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平成版三春古蹟漫歩 「不動山」



古蹟漫歩 不動山

不動山。三春城下中心部に位置する小高い石山です。

戦国時代の天正3年、三春城最初の城主田村義顕が、同地に清水寺を建立し、ご本尊の揚栁観世音と不動尊の二像を安置します。

このために、不動山と呼ばれたとされています。

また、奥之院には千手観音を安置したと伝えられています。

仏像は、いずれも木製で室町中期の作と推定されています。

清水寺は、戦国の田村家から松下家、そして江戸期の秋田家と歴代三春城主が信仰するところとなり、江戸期の記録を見れば三春秋田家三代藩主秋田輝季候は、石高八斗七升九合を寺領として寄進しています。
尚、安永九年、火災によって焼失しますが、同年中には再建されています。

明治二年、神仏分離、廃仏毀釈により廃寺となりますが、同年7月2日の夜、盗賊が押し入り観音堂の扉が破られ、仏像はことごとく持ち去られ、以来行方が分からなくなっています。

後に清水寺は三春城下大町の回春堂橋元柳平氏が、その荒廃を見かねて不動山から芹ケ沢公園に移築して、田村三十三観音の一番札所「無量庵清水寺」址として現存しています。





かつては、田村三十三観音の第17番札所として、庶民の信仰を集めていた清水寺の山内も、今は山頂の畑地と後免町の上がり口階段に、往年の姿を偲ぶだけとなっていましたが、差不動山散策路が整備され、途中には石仏の欠片らしき石などが半分顔をのぞかせていたり、散策を楽しめるようになっています。

不動山西側の麓には、戦前まで、うなぎ料理で有名だった「たま川」(佐々木氏)の建物がありました。

あの敷地は、戦国時代末の天正18年から寛永四年までの四十年間は、会津蒲生、会津上杉、二本松加藤と三春を兼領した歴代の代官所が置かれていた場所です。

江戸期には、旗本秋田氏の代官所となっています。


昭和30年代の広報三春内コラム参照



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| ryuichi | 05:50 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
「第1回三春美術展」 三春城下戦後の文化活動


三春城下、戦後の文化活動

今年も、三春町文化祭が開催され、町民を楽しませています。

三春城下は、古より文化や教育、そして生活水準などを総称する「民度」が高く、心身ともに豊かな暮らしをしてきました。

太平洋戦争から復興するにあたっても、終戦の翌年には民間の力で文化祭を開催しています。

下記は、三春町史を参照して、その下りを記してみました。

戦時中、三春賛文化協会と称し、戦意高揚迄もになってしまった三春文化協会は、太平洋戦争の終結と戦後の混乱のなかで、文化活動は休止状態に、そして、その存在の意義を失ってしまいます。

しかし、軍国主義的な通告がなくなり、本来の文化活動に復帰すべく、かつての会員の有志が集まり、衣食に追われてながらも、敗戦の翌年、山三渡辺商店の二階で「三春の古画展」-開きます。

町内の寺院や旧家所蔵の絵画が出品されて、敗戦の傷がまだ色濃く残る三春城下の町民たちの眼を楽しませました。


三春町に疎開していた独立美協の西田藤次郎が、戦後初めて個展を開き、続いて春山新三が従軍のスケッチ展を開きます。

これらの個展開催の経緯のなかで、西田氏、春山氏、そして川又氏らが中心となり、当時三春に赴任していた県美術界の中心飛田昭喬の指導を受けて、昭和二十一年十一月十五日より三日間、三春小学校講堂を会場として第1回三春美術展を開催することとなります。

もちろん、戦後間もなくのことで、展覧会の設備などはなく、戦時中の旗台の枠数個と同人の建築業者からバタ板を借用し、古釘を集めて四つの枠を作り、安達中学校より幕を借用してなんとか会場設営が整いました。

出品作は、日本画二七、洋画六五、洋画の内訳は水彩画三-図案四、油絵四四、ペステル画一 、鉛筆画一 、クレオン二、写真一九合わせて、百十一点にのぼり、敗戦後の索漠としたなかに文化の灯をともしたものでした。


