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三春物語934番「田村大元神社夏季例大祭の練習」~長獅子・三匹獅子


三春城下新町鎮守田村大元神社(田母野公彦宮司、橋本勝利総代長)の祭礼を来週に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。



三匹獅子掛では、本年から世話人が変わり、舞手も小学生オンリーとなりまして、心機一転の三匹獅子奉納となります。

橋本純一新世話人のもと、本田、辻、侑、という世話人体制での奉納となります。



まぁ、この小学生でも2・3・4年生という中学年から5・6年生に伝統芸能である三匹獅子舞を教えるというの一筋縄ではいきません。

教える方も一苦労です。



年長者が後輩に教えるという当たり前の光景ですが、他では見られなくなった光景です。

しかし、この新町では息づいていました。



新しい獅子頭です。

本番を待っています。



長獅子舞の練習風景です。

田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.

今年の獅子掛は、一番組(柳沼薫大世話人)担当。

祭典掛は二番組(黒沢信吾大世話人)担当となります。

子供たちが演じる三匹獅子舞の練習が終わるまでは、新町字事務所内で基本練習です。



やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。

私が現役の頃と同じ風景です。



自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。




如何ですか?この迫力!

三春男子のそこ力からですよ・・・



だんだんに熱を帯びてきます。



この風景も、NHKはじめメディアに採り上げて貰わなくては・・・・



本番までの役一月の間、新町では練習や寄付集めそして社殿の確認などお祭り一色に染まります。




三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語906番「’27田村大元神社春季祭礼」


平成27年度「旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社」・田村大元神社春季祭礼




平成27年4月28日、桜の花も散り、花見も一段落し火曜日、当店の三週間ぶりとなる定休日に、田村大元神社の春季例大祭が開催され、私にも、総代世話人会という肩書で招待状が届きましたので、参列すべく喜び勇んで出かけた次第です。

昨年秋の「平成26年田村大元神社秋季祭礼」に続いての参列となりました。

参列者は、田母野宮司、田母野禰宜、現役総代一同、新規総代一同、総代OB、字委員一同、秋葉講中会長、三春大神宮新町総代、交通安全協会長、と総代世話人会、三春町議会議長・・・





戦国期の三春城”三の丸”とする大元帥明王社(泰平寺・学頭坊)にて、伊達政宗が宴席を設け、田村家当主以下、重臣達一堂に会し各種祈願をし、田村家の安泰を願います。

当かとも云われる伊達政宗の三春滞在はこの大元帥明王社を宿所として、田村家中の殆どが御目通りを願いに訪れたと記録されています。

また、時代は下がって江戸期の統治者である日ノ本将軍秋田公のお歴々の殿さまが、祭事を執り行った・・

等々を考えますと、感慨深いものが在ります。





戦国時代からの歴史の中で、脈々と繰り広げられてきたであろう、この場所で挙行される祭祀に参列させていただくたびに、厳粛な雰囲気の中で、神々しさというものを感じます。

また、時代とともに、社や祭祀は遍歴を重ねて来ただろうに、歴史の息づかいを肌で感じます。





戦国武将、三春城主田村義顕候は、三春入府の際、永正元(1504)年、守山山中(現在の郡山市田村町)領内総鎮守としてこの「大元帥明王」を移築を手始めに、田村庄の領国基盤整備に取り掛かります。




しかし、戦国と云われるこの時代、三春の周辺にはも群雄割拠、伊達伊達氏、二本松大内氏、会津蘆名氏、相双相馬氏、北茨城佐竹氏、磐城岩城氏などの戦国大名がひしめき合い、この田村領も周辺諸大名から度々侵攻がありまさに「四面楚歌」の状態でした。

また、田村家の組織上でも、御多分に漏れず、”第六天魔王”~織田信長以前の中世的な全国の武将は、農兵分離が出来ておらず、それぞれの家臣がそれぞれ先祖伝来の領地をもち、城主といえど家中掌握が弱かったと考えられます。

そのために、度々周辺の武将から調略を受け、家名存続・自領安堵の為に、独立性の強い在地領主層の抵抗・離反が度々起こっていたと考えられています。





三春田村氏初代義顕候の長男、隆顕候は、伊達氏当主稙宗候 の娘を妻に迎え伊達氏の支援を受けて、この窮地を防ごうと画策します。

また、隆顕候の後を継いだ、三代田村清顕候の時代になっても、その状況はあまり変らず、四面楚歌が続きます。

しかし、頭角を現した伊達政宗に自身の一人娘である愛姫を嫁がせることで伊達氏との関係をより強固なものにするために、再び手を結び、三春田村氏の存続を図ります。

以後、この群雄割拠に時代に三春田村氏が、伊達勢と連合して自国防衛と領地獲得のために対外戦を挑んでいきますが、清顕候には男子がいなかったため、1586年に清顕が急死すると、清顕後室(相馬氏の娘)を立て、家中が一致結束し領内経営を目指します。




