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旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」の旧仁王門の彫刻




旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王社」の慶応4年竣工の旧仁王門の彫刻






正面には、二柱の龍が勇ましく刻印されています。






仁王様が収まる正面左側には麒麟が狂でお馴染みの「麒麟」が二柱






同じく、右側には唐獅子の二柱、和毬と戯れています。








梁と柱の結合部にある左右には「龍」の姿が・・・左右対称に設えられ口の開閉となれば「阿吽ノ龍」ということでしょうか?

こちらは口が開いているので{阿ノ龍}?





そして{吽ノ龍}



洋風な姿にめて仕方がありません。





田村大元神社随身門(旧三春藩総鎮守大元帥明王社仁王門)の裏右側

「海人/海士(あま)」です。

讃岐国(現在の香川県)志度の浦の海人が、藤原淡海 (不比等)と契って生んだ子(房前)を世に出すため、命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説。


我が子の立身のために死地におもむく、深大な母性愛、女の強さを壮烈に描いた物語が彫られています。

房前が大臣になった後、志度の浦へ行くと、海人が現れ、面向不背の玉を一人の海人が龍神から取り返した次第を物語って海中に姿を消し、房前が追善をすると母の亡霊が龍女の姿で現れ、「法華経」の功徳で成仏したことを示したという伝説にちなんでいます。






同じく門の裏 左側にあるのは、王佐の才をふるい、劉邦を皇帝にした名軍師「張良」の彫刻

中国漢の国の張良が、黄石公の落とした沓をささげて真心を示し、兵法の奥義を授かるという故事の一場面が彫られてあります。

漢の高祖の臣張良が黄石公から兵書を授けられた故事です。
馬に乗った黄石公、張良は沓を持って龍に乗っています。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍






| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
田村大元神社 (旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社) 新型コロナウイルス感染症への対応について



三春城下新町 田村大元神社 (旧三春藩領内総鎮守大元帥明王社)


新型コロナウイルス感染症への対応について
2020.04.13

4月13日、福島県神社庁から県内神社への新型コロナウイルス感染症への対応について

通達がございました。

現在の対応をお知らせ致します。







・ご参拝について

現在は、通常通りお参りが可能ですが、手水舎の柄杓と、正面の鈴緒(鈴を鳴らすための綱)のご使用は当分の間ご遠慮ください。

現在は、ご覧のように上で止めています。



・ご祈祷について


お電話にて事前に予約受付を行っていただき、拝殿の換気、座席の間隔を取るなど対策をした上で通常通り行っておりますが、当方にてご祈祷の上、後程お神札(ふだ)をお引き取り頂く方法もございますのでお申し出ください。

なお、社殿にて昇殿しご祈祷をご希望の方は事前予約の上、マスク着用をお願い致します。








・お神札・お守りについて

現在は、宮司宅にて通常通り各種お守りを授与致しております。



・御朱印について

宮司宅にて受付ていますが、接触を減らすため、当分の間、御朱印帳への直接書くことを中止し置き書きの御朱印のみと致します。







・今後の対応について

今後、行政機関が発表する方針や神社本庁また福島県神社庁等の神社関係団体の通達事項により変更する場合がございます。


新型コロナウイルス終息を祈念申し上げます。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



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鎮守田村大元神社夏季祭礼



三春城下新町の鎮守田村大元神社(旧三春藩五万石領内総鎮守「大元帥明王」)の祭礼を、今週末に控えて、その祭礼に奉納する「長獅子」と「三匹獅子」の練習にも熱がこもってきました。

本年の祭礼は、

7月14日(土) 宵祭り

7月15日(日) 本祭り







梅雨の時期独特の湿った気候、夕方の蜩、楽内のホタル、真照寺下セリ場の旗や大元神社山内の提灯、そして、この三匹獅子や長獅子の太鼓や笛の音を聞こえると「夏が来るんだなあ~」と思います。








300年は続いてきたんであろう、正に初夏の三春城下を彩る風物詩です。







三匹獅子掛では、年長者が後輩に教えるという新町では当たり前の光景ですが、他では中々見られなくなった光景です。

長獅子舞の練習風景です。





田村大元神社の祭礼には、別火講中の一番組と二番組が各年交替で、獅子掛と祭典掛に分かれて奉仕しています.

