CALENDAR
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31       
<<  2024 - 03  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




田村大元神社平成の屋根修復・寄進者ご芳名石板設置ご案内


 田村大元神社「平成の大修復」を、塵壷で御案内申し上げたところ、店内臨時受付に於いて沢山のご寄付をお預かりしています。



改めて本神社に対する町民の方々の関心の高さにと共に、様々なご縁や義理と人情の深さ、そして人と人のつながりのありがたさを心に刻んでいます。
おかげさまで竣工際も終わり、ご寄付を戴いた皆様の芳名を刻んだ石板が出来ましたのでご報告申し上げます。



田村大元神社へご参拝の節は、ご自分のお名前をご確認していただくようご案内申し上げます。



 屋根修復実行委員会設立以来10年という長い時間がかかりましたが、おかげさまをもちまして、本年7月始めに、無事屋根修復という大事業を遂行できました。
紙面をお借りしてこころより御礼を申し上げます。
 


役員の名簿


| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語666番「三春城下祭礼御輿掛の盛砂(もりすな)」
三春城下祭礼御輿掛の盛砂(もりすな)



三春城下、新町田村大元神社や荒町八雲神社、そして八幡町八幡神社など祭礼のとき、長獅子舞が奉納される地域での御輿掛と呼ばれる神輿休息所(字委員や神社総代、そして新築の家、または神道の家など)の玄関前にバケツ二配分川砂を四角に盛り砂している光景を見ます。これは御輿掛に神様が入る前に、長獅子が舞い穢れを払うときに踏み散らすもので、由来は、諸説様々ありますが下記の説が考えられます。
呼び名は、盛り砂・立て砂・斎砂など呼ばれていますが、お砂踏み場との関係もあるのかと思います。

基本的な由来としては、清めの砂・そこに厄を集めて封じ込めるという意とされています。
それを踏まえた、由来として、古来よりの言い伝えでは、

儀式や貴人を出迎えるとき、車寄せの左右に高く盛った砂。
立て砂(たてずな)や斎砂(いみすな)と呼ばれます。



神代の昔、円錐形の神山に御祭神が最初に降臨したと伝わることから、上賀茂神社細殿前には白砂が二つの円錐形に盛られ「立て砂」や「盛砂」と呼ばれている。

上加茂神社の「二ノ鳥居」を入ると、細殿の前に一体の「立砂」があります。
上加茂神社の御神体山は神社の本殿北々西、約2㎞に聳える円錐形の秀峰「神山」(コウヤマ)(標高301メートル)で山頂には「降臨石」と称し、その昔、御祭神「加茂別雷神」が降臨せられた巨巖の磐座(イワクラ)があります。
実は「立砂」はこの麗しい「神山」をかたどったもので、一種の神籬(ヒモロギ)(神さまが降臨される憑代)なのです。
今でも鬼門や裏鬼門に砂を撒くのはこの立砂の信仰が起源といわれます。

奈良、平安時代には人々が家の戸口に塩を盛っていたというのです。
これは、塩が牛の好物であったため、前を通りかかった牛がなめにやってくると牛車に乗った高貴な人々も家に立ち寄るようになり、縁起がいいとされていたからです。
貴重で神聖な塩を家や敷地内に盛って置くことで、そのパワーが大地や家、さらにそこに住む人々に宿ると考えられていたのでしょう。

お砂踏み場
全部巡礼するのはたいへんですが、お砂踏み場でも全部回った功徳が頂けるとされる、西国三十三カ所や四国八十八ヶ所の霊場の砂(土)を一カ所で全部踏める場所のことです。

三春昭進堂代表 菓匠髙橋龍一



| ryuichi | 04:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語645番「田村大元神社平成の屋根修復無事完了の御礼」


田村大元神社「平成の大修復」
平成11年以来、字民氏子の懸案であった、旧三春藩郷社太元帥明王(後郷社田村大元神社)と旧仁王門である随神門の屋根吹き替え工事が終了して、先の10月28日に、秋季例大祭と合わせて竣工祭が挙行されました。





