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田村大元神社の仁王尊二像(旧三春藩領内総鎮守の大元帥明王社の仁王様)



田村大元神社の仁王尊二像(旧三春藩領内総鎮守の大元帥明王社の仁王様)

江戸期、秋田藩政下では大元帥明王社・三春藩領内総鎮守として三春五万石の領民の崇敬を受けてきました。
しかし、明治維新の神仏離反や廃仏毀釈から影響で、久しい間旧三春藩主祈願所だった真照寺の仁王さまで通っていた「仁王尊二像」は、戦後に田村大元神社の随身門とされていた「仁王門」に戻りました。



金剛像 「あ」

明治維新により、神仏混淆(しんぶつこんこう)が禁止されていたため、廃棄の憂き目を見た仁王さまが、真照寺に拾われて仮の宿を借りていたということになるんでしょうか。



那羅延金剛像 「うん」


大東亜戦争終戦後は、信仰の自由解放となり、神仏混淆の禁も解けたので、三春城下の新町の氏子信徒の熱望と、文化財保護の施策とが実を結んで、昭和三十六年に真照寺より氏子に担がれて、この仁王尊二像の「仁王門」への約百年ぶりの帰還となりました。

当時の三春町民、そして三春町長以下町職員の方々の文化・知識レベルのの高さ、そして所謂ところの民度の高さがうかがえます。





さて、この仁王尊二像ですが、大元神社は、寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
後に、本殿拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工で、その時は仁王像はこの門に安置されていました。

尚、大元帥明王社として建造された仏教色の強い本殿、拝殿は上記の明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の影響により、明治二年に取り壊されます。
現在の社殿は大元神社として明治32年に再建されたものです。

仁王像の作者は、伊東光雲、伊東九賀之助と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。

光雲の監督で、官吉が彫ったのかもしれません。用材は常葉産の広葉樹。

光雲は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や大元神社神門梁彫刻等の作品が残っています。




この仁王様は、東大寺仁王尊二像の象徴されるような筋肉隆々で胸を反らし威を張るような姿ではなく、体のラインが全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢をとっています。

まるで参道上がってきた参拝者に、「悪いことはしてはいねがー!」と子供を”諭している”ようにも見えます。

三春藩主秋田氏の出身が青森、そして秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」や「なまはげ」を想像したくなりますね。





また、仁王像の下絵は三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられている。



仁王二尊は、金剛力士とも云い、仏法の守護神とされています。

左には金剛、右には那羅延金剛で、ともに裸体で腰に布をまとい勇猛な相をしている。

左は口を開き、右は閉じていて、「あ」「うん」の対をなしています。


この「阿(あ)」「吽(ん)」は、「阿吽の呼吸」などと普段から使われている阿吽です。

仏教的な、意味で説明すれば、

人は生まれたときに「あ」と口を開いて生まれるといいます。

赤ちゃんがすぐに泣きなしますよね・・・

これは、亡くなれば「天上界」、いわゆる”天国”というあの世に往くとされています。

天国は、楽園であり、大変心地よい素晴らしい世界とされ、そので楽しく暮らしていましたが、ある時、第六天の魔王によって、修業の場である「この世」に、”あ”っという間に”産み落とされる”からだと云われています。

そして、亡くなるときには、自分の人生という修業に納得して、再び天上界へ赴くべく「ん」と口を閉じて、満足してあの世に旅立たれるそうです。

つまり、人の始まりと終わりの間の大切さを説いています。





この仁王尊二像が、政治の犠牲となり明治21年からおよそ80年に亘って真照寺の軒下で風雨にさらされていました。

かつては鮮やかであったであろう丹青の色も消え、半ば朽ちた巨体を再び本来おわすべき仁王門に戻って鎮座されました。




平成になって、尼ケ谷の影山組・やわらぎの湯社長の影山様の篤志寄進により、仁王尊二像の修復がなされ現在のお姿となっています。






昭和30年代の広報三春内コラム参照



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |
田村大元神社明治30年社殿新築寄附受帳及同社昭和3年屋根銅板葺寄付受帳


田村大元神社明治30年社殿新築寄附受帳及同社昭和3年屋根銅板葺寄付受帳

20年くらい前になりますが、田村大元神社別火講中世話人当時、梅雨時のシトシト雨の降り続くしがない一日、祭典掛の準備のために社殿の方付けをしていました。
拝殿内の倉庫を方付けていたところ、天井板がずれているのに気が付きました。




