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田村大元神社夏季例大祭 28


旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」で、現田村大元神社の夏季例大祭が斎行されました。





今回も、日本大学工学部に通う長男の友人とその友達4名を助っ人として参加してもらいました。

ん!長男は?実はちょうどこの頃は夏休み前に試験日が重なっています。
おまけに、チーム共同で作成のレポート提出などが多数あり、今回のお祭りは急きょキャンセルとなった次第です。

しかし、息子のような息子の友達S君がいます。

そのS君が友人3名を引き連れて長獅子の参加してくれました。


宵祭りから、翌本祭りまで一泊二日の獅子舞三昧です。

初めてなのに、翌日にはもう頭を振っていました。
しかも、御輿掛けまで、バクバクと・・・・

大したものです。

どこの町内でも同じだと思いますが、私たちのころと違って、人不足は深刻です。

こうした若い力が必要になってきています。

すっかり、別火講中の皆さんとは打ち解けて仲良くなっていたみたいです。

祭礼終了後、家まで送っていきましたが、疲れた様子ながら楽しんでくれたようです。








御神体神輿渡御は、触れ太鼓を先頭に、青天狗・白天狗を前備えにした長獅子の先払い、五色旗・神社旗・錦旗、御神体神輿、神官に続き三匹獅子舞の奉納が続き、新町町内を巡幸します。





新町縦町の当店までくれば渡御は、もうすぐひと段落です。
そして、夕食後の還御・宮入です。

夕食後、旧化粧坂城下境を出立した還御の行列は、夕やみ迫る新町縦町を神社に帰還します。




これは、「獅子が、また一年神社で眠るのを嫌がって、御神体宮入の時間ぎりぎりまで、現世に居たいと哀願し、さらに決まりを解っていながら抵抗して荒々しく先払いをしながら進んで行くんだ」と古老から教わっていました。



この祭礼を司どる別火講中の現役の頃は判りませんせんでしたが、退講して10年も経ちますと、自分で力説していた”祭礼とは、斎行者がいて、準備する者がいて、見る者がいて初めて存在する”という意味を、己自身が噛み砕入れ呑込めるようになった気がします。

獅子の外でガードする役を”警護”と呼んでいますが、ガードレルを支えに踏ん張って獅子を止めています。


祭礼の夏の一日。
猛暑の中を還御に随行し、別火講中の仲間や、神社総代・宮司や神職、さらには三匹獅子や旗・楽人の楽器持ちの子供たちと艱難を共にするということで、夕方には連帯感を持ち始めるような気がします。
これが、一年続きこの新町と云う町内の固い絆を構築しているんだろうなぁと思います。




三匹獅子の舞う子供たちもなおさらです。
兄妹でもない。
親でもない。
危ないお兄さんや、怖いおじさん、そして幼い子供たち・・・
世代も、住む環境もまったく違う異なる、様々な人々と仲良くなるという不思議な人間関係が、気が付いたら出来上がっています。




人の成長には、親の庇護を離れ”世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、綺麗なものや汚いもの、時には危険なことなどに触れ、そこで感じたものを人生の糧として将来に役立てるということも必要な事ですよね。




これが今後の人生に、どれだけ役に立つか計り知れませんよね。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春城下新町の初夏の風物詩28



三春城下新町の鎮守田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」)の祭礼を、今週末に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。




梅雨の時期独特の湿った気候、夕方の蜩、楽内のホタル、真照寺下セリ場の旗や大元神社山内の提灯、そして、この三匹獅子や長獅子の太鼓や笛の音を聞こえると「夏が来るんだなあ~」と思います。




300年は続いてきたんであろう、正に初夏の三春城下を彩る風物詩です。





三匹獅子掛では、年長者が後輩に教えるという新町では当たり前の光景ですが、他では中々見られなくなった光景です。

長獅子舞の練習風景です。





田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.

