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「私の体験秘録」厚木事件始末記 佐藤六郎 旧日本海軍大佐 




「私の体験秘録」 厚木事件始末記  旧日本海軍大佐  佐藤六郎 
              
          
三春昭進堂主人 髙橋龍一

1.はじめに

先日、カネサン書店渡辺康人社長から、母方の叔父である旧日本海軍大佐佐藤六郎(海軍機関学校 第三十一期生 現田村市芦沢出身)氏の戦時中の事柄を昭和50年代にまとめようと認められた文書の資料をお預かりいたしました。

大きな紙の袋に収められた多くの書類封筒を取り出す康人さんの手には「厚木事件」と記された封筒があります。

胸の高鳴りを抑えながら、おもむろにその封筒から中に入っている書類を取り出しますと「厚木事件」と記された紐綴じの黒いバインダーやその当時の事柄を記した資料がたくさん入っています。

それからは時間を忘れて夜更けまでその資料の分類や読み込み、資料照合等々・・


厚木航空隊事件

昭和20年8月30日。日本を占領統治する連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥が無事に厚木に降り立ちます。

この時、一発でも銃声が響いていたならば米軍の無血進駐は武力進駐へと一変し、戦後の日本の自由と繁栄はありえなかったでしょう。

その陰でこれからの日本の将来を憂い天皇制存続という国体維持のために命を懸けて働いた佐藤六郎海軍大佐や大安組安藤明社長など男たちの物語がありました。

この終戦直後の混乱期に起きた厚木航空隊の反乱、後に云う「厚木事件」の中で長年にわたり疑問?としてモヤモヤしていた事柄がクリアーになった感じです!

・小園司令の捕縛入院の真相
・小園司令徹底抗戦の真意
・破損戦闘機を飛行場へ投棄した犯人は?
・大安組安藤明氏の「天皇制護持」
・大安クラブの功罪
・佐藤六郎大佐へ厚木鎮圧の下名者は?
・佐藤六郎大佐と他の航空隊指揮官とのやり取りは?
・マッカーサー元帥の厚木進駐の真意は?
・マッカーサー襲撃の回避
等々・・・・


※海軍厚木基地の所在地は、神奈川県の厚木市にあるわけではなく、同じ神奈川でも綾瀬市と大和市の一部を含む約500haに及ぶ広大な敷地にあり、昭和16年に運用開始され終戦時には厚木海軍航空隊、相模野海軍航空隊(航空機の整備兵教育を担当する部隊)そして、高座海軍工廠(航空機の機体製造を行う工場)が設置され帝都防衛の主要基地となっていました。








2.「厚木事件始末記」


当該資料からの引用も含めた私の所見をまとめてみました。

後に「厚木航空隊反乱事件」「厚木事件」とよばれると厚木基地占拠は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏が決定され、玉音放送という終戦直後の混乱期に、GHQ総司令官マッカーサー元帥が進駐軍の先遣隊として厚木飛行場に降り立つ事を知った海軍将校の一部が、天皇制護持、天皇の戦争責任回避を求めて徹底抗戦を提唱し、武装解除して破壊した戦闘機の残骸で滑走路を封鎖し、米軍を迎え撃とうとしていた事件でした。

佐藤六郎海軍大佐は、有末精三陸軍中将が委員長、鎌田陸軍中将を副委員長とする厚木終戦連絡会より、小園大佐と同期で旧知の間柄ということで特命派遣委員に任命されます。

厚木航空隊の反乱決起鎮圧の協力要請を、厚木空中立派はもちろん他の日本陸・海軍の各部隊、警視庁、消防、行政など公の組織に求めますが、どこも動く気配はありません。

結局、佐藤大佐は、決死の覚悟で海軍の出入り業者であった大安組社長安藤明氏を伴って立った二人で、海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐以下の反乱軍が占拠した厚木基地の航空隊本部に乗り込みます。

佐藤大佐の手記によれば、当時、小園司令は徹底応戦派の幹部数名とともに野比海軍病院(精神病院・精神科病棟・現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センターか?)にて身柄拘束されて不在だったことが記されています。