しかし、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする田村顕盛(隆顕の弟で梅雪斎と号した小野新町城主)を筆頭とする相馬派が台頭し、清顕候の遺志を尊重し伊達氏を頼るとした伊達派と対立します。

このような中、1588年に田村領を狙った相馬義胤が田村家中の相馬派と結んで三春城入城を企てますが、家中伊達派の筆頭橋本刑部顕徳らにより、相馬勢は三春城揚土門まで攻めたてますが撃退されます。




さらに、その後これに端を発する郡山合戦が起こります。
これは相馬・佐竹・芦名・二階堂連合軍と伊達・田村軍が郡山にて対決したもので、実質的に相馬家と伊達家の田村領をめぐる戦いでした。

この戦いに勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を隠居させ「田村仕置」と称される家中相馬派の一掃をはかります。





その後清顕の甥(清顕の弟氏顕の子で清顕と同母)である田村孫七郎に、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせを三春城主に据えます。




清顕亡後の田村家の重臣筆頭である、田村宮内顕頼(月斎)橋本刑部少輔顕徳などの、田村家重臣が、伊達家当主政宗以下、伊達成美、片倉か景綱等伊達家重臣たちを接待の為に、大元帥明王社で宴席を設けたのもこの「田村仕置」の頃です。

そして、ここに座っていますと、伊達政宗を頼って田村家を何とか存続を模索する田村家重臣、そして時代に乗り遅れまいと政宗に御目通りを願う地侍達等々・・・・戦国時代という時代を生き延びようとした男たちの苦悩や迷い、そして決意など当時の息遣い等、ヒシヒシと肌で感じます。




三春昭進堂 髙橋龍一




尚、伊達家へ仕官した田村家旧臣は、田村本家、御代田氏、田母神氏、橋本氏、村田氏、石沢氏、常葉氏、中津川氏、郡司氏、大越氏など11家にとどまります。

| ryuichi | 04:31 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語812番・平成26年度「田村大元神社秋季例大祭」


旧三春城下・新町鎮守「田村大元神社」の秋季例大祭に、総代世話人会として初めて参列させていただきました。

別火講中退講以来、久ぶりの拝殿に於ける祭典参列です。



以前よりお誘いを受けてはいたのですが、日程が調整出来なくて、欠席していました。
しかし、今回はちょうど火曜日ということもあり、参列が叶ったというわけです。

祭主、田母野宮司による祝詞奏上、一同玉串奉天し、五穀豊穣への感謝と、氏子の息災、そして参列者の健勝等を祈願しました。



田村大元神社の祭事は、

元旦祭(1月1日)、

春季例大祭(4月28日)、

夏季例大祭(7月の第3日曜日)、

秋季例大祭(10月28日)、

新嘗祭

その他に、

秋葉講祭、

別火講中祭(1月第2日曜日)、

等があります。



今年、改築された社務所での直会です。

今までの社務所が思い出せないくらい綺麗に改装されていました。



社務所から望む拝殿えすが、戦国時代から、旧三春藩領内田村庄総鎮守の社です。

伊達政宗が宴席を設け、田村家当主以下、重臣達が各種祈願をし、愛姫の誕生祝を行った・・・

さらには、日ノ本将軍秋田公のお歴々の殿さまが、祭事を執り行った・・

等々を考えますと、感慨深いものが在ります。

戦国時代からの歴史の中で、脈々と繰り広げられてきたであろう、この場所で挙行される祭祀に参列させていただくたびに、厳粛な雰囲気の中で、神々しさというものを感じます。

時代とともに、社や祭祀は遍歴を重ねて来ただろうに、歴史の息づかいを肌で感じます。



拝殿内にある、和讃の算額

また、三春藩領の総鎮守という性質上、世情不安な折には、
戦国期の田村清顕の突然の急死や田村家の太閤奥羽仕置きによる「御取り潰し」からか、清顕公の生首が夜な夜な境内を飛び回る・・・

