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平成版今昔物語「百杯宴之碑 その2」



百杯宴之碑 その2

三春城下大町、不動山北側の桜川沿いに「百杯宴」と刻まれた安積艮斎の碑文があります。

この百杯宴之碑は、江戸時代末期の安政四年七月に建てられたと記されています。

“三春の異色ある文人に“と風変わりな紹介がされていた川前紫渓という風流人がありました。

詩文を楽しみ、酒と竹を愛したという儒学者です。

四方の友人が訪ねて来る時には、書画や杯を土産に持参したといいます。


紫渓は、その杯を貯めてついに百個を数えるに至ります。







それが安政四年で、紫渓の42歳の時でした。

男の42歳は、厄年とされていましたのでその厄払いの意味もあったとも思われますが、百杯を記念して、“百盃桜”と号して、桜花の咲く4月5日、不動堂の前に雅宴を張り、故知友人を招いたとされます。







当日は、記録係や酒係をおき、100個の盃を並べ、客は車座になって、盃を一つずつ順次飲み干す仕組みでした。

一杯ずつでも、盃が百です。中には、大きな杯もあったでしょう。

10杯目で酔う者、30杯で歌い舞う者、60杯で揮毫する者、100杯でやっと酔い始める酒豪の者とさまざま、主客相忘れて談笑しあったと記録されています。

こうした雅な宴を、紫渓が艮斎に頼んで顔てもらったのがあの碑文です。


三春にある碑文の中で、一風変わった面白いもののひとつですね。








安積艮斎は、安積国造神社の神官の子として生まれた、江戸時代後期の儒学者です。

二本松藩儒官を経て、幕府昌平黌の儒官となりました。

門人には、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作など 2,282名。

ペリー(米)及び露プーチャン持参の国書を翻訳し、通商条約に貢献しました。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春城下霊水 「金霊水と銀霊水」




三春城下の霊水(鈴水) 「金鈴水と銀鈴水」


三春城下には「名水」よ呼ばれる井戸や湧き水が伝わています。

三春城下の霊水 「金鈴水と銀鈴水」もその一つです。






金鈴水は、御城坂、旧城代家老の山舘秋田家屋敷内に、そして、銀鈴水は会下谷の山野家屋敷内にあります。

共に武家屋敷内の湧き水で、それぞれ両家にある名園の池水に用いられている。


寺社仏閣とは違う武家屋敷にある庭園にある池を構成しています。


霊水の由来は調査中~







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:09 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語747番「思ひ付阿津免草」
「思ひ付阿津免草」

当三春昭進堂のホームページにある「思ひ付阿津免草」は、店主独白ともいうべきぺージに着けた名称です。
この名称は、三春町検断役 回春堂橋元柳助が、慶応三年から明治十四年まで日記風に書き留めておいた橋元文書から命名しました。

この「思ひ・・」の中には、三春城下の商人が見聞きした幕末動乱の様子が克明に記載されていて、貴重な資料と共に江戸末期から明治への転換期を体験した三春人の息遣いが感じられます。


明治末明治期の橋元商店当主柳平氏が開発した芹ヶ沢の田村競輪競馬場(現小鳥山公園)絵図


| ryuichi | 05:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語685番「三春城下の修験道と裏町修験来光院発掘調査」


三春郷土人形館裏側の裏通り、桜川を挟んだ不動堂跡前の時計台の裏に小さな碑文の石碑があります。これは幕末の三春藩儒学者川前紫渓(神職名川前丹後)という人が催した宴会に因んで建てられました。



江戸末期の文化十四年、三春城下の生まれで、修験来光院(明治維新後は多賀明神に改名)という現裏町三春武道館辺りにあった、修験堂の修験者(のち神官)から儒者になった人です。
  来光院に私塾を開いて、詞文より実学を基本とした水戸学派の流れを汲む学問を教え、多くの子弟を教育した事は有名ですが、中でも自由民権運動家、後の貴族院議長河野広中の師として「広中」の名を授けた人物として明治期に脚光を浴びました。
 