そして、小園司令なき反乱部隊は、佐藤大佐らの説得が功を奏し武装蜂起を解除しつつあり、安藤氏は全国から仲間を集め、GHQ進駐妨害のために飛行場他基地内にバラまかれた戦闘機・爆撃機の残骸処理後に飛行場を整地してマッカーサー元帥率いるGHQ先遣隊(チャールズ・テンチ大佐指揮)の厚木進駐に間に合わせています。

今回拝見させていただいた資料は、海空会 日本海軍航空外史刊行会・編 昭和58年発行の「海空時報」別冊に寄稿された「私の体験秘録」(佐藤六郎・海軍機関学校 三一期)
及び 「戦後三十五年厚木事件を回想す」(佐藤六郎・三一期)「鎮魂と苦心の記録」海軍機関学校 海軍兵学校舞鶴分校 同窓会世話人 昭和56年7月発行の資料となります。

尚、資料の中には「厚木事件関係者の電話回答」昭和56年8月発行も含まれています。



佐藤六郎大佐の手記の中で、厚木事件の真相を公開する真意として小園氏と安藤氏に言及するに及んで、次のように述べています。

当時、何と云おうとも、小園大佐が悪く聞える事(悪く云われること)が我慢出来ませんでした。

私(佐藤大佐)と彼(小園大佐)との交友は同期生以上のもので、最後に厚木で逢えなかった事が誠に残念でした。

※ 別の本の序文には、厚木にて小園大佐説得の命令を受けた際に“万が一の時は、小園と刺し違いで死ね”の意を瞬間に感じとったと記されています。

また、大安組・大安クラブ代表の安藤明親分に対しては、晩年、零落しての最後が非常に憐れだったので、その偉大なる功を称えるために、その葬儀の席で弔詞を読み、厚木事件での彼の功績を公表したと記されていました。









3.厚木基地飛行場の現状回復と修復

天皇の戦争責任追及を回避し、国体護持を達成する為には、なんとしてもマッカーサー元帥の厚木進駐を成し遂げなくてはならない。

厚木基地には、当時は隣接する第一相模野飛行場や第二相模野飛行場もあり、現在の厚木基地の広さは後楽園球場約108個分とされていますが、当時の規模はもっと大きく、その広大な飛行場の滑走路や格納庫など基地の内部には破壊された零戦や雷電、彗星、彩雲、月光、銀河などの戦闘機や爆撃機など破壊された300機以上の機体の残骸が散乱し、人力での排除はさぞ困難であったろうと思います。

しかも広大な敷地の中に、徹底抗戦派の一部の兵士が潜んでいるかも知れず、護衛の戦闘部隊もなく、いつ攻撃されるか分からない緊迫した状況でしたが、佐藤大佐は、「これからの日本を支える者同士だ!日本人同士が撃ち合ってどうする!」「話せば解る!」と言って民間人である大安組の社員には武器の携帯を許しませんでした。

この様な状況の中で、命の危険を冒して滑走路の整備を請け負った大安組の社員は、貨物自動車やトラクター等約20両を使用して、250名程人員で戦闘機や爆撃機の残骸を厚木空格納庫の裏手にあった谷に投棄して埋め立てして飛行場を回復する作業を文字通り三日三晩不眠不休で通し続けました。

そして連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥率いる先遣隊到着の前日、8月27日午前8時、全ての飛行機が片づけられ、滑走路は使用可能となって到着時間ぎりぎりで受け入れ準備が完了して日本の危機は回避されました。

尚、この埋設した戦闘機の残骸は、一年後くらいに神奈川県庁からの命令で佐藤大佐(除隊後)が一時的に設立した会社「佐藤組」によって撤去されます。








4.連合国軍総司令部(GHQ)総司令官マッカーサー元帥厚木到着

厚木航空隊基地にマッカーサー元帥の乗るダグラスC-54B元帥専用機「バターン号」及び米軍の先遣部隊の十五機が飛来、先に着陸した先遣隊12~3機に乗務していた護衛の米軍海兵隊員は直ちに飛行場周辺に展開し日本軍の「ダマシ」打ちを警戒して、銃を身構えマッカーサー元帥の乗るバターン号の着陸を援護・護衛していました。