江戸中期、飢饉が続いた秋田藩政下では、お百度詣りの妊婦が腹を割かれて殺されていた・・・

等々、怪談めいた、講釈師が喜びそうな話も伝わっています。



明治期に奉納された、槍鎖鎌の額



第12代三春藩主当主婿養子の重季(伯爵・大原重朝の次男)公の書




三春藩政時代より、この新町は城下の中でも特異な人種が住む町内でした。
領内総鎮守大元帥明王の維持管理を司っていた職人たちが多く住んでいた門前町の明王町(現山中)。

明王町と南町の境には、明王木戸番小屋があり、現在でも祭礼時には、南町境には明王町区分燈を設置しています。



大元帥明王社に関わる行事一切を司っていた、明王社別当の藩主祈願寺真照寺(戦国期の平田村氏の頃は修験泰平寺・学頭坊)を筆頭に、いづれも、修験の常楽院、光照寺・成就院・康正寺、文殊院などの修験者や商人が居を構えていた新南町(新町)縦町。




最下層の武士である足軽が半士半農で暮していた弓町や四軒丁、番組。
中下級の藩士が居を構えていた御城腰回りの入清水。


そして、化粧坂・清水馬場入り口には城下との境である「郭堺柵」と木戸番屋がありました。

今では清水奥や大平、永作など城外の法外地区も新町行政区として加入していますが、代々三匹獅子のササラを輩出してきた楽内は、行政区分から分離してせいか祭礼には参加していません。



明治維新の廃仏毀釈以前、秋田藩政下では、三春藩領の三春、田村、西田、中田など八十四郷のうち、六十六郷が当屋となり、役割配分や運明王祭礼冥加金で運営してきましたが、明治以降は、字新町鎮守となり、新町住民が氏子・別火講中を組織して運営にあたってきました。




上記のような関係で、新町は人種の坩堝と云った様相を呈していまして、その地区により別火講中を番組みごとに分けたりしていました。

夏季祭礼時の御神体神輿渡御は、触れ太鼓を先頭に、青天狗・白天狗を前備えにした長獅子の先払い、五色旗・神社旗・錦旗、御神体神輿、神官に続き三匹獅子舞の奉納が続き、新町町内を巡幸します。



尚、春季周期の祭礼の期日である、28日の意味は?
という質問が出されました。

私なりに調べてみたのですが、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日の社日という(春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日・その年によって日にち変更有)があります。

春と秋ですので関連が気になりますが日にちが違います。

そして、縁日から探してみました。

江戸時代までの祭神である大元帥明王の縁日(秘仏の為不明 1日?6日?25日?)。
また、江戸秋田藩政下での大元帥明王所管真照寺の御本尊不動明王縁日(28日)等々なかなか結論が出ません。

尚、現在の御祭神である、国常立尊縁日も17日です。

しかし、「大日如来」の縁日が、28日としているのが気にかかります。
それは、」日本書紀にある「三神」とは、仏教でいう如来の三身を当てはめて、
現在の祭神である「国常立尊(くにの とこたちのみこと)」が法身。「国狭槌尊(くにのさつちのみこと)」が報身。そして、豊斟渟尊(とよくものみこと)が 応身とされ、この三神が合一して密教の本尊である「大日如来」となるとされていますが、この辺に関連しているのではないかとも考えられます。


三春昭進堂 髙橋龍一





| ryuichi | 05:21 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::明王様御祭礼 |
平成25年度田村大元神社夏季例大祭
旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」で、今の田村大元神社の夏季例大祭が斎行されました。
今年は、次男坊が三匹獅子舞を奉納しています。



昨年、新調された獅子頭はピカピカと光っていました。
昨夜の大雨の中、宵祭りで仮奉納をして、今夜が本番です。



太郎、花子、次郎の三匹の獅子と、後ろで五色の色紙で彩られたササラはアマガエルの声の役目です。

三春藩秋田藩政下では、祭礼は、梅雨明けの旧暦6月15日に斎行されていました。
その名残なのでしょう、田村地方や三春はじめ、東日本一帯に伝わる他の三匹獅子舞のササラとは形態が違います。



三春藩政時代より、この新町は城下の中でも特異な人種が住む町内でした。
領内総鎮守大元帥明王の維持管理を司っていたの職人たちが多く住んでいた門前町の明王町(現山中)。
明王町と南町の境には、明王木戸番小屋があり、現在でも祭礼時には、南町境には明王町区分燈を設置しています。

明王社別当の藩主祈願寺真照寺を筆頭に、明王社に関わる行事一切を司っていた修験学頭坊、常楽院、常照院・成就院・康正寺、文殊などの修験者や商人が居を構えていた新南町(新町)縦町。