今年の獅子掛は、二番組が担当します。

祭典掛は、一番組担当となります。






やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。

私が現役の頃と同じ風景です。





自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:15 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語940番「田村大元神社夏季祭礼還御’27」



田村大元神社夏季祭礼還御




藩政時代の大元師明王社の御神輿渡御・還御は、別当職真照寺住職の監督指揮により、三春藩明王奉行の下、旧三春藩領内(現小野町以外の田村郡全域と郡山の一部等五万石)六十六郷が、頭屋制を布き、当番の六十六郷中三十三郷を持って奉仕し、資金は明王講の積み立てにより工面していました。




その祭礼行列も三日間を掛け三春旧町内を渡御し、近隣より、大勢の祭り見物のお客さんが三春を訪れ、その監視と整理のために役人を出し、櫓を立て寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと思います。       




 その様は、絵図が示す通り荘厳で、神馬―槍持ち役人―世話人―母衣―万燈―お神楽(牛頭天王宮長獅子)に警護と使番が付きー禰宜―笛―大小太鼓―木馬の跨った子供の行列―日天坊―月天坊―甲冑行列―太鼓台―ささら・三匹獅子と続き、その後に「通り者」と呼ばれる祭礼踊り一行が従い、扇子踊り、槍踊り、太平奴の三番踊り他、が踊りを奉納したと言います。



明治維新後、廃藩置県、神仏分離に伴い規模が縮小されました。
同時に仏教色が払拭され、名称も国常立之命を祭る田村大元神社となり、祭礼行事一切を神職及び、新町字民、別火講中に引き継がれました。
 



今年、初参加の長男坊とその友達です。

こどもの頃は三匹獅子をしていましたが、大人としての初参加でした。

日大工学部の友達、高校時代からの友人の菜根の添田君も楽しそうです。



三春の夏を彩っていただきました。




真夏の一日、新町町内を、朝十時出立~午後九時帰還という、丸一日かけて神輿渡御・還御に随行し、別火講中の仲間や、神社総代・宮司や神職、さらには三匹獅子や旗・楽人の楽器持ちの子供たちと艱難を共にするということで、夕方には連帯感を持ち始めるような気がします。
これが「新町」と云う町内の固い絆を構築しているんだろうなぁと思います。




旗持ちや、楽器持ちの子供達、そして三匹獅子の舞う子供たちもなおさらです。
兄妹でもない。
親でもない。
危ないお兄さんや、怖いおじさん、そして幼い子供たち・・・
世代も、住む環境もまったく違う異なる、様々な人々と仲良くなるという不思議な人間関係が、気が付いたら出来上がっています。



人の成長には、親の庇護を離れ”世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、綺麗なものや汚いもの、時には危険なことなどに触れ、そこで感じたものを人生の糧として将来に役立てるということも必要な事ですよね。

これが今後の人生に、どれだけ役に立つか計り知れませんよね。





三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 05:00 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語939番「田村大元神社夏季例大祭宵宮’27」


三春城下に本格的な夏の到来を告げる「田村大元神社夏季例大祭」



夏の祭礼、祭典掛は二泊三日の御籠りとなります。

また、梅雨明けを押し開けさせるような一日。

例年、猛暑・夕立など過酷な気象条件の中を渡御・還御に随行しますが、参加された別火講中の仲間や、神社総代・宮司や神職、楽人、さらには三匹獅子や旗・楽人の楽器持ちの子供たちと艱難を共にするということで、夕方には一種の連帯感を持ち始めます。

これが、この新町と云う町内の固い絆を構築しているんだろうなぁと思います。



今回は、二日間遂行される長獅子宮入と三匹獅子舞奉納の模様を伝えします。



古の旧三春藩内領内総鎮守大元帥明王社例大祭の慣例にならい、二日間長獅子が宮入りします。

明治維新以降の、幕藩体制の瓦解、そして廃仏毀釈や神仏離反を受けて、大元師明王社から大志田山神社を経て田村大元神社へ祭神や名称が変革していきました



祭典掛が二人、激しく振り鳴らす鈴の中、社殿前で勢いよく奉納するが長獅子
別火講中が奉納しています。

今年は一番組です。



私たち新町っ子は、古老から「長獅子が鳥居の前や社殿前で暴れるのは、また一年神社に閉じ込められるのが嫌で、左右に舞を繰り広げ暴れているんだ」と聞かされていました。




長獅子の宮挙げの瞬間です。

其れまで激しく待っていた獅子頭を賽銭箱に乗せた瞬間に、獅子の中にいる講員たちは、無言の中で一斉にしゃがみこみます。



この光景、どこかで見たことがありませんか?