また、沖縄及び日本近海に米空母を中心とする攻撃部隊を待機させ護衛の空母艦載機数十機を攻撃態勢にて上空援護させて有事に備えていたようです。








私(佐藤大佐)は、之を望遠鏡で見て驚き、終戦連絡委員会の有末陸軍中将委員長に申し上げ、米軍の護衛隊指揮官を抑えるため交渉役を引き受けました。

「マッカーサー元師が来ていると思われたので、誰も通訳がいなかったが、文部省代表田中館秀三東北大教授(後東京大学教授)が引き受けてくれました。

私は白旗を自動車の窓から出して、田中館秀三東北大教授を伴って飛行場を横切り十五機の中央に向って突進しました。

そのときの気持は何とも云いません。

それを思うと「屈辱」「無念」「緊張」今でも悔しくて眠られなくなります。


と当時の心境が認められていました。






 
5.安藤組・大安クラブ代表 安藤明氏

安藤明氏は、この時の請負賃を元手に築地に「大安クラブ」を作り、会社の莫大な金を投資し、GHQの高級将校を連日のように接待し、天皇制護持を訴え、日本6分割案に反対していたと伝わっています。

 その後、大安組は最盛期には日本全国に十数か所の支店,従業員16万人をかかえる大会社となりますが、安藤明氏は後にGHQの高官を懐柔したとして逮捕され、住む家を追われます。

厚木基地の飛行場原状回復・破損戦闘機残骸廃棄物処理から大安クラブをもってGHQの将校を接待して「天皇制護持」「天皇戦犯論撤回」そして「日本列島分割(日本6分割案)回避」を働きかけ、ついには実現にこぎつけましたが、終戦直後の混乱期から戦後へと移行する昭和46年6月贈賄容疑でGHQに逮捕されました。

昭和35年8月15日の終戦記念日の日に、不遇な晩年を過ごし赤貧の中で60歳の生涯を閉じます。

これを哀れんだ佐藤氏は、昭和38年、青山斎場で行われた安藤明氏の葬儀で弔辞を拝読して初めて戦後期における安藤氏の人知れぬ功績を披瀝しました。








豊橋航空隊司令時代




近年、情報公開及び当該関係者の死去等により戦前から終戦という昭和の混乱期の解明が進み先にも厚木事件を取り上げたNHKの特別番組がありましたが、安藤氏は、正に時代に翻弄された人生だったのではないかと思います。

今日の日本は、戦後のドイツのように東西に分割されず、天皇陛下の元で一つの国として生きることが出来ました。

これも、佐藤六郎氏と安藤明氏のお陰であると日本人として忘れてはならない事柄だと思います。









6.海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐

一方、小園大佐は、1937年、支那事変(日中戦争)から、1941年(昭和16年)10月台湾の台南基地に新設された台南航空隊の副長兼飛行長に着任。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦後、台南空は戦線の南下に伴ってフィリピン、インドネシアを経てラバウルへ進出後、東部ニューギニア及びソロモン諸島に展開する米豪軍と戦った歴戦の司令官です。


 小園氏が司令長官を務めた海軍三〇二航空厚木航空隊というのは、本土防衛にあたって帝都上空を守る小園司令官の下に、総員5500名、稼働機170機、予備機300機、2年分の食料弾薬を備蓄しており、東日本最大最強の帝都上空防衛航空部隊です。


「厚木事件」は、玉音放送前夜に陸軍将校によるクーデター未遂となった「宮城事件」と共に、天皇の戦争責任追及回避、そして「天皇制護持」が確約されていないポツダム宣言受諾に反対して抗議のための決起で、天皇の命が脅かされる危険がある無条件降伏は、到底受け入れられることはできなかったのでしょう。


佐藤大佐はじめ、厚木鎮圧後に「抗命罪」で逮捕された小園大佐の「天皇制護持」の思いに基づく徹底抗戦の行動には、海軍や陸軍の内部にも共感される関係者はあったであろうと想像がつきます。


1946年11月大赦令により無期禁錮から禁錮二十年に減刑され、1950年9月特別上申により禁錮十年に減刑、12月熊本刑務所を仮釈放され、拘束から7年後の1952年、平和条約の発効のとき大赦令によって赦免されます。