最下層の武士である足軽が半士半農で暮していた弓町や四軒丁、番組。
中下級の藩士が居を構えていた御城腰回りの入清水。

そして、化粧坂・清水馬場入り口には城下との境である「郭堺柵」と木戸番屋がありました。

今では清水奥や大平、永作など城外の法外地区も新町行政区として加入していますが、代々三匹獅子のササラを輩出してきた楽内は、行政区分から分離してせいか祭礼には参加していません。

明治維新の廃仏毀釈以前、秋田藩政下では、三春藩領の三春、田村、小野、西田、中田など六十六郷の当屋制で、役割配分や運明王祭礼冥加金で運営してきましたが、明治以降は、字新町鎮守となり、新町住民が氏子・別火講中を組織して運営にあたってきました。
上記のような関係で、新町は人種の坩堝と云った様相を呈していまして、その地区により別火講中を番組みごとに分けたりしていました。


渡御・三春昭進堂前



御神体神輿渡御は、触れ太鼓を先頭に、青天狗・白天狗を前備えにした長獅子の先払い、五色旗・神社旗・錦旗、御神体神輿、神官に続き三匹獅子舞の奉納が続き、新町町内を巡幸します。
新町縦町の当店までくれば渡御は、もうすぐひと段落です。
そして、夕食後の還御・宮入です。



夕食後、旧化粧坂城下境を出立した還御の行列は、夕やみ迫る新町縦町を神社に向かって粛々とではありませんが進みます。
これは、「獅子が、また一年神社で眠るのを嫌がって、御神体宮入の時間ぎりぎりまで、現世に居たいと哀願し、さらに決まりを解っていながら抵抗して荒々しく先払いをしながら進んで行くんだ」と古老から教わっていました。



この祭礼を司どる別火講中の現役の頃は判りませんせんでしたが、退講して7年も経ちますと、自分で力説していた”祭礼とは、斎行者がいて、準備する者がいて、見る者がいて初めて存在する”という意味を己自身が噛み砕入れ呑込めるようになった気がします。



まぁ、客観的に見れるようになったということでしょうか・・・



間に入る車のヘッドライトがいい照明になっています。


獅子舞が「最高潮に達します。


獅子の外でガードする役を”警護”と呼んでいますが、がーどれ0るを支えに踏ん張って獅子を止めています。


祭礼の夏の一日。
猛暑の中を還御に随行し、別火講中の仲間や、神社総代・宮司や神職、さらには三匹獅子や旗・楽人の楽器持ちの子供たちと艱難を共にするということで、夕方には連帯感を持ち始めるような気がします。
これが、一年続きこの新町と云う町内の固い絆を構築しているんだろうなぁと思います。



三匹獅子の舞う子供たちもなおさらです。
兄妹でもない。
親でもない。
危ないお兄さんや、怖いおじさん、そして幼い子供たち・・・
世代も、住む環境もまったく違う異なる、様々な人々と仲良くなるという不思議な人間関係が、気が付いたら出来上がっています。

人の成長には、親の庇護を離れ”世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、綺麗なものや汚いもの、時には危険なことなどに触れ、そこで感じたものを人生の糧として将来に役立てるということも必要な事ですよね。

これが今後の人生に、どれだけ役に立つか計り知れませんよね。



私など、実感として己の財産として受け止めています。



子供みこしです。
PTA新町方部の方々が段度っています。



子どもたちは勿論ですが、若い可愛いお母さん方の参加で、祭礼は盛り上がりますよね!



主役を譲り、裏方に徹する姿・・・・わが子ながら・・・・
帰ってきて涙をこらえて報告する姿に、成長を感じます。
褒めてやりました。


田村大元神社境内「三匹獅子舞奉納」





| ryuichi | 17:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::明王様御祭礼 |
20年前の田村大元神社夏季例大祭

約20年前の田村大元神社夏季例大祭の映像です。
拝殿での神事に続き、先払いの「長獅子」そして、神輿に続いての奉納三匹獅子舞の宮立が映っています。
さらに、門前町である山中の巡幸の様子です。
懐かしい方々が映し出されています。

これは、元田村大元神社総代の方が総代の任期満了を記念して作成したビデをに録画したものです。
後に、別火講中在世中の私に、後の活用を期して下さったものです。
DVDに編成しなおしてから掲載しました。

長獅子の笛が私です。

さすけねぇぞい三春!



| ryuichi | 21:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語644番 元朝参り「太元帥明王(だいげんすいみょうおう)」