幕末から明治初期にかけての三春は、三春藩内から、藩士・町民問わず、教養が高く、自由民権運動家を多く輩出した基盤の中に、三春藩校明徳や佐久間庸軒の庸軒塾、この来光院が大きな役割を担っていました。
後に明治政府貴族院議長になった、自由民権運動家・河野広中の学問的素養の基礎は紫渓より学んだとされ、私塾化した来光院には、数多くの旧三春藩内外の自由民権運動家がその門を叩いています。

今回、桜川改修を受けて来光院跡が発掘調査が行われました。
この場所は、江戸期までは上記の修験来光院でしたが、明治期の廃仏毀釈での修験道廃止から、民間に売却され薬商回春堂主橋元柳平の別邸及び庭園として整備されていました。



修行体系と伝承は、明治時代初頭まで脈々と受け継がれていましたが、明治政府の方策(神仏分離・廃仏毀釈・修験道廃止令など)により修験道とともに廃止に追い込まれていきました。

ふだんは、町民と同じく生活をしながらも行者的な傾向を持っており、神社の別当や権現社の社僧職を世襲し、月待・日待・星待・御釜祭・夏越し・厄神除け・火伏・蟲送り・地鎮祭・家固め・もののけ祭・憑物払い・占いなど諸祈祷のほかに、護符配りなどを生業としていました。

修験道は森林と深いつながりがあります。
修験道はいわゆる山伏の宗教のことで、神仏習合を基盤に、神道や仏教、道教などが混淆して発展・成立した日本固有の山岳宗教であり、開祖の役行者以来1300年の歴史を持つ日本古来の宗教です。
また日本の森林はほとんどが山にあり、山川草木そのものである森林は修験道と切っても切れない関係がありました。



江戸時代なると、徳川幕府によって「修験道法度」が出され、山伏が諸国を回るのが禁止されます。
そのため都市や農村に定住した山伏たちによって、「講(こう)」という組織が結成されてゆきました。

 こうして、山伏を案内役に、全国各地から大峯山などの霊山へ登るブームが起きたのである。
修験道は庶民の間に定着し、行者信仰は全盛期を迎えます。
日本各地にある役行者関連施設の多くがこの時作られていると考えられています。

その修験道は、明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、山伏は、神官及び僧侶となるか還俗(げんぞく)せよとの通達でした。
そのため、今日もその法脈を伝えているとはいえ、庶民生活に根付いていた往時のような勢力はなく、一般の方々には縁の遠いものとなってしまいました。
 しかしその一方で、表面では政府に従いながらも、山伏による行者信仰はひそかに続けられていました。
また庶民の生活に根付いた行者信仰も簡単には消滅してはいませんでした。

先年、修験道を育んできた吉野・熊野地方が、日本で12例目のユネスコ世界遺産に登録され、修験道が注目を浴びるひとつのきっかけとなりました。



三春城下の修験には
1、華正院(荒町)
2、普明院(荒町)
3、大聖院(荒町)
4、若王寺(大町王子権現)
5、般若寺(北町天満宮別当)
6、陽正寺(北町切通し)
7、吉祥院(切通し)
8、宝来寺(亀井三春藩主秋田公祈願所)
9、泰平寺(山中大元帥明王別当)
10、文殊院(新町)
11、光照寺(新町)
12、常楽院(新町)
13、専修院(荒町)
14、来光院(裏町)
15、清水寺(御免町)
16、宝憧寺(御免町)
17、智法院(裏町)
18、大桂寺(丈六)
19、明王院(丈六)
20、万徳院(丈六)
21、西福寺(中町)
他に、所在不明
 和合院(荒町)
 成就院(新町)
 一条院(八幡町)
がありましたが、華正院だけが、天台宗寺門寺院として現存しています。