ジブリファンならわかりますよね。

そうです。
「千と千尋の神隠し」の中で、オクサレ様と呼ばれていた得体のしれない神が、お風呂ですっかりきれいになって、湯屋の大戸を空け放ち、帰るシーンに似ていませんか?



其れと同時に、祭典掛が獅子頭を受け取り、本殿入り口に安置します。


今度は三匹獅子舞の奉納です。

獅子舞踊りは、三匹獅子とササラが一列に並ぶ「通り・道中の舞」
三春城大手門前にさしかかったとき、城主に挨拶する舞の「礼・通り前」
そして社殿で舞う「本廻り」と雌獅子を奪い合う「食い合い」の踊りがあります。



長獅子の宮挙げを終えた獅子掛が見守る中で、子供たちの三匹獅子舞が始まります。

こちらは、奉納ですので本祭りの練習という意味合いもあります。


今年は、中学一年生から小学校中学年まで、可愛い子供達が舞い手となっています。
現田村大元神社の祭礼には、三匹獅子舞が奉納されています。

この三匹獅子舞は、戦国時代の永正元年、戦国武将田村義顕公が守山(現郡山市田村町)より三春入部の時に、守山大元帥明王社を分霊し、三春城の一郭に勧請して
三春大元帥明王社を建立した際に、一緒に伝えられたものであると云われています。




 江戸期秋田藩政下での、大元帥明王の祭礼は、旧暦の六月十四から十六日までの三日間開催され、本祭りの日に御神輿渡御がありました。
本祭り当日は、神事後の午前十時頃、出御となり、山中から北町~荒町~八幡町~大町~新町と廻って午後八時頃還御となっていましたが、現在は新町字内の渡御です。

三匹獅子舞は、御神輿渡御に供奉し演じられ、出御に先立って社前で舞った後に、御神輿の後になって、戸ごとに舞い込むほか、途中の町内にある「籏立て場」や、新町と清水の「御旅所」、さらに参道入口鳥居前、それに還御のあと再び社殿前で踊っていたとされていますが、現在は、社殿前と山中交差点、参道入口鳥居前そして社殿前です。

かつての踊り手は、獅子舞は明王町(現山中)在住の長男に限られていました。
また、「ササラ」と呼ばれるササラスリは、竹で作ったササラをすりあわせて雨蛙の鳴き声を奏でています。

尚、このササラは、楽内村の長男が努めていたと云われています。



私はどうもこの構図が好きなんですね・・・

現役当時は見れなかった光景なんです。



祭礼の日だけ提灯に明かりが灯り、社殿を明るく映し出してくれます。

何とも幻想的なこの雰囲気・・



昨年まで30年間三匹獅子の世話人を務めていた橋本勝利総代長が見守る中、新世話人の橋本純一の笛による三獅子。
其れをしゃがんでみる次世代の子供達。



拝殿両脇にある八幡宮にも灯がはいります。



こちらは熊野宮



本祭りで神輿渡御の際祭神を奉ずる神輿です。



宝物殿で一人祭礼を眺めていた昨年まで活躍していた長獅子の頭です。
歯が随分すり減っています。

この獅子頭は、100年ぐらいは使用していると考えられています。

この田村大元神社の長獅子は、力いっぱい音を立てて噛むのが特徴の獅子舞ですが、割れたことがありません。



昨年完成した新しい獅子頭も、頑丈です。

山形県長井市の獅子頭工房「獅子宿燻亭」の作です。



さあ、明日が本番です。




三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 17:52 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語934番「田村大元神社夏季例大祭の練習」~長獅子・三匹獅子


三春城下新町鎮守田村大元神社(田母野公彦宮司、橋本勝利総代長)の祭礼を来週に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。



三匹獅子掛では、本年から世話人が変わり、舞手も小学生オンリーとなりまして、心機一転の三匹獅子奉納となります。

橋本純一新世話人のもと、本田、辻、侑、という世話人体制での奉納となります。



まぁ、この小学生でも2・3・4年生という中学年から5・6年生に伝統芸能である三匹獅子舞を教えるというの一筋縄ではいきません。

教える方も一苦労です。



年長者が後輩に教えるという当たり前の光景ですが、他では見られなくなった光景です。

しかし、この新町では息づいていました。



新しい獅子頭です。

本番を待っています。



長獅子舞の練習風景です。

田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.

今年の獅子掛は、一番組(柳沼薫大世話人)担当。

祭典掛は二番組(黒沢信吾大世話人)担当となります。

子供たちが演じる三匹獅子舞の練習が終わるまでは、新町字事務所内で基本練習です。



やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。

私が現役の頃と同じ風景です。



自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。




如何ですか?この迫力!

三春男子のそこ力からですよ・・・



だんだんに熱を帯びてきます。



この風景も、NHKはじめメディアに採り上げて貰わなくては・・・・



本番までの役一月の間、新町では練習や寄付集めそして社殿の確認などお祭り一色に染まります。




三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語906番「’27田村大元神社春季祭礼」


平成27年度「旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社」・田村大元神社春季祭礼




平成27年4月28日、桜の花も散り、花見も一段落し火曜日、当店の三週間ぶりとなる定休日に、田村大元神社の春季例大祭が開催され、私にも、総代世話人会という肩書で招待状が届きましたので、参列すべく喜び勇んで出かけた次第です。

昨年秋の「平成26年田村大元神社秋季祭礼」に続いての参列となりました。

参列者は、田母野宮司、田母野禰宜、現役総代一同、新規総代一同、総代OB、字委員一同、秋葉講中会長、三春大神宮新町総代、交通安全協会長、と総代世話人会、三春町議会議長・・・





戦国期の三春城”三の丸”とする大元帥明王社(泰平寺・学頭坊)にて、伊達政宗が宴席を設け、田村家当主以下、重臣達一堂に会し各種祈願をし、田村家の安泰を願います。

当かとも云われる伊達政宗の三春滞在はこの大元帥明王社を宿所として、田村家中の殆どが御目通りを願いに訪れたと記録されています。

また、時代は下がって江戸期の統治者である日ノ本将軍秋田公のお歴々の殿さまが、祭事を執り行った・・

等々を考えますと、感慨深いものが在ります。





戦国時代からの歴史の中で、脈々と繰り広げられてきたであろう、この場所で挙行される祭祀に参列させていただくたびに、厳粛な雰囲気の中で、神々しさというものを感じます。

また、時代とともに、社や祭祀は遍歴を重ねて来ただろうに、歴史の息づかいを肌で感じます。





戦国武将、三春城主田村義顕候は、三春入府の際、永正元(1504)年、守山山中(現在の郡山市田村町)領内総鎮守としてこの「大元帥明王」を移築を手始めに、田村庄の領国基盤整備に取り掛かります。




しかし、戦国と云われるこの時代、三春の周辺にはも群雄割拠、伊達伊達氏、二本松大内氏、会津蘆名氏、相双相馬氏、北茨城佐竹氏、磐城岩城氏などの戦国大名がひしめき合い、この田村領も周辺諸大名から度々侵攻がありまさに「四面楚歌」の状態でした。

また、田村家の組織上でも、御多分に漏れず、”第六天魔王”~織田信長以前の中世的な全国の武将は、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえど家中掌握が弱かったと考えられます。