元朝参り「太元帥明王(だいげんすいみょうおう)」
「お正月」新年に年神さまという新しい霊魂をむかえるときに「おめでとうございます」という祝福の言葉を捧げます。新年の挨拶は、実は人に対してするものでなく「年神」さまという霊魂に対して発する祈りの言葉であったわけです。「新年おめでとうございます。」と言葉を交わすことで新しい年の豊穣と平和を年神さまに祈っていると聞いたことがあります。古代の盆が生霊を祭ったのに対して、正月は祖先神として年神さまを迎えて祭るところに違いがありました。門松や注連縄(しめなわ)は年神さま祭る場所を示すものです。 そして、年神さまのお供えとして丸い重ね餅(鏡餅)を供えます。「お年玉」とは元来は正月に小さい丸餅をお下がりとして与える事からはじまりました。年玉とは「年霊」という丸い形の霊魂を意味しています。



  三春町字新町地区では、元旦参りには「明王さま」と愛称で呼んでいる田村大元神社(現祭神 国常立命)に参拝します。この明王とは大元帥明王のことで、空海が日本に持ち込み、古代インド神話に登場する魔神アータヴァカ(漢訳 ?野鬼神大将)。元来は子供を喰い殺す悪鬼(夜叉神)でしたが、大日如来の功徳により善の神へと生まれ変わり、国土や衆生を護る明王となった仏です。また、古くは毘沙門天の眷属である八大夜叉王、又は十六夜叉大将のひとりで、 アタバク夜叉大将、アータヴァカ鬼神元帥ともよばれていました。霊験を有するとされ、一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われます。
 


また、太元帥明王は国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、「鎮護国家」はもとより「請雨」「伏難」「勝軍」の祈願として宮中では古くから大元帥明王の秘法(大元帥法)が盛んに厳修されてきました。平安時代の「平将門の乱」や「元寇」の時にこの秘法が行われたと云われています。
太元帥明王の仏像はその性格上現存は少なく、真照寺に残る秘仏太元帥明王画像は、一面六臂の憤怒相であり、東大寺の仁王像を彷彿とさせる筋骨隆々たる逞しい体つきで六本の腕に武器を構え、軍荼利明王 と同様、身体に蛇を巻き付けています。顔はもはや憤怒相を通り越してまさに鬼神そのものとも言うべき恐ろしい相であり、髪は怒りによって天を衝くように逆立つが如く描かれています。尚、軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説もあります。
  現在、田村大元神社では、字内の氏子が中心となって、旧三春藩領内総鎮守を、三春町の後世まで引き継ぐ文化遺産、そして観光資源として屋根の葺き替えを計画しております。 
つきましては広く一般の方々にも賛同とご協力を頂き、維持保全に努めたいと存じます。私も屋根葺き替え実行委員の一人として店内に寄附帳を設置して皆様のご協力をお願いいたしたく御案内申し上げます。
蒼龍謹白 合掌



| ryuichi | 04:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::明王様御祭礼 |
三春物語606番「例大祭直会」
直会
田村大元神社では、例大祭の後には、必ず氏子などが集まって、酒宴が開かれます。
これを「直会(なおらい)」といい、祭礼の締めくくりとして重要な意味を持っています。

祭礼で神を迎えるときには、神職をはじめ氏子一同は潔斎(身を清めること)して日常とは違った生活、
精神状態にあり、そこでの酒宴を開いてくつろぎ、この緊張状態をゆるめて日常の状態に戻すのが直会だという。
 古来より、お供えして神々がお召し上がりになられたお供え物を人々が戴くことは、
その妙なる恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると考えられてきました。

この供食により神と人が一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。
 簡略化されたものとして、お酒を戴くことが一般的な儀礼となっていますが、
これは御酒が神饌の中でも米から造られる重要な品目であり、
また調理をせづにその場で直接戴くことができるため、象徴的におこなうものとなりました。
 
神々にお供えした物を下げて戴くということは「神人共食」という祭りの根本的意義が示されています。
 直会の語源は、「なおりあい」とする説があります。
神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄に努めるなど、斎戒を致します。

神社本庁の斎戒に関する規程には
「斎戒中は、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄に触れてはならない
」とあるよう、通常の生活とは異なるさまざまな制約があり、
祭りの準備から祭典を経て、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、
斎戒を解く「解斎」となり、もとの生活に戻ります。

「なおらい」の語源は、「戻る=直る」の関係を示して直会の役割を述べたものであり、
直会が祭典の一部であることを指しています。

正確には祭礼が終わってからではなく、祭りの一環として行なわれる重要な神事です。
直会が神事として一般の宴とは異なるのも、こうした意義をもっておこなわれているからなのです。




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