町内には数多くの寺院や神社があり、それぞれが歴史的な遺産を守り伝えています。
静けさと歴史の重みをたたえたこれらの寺社は、人々の信仰を集める祭祀の場であるとともに、歴史的な建物,地域に根ざした文化活動自体が独自の価値を持つだけでなく,郷土への誇りや愛着を深め,古来より住民共通のよりどころ、そして地域のコミュニティの場として機能してきました。



地域文化とは,人間の自然とのかかわりや風土の中で生まれ,育ち,身に付けていく立ち居振る舞いや,衣食住をはじめとする暮らし,生活様式,価値観など,およそ人間と人間の生活にかかわる総体を意味するのではないかと考えます。
一方,文化を「人間が理想を実現していくための精神活動及びその成果」という視点でとらえると,文化の中核を成す芸術,メディア芸術,伝統芸能,芸能,生活文化,国民娯楽,出版物,文化財などを示す文化芸術の意義については,人間が人間らしく生きるための糧となるものであり,人間相互の連帯感を生み出し,共に生きる社会の基盤を形成するものであるといえます。
 地方地域のこのような文化芸術は,すべての国民が真にゆとりと潤いの実感できる心豊かな生活を実現していく上で不可欠なものであり,国民全体の社会的財産だとおもいます。

これらは、歴史を背景に、生活との関わりの中で生み出され、現在まで守り伝えられてきた町民の財産です。
寺社仏閣の修復、周辺の歴史的街並みや、地域の特色ある文化を活かした継承・活用を考えることも大切です。
また、子どもや青少年が、我が国の伝統と文化に対する関心や理解を深め、尊重する姿勢を育むことは、豊かな人間性や国際社会に生きる日本人としての意識を醸成する上で、重要なことです。



子供の頃に良く聞いた話ですが、かつての三春では、修験の祈祷師の人が蟲切りや蟲封じをしていました。
蟲切り 蟲封じなど、いわゆる「疳の蟲」というもので、
そのまじないは手のひらに筆や指で真言や呪いを唱えながら蟲の字を書き最後に塩水や茶殻で手を洗い数分明かりに照らしてみると細かい糸状のものが出てきます。
これがいわゆる蟲です。
日常的に、よく泣いたり、奇声を上げたり、人に噛みつく、爪をかむ、指をしゃぶる、落ちつきが無いなどの、子供の行動や、病弱なども疳の蟲の症状としているそうで・・・・

不思議ですよね。


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| ryuichi | 09:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語479番「三春招魂社」


三春招魂社


戦前、日中戦争が泥沼化し、米英との戦争が囁かれ始めた、昭和十一年頃から、出征した三春人を、三春町主催にて、三春大神宮に置いて武運長久に祈願祭を挙行して無事帰還を願い送り出していました。
 


しかし、願い届かず戦死した三春人もありました。
現三春小学校のお城山側ある、招魂社では戦死した三春人の町葬が執りおこなわれ、霊を慰めていました。

御霊はは日清日ロ戦争がら太平洋戦争まで戦死者839柱を祀っています。



現在は、遺族会が管理してします。



| ryuichi | 05:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語492番「会下谷下、献上井戸」


献上井戸と先らの古木




三春城下会下谷の入り口、櫻川沿いある献上井戸と桜の古木です。


三春藩時代には、殿様が呑むお茶は、全てこの井戸から汲み上げられた名水会下谷水を使用していたと伝えられています。



| ryuichi | 05:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語491番「お城坂の稲荷さま」
お城坂のいなりさま
三春舞鶴城の大手門側、通称お城坂の途中にある、小さな祠です。
三春藩政下では、筆頭家老荒木家の屋敷があった場所です。
荒木家は、三春藩主秋田頼季を輩出した家柄ですが、三春藩のお家騒動の原因をなしたとされています。後に「化け猫騒動」「猫大火事」など濡れ衣を着せられます。





付近にある洋館様式の建造物旧遠藤病院裏手の梅花

| ryuichi | 07:00 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |