彫刻です。


この仁王さまも、時代の流れの中で かつては鮮やかであったであろう色彩も消え、半ば朽ちた木造の巨大な仏像でありましたが、平成11年に、町内有志の寄進があり、仁王像二尊の修復がなされ往年の姿に戻っています。

この時の修復を手掛けた仏師の方から「この仁王様の姿は全国的に見ても珍しいお姿です。仁王像と云えば東大寺の金剛力士像・仁王様に象徴されるような“筋肉隆々、胸を反らして威を張るような姿”をしていますが、こので仁王様はお相撲さんのように全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢は、どこか愛くるしいお姿をされています。まるで、参道石段を上がってきた参詣の方々に何か優しく諭しているようにも見えます。

 これは、先の殿様である三春秋田氏がもともとの本拠地が青森津軽・十三湊など、北の日本海沿岸部となれば、「佞武多祭り」「ねぶた祭り」そして「なまはげ」を連想させるものでもあります。」とお話されていました。



私たち三春城下の者は、見慣れたお姿ですので、気にもしませんでしたが、言われてみればねぶた祭の武者姿を連想します。

また「子供の頃、悪いことをした時などミオ様に叱ってもらうよ!」と親から叱られたことを思い出します。






そして、この仁王様でもう一つ、口元を見てください、左側の仁王様は「阿(あ)」と口を開き、右側は口を「吽(うん)」と閉じています。

阿吽呼吸の阿吽です。
この「阿」「吽」とは、本来人は、生まれたときに“あ”と口を開いて生まれ、この世を去るときには“うん”と納得・満足して旅立つとされています。
これは生きるということは全て修行であり、今を一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いていると眞照寺の和尚さんに習ったことがあります。
  
随身(ずいじん)門正面の欄間には、やはり阿吽の二尊の龍が勇ましい姿で彫られています。自分の名前に龍の文字がついているものですから、幼き頃よりこの龍たちには特に親しみがあります。


また、門の彫刻には
・聖人が出現する前兆の「麒麟」
・百獣の王と言われ、魔除けや護獣を意味する「唐獅子」。
・「法華経」の功徳を示した「海人(あま)」
・三国志にも登場する漢の国の名軍師「張良」の彫刻があります。

人の生き方を学べる見どころ満載の田村大元神社の門となっています。

皆さんもぜひ三春にお越しの際にはお詣りいただければ幸いです。


以上、三春城下田村大元神社からお届けしました。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 13:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
令和3年度田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守大元帥明王)の夏季例大祭は新型コロナ蔓延防止の観点から、神事及びお札配布のみとなっています。




令和3年度田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守大元帥明王)の夏季例大祭は新型コロナ蔓延防止の観点から、神事及びお札配布のみとなっています。







疫病コロナ退散・終息の祈願をしてまいりました。





御神輿渡御、先払いの長獅子奉納、三匹獅子奉納等がないとやはり城下新町の夏は迎えられません。


早期のコロナ終息を願うばかりです。





磐梯造園三春さんによる斜面の草刈りです。

造園のプロの仕事はさすがです!




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 04:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」の旧仁王門の彫刻




旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」の慶応4年竣工の旧仁王門の彫刻






正面には、二柱の龍が勇ましく刻印されています。






仁王様が収まる正面左側には麒麟が狂でお馴染みの「麒麟」が二柱






同じく、右側には唐獅子の二柱、和毬と戯れています。








梁と柱の結合部にある左右には「龍」の姿が・・・左右対称に設えられ口の開閉となれば「阿吽ノ龍」ということでしょうか?

こちらは口が開いているので{阿ノ龍}?





そして{吽ノ龍}



洋風な姿にめて仕方がありません。





田村大元神社随身門(旧三春藩総鎮守大元帥明王社仁王門)の裏右側

「海人/海士(あま)」です。

讃岐国(現在の香川県)志度の浦の海人が、藤原淡海 (不比等)と契って生んだ子(房前)を世に出すため、命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説。


我が子の立身のために死地におもむく、深大な母性愛、女の強さを壮烈に描いた物語が彫られています。

房前が大臣になった後、志度の浦へ行くと、海人が現れ、面向不背の玉を一人の海人が龍神から取り返した次第を物語って海中に姿を消し、房前が追善をすると母の亡霊が龍女の姿で現れ、「法華経」の功徳で成仏したことを示したという伝説にちなんでいます。






同じく門の裏 左側にあるのは、王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師「張良」の彫刻

中国漢の国の張良が、黄石公の落とした沓をささげて真心を示し、兵法の奥義を授かるという故事の一場面が彫られてあります。

漢の高祖の臣張良が黄石公から兵書を授けられた故事です。
馬に乗った黄石公、張良は沓を持って龍に乗っています。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍






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