尚、前記の三春文化協会は復活することはなく消滅してしまい、三春町文化団体連絡協議会が発足するのは昭和四十二年のことでした。


昭和二十二年、三春小学校第一校舎が全焼し、再建後、十八年から跡絶えていた三春町文化祭が復活します。

美術展も会場を小学校に移し、各教室に小·中学生の作品展や書、華道展、農産物展、切手展などを催し、食堂も開設されて町内外の見学者でにぎわうようになったと三春町史には記されています。

三春美術展は以後第三十三回まで続き、あとを三春美術協会に引き継ぐのである。

華道は小原流の吉田清雪が指導を続け、敗戦の翌年ころから三春小学校を会場に華道
の展示会が開かれていました。

以来、文化祭に欠かせない展示会となり、やがて、三春華道連合へと発展して行きます。

書道は、渡辺俊太郎先生を中心とする絃川会が作品活動を続けていました。

また、前川栄先生がが小·中学生の指導にあたっていましたがが、この当時老齢のためやめたあと、父兄の書道会復活要望により、渡辺需先生が三十年に日本美術書道会三春支部をつくった。

また、昭和二十三年からラジオの放送文芸が始められ、天野多津雄らが選者をつとめます。こののち歌人たちの作歌活動が活発となりますが、三春の梢短歌会が復活し、歌誌『梢』が復刊されたのは昭和三十年のことである。




三春町史参照(画像も三春町史より)


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| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
三春今昔物語 三春城下大町の巻①



ここに、古い三春町広報誌から抜粋した記事を張り付けた一冊のスクラップノートがあります。

昭和30年代に発刊されていた三春町広報誌、現在の広報「みはる」の前身にあたるもので、当時の執筆資料提供は、三春町文化財研究会、川又恒一氏、多田照雄氏、天野竜雄氏、影山常次氏、橋本宗哲氏、橋本久右エ門氏、大谷研明氏、渡辺利雄氏といったお名前があり。

当代きっての三春文化の担い手の面々です。

また、題字とカット挿絵を渡辺俊太郎氏が手掛け、当時の役場担当者が渡辺俊三さんです。

「塵壺」を書く時の資料にしてくださいと先輩から託されたものです。

この中に、三春の歴史や怪綺談を認めた著としたコラム欄がありました。

「怪奇伝説」「古跡漫歩」「三春今昔物語」がなどシリーズのタイトルが並びます。

一年を通じてシリーズ化して発刊されていたようです。

このタイトルだけでも、ワクワクします。






「三春今昔物語」大町の巻①から、三春城下大町の見てみましょう。

大町は三春城下でも藩庁、役所が集中していた関係で町屋は少なかったとあります。

本城の大手門(JAさくら付近)から守城稲荷前までは、町家は全く無く、現三春小学校敷地に、本殿がありました。
現本通りに沿って、奥屋敷、奉行所、公所、近習、目付などの公職人や役宅倉庫が並んでいたと記されています。





桜谷には、細川縫之助、佐塚秋田廣記などの重臣から、軽輩の屋敷がありました。
現在の三春町福祉センター(前の県中土木事務所)には、細川孫六郎宅。

高齢者住宅付近には、秋田傳内宅。

会下谷入り口付近に、小野寺舍人宅。

向いは、松井正右衛門宅。そしてその隣には、吉田造酒があり、かつては荒木国之助宅がありました。

御城坂には、旧城代家老秋田調、北畠秋田氏など重臣屋敷が居を構えていました。

かつて三春幼稚園があった会下谷は、「百石谷」と呼ばれて、百石程度の藩士屋敷が軒を並べていたとあります。

舞鶴城と称された御城(三春城)は、御城山にありましたが、時代劇で見るような天守閣は無く、御三階と呼ばれた建物がありました。

しかし、この御三階も、天明の火災以降は再建されませんでした。

普段、藩主の住んでいた御殿は、現三春小学校上校庭付近にあり、下の校庭には政務を担当する藩庁が置かれていました。

山頂にある御城には、儀礼的な行事のある時のみ藩主以下藩士が登城しますが、普段は留守居の藩士が登城するのみだったとされています。





明治五年、この御殿跡の敷地に現三春町立三春小学校が建てられました。

本誌が発刊された昭和30年代までは、上り口の土手に松の古木が数本あり、昔も面影を残していると記されていますが、今の明徳門のある階段の左右にある桜が植わっている場所でしょうか?