釈放後は、故郷の鹿児島に帰り農業を営みながら余生を過ごされていましたが、1960年晩秋の頃に脳溢血で死去されました。享年58歳。







皇紀二千六百年特別観観式(昭和15年) 




7.佐藤六郎さんの記された「私の体験秘録」の一部をご紹介させていただきます。

海軍軍人として奉職25年。その内の20年間は海軍航空部隊で勤務しました。
その中で、特に私は選ばれたと思った事が度々あった。

一、先ず飛行艇で内南洋諸島をかけ巡り海軍の首脳を案内する事、之は私ならやれると自信があった。

二、私は、一度も教官になった事がないのに、最も重大なときにその教育の大改革の断行者に選ばれた。

三、鹿屋(後に豊橋) 部隊の中攻隊を率いて大苦戦のサイパン行きとなるぞと勇んでいた処、やった事もない生産関係に転任し然も大増産をやれと云うのであった。

四、そこで遂に終戦、此の度は愈々最後の転任即ち復員だったが、私は戦後処理なら何でもやりますと、残留を希望していた処何と、「厚木を片つけてマ元帥を迎えよ」と云う、誰でも厭う事を命ぜられた。
然し、「之は小薗を知る、俺が片つける」と自信を持って出発した。

尚本文中、敬称を略し当時の関係上官や部下だった方々の彻名前を無断拝借してありますが御寛容御願致します。

「マスコミ」には転載等を一切御断り致します。







今回の資料を拝読するに、佐藤六郎氏は戦前から終戦までプロの帝国海軍軍人として活躍された司令官であり、その人生を捧げ日本防衛の要として、さらには大戦末期の混乱期の中で最大の危機「厚木事件」を収束された近代日本の幕開けご尽力されたことに対して敬意と感謝を捧げたいと思います。

               
             拝






旧三春士族湊季松宅にて 親戚一同と記念写真



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:31 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
会津若松材木町『鍋三酒造本店』 復刻限定品 銘酒『清瀧』 