今年の獅子掛は、一番組が担当します。

祭典掛は、二番組担当となります。






やはり、先輩が後輩に口伝にて教授しています。

私が現役の頃と同じ風景です。




自分の子供のような年代の者たちが主力となり、この伝統芸能である長獅子舞や三匹獅子舞を引率している光景は力強いものを感じます。




戦国時代、田村義顕公によって三春城が築城されて約500年

以来、三春城下の神事は今も変わらずに受け継がれてきました。

古の三春城下では、夏は疫病がはやり台風や洪水などに見舞われ、生き抜くことが難しい季節でした。

私たちの先祖は、この危険な夏を無事に生き抜くことが出来ますようにと夏に祭礼を行い神さまにに祈りを捧げてきました。

医学科学が進歩した現代にあってもその信仰は変わらず、祭礼に際し疫病・災難・厄除け・縁結び・長寿・商売繁盛そして豊穣などの祈りを神様に捧げています。







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| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
田村大元神社の仁王尊二像(旧三春藩領内総鎮守の大元帥明王社の仁王様)



田村大元神社の仁王尊二像(旧三春藩領内総鎮守の大元帥明王社の仁王様)

江戸期、秋田藩政下では大元帥明王社・三春藩領内総鎮守として三春五万石の領民の崇敬を受けてきました。
しかし、明治維新の神仏離反や廃仏毀釈から影響で、久しい間旧三春藩主祈願所だった真照寺の仁王さまで通っていた「仁王尊二像」は、戦後に田村大元神社の随身門とされていた「仁王門」に戻りました。



金剛像 「あ」

明治維新により、神仏混淆(しんぶつこんこう)が禁止されていたため、廃棄の憂き目を見た仁王さまが、真照寺に拾われて仮の宿を借りていたということになるんでしょうか。



那羅延金剛像 「うん」


大東亜戦争終戦後は、信仰の自由解放となり、神仏混淆の禁も解けたので、三春城下の新町の氏子信徒の熱望と、文化財保護の施策とが実を結んで、昭和三十六年に真照寺より氏子に担がれて、この仁王尊二像の「仁王門」への約百年ぶりの帰還となりました。

当時の三春町民、そして三春町長以下町職員の方々の文化・知識レベルのの高さ、そして所謂ところの民度の高さがうかがえます。





さて、この仁王尊二像ですが、大元神社は、寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
後に、本殿拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工で、その時は仁王像はこの門に安置されていました。

尚、大元帥明王社として建造された仏教色の強い本殿、拝殿は上記の明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の影響により、明治二年に取り壊されます。
現在の社殿は大元神社として明治32年に再建されたものです。

仁王像の作者は、伊東光運、伊東九賀之助と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。

光運の監督で、官吉が彫ったのかもしれません。用材は常葉産の広葉樹。

光運は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や大元神社神門梁彫刻等の作品が残っています。




この仁王様は、東大寺仁王尊二像の象徴されるような筋肉隆々で胸を反らし威を張るような姿ではなく、体のラインが全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢をとっています。

まるで参道上がってきた参拝者に、「悪いことはしてはいねがー!」と子供を”諭している”ようにも見えます。

三春藩主秋田氏の出身が青森、そして秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」や「なまはげ」を想像したくなりますね。





また、仁王像の下絵は三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられている。









仁王二尊は、金剛力士とも云い、仏法の守護神とされています。

左には金剛、右には那羅延金剛で、ともに裸体で腰に布をまとい勇猛な相をしている。

左は口を開き、右は閉じていて、「あ」「うん」の対をなしています。


この「阿(あ)」「吽(ん)」は、「阿吽の呼吸」などと普段から使われている阿吽です。

仏教的な、意味で説明すれば、

人は生まれたときに「あ」と口を開いて生まれるといいます。

赤ちゃんがすぐに泣きなしますよね・・・

これは、亡くなれば「天上界」、いわゆる”天国”というあの世に往くとされています。

天国は、楽園であり、大変心地よい素晴らしい世界とされ、そので楽しく暮らしていましたが、ある時、第六天の魔王によって、修業の場である「この世」に、”あ”っという間に”産み落とされる”からだと云われています。

そして、亡くなるときには、自分の人生という修業に納得して、再び天上界へ赴くべく「ん」と口を閉じて、満足してあの世に旅立たれるそうです。

つまり、人の始まりと終わりの間の大切さを説いています。





この仁王尊二像が、政治の犠牲となり明治21年からおよそ80年に亘って真照寺の軒下で風雨にさらされていました。

かつては鮮やかであったであろう丹青の色も消え、半ば朽ちた巨体を再び本来おわすべき仁王門に戻って鎮座されました。




平成になって、尼ケ谷の影山組・やわらぎの湯社長の影山様の篤志寄進により、仁王尊二像の修復がなされ現在のお姿となっています。






昭和30年代の広報三春内コラム参照



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
田村大元神社明治30年社殿新築寄附受帳及同社昭和3年屋根銅板葺寄付受帳