また、「校庭にあった藤棚があり、御殿があったころには能舞台があったと伝えられている」と記されていました。

大町四ッ角の石橋は、文政13年に完成し、その工事費が39貫150匁と記録に残っている。今の物価にしたらどれほどになるだろう・・・





石橋の傍らには、道路原票(今は南町福祉センター付近に移設)がり、三春から各地への距離が記されています。

白川11里26丁。 若松17里19丁。 二本松5里32丁。 福島11里。 

米沢21里半。 仙台32里22丁。 盛岡79里23丁。 中村17里35丁。

平17里20丁。 棚倉14里33丁 

と旧城下町までの距離が刻まれています。


昭和30年代の三春広報誌三春広報参照





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| ryuichi | 05:43 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
三春物語953番「百杯宴碑及び回春堂~橋元家氏神様」の公園整備


大町の桜川沿いにある橋元回春堂氏神様と「百杯宴碑」が桜川の河川改修に伴って新たに整備され素晴らしい公園になりました。 

 大町裏の裏町通りにある三春人形館の桜川をはさんだ向側に、三春藩検断役・薬問屋「回春堂」橋元氏の「氏神様」があります。
ちょうど百杯宴の碑の裏側になります。

裏山は不動山と呼ばれ、かつて山腹には田村三十三観音一番札所「清水寺観音堂(現小鳥山清水寺)」、そして山の名前の由来となった「お不動尊」を祀ったお堂があったと云うことです。 
 
百盃宴の碑

 三春郷土人形館裏側の裏通り、桜川を挟んだ時計台の裏に小さな碑文の石碑があります。
これは幕末の三春藩儒学者川前紫渓という人が催した宴会に因んで建てられました。




正面の碑文を郡山出身の幕府昌平校教授方安積艮斎が書き、題字を三春出身の絵師中村寛亭が書いています。
 川前紫渓(神職名川前丹後)という人は、名を亀角、字を千攫といい紫渓は号です。

江戸末期の文化十四年、三春城下の生まれで、来光院(明治維新後は多賀明神に改名)という現裏町三春武道館辺りにあった、修験堂の修験者(のち神官)から儒者になった人です。
 


百杯宴の碑文には、紫渓はこよなく酒と竹を愛し、そのため友人から多くの書画と杯を贈られることが多かったと記されています。
 来光院に私塾を開いて、詞文より実学を基本とした水戸学派の流れを汲む学問を教え、多くの子弟を教育した事は有名ですが、中でも自由民権運動家、後の貴族院議長河野広中の師として「広中」の名を授けた人物として明治期に脚光を浴びました。
 


河野広中をはじめ幕末から明治初期にかけての三春は、三春藩内から、藩士・町民問わず、教養が高く、自由民権運動家を多く輩出してきました。

この基盤の中に、三春藩校明徳や佐久間庸軒の庸軒塾、そして、この来迎院が大きな役割を担っており、後に明治政府貴族院議長になった自由民権運動家・河野広中の学問的素養の基礎は、紫渓より学んだとされています。

私塾化した来光院には、数多くの旧三春藩内外の自由民権運動家がその門を叩いています。

 幕末の安政四年旧暦四月五日、送られた盃が百個に達した事を記念して、満開の桜の下で、志を一つにする門弟友人あわせて、総勢約40名が集い宴会を催しこれを称して「百盃宴」としました。




 穏やかで暖かな春の日差しを浴びて、幕末の動乱を間近に控えながらも、つかの間の平和に酔いしれたことでしょう。
 今は訪れる人も無く、ひっそりとその石碑だけがありますが、世界に通じる三春人の更なる飛躍を期待しているのではないでしょうか。
 