会津若松材木町『鍋三酒造本店』 復刻限定品 銘酒『清瀧』 

先日、三春城下大町の老舗「伊賀屋山三渡辺商店」。

現ENEOSヤマサンSSの社長の渡辺正恆さまから、会津若松材木町『鍋三酒造本店』銘酒『清瀧』復刻限定品をいただきました。



ヤマサン社長正恆さんのお母さまは、鍋三本店の分家である桂林寺鍋三星野氏の出身です。



先に、その自邸にある庭園を「可月亭庭園美術館」として一般開放されましたが、これを記念して星野先生が企画デザインされて復刻させたのがこの銘酒『清瀧』です。

このお酒は可月亭庭園美術館売店にて限定販売中です。







同級生のお父さんでもあるヤマサン様から「何かの参考になれば」ということでいただきました。

この時、横山家の一同が会して開催されていた「鍋三会」の記念写真を拝見していますと見覚えのあるお顔が見えます。

以前、会津三島で開催されていた「会津アートカレッジ/パフォーマンスフェスティバル」の事務局で福島大学を一昨年に退官された元教授の星野共様でした。

正恆さんにお話を伺うと鍋三星野の息子さんでこの銘酒『清瀧』の復刻版の企画デザインを手掛けたそうです。

奇遇というか、人のつながりである”ご縁”の深さを感じます。

また、会津若松横山氏の家系一覧や横山氏と会津若松の会津藩の関係を表した本を閲覧させていただきましたが、その著者も親戚である横山秀夫氏ということでした。








可月亭庭園美術館がある場所は、かつて「清瀧酒造」として日本酒を生産する酒蔵でもありました。

この度、庭園の一般公開と美術館の開館を記念して特別記念酒として復刻版「清瀧」を委託生産致しました。





星野家の祖先が約四百年前に、当時家老の下屋敷であった当地に居を構えました。

その時すでにあった庭園を、元禄になって、名庭師小堀遠州の弟子である目黒浄定が修理し現在に至っています。

その後約三百年間、十四代に及ぶ歴代の鍋三本店当主星野氏によって当時のままの状態で保存管理されています。

原型の庭園の作庭年代と作者は不明ですが、御薬園と同じく遠州流の流れをくむ池泉廻遊式の本格的な日本庭園で、中心部に心字の池を配しています。







星野家・鍋三本店の由来  

可月亭庭園美術館パンフレットより引用



星野家は、若松城下材木町に別家するまでの姓は、星姓を名乗り、その先祖は藤原氏よりでた伊勢人伊勢朝熊二万石の藤原内蔵正近光を始祖とています。

時は下って星刑部少輔光政の後裔の星玄蕃より出ると記されています。


葦名家の家臣として東上、鉄砲隊大将として二万石を拝していたとされています。

芦名家滅亡後、致士して南会津郡楢原に居住し、郷頭として代を重ね、会津に移封された蒲生氏郷が、文禄ニ年に黒川城を修復する際に、楢原から若松材木町に居を移して材木商を営むようになったと伝わっています。

その後、江戸時代初期には、鍋職躊物製造や酒造りにも着手していきます。

屋号の鍋三本店は、この代々襲名した鍋職の鍋屋三郎治にちなむものです。

星野家は材木商として財を成し遂げ、その傍ら江戸初期には鍋職鑄物製造に従事し、更に伊勢松坂より杜氏を招き酒造業を営む所となる。

星野喜左衛門光忠の代、寛保元辛酉年に嫡女の婿養子にて鍋職鑄物師を継承し、光忠の男子光博が家督を相続し代を重ね鍋三本店として今日に至る。








元禄年間には会津藩の御国産物として、漆器同様酒造も地場産業として、藩の奨励を受け酒造業として不動の地位を確保する。

一方鍋屋宗七家も鋳物師として活躍会津一円の寺社佛閣の佛像·梵鐘·鰐口·灯籠等の製作に専念し、多数の名作をこの世に出したと傳えられている。

星野宗七家に安永四乙未年鑄物師免許状があり、天明年間には鑄物師頭領として不動の地位を築いた。



横山秀夫著「藩政時代から明治にかけての可月亭」、同じく「系図」横山宗家監修 参照


鍋三本店の別家桂林寺鍋三星野家から三春山三渡邊義久氏へ嫁入りしたのが正恆さんの御母堂様であり、その妹様が安積(郡山市)久一・鹿島屋滝田氏へ嫁でいます。

そして、その滝田氏から、金三カネサン書店さんの御母堂様、そして小島様が出ています。



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| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
「三春郷土人形館」



三春城下大町にある「三春郷土人形館」は、東北地方の郷土玩具を展示する施設として開館しました。

歴史民俗資料館からは徒歩5分ほどのところにあります。

土蔵2棟を利用した館内には、三春張子人形、三春駒、東北地方の土人形・こけしを展示しています。
昭和初期に東北地方各地の伝統的な郷土玩具を収集した「らっこコレクション」を、2棟の土蔵内に収蔵・展示しています。




三春人形をはじめ、堤人形などの土人形や各系統のこけしなど、ふるさとの人形たちがお待ちしています。

蔵そのものも、築130年という古いもので、特に1号館1階の階段箪笥や、襖絵(この地方の画家で鶴の絵を得意とした中村寛亭の手によるもの)と、その裏面の三春藩講所教授であった依田氏による「飲中八仙歌」の書は見ごたえがあります。




 お知らせ!

平成29年4月1日から、平成30年3月31日まで、三春郷土人形館は試験的に無料となります。
 もっとみなさんに、「らっこコレクション」に親しんでもらおうという試みの一つだそうです。

歴史民俗資料館は通常どおり入館料300円となります。






また、今まで発行されていた資料館・人形館の共通券の販売がなくなりますご注意くださいとのことです。

夏休みのプランに加えてみてはいかがでしょうか?