直そうと、恐るおそる上がってて天井裏を見渡しますと、古い風呂敷包が出てまいりました。
ほこりを払いながら中を見てみますと古い帳面の束になって入っていました。




表紙を見ると、明治30年の田村大元神社社殿新築の時の寄付受帳約100冊と、昭和三年の屋根替え改築の寄付受け帳20冊でした。


当時はまだ、軍事色が強く戦意高揚としての神道が健在な時代でしたので、旧三春藩領六十六郷の村々からの寄付徴収でした。




県知事からの寄付集め許可証が添付され、神社檀信徒総代の発揮人名簿、賛同者名簿には三春町の時の名士の方々が名を連ね、三春領六十六郷にある各村長の方々の名前も明記されています。




筆頭は、三春藩秋田家当主秋田重季公です。




三春昭進堂 菓匠蒼龍






| ryuichi | 05:17 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語833番田村大元神社~三春昭進堂髙橋家寄進録


晩秋の旧三春領内総鎮守「大元帥明王社」の田村大元神社です。

銀杏が良い雰囲気を醸し出してくれています。





本殿から望む、拝殿、熊野神社、神楽殿、宝物殿、そして仁王門です。

私はこの角度から見る境内が大好きです。



社務所側から望む、仁王門です。
拝殿と神楽殿、宝物殿を望みます。



その境内にある、明治32年の拝殿再建時の寄付芳名録石版です。

よく見ると、中郷村の項目に、当三春昭進堂・髙橋家の本家である、込木柳作の髙橋家当主市三郎の名前が見えます。

尚、文献が乏しく、口伝の域を脱しませんが、三春昭進堂当家の祖先である三春在込木の柳作髙橋氏は、戦国期の三春田村氏の組下で、柳作を知行、舘・屋敷を構えます。

後に、伊達派と相馬派の内紛の時には伊達派に組し、太閤秀吉の奥州仕置きにて、田村氏の改易されると、この知行地にて名主・村司として帰農します。




当時、須賀川城主二階堂氏の家臣にも、髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が記録されていますが、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の旗下である柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、合算・与力したのではないかと考えています。



戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の徳川幕府による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。

武士が支配階級として身分的にも分化し、農・漁民や町人が支配される側に明確にされたのは、豊臣・徳川政権の確立による農兵分離が全国的に波及してからの事です。
もちろん、武家社会は、平家や源氏に始まり、鎌倉幕府成立後にその地位を確立していきますが、生産力も充分でないなかで常備軍団を組織的に養うことは困難でした。

そのため、当時の常識として武士は、戦時以外は所領にて帰農し、地域の豪族として存在します。

これは、戦国時代だけでなく、それ以前にも放浪した農民や商人が地方豪族となったり、地域豪族の利権・境界争いに農民も武士として盛んに動員されています。
当時は、全ての領民が戦闘員だったといえます。
そして、その生活基盤となる所領を守るために一族郎党が、分家制度を取り隣接する他の豪族にも組して細分化してゆき、所領と一族の安全を確保していったと考えられます




三春昭進堂髙橋の場所は、当時は、本家の所有でした。
この後に、市三郎の弟で当家初代の民四朗が、正式の分家をして、妻おたりを娶って商いを始めました。



中郷の名士、お歴々の方々の名前が見えます。



こちらは、三春町の当時の名士の方々の芳名です。
渡辺平八はじめ、川又彦十郎、大越巳木蔵、内藤傳之助、橋元柳平等時の名士のお名前が並びます。



こちらは、昭和3年の本殿、拝殿、仁王門の茅葺から銅板葺きへの屋根替えの時の寄付芳名石版です。



当家初代、髙橋民四朗の名前が見えます。



まだ三春昭進堂の屋号をついておらず、民さん家としておたりさんがせっせと商売に精を出していたんでしょうね。



先々代当主髙橋傳造の名前も拝殿の木番にあります。



そして、八幡宮、熊野宮の屋根替えの寄付者芳名版には、先代の髙橋民夫の名前もしっかりまります。



そして、先の「平成の大修復・屋根替え」での寄付芳名石版です。



私の名前が記載されています。



さらには、当時寄付をお願いした友人の方々のお名前も見えます。



渡辺弥七さん、そして娘の杏里、あずささん、中町の桑原親分・・・・



新野秋徳さまや渡辺日向さま、新野恭朗さま等、様々な方々にご協力を頂きました。



吉村管工さんや、伊藤肉店様、渡辺床屋さま、等々・・・



本当にありがたいことです。

石版という半永久のツールに、一緒に名前がある。
この後、何十年後、もしくは百年後、いやいやもっと後の方々が見たときに何を感じてくれるのか・・・
今から楽しみです!