田村大元神社明治30年社殿新築寄附受帳及同社昭和3年屋根銅板葺寄付受帳

20年くらい前になりますが、田村大元神社別火講中世話人当時、梅雨時のシトシト雨の降り続くしがない一日、祭典掛の準備のために社殿の方付けをしていました。
拝殿内の倉庫を方付けていたところ、天井板がずれているのに気が付きました。




直そうと、恐るおそる上がってて天井裏を見渡しますと、古い風呂敷包が出てまいりました。
ほこりを払いながら中を見てみますと古い帳面の束になって入っていました。




表紙を見ると、明治30年の田村大元神社社殿新築の時の寄付受帳約100冊と、昭和三年の屋根替え改築の寄付受け帳20冊でした。


当時はまだ、軍事色が強く戦意高揚としての神道が健在な時代でしたので、旧三春藩領六十六郷の村々からの寄付徴収でした。




県知事からの寄付集め許可証が添付され、神社檀信徒総代の発揮人名簿、賛同者名簿には三春町の時の名士の方々が名を連ね、三春領六十六郷にある各村長の方々の名前も明記されています。




筆頭は、三春藩秋田家当主秋田重季公です。




三春昭進堂 菓匠蒼龍






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三春物語833番田村大元神社~三春昭進堂髙橋家寄進録


晩秋の旧三春領内総鎮守「大元帥明王社」の田村大元神社です。

銀杏が良い雰囲気を醸し出してくれています。





本殿から望む、拝殿、熊野神社、神楽殿、宝物殿、そして仁王門です。

私はこの角度から見る境内が大好きです。



社務所側から望む、仁王門です。
拝殿と神楽殿、宝物殿を望みます。



その境内にある、明治32年の拝殿再建時の寄付芳名録石版です。

よく見ると、中郷村の項目に、当三春昭進堂・髙橋家の本家である、込木柳作の髙橋家当主市三郎の名前が見えます。

尚、文献が乏しく、口伝の域を脱しませんが、三春昭進堂当家の祖先である三春在込木の柳作髙橋氏は、戦国期の三春田村氏の組下で、柳作を知行、舘・屋敷を構えます。

後に、伊達派と相馬派の内紛の時には伊達派に組し、太閤秀吉の奥州仕置きにて、田村氏の改易されると、この知行地にて名主・村司として帰農します。




当時、須賀川城主二階堂氏の家臣にも、髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が記録されていますが、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の旗下である柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、合算・与力したのではないかと考えています。



戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の徳川幕府による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。

武士が支配階級として身分的にも分化し、農・漁民や町人が支配される側に明確にされたのは、豊臣・徳川政権の確立による農兵分離が全国的に波及してからの事です。
もちろん、武家社会は、平家や源氏に始まり、鎌倉幕府成立後にその地位を確立していきますが、生産力も充分でないなかで常備軍団を組織的に養うことは困難でした。

そのため、当時の常識として武士は、戦時以外は所領にて帰農し、地域の豪族として存在します。

これは、戦国時代だけでなく、それ以前にも放浪した農民や商人が地方豪族となったり、地域豪族の利権・境界争いに農民も武士として盛んに動員されています。
当時は、全ての領民が戦闘員だったといえます。
そして、その生活基盤となる所領を守るために一族郎党が、分家制度を取り隣接する他の豪族にも組して細分化してゆき、所領と一族の安全を確保していったと考えられます




三春昭進堂髙橋の場所は、当時は、本家の所有でした。
この後に、市三郎の弟で当家初代の民四朗が、正式の分家をして、妻おたりを娶って商いを始めました。



中郷の名士、お歴々の方々の名前が見えます。



こちらは、三春町の当時の名士の方々の芳名です。
渡辺平八はじめ、川又彦十郎、大越巳木蔵、内藤傳之助、橋元柳平等時の名士のお名前が並びます。



こちらは、昭和3年の本殿、拝殿、仁王門の茅葺から銅板葺きへの屋根替えの時の寄付芳名石版です。



当家初代、髙橋民四朗の名前が見えます。



まだ三春昭進堂の屋号をついておらず、民さん家としておたりさんがせっせと商売に精を出していたんでしょうね。



先々代当主髙橋傳造の名前も拝殿の木番にあります。



そして、八幡宮、熊野宮の屋根替えの寄付者芳名版には、先代の髙橋民夫の名前もしっかりまります。



そして、先の「平成の大修復・屋根替え」での寄付芳名石版です。



私の名前が記載されています。



さらには、当時寄付をお願いした友人の方々のお名前も見えます。



渡辺弥七さん、そして娘の杏里、あずささん、中町の桑原親分・・・・



新野秋徳さまや渡辺日向さま、新野恭朗さま等、様々な方々にご協力を頂きました。



吉村管工さんや、伊藤肉店様、渡辺床屋さま、等々・・・



本当にありがたいことです。

石版という半永久のツールに、一緒に名前がある。
この後、何十年後、もしくは百年後、いやいやもっと後の方々が見たときに何を感じてくれるのか・・・
今から楽しみです!