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| ryuichi | 05:39 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
水彩画「セリ場」~故前川三郎先生



三春城下南町の前川様より、御主人の故前川三郎先生の色彩の版画「セリ場」を拝領いたしました。

以前、版画の「セリ場」をプワール様より拝借して店内に飾らさせていただいていましたが、その報告を兼ねて当ホームページに掲載した画面をプリントして持参させていただきました。

その際に、「家にある同じ構図の水彩画を店に飾る?」とお話を頂きませて、もちろん二つ返事で今回店内展示となった次第です。




本当にありがとうございます。

さきのNHK総合テレビ「ものがたり」でも紹介していただきましたが、当店のスタートがこの「セリ場」であり、言うなれば三春昭進堂のバックボーン的存在、セリ場と共に歩んできた4世代です。




前川さんは、幼馴染・同級生の伯父さんでもあり、お得意さんでもあります。



セリ市場側から見た当三春昭進堂の工場の部分です。





まだ県道側の大屋根があり、当店工場にも煙突が付いていますので、20年くらい前の作品でしょうか?


大切に店に飾りたいと思います。



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| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
平成版三春古蹟漫歩 「不動山」



古蹟漫歩 不動山

不動山。三春城下中心部に位置する小高い石山です。

戦国時代の天正3年、三春城最初の城主田村義顕が、同地に清水寺を建立し、ご本尊の揚栁観世音と不動尊の二像を安置します。




このために、不動山と呼ばれたとされています。




また、奥之院には千手観音を安置したと伝えられています。

仏像は、いずれも木製で室町中期の作と推定されています。




清水寺は、戦国の田村家から松下家、そして江戸期の秋田家と歴代三春城主が信仰するところとなり、江戸期の記録を見れば三春秋田家三代藩主秋田輝季候は、石高八斗七升九合を寺領として寄進しています。
尚、安永九年、火災によって焼失しますが、同年中には再建されています。

明治二年、神仏分離、廃仏毀釈により廃寺となりますが、同年7月2日の夜、盗賊が押し入り観音堂の扉が破られ、仏像はことごとく持ち去られ、以来行方が分からなくなっています。

後に清水寺は三春城下大町の回春堂橋元柳平氏が、その荒廃を見かねて不動山から芹ケ沢公園に移築して、田村三十三観音の一番札所「無量庵清水寺」址として現存しています。





かつては、田村三十三観音の第17番札所として、庶民の信仰を集めていた清水寺の山内も、今は山頂の畑地と後免町の上がり口階段に、往年の姿を偲ぶだけとなっていましたが、差不動山散策路が整備され、途中には石板供養塔の欠片らしき石などが半分顔をのぞかせていたり、散策を楽しめるようになっています。





不動山西側の麓には、戦前まで、うなぎ料理で有名だった「たま川」(佐々木氏)の建物がありました。

あの敷地は、戦国時代末の天正18年から寛永四年までの四十年間は、会津蒲生、会津上杉、二本松加藤と三春を兼領した歴代の代官所が置かれていた場所です。

江戸期には、旗本秋田氏の代官所となっています。






昭和30年代の広報三春内コラム参照



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「第1回三春美術展」 三春城下戦後の文化活動


三春城下、戦後の文化活動

今年も、三春町文化祭が開催され、町民を楽しませています。

三春城下は、古より文化や教育、そして生活水準などを総称する「民度」が高く、心身ともに豊かな暮らしをしてきました。

太平洋戦争から復興するにあたっても、終戦の翌年には民間の力で文化祭を開催しています。

下記は、三春町史を参照して、その下りを記してみました。

戦時中、三春賛文化協会と称し、戦意高揚迄もになってしまった三春文化協会は、太平洋戦争の終結と戦後の混乱のなかで、文化活動は休止状態に、そして、その存在の意義を失ってしまいます。

しかし、軍国主義的な通告がなくなり、本来の文化活動に復帰すべく、かつての会員の有志が集まり、衣食に追われてながらも、敗戦の翌年、山三渡辺商店の二階で「三春の古画展」-開きます。

町内の寺院や旧家所蔵の絵画が出品されて、敗戦の傷がまだ色濃く残る三春城下の町民たちの眼を楽しませました。


三春町に疎開していた独立美協の西田藤次郎が、戦後初めて個展を開き、続いて春山新三が従軍のスケッチ展を開きます。

これらの個展開催の経緯のなかで、西田氏、春山氏、そして川又氏らが中心となり、当時三春に赴任していた県美術界の中心飛田昭喬の指導を受けて、昭和二十一年十一月十五日より三日間、三春小学校講堂を会場として第1回三春美術展を開催することとなります。