晩秋の一時、そんな感傷に浸ってみました。

この田村大元神社には、子供のころから祭礼や遊びなどで訪れている場所です。
自宅から徒歩5分です。

子供の頃は、何とこの狭い境内でソフトボールをしていました。
燈籠にボールが当たりイレギラー!屋根に当ればホームラン等々・・・
また、祭礼では、何となく決まりがあり、私の町内(3つの町内で構成)のものだけが祭礼のメインに参加できる仕組みとなっていまして、小学校の低学年での、錦旗・神号旗・五色旗持ち、楽人の太鼓持ち~から始まり、
高学年になり、三匹獅子やササラ(夏祭りですので蛙の鳴き声役)に参加できました。
もちろん、夏休みに十分使えるくらいの、お小遣いがもらえました。

長じて、20代の前半から別火講中に入り、夏季例大祭の一切を執り行います。
これは、三春でも講中で祭礼を行っているのはこの神社だけです。
別火講中の仕事は、一番組と二番組に、分かれていまして、それぞれ各年交替で、長獅子と呼ばれる、20人ほどが入る獅子舞の奉納と、例大祭祭事全般の執行です。
と以前寄付集めや獅子舞の練習などで一か月間のロングランです。

尚、祭典係りの組は二泊三日の「御籠り」があり、神社を守護します。

私などこの時とばかりに、社殿や宝物殿を、仁王門(隋神門)の中、縁の下まで家探しして廃仏毀釈や明治大正昭和の大戦の痕跡を探し出してみました。
これは、現在の宮司では立場上出来ないことですよね?そこで饅頭屋の私の出番となったわけです・・・・

さらには、境内の地面に埋没していた石碑や石仏なども5,6点ほど発掘してみました。
これらは、すべて真言宗や修験の名残りの貴重な遺物です。




三春昭進堂 髙橋龍一






| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語686番「三春城下新町鎮守田村大元神社祭礼」





本日は、旧三春藩領内総鎮守大元帥明王、今は新町鎮守の田村大元神社の夏季例大祭です。
朝から猛暑の中、神輿や先払いの長獅子、そして奉納三匹獅子が新町町内を練り歩きました。



夕刻になり、当店のある新町縦町に来たところでにわか雨となりました。



わが子も兄弟で参加している三匹獅子もびしょぬれです。
世話人さんの配慮で、我が家の前を兄弟で演じました。



ここまでくればもう一分張り。
夕食を食べて、宮入で終了です。


二十五年前の映像です。
拝殿での神事から、宮立ちで門前町の山中を巡幸しています。




尚、楽人として隣町の郡山市柳橋、柳橋太々神楽保存会の皆様による出雲流神楽を奉納していただいています。

柳橋の太々神楽は、明治28年の正月に田村地方第一の舞楽師であった田村郡瀬川村大倉(現在の田村市船引町)の神主国分大隅守与資によって菅布禰神社の氏子等に伝承され、同年4月13日の菅布禰神社の春の例大祭に奉納されたのがはじまりです。
その後、大正10年に神社境内の東に神楽殿を建立し、氏子の寄付で面・衣装を補充すると共に、牛縊本郷の神主国分三二翁(国分大隅守の甥)に氏子若連が太々神楽の伝承を受けました。
現在は菅布禰神社の春季例大祭(4月中旬)と秋季例大祭(10月中旬)の3日間に奉納されています。

太々神楽の、太々とは、そもそも“太々神楽”は出雲流神楽のひとつ。“太々”とは神楽奉納によって清め祓いをしてもらうことを指し、盛大又は巌の意味を表わすと共に伊勢太神宮の太々神楽の名称に倣つたものであり、元来は神達の遊びの意と言われ、神楽面をつけて舞う大神楽と面をつけないで舞う小神楽からなっており、大神楽は26座、小神楽は12座の演目があります。
願い主(いわゆる一般の善男善女)に代わって神主が祈祷の神楽を奉納することのようです。

中田地区地域つくり資料より






| ryuichi | 18:02 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |
田村大元神社平成の屋根修復・寄進者ご芳名石板設置ご案内


 田村大元神社「平成の大修復」を、塵壷で御案内申し上げたところ、店内臨時受付に於いて沢山のご寄付をお預かりしています。



改めて本神社に対する町民の方々の関心の高さにと共に、様々なご縁や義理と人情の深さ、そして人と人のつながりのありがたさを心に刻んでいます。
おかげさまで竣工際も終わり、ご寄付を戴いた皆様の芳名を刻んだ石板が出来ましたのでご報告申し上げます。



田村大元神社へご参拝の節は、ご自分のお名前をご確認していただくようご案内申し上げます。



 屋根修復実行委員会設立以来10年という長い時間がかかりましたが、おかげさまをもちまして、本年7月始めに、無事屋根修復という大事業を遂行できました。
紙面をお借りしてこころより御礼を申し上げます。
 


役員の名簿


| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語666番「三春城下祭礼御輿掛の盛砂(もりすな)」
三春城下祭礼御輿掛の盛砂(もりすな)