三春昭進堂 高橋龍一

| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
三春物語952番「前川三郎氏版画」~新町セリ市場


先日、桜ヶ丘にあるカフェ「プワール」の食事に行った際に、オーナーの橋本さまから、三春城下南町の元教員前川三郎氏の版画を拝借してきました。

以前、前川さんの奥さまから数点頂いた、三春を題材とした版画の中に「セリ市場と三春昭進堂」の版画が二枚あり、頂戴した次第です。



早速、額を注文して店内に飾らさせていただきました。

前川さんは、幼馴染・同級生の伯父さんでもあり、お得意さんでもあります。



セリ市場側から見た当三春昭進堂の工場の部分です。

まだ県道側の大屋根があり、当店工場にも煙突が付いていますので、20年くらい前の作品でしょうか?


大切に店に飾りたいと思います。




三春盆踊りの準備が進み、提灯のライトアップが開始され華やいだ雰囲気の大町かいわいです。



今年は櫓が、三春交流館「まほら」正面玄関付近の、四つ角交差点側に設置されます。

公共施設である「まほら」の休憩スぺースやトイレ、露店スペースが近くなり、会場の一体感を図ってみました。




三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 05:01 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
三春物語747番「思ひ付阿津免草」
「思ひ付阿津免草」

当三春昭進堂のホームページにある「思ひ付阿津免草」は、店主独白ともいうべきぺージに着けた名称です。
この名称は、三春町検断役 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治十四年まで日記風に書き留めておいた橋元文書から命名しました。

この「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されていて、貴重な資料と共に江戸末期から明治への転換期を体験した三春人の息遣いが感じられます。


明治末明治期の橋元商店当主柳平氏が開発した芹ヶ沢の田村競輪競馬場(現小鳥山公園)絵図


| ryuichi | 05:59 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |
三春物語730番「三春銀行と伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」


この新聞記事は、昭和二年十一月十三日付の福島毎日新聞(現福島民報新聞社)です。
三春城下で現在「ヤマサン」エネオスガソリンスタンドを営む旧家山三渡辺家にありました。



内容は、三春銀行(前第九十三国立銀行、後に東邦銀行へ合弁)の記事です。
昭和二年当時、山三商店の渡邊平助氏が頭取を務める田村郡金融の中心「三春銀行」が、田村地方の産業と発展に寄与し、さらに増資をして大銀行へ名を連ねたことを祝賀ムードで伝える記事で、
祖祖父である第九十三国立銀行の創始者である渡邊甚十郎氏、平八氏、英一氏、そして平助氏と四代に亘る山三渡邊一族の悲願達成を祝っています。


三春町史掲載の明治期の山三渡邊本店初売りの模様

秋田藩政下の江戸期、三春藩御用商人として活躍した富商「伊賀屋(いがや)山三」は、呉服太物商、質貸業、味噌醤油製造販売、そして両替商を営み三春藩に多大なる貸付けをおこない三春藩の財政を援けました。
名字帯刀を許されたのもこの功績によってなのでしょう。

明治維新後、藩への貸し付けが不良債権として不履行になりますが、三春商人はへこたれていませんでした。
明治に入ってますます商いを広げ、今迄の生糸や呉服などの生業に加えて、三春銀行ともいうべき「第九十三国立銀行」後の三春銀行という金融、「三春馬車鉄道株式会社」の運送、そして中郷村柴原の大滝根川に滝水力発電所を建設して「三春電気株式会社」の電力部門の創設と明治期の三春及び田村地方だけではなく福島の経済に中心的役割を担う総合商社として大活躍を見せます。



第九十三国立銀行株券と会社印(三春町史より)

下記は、第九十三国立銀行の創設願いを、時の福島県令山吉盛典に提出して官許を許可する際に「発起人の身許調べ」した時の発起人代表山三第五代当主渡辺甚十郎の身分証明です。