もちろん、戦後間もなくのことで、展覧会の設備などはなく、戦時中の旗台の枠数個と同人の建築業者からバタ板を借用し、古釘を集めて四つの枠を作り、安達中学校より幕を借用してなんとか会場設営が整いました。

出品作は、日本画二七、洋画六五、洋画の内訳は水彩画三-図案四、油絵四四、ペステル画一 、鉛筆画一 、クレオン二、写真一九合わせて、百十一点にのぼり、敗戦後の索漠としたなかに文化の灯をともしたものでした。


尚、前記の三春文化協会は復活することはなく消滅してしまい、三春町文化団体連絡協議会が発足するのは昭和四十二年のことでした。


昭和二十二年、三春小学校第一校舎が全焼し、再建後、十八年から跡絶えていた三春町文化祭が復活します。

美術展も会場を小学校に移し、各教室に小·中学生の作品展や書、華道展、農産物展、切手展などを催し、食堂も開設されて町内外の見学者でにぎわうようになったと三春町史には記されています。

三春美術展は以後第三十三回まで続き、あとを三春美術協会に引き継ぐのである。

華道は小原流の吉田清雪が指導を続け、敗戦の翌年ころから三春小学校を会場に華道
の展示会が開かれていました。

以来、文化祭に欠かせない展示会となり、やがて、三春華道連合へと発展して行きます。

書道は、渡辺俊太郎先生を中心とする絃川会が作品活動を続けていました。

また、前川栄先生がが小·中学生の指導にあたっていましたがが、この当時老齢のためやめたあと、父兄の書道会復活要望により、渡辺需先生が三十年に日本美術書道会三春支部をつくった。

また、昭和二十三年からラジオの放送文芸が始められ、天野多津雄らが選者をつとめます。こののち歌人たちの作歌活動が活発となりますが、三春の梢短歌会が復活し、歌誌『梢』が復刊されたのは昭和三十年のことである。




三春町史参照(画像も三春町史より)


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
三春今昔物語 三春城下大町の巻①



ここに、古い三春町広報誌から抜粋した記事を張り付けた一冊のスクラップノートがあります。

昭和30年代に発刊されていた三春町広報誌、現在の広報「みはる」の前身にあたるもので、当時の執筆資料提供は、三春町文化財研究会、川又恒一氏、多田照雄氏、天野竜雄氏、影山常次氏、橋本宗哲氏、橋本久右エ門氏、大谷研明氏、渡辺利雄氏といったお名前があり。

当代きっての三春文化の担い手の面々です。

また、題字とカット挿絵を渡辺俊太郎氏が手掛け、当時の役場担当者が渡辺俊三さんです。

「塵壺」を書く時の資料にしてくださいと先輩から託されたものです。

この中に、三春の歴史や怪綺談を認めた著としたコラム欄がありました。

「怪奇伝説」「古跡漫歩」「三春今昔物語」がなどシリーズのタイトルが並びます。

一年を通じてシリーズ化して発刊されていたようです。

このタイトルだけでも、ワクワクします。






「三春今昔物語」大町の巻①から、三春城下大町の見てみましょう。

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。

本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。





桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。

高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。

向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。

御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。

かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。

舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありました。

しかし、この御三階も、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。

山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。





明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。

本誌が発刊された昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?

また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。

大町四ッ角の石橋は、文政13年に完成し、その工事費が39貫150匁と記録に残っている。今の物価にしたらどれほどになるだろう・・・





石橋の傍らには、道路原票(今は南町福祉センター付近に移設)がり、三春から各地への距離が記されています。

白川11里26丁。 若松17里19丁。 二本松5里32丁。 福島11里。 

米沢21里半。 仙台32里22丁。 盛岡79里23丁。 中村17里35丁。

平17里20丁。 棚倉14里33丁 

と旧城下町までの距離が刻まれています。


昭和30年代の三春広報誌三春広報参照





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