そのために、度々周辺の武将から調略を受け、家名存続・自領安堵の為に、独立性の強い在地領主層の抵抗・離反が度々起こっていたと考えられています。





三春田村氏初代義顕候の長男、隆顕候は、伊達氏当主稙宗候 の娘を妻に迎え伊達氏の支援を受けて、この窮地を防ごうと画策します。

また、隆顕候の後を継いだ、三代田村清顕候の時代になっても、その状況はあまり変らず、四面楚歌が続きます。

しかし、頭角を現した伊達政宗に自身の一人娘である愛姫を嫁がせることで伊達氏との関係をより強固なものにするために、再び手を結び、三春田村氏の存続を図ります。

以後、この群雄割拠に時代に三春田村氏が、伊達勢と連合して自国防衛と領地獲得のために対外戦を挑んでいきますが、清顕候には男子がいなかったため、1586年に清顕が急死すると、清顕後室(相馬氏の娘)を立て、家中が一致結束し領内経営を目指します。




しかし、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする田村顕盛(隆顕の弟で梅雪斎と号した小野新町城主)を筆頭とする相馬派が台頭し、清顕候の遺志を尊重し伊達氏を頼るとした伊達派と対立します。

このような中、1588年に田村領を狙った相馬義胤が田村家中の相馬派と結んで三春城入城を企てますが、家中伊達派の筆頭橋本刑部顕徳らにより、相馬勢は三春城揚土門まで攻めたてますが撃退されます。




さらに、その後これに端を発する郡山合戦が起こります。
これは相馬・佐竹・芦名・二階堂連合軍と伊達・田村軍が郡山にて対決したもので、実質的に相馬家と伊達家の田村領をめぐる戦いでした。

この戦いに勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を隠居させ「田村仕置」と称される家中相馬派の一掃をはかります。





その後清顕の甥(清顕の弟氏顕の子で清顕と同母)である田村孫七郎に、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせを三春城主に据えます。




清顕亡後の田村家の重臣筆頭である、田村宮内顕頼(月斎)橋本刑部少輔顕徳などの、田村家重臣が、伊達家当主政宗以下、伊達成美、片倉か景綱等伊達家重臣たちを接待の為に、大元帥明王社で宴席を設けたのもこの「田村仕置」の頃です。

そして、ここに座っていますと、伊達政宗を頼って田村家を何とか存続を模索する田村家重臣、そして時代に乗り遅れまいと政宗に御目通りを願う地侍達等々・・・・戦国時代という時代を生き延びようとした男たちの苦悩や迷い、そして決意など当時の息遣い等、ヒシヒシと肌で感じます。




三春昭進堂 髙橋龍一




尚、伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家、御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など11家にとどまります。

| ryuichi | 04:31 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語812番・平成26年度「田村大元神社秋季例大祭」


旧三春城下・新町鎮守「田村大元神社」の秋季例大祭に、総代世話人会として初めて参列させていただきました。

別火講中退講以来、久ぶりの拝殿に於ける祭典参列です。



以前よりお誘いを受けてはいたのですが、日程が調整出来なくて、欠席していました。
しかし、今回はちょうど火曜日ということもあり、参列が叶ったというわけです。

祭主、田母野宮司による祝詞奏上、一同玉串奉天し、五穀豊穣への感謝と、氏子の息災、そして参列者の健勝等を祈願しました。



田村大元神社の祭事は、

元旦祭(1月1日)、

春季例大祭(4月28日)、

夏季例大祭(7月の第3日曜日)、

秋季例大祭(10月28日)、

新嘗祭

その他に、

秋葉講祭、

別火講中祭(1月第2日曜日)、

等があります。



今年、改築された社務所での直会です。

今までの社務所が思い出せないくらい綺麗に改装されていました。



社務所から望む拝殿えすが、戦国時代から、旧三春藩領内田村庄総鎮守の社です。

伊達政宗が宴席を設け、田村家当主以下、重臣達が各種祈願をし、愛姫の誕生祝を行った・・・

さらには、日ノ本将軍秋田公のお歴々の殿さまが、祭事を執り行った・・

等々を考えますと、感慨深いものが在ります。

戦国時代からの歴史の中で、脈々と繰り広げられてきたであろう、この場所で挙行される祭祀に参列させていただくたびに、厳粛な雰囲気の中で、神々しさというものを感じます。