私も、屋根吹き替え実行委員の末席に在り、当店発行のチラシ「塵壺」での告知や、友人知人はじめ、当店のお客にもご協力をお願いしたところ、沢山の方々よりご賛同を戴きました。

新町字内氏子はもちろん三春町内外の皆様から戴いた浄財によりまして、平成の修復という大事業が遂行できましたこと、心より御礼を申し上げます。

これも一重に、皆様のおかげと心して、次世代へ引継ぎたいと思います。

 


尚、本事業を未来へつなげるため、賛同いただいた皆様のご芳名を石板に刻み境内に設置したいと思います。

 御礼
 田村大元神社「平成の大修復」を、塵壷で御案内申し上げたところ、店内臨時受付に於いて沢山のご寄付をお預かりしています。
改めて本神社に対する町民の方々の関心の高さにと共に、様々なご縁や義理と人情の深さ、そして人と人のつながりのありがたさを心に刻んでいます。
 屋根修復実行委員会設立以来10年という長い時間がかかりましたが、おかげさまをもちまして、本年7月始めに、無事屋根修復という大事業を遂行できました。
紙面をお借りしてこころより御礼を申し上げます。 
 店主謹白







 田村大元神社は、永正元年(1504年)戦国大名田村義顕が三春入府の際、守山山中(郡山市田村町)の太元帥明王堂を三春城三之丸に移して田村家領内六十六郷の総鎮守としたものです。
以後、江戸期入府の秋田家にも引き継がれ、真照寺住職を別当職とし、藩内に明王奉行職も設置して、三春秋田家の庇護の下で、三春藩内総鎮守大元帥明王として五万石領民より崇拝を集めました。



明治初頭の神仏分離の後、祭神を国常立之命として明治三年大志太山神社(三春城のある山の名前)、同十二年田村大元神社と改称されました。
新町字内では、地域住民が氏子として神社総代・別火講中・秋葉講中を組織して、当神社の維持管理、そして春季、夏季、秋季等の各礼祭礼を連綿と斎行してまいりました。



| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語601番「田村大元神社祭神国常立命」


国之常立神(くにのとこたちのかみ)

旧三春郷総鎮守「大元帥明王」の明治維新・神仏離反・廃仏毀釈後の新町鎮守田村大元神社の祭神としています。



国土が形成されつつあるときに生まれた神である。「国」は天に対する地の意味であり、また「常」は、底と同じ意味で、この神と機能的に対応する神として天之常立神(アメノトコタチノカミ)がいる。
国之常立神は、宇宙が誕生し、国土がまだ混沌としてどろどろの状態のときに登場し、泥土を凝集させて生命力(神霊)が宿る大地を形成したとされる。
日常的にはあまり馴染みのない部類に属する神であるが、神のランクとしては、万物の生命活動の源泉に位置し、日本の神々の最高位のグループに含まれる。



古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と記されている。
神名の意味は、クニを美称、トコタチを大地(土台)が出現する意とする説と、トコタチを永久に立ち続ける意として、国土の永遠の安定を祝福する意が込められた神名とする説などがある。
「国(くに)」を美称、「常立(とこたち)」を大地(土台)が出現することを表すとする説と、「国(くに)」は国土、「常立(とこたち)」を永久に立ち続けることを表すとする説がある。
国土が永久に存在することを表すようである

『古事記』では五柱の「別天津神」が出現した後で国之常立神が出現したとされていが、『日本書紀』では『古事記』とは異なり、冒頭で始めに登場した神として記されている。この『記紀』の違いは、『古事記』が高天原に神々が出現したことから世界が始まるのに対して、『日本書紀』は国土出現に重点を置いている違いによってあらわれたものと思われる。なお、『日本書紀』の一書では国底立尊と同神とされている。