三春城下、新町田村大元神社や荒町八雲神社、そして八幡町八幡神社など祭礼のとき、長獅子舞が奉納される地域での御輿掛と呼ばれる神輿休息所(字委員や神社総代、そして新築の家、または神道の家など)の玄関前にバケツ二配分川砂を四角に盛り砂している光景を見ます。これは御輿掛に神様が入る前に、長獅子が舞い穢れを払うときに踏み散らすもので、由来は、諸説様々ありますが下記の説が考えられます。
呼び名は、盛り砂・立て砂・斎砂など呼ばれていますが、お砂踏み場との関係もあるのかと思います。

基本的な由来としては、清めの砂・そこに厄を集めて封じ込めるという意とされています。
それを踏まえた、由来として、古来よりの言い伝えでは、

儀式や貴人を出迎えるとき、車寄せの左右に高く盛った砂。
立て砂(たてずな)や斎砂(いみすな)と呼ばれます。



神代の昔、円錐形の神山に御祭神が最初に降臨したと伝わることから、上賀茂神社細殿前には白砂が二つの円錐形に盛られ「立て砂」や「盛砂」と呼ばれている。

上加茂神社の「二ノ鳥居」を入ると、細殿の前に一体の「立砂」があります。
上加茂神社の御神体山は神社の本殿北々西、約2㎞に聳える円錐形の秀峰「神山」(コウヤマ)(標高301メートル)で山頂には「降臨石」と称し、その昔、御祭神「加茂別雷神」が降臨せられた巨巖の磐座(イワクラ)があります。
実は「立砂」はこの麗しい「神山」をかたどったもので、一種の神籬(ヒモロギ)(神さまが降臨される憑代)なのです。
今でも鬼門や裏鬼門に砂を撒くのはこの立砂の信仰が起源といわれます。

奈良、平安時代には人々が家の戸口に塩を盛っていたというのです。
これは、塩が牛の好物であったため、前を通りかかった牛がなめにやってくると牛車に乗った高貴な人々も家に立ち寄るようになり、縁起がいいとされていたからです。
貴重で神聖な塩を家や敷地内に盛って置くことで、そのパワーが大地や家、さらにそこに住む人々に宿ると考えられていたのでしょう。

お砂踏み場
全部巡礼するのはたいへんですが、お砂踏み場でも全部回った功徳が頂けるとされる、西国三十三カ所や四国八十八ヶ所の霊場の砂(土)を一カ所で全部踏める場所のことです。

三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一



| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語645番「田村大元神社平成の屋根修復無事完了の御礼」


田村大元神社「平成の大修復」
平成11年以来、字民氏子の懸案であった、旧三春藩郷社太元帥明王(後郷社田村大元神社)と旧仁王門である随神門の屋根吹き替え工事が終了して、先の10月28日に、秋季例大祭と合わせて竣工祭が挙行されました。





私も、屋根吹き替え実行委員の末席に在り、当店発行のチラシ「塵壺」での告知や、友人知人はじめ、当店のお客にもご協力をお願いしたところ、沢山の方々よりご賛同を戴きました。

新町字内氏子はもちろん三春町内外の皆様から戴いた浄財によりまして、平成の修復という大事業が遂行できましたこと、心より御礼を申し上げます。

これも一重に、皆様のおかげと心して、次世代へ引継ぎたいと思います。

 


尚、本事業を未来へつなげるため、賛同いただいた皆様のご芳名を石板に刻み境内に設置したいと思います。

 御礼
 田村大元神社「平成の大修復」を、塵壷で御案内申し上げたところ、店内臨時受付に於いて沢山のご寄付をお預かりしています。
改めて本神社に対する町民の方々の関心の高さにと共に、様々なご縁や義理と人情の深さ、そして人と人のつながりのありがたさを心に刻んでいます。
 屋根修復実行委員会設立以来10年という長い時間がかかりましたが、おかげさまをもちまして、本年7月始めに、無事屋根修復という大事業を遂行できました。
紙面をお借りしてこころより御礼を申し上げます。 
 店主謹白







 田村大元神社は、永正元年(1504年)戦国大名田村義顕が三春入府の際、守山山中(郡山市田村町)の太元帥明王堂を三春城三之丸に移して田村家領内六十六郷の総鎮守としたものです。
以後、江戸期入府の秋田家にも引き継がれ、真照寺住職を別当職とし、藩内に明王奉行職も設置して、三春秋田家の庇護の下で、三春藩内総鎮守大元帥明王として五万石領民より崇拝を集めました。



明治初頭の神仏分離の後、祭神を国常立之命として明治三年大志太山神社(三春城のある山の名前)、同十二年田村大元神社と改称されました。
新町字内では、地域住民が氏子として神社総代・別火講中・秋葉講中を組織して、当神社の維持管理、そして春季、夏季、秋季等の各礼祭礼を連綿と斎行してまいりました。



| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 三春総鎮守大元帥明王(田村大元神社)::三春藩領内総鎮守大元帥明王社(田村大元神社) |