第九十三国立三春銀行発起人代表 渡邊甚十郎
一、  平民にして田村郡三春町に居住す。
        年齢は本年(明治十一年九月某日)五十一年一ヶ月。文政十年三月十五日生まれ
二、  往古は同郡同村字荒町に居住。文政五年同村字大町へ移住すること百十ヶ年余。
三、  地方に於て名望高し。金銀取引上に於て最も正直なり。
四、  謹直堅固にして堅く業を守り、父平助より本人に至れり家声を揚ぐ。
五、  家業は呉服太物商。質貸等本業の別なく営業す。
六、  家業の得意先とするものは、磐城国宇多郡中村を始めとし右近傍呉服太物商売を得 意とす。其他は近村の商家及び郡村農民等なり。
七、  取引上に於いて損耗あるを聞かず、歳々利益あるを聞く。
八、  凡そ百十カ年前より呉服太物商を始め、五十年以降質屋を営業す。
九、  祖先より永続すとも雖(いえども)初代平之助家業に堅く、当代甚十郎に於ては一層家事勉励し、子を分家せし三戸。富は多く此の甚十郎に成ると云ふ。
十、  分限聞く処の大概左の如し。正金一万円余、仕入れ物一万八百円余、持地耕地一町三反余、建家四カ所、土蔵五棟を有す。
十一、 追々旺盛の景況ありて衰微の兆しを見ず。
十二、 貸金聞く処の大概三千五百円余。他より借財なし。
十三、 是等の事に関係したるを聞かず。
十四、 是等の事曽て聞かず。



 三春銀行頭取 渡邊平助氏(昭和二年)

明治十一年当時の大臣の月給は800円の時代です。
富商といわれた「山三渡辺商店」の貴重な史料であるとともに渡辺甚十郎氏の人柄が偲ばれます。
尚、その他発起人身許調べには、三春の経済界の立役者である本陣本店川又彦十郎氏、佐久間忠次氏、内藤伝四郎氏、熊田文十郎氏、渡辺弥右衛門氏、春山伝蔵氏諸氏のお名前が見て取れます。

初代頭取 渡邊甚十郎
支配人 熊田文十郎

後にこの第九十三国立銀行は明治三十年には三春銀行に移行、そして昭和十六年には、白河の瀬谷銀行、二本松銀行とともに合弁して現東邦銀行へと移行します。

江戸、明治、大正、戦前から戦後の昭和という激動の時代を商人として「伊賀屋(いがや)山三渡邊本店」は、三春そして田村、さらには福島の経済界を牽引し来ました。


三春運送株式会社の前身渡辺本店運送部三春合名開運会社の看板(三春町史より)

三春銀行(第九十三国立銀行)とは、
三春城下大町の三春町商工会前に、第九十三国立銀行跡の石柱が建っています。

明治十一年の設立された、この銀行は、旧藩時代の借財解消補填の費用捻出のために発行された各種不換紙幣の不履行解消と、旧士族への給料および不払いを解消するため公債の代わりにこの銀行の株券を公債として支給して設立しました。

「旧藩時代借財を払えないから銀行の株券(紙切れ同然の)で勘弁してくれ」ということなのでしょう。
設立の目的として、旧士族の保護救済と三春地方の金融の円滑を図ったとありますが、当時の士族方々は経済にうとく、「士族は、公債証書を受けとると、多くは後のことも考えもなく、楽しみ悦び使い果たした」と記録されています。

 設立に当たっての資本金確保のために、零細株主の士族からの出資だけではなく、旧士族管財人から、不当な旧三春藩官地払い下げで、大儲けした富豪の商人からの出資を募りました。
経営の詳細は残されていませんが、大株主の富豪商人が名を連ねています。
後に、経済混乱収拾のため「日本銀行」が設立され、紙幣の統一が計られた。
これに伴い九十三国立銀行は、明治三十年に普通銀行の「三春銀行」と改称された。
尚、株式会社三春銀行も、昭和十六年に現東邦銀行に吸収され終焉を迎える。

『三春の春、みぃーつけた!』
自己紹介
小さな城下町・三春のほぼ中心部にあるENEOSマークのガソリンスタンド『やまさん』(三春町大町76番地)から、「三春桜」の話題を中心に、三春の四季折々の情報をお伝えして行きます♪ぜひお立ち寄り下さい!



| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下大町 |