概念の神の部類に属する神ですが、その役割は偉大にして絶大。
宇宙が誕生し、地球が生まれ、地上が混沌として形を成していなかった時に登場し
どろどろの大地を固めて今の姿にしたといわれています。

そうした役割からも神の最高ランクに位置する神であり、
古来から現在に至るまで人気がありました。

伊勢神道では宇宙の根源神とされています。

大本教では根本神である「うしとら金神」が国祖の神=クニノトコタチ神とされている。
悪神はびこるこの世に、時節の到来と共に現れ、理想の神政をもたらすといわれています。

吉田神道では、大元尊神(天地に先立ち、初めも終わりも無く、陰陽もこえ宇宙の全てに現る)
としてクニノトコタチ神を位置づけています。


大きな地図で見る

| ryuichi | 04:40 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語526番「三春郷総鎮守大元帥明王 平成の大修復」


三春秋田家三春郷総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)の屋根に銅板が葺かれました。



春の日差しに、黄金に輝いています。



平成の大修復実行委員一人として、足場をつたい最上部へ上がってみました。



今回は、大林組の施工になります。
個人的には、地元新町や三春の業者の名前がないのを残念に思います。








ここ2,3日の暖かさで桜のつぼみもふくらみ、もうすぐ開花が始まりそうです。

本年の春は、工事のため一般参拝と観桜花見を遠慮していただいていますが、屋根の上から神社を眺めるというのはなかなか出来ることではありません。
小中学校や各種団体等、まとまった単位で申し込みいただければ、ご案内いたします。





| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語458番「田村大元神社 平成の大修復 三春藩領内総鎮守大元帥明王堂」




旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王堂」の平成の屋根修復工事
三春城下新町鎮守田村大元神社の屋へ吹き替えの様子です。



約十年に及ぶ屋根修復に伴う募金活動末、今年1月20日より工事着工の運びとなりました。
完成は、今夏7月祭礼前を予定しています。



明治三十三年建立の拝殿と慶応元年の仁王門(現随身門)が、昭和3年に茅葺から銅版葺きに改装されて以来、役80年ぶりの修復です。



三春藩の領内総鎮守であった明王堂が、明治初期の廃仏毀釈によって大志田山神社に改められ、その後「田村大元神社」の改称して現在、三春城下新町の鎮守様として鎮座しています。



鎌倉以来、田村地方の旗頭田村庄司家は、南北朝動乱に終止南朝方に組して宇津峰城に敗れ、関東公方率いる関東十州の大軍の攻撃を受けて没落します。
代わって田村地方の旗頭に就いたのが三春田村氏です。
是を境に関東府と北朝方の白河結城氏の田村庄に対する配慮は厚く、旗頭交代を示す総鎮守の遷宮は欠かせないものであったと考えられ、田村義顕三春入部以前に明王堂が建立されて可能性もあります。




総鎮守時代最後の遺構は仁王門で、幕末の慶応三年に竣工されています。
拝殿や本殿は、明治維新の際に発令された「廃仏毀釈」「神仏分離」にあたって取り壊され、現社殿は明治三十三年に、旧明王堂の彫刻の一部を用いて郷社格神社として建立されました。



一方仁王門は名称を隋神門と改称され建物は残りましたが、仁王像は真照寺に納められます。
隋神門に戻されたのは、太平洋戦後の昭和三十六年です。
実に93年もの間真照寺の回廊に置かれました。



| ryuichi | 05:52 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |
三春物語421番「明王さまの子育て銀杏」
境内には、「子育て銀杏」と呼ばれる樹高30mの大イチョウがあります。
このイチョウには、昔、母乳が出ない女性がこの木の皮を煎じて飲んだところ、乳の出が良くなったという言い伝えがあり、子授けのご利益があるといわれ、昔は子宝を願って大イチョウを抱く女性の姿も見られたそうです。



| ryuichi | 06:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社)::大元帥明王社(田村大元神社) |