時代とともに、社や祭祀は遍歴を重ねて来ただろうに、歴史の息づかいを肌で感じます。



拝殿内にある、和讃の算額

また、三春藩領の総鎮守という性質上、世情不安な折には、
戦国期の田村清顕の突然の急死や田村家の太閤奥羽仕置きによる「御取り潰し」からか、清顕公の生首が夜な夜な境内を飛び回る・・・

江戸中期、飢饉が続いた秋田藩政下では、お百度詣りの妊婦が腹を割かれて殺されていた・・・

等々、怪談めいた、講釈師が喜びそうな話も伝わっています。



明治期に奉納された、槍鎖鎌の額



第12代三春藩主当主婿養子の重季(伯爵・大原重朝の次男)公の書




三春藩政時代より、この新町は城下の中でも特異な人種が住む町内でした。
領内総鎮守大元帥明王の維持管理を司っていた職人たちが多く住んでいた門前町の明王町(現山中)。

明王町と南町の境には、明王木戸番小屋があり、現在でも祭礼時には、南町境には明王町区分燈を設置しています。



大元帥明王社に関わる行事一切を司っていた、明王社別当の藩主祈願寺真照寺(戦国期の平田村氏の頃は修験泰平寺・学頭坊)を筆頭に、いづれも、修験の常楽院、光照寺・成就院・康正寺、文殊院などの修験者や商人が居を構えていた新南町(新町)縦町。




最下層の武士である足軽が半士半農で暮していた弓町や四軒丁、番組。
中下級の藩士が居を構えていた御城腰回りの入清水。


そして、化粧坂・清水馬場入り口には城下との境である「郭堺柵」と木戸番屋がありました。

今では清水奥や大平、永作など城外の法外地区も新町行政区として加入していますが、代々三匹獅子のササラを輩出してきた楽内は、行政区分から分離してせいか祭礼には参加していません。



明治維新の廃仏毀釈以前、秋田藩政下では、三春藩領の三春、田村、西田、中田など八十四郷のうち、六十六郷が当屋となり、役割配分や運明王祭礼冥加金で運営してきましたが、明治以降は、字新町鎮守となり、新町住民が氏子・別火講中を組織して運営にあたってきました。




上記のような関係で、新町は人種の坩堝と云った様相を呈していまして、その地区により別火講中を番組みごとに分けたりしていました。

夏季祭礼時の御神体神輿渡御は、触れ太鼓を先頭に、青天狗・白天狗を前備えにした長獅子の先払い、五色旗・神社旗・錦旗、御神体神輿、神官に続き三匹獅子舞の奉納が続き、新町町内を巡幸します。



尚、春季周期の祭礼の期日である、28日の意味は?
という質問が出されました。

私なりに調べてみたのですが、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日の社日という(春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日・その年によって日にち変更有)があります。

春と秋ですので関連が気になりますが日にちが違います。

そして、縁日から探してみました。

江戸時代までの祭神である大元帥明王の縁日(秘仏の為不明 1日?6日?25日?)。
また、江戸秋田藩政下での大元帥明王所管真照寺の御本尊不動明王縁日(28日)等々なかなか結論が出ません。

尚、現在の御祭神である、国常立尊縁日も17日です。

しかし、「大日如来」の縁日が、28日としているのが気にかかります。
それは、」日本書紀にある「三神」とは、仏教でいう如来の三身を当てはめて、
現在の祭神である「国常立尊(くにの とこたちのみこと)」が法身。「国狭槌尊(くにのさつちのみこと)」が報身。そして、豊斟渟尊(とよくものみこと)が 応身とされ、この三神が合一して密教の本尊である「大日如来」となるとされていますが、この辺に関連しているのではないかとも考えられます。


三春昭進堂 髙橋龍一





| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::明王様御祭礼 |