晩秋の一時、そんな感傷に浸ってみました。

この田村大元神社には、子供のころから祭礼や遊びなどで訪れている場所です。
自宅から徒歩5分です。

子供の頃は、何とこの狭い境内でソフトボールをしていました。
燈籠にボールが当たりイレギラー!屋根に当ればホームラン等々・・・
また、祭礼では、何となく決まりがあり、私の町内(3つの町内で構成)のものだけが祭礼のメインに参加できる仕組みとなっていまして、小学校の低学年での、錦旗・神号旗・五色旗持ち、楽人の太鼓持ち~から始まり、
高学年になり、三匹獅子やササラ(夏祭りですので蛙の鳴き声役)に参加できました。
もちろん、夏休みに十分使えるくらいの、お小遣いがもらえました。

長じて、20代の前半から別火講中に入り、夏季例大祭の一切を執り行います。
これは、三春でも講中で祭礼を行っているのはこの神社だけです。
別火講中の仕事は、一番組と二番組に、分かれていまして、それぞれ各年交替で、長獅子と呼ばれる、20人ほどが入る獅子舞の奉納と、例大祭祭事全般の執行です。
と以前寄付集めや獅子舞の練習などで一か月間のロングランです。

尚、祭典係りの組は二泊三日の「御籠り」があり、神社を守護します。

私などこの時とばかりに、社殿や宝物殿を、仁王門(隋神門)の中、縁の下まで家探しして廃仏毀釈や明治大正昭和の大戦の痕跡を探し出してみました。
これは、現在の宮司では立場上出来ないことですよね?そこで饅頭屋の私の出番となったわけです・・・・

さらには、境内の地面に埋没していた石碑や石仏なども5,6点ほど発掘してみました。
これらは、すべて真言宗や修験の名残りの貴重な遺物です。




三春昭進堂 髙橋龍一






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三春物語686番「三春城下新町鎮守田村大元神社祭礼」





本日は、旧三春藩領内総鎮守大元帥明王、今は新町鎮守の田村大元神社の夏季例大祭です。
朝から猛暑の中、神輿や先払いの長獅子、そして奉納三匹獅子が新町町内を練り歩きました。



夕刻になり、当店のある新町縦町に来たところでにわか雨となりました。



わが子も兄弟で参加している三匹獅子もびしょぬれです。
世話人さんの配慮で、我が家の前を兄弟で演じました。



ここまでくればもう一分張り。
夕食を食べて、宮入で終了です。


二十五年前の映像です。
拝殿での神事から、宮立ちで門前町の山中を巡幸しています。




尚、楽人として隣町の郡山市柳橋、柳橋太々神楽保存会の皆様による出雲流神楽を奉納していただいています。

柳橋の太々神楽は、明治28年の正月に田村地方第一の舞楽師であった田村郡瀬川村大倉(現在の田村市船引町)の神主国分大隅守与資によって菅布禰神社の氏子等に伝承され、同年4月13日の菅布禰神社の春の例大祭に奉納されたのがはじまりです。
その後、大正10年に神社境内の東に神楽殿を建立し、氏子の寄付で面・衣装を補充すると共に、牛縊本郷の神主国分三二翁(国分大隅守の甥)に氏子若連が太々神楽の伝承を受けました。
現在は菅布禰神社の春季例大祭(4月中旬)と秋季例大祭(10月中旬)の3日間に奉納されています。

太々神楽の、太々とは、そもそも“太々神楽”は出雲流神楽のひとつ。“太々”とは神楽奉納によって清め祓いをしてもらうことを指し、盛大又は巌の意味を表わすと共に伊勢太神宮の太々神楽の名称に倣つたものであり、元来は神達の遊びの意と言われ、神楽面をつけて舞う大神楽と面をつけないで舞う小神楽からなっており、大神楽は26座、小神楽は12座の演目があります。
願い主(いわゆる一般の善男善女)に代わって神主が祈祷の神楽を奉納することのようです。

中田地区地域つくり資料より






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