2010-02-19 Fri
天明年間に建てられた三春藩講所の表門で、「明徳門」とも呼ばれる。
3間1戸潜戸付きの薬医門形式で、昭和22年に三春小学校の校門として現在地に移された。
三春藩政下での、この三春小学校の地は、御殿と呼ばれ、三春藩主の住居および政務局が置かれていた場所です。
中世三春城とされる山城から、近世三春平山城へ移行した場所です。
| ryuichi | 05:54 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
2009-07-22 Wed
三春正道館は、明治初期の福島地方における唯一の政治教育の学塾でした。
創立は明治一四年6月頃とされ、場所は旧藩校明徳堂の跡地を利用したものです。
これは近代的な政治教育を目的とする青年の教育機関で、その維持費は設立を含めすべて公費があてられていたことに大きな特色をもっています。
このことは当時の三春町が戸長松本茂をはじめ、議員・学務員・など町の指導者層が「自由民権派の人々によって占められていたという特別な事情を抜きには考えられません。
これより先、三春では明治十一年1月、政治結社「三師社」が結成されています。
これは福島自由民権運動の先駆者河野広中らによって組織されたもので、三春戸長野口勝一ほか田母野秀顕・松本茂・佐久間捨蔵・安積儀平ら創立当時の社員は79名と記録されています。
三師社も各地の政治結社と連携をもち、河野は明治十三年4月の愛国社大会に参加します。
これが「国会期成同盟会」の捧呈委員に推され、全国的指導者としての立場を築いていきます。
正道館はこのような事情を背景に生まれたもので、先進地の土佐から講師を招いて青年の政治教育に力を注ぎ、政治・法律・経済・歴史のほか、討論・弁論術を教えています。
しかし、三島通庸の福島県令着任とともに、その自由党抑圧策により明治十五年7月頃には閉館を余儀なくされます。
しかし、ここで育った青年達は「田村ノ壮士」として各地で活躍しました。
また、同年12月に起こされた福島事件に連座して、最終的に東京の高等法院に送られた57名のうち、過半数の25名が田村郡人であり、田村ノ壮士の果たした役割がいかに大きかったかを物語っています。
さらに、明治十七年の加波山事件では、琴田岩松・山口守太郎・河野広躰・五十川元吉・天野一太郎ら三春の正道館の出身者が参加しています。
落書きの残る正道館の雨戸
正道館跡に建つ河野広中の銅像と自由民権広場
政治結社「三師社」の置かれた龍穏院
磐州通り・自由の魁(加波山事件顕彰碑)
2009-07-01 Wed
河野広中遺髪塚
大町の浄土宗紫雲寺の境内に、旧三春藩士で、自由民権家として活躍した河野広中の遺髪塔があります。
河野広中は、1849年7月7日、三春藩郷士河野広可の三男として生まれる。
川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになった。戊辰戦争の際は、三春藩は、当初、奥羽越列藩同盟に加盟していたが、河野は、明治政府への帰順を工作し、東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助に会見した。藩が帰順した後、土佐藩兵に合流し、先鋒を願い二本松藩攻略、会津戦争等に参加した。
明治維新後は、地元で若松県権少属、区長などを歴任後、自由民権運動に傾倒、石陽社を設立し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなった。
三春における自由民権運動は、明治11年(1878)に設立された政治結社「 三師社 」、同14年(1881)に自由民権思想の普及を目指して設立された「 正道館 」のように、若い運動家を育成し、活動の基盤を固めるものであった。
ここで育成された運動家は演説会や直接的活動を通じ県内はもとより、県外においても活発な活動を展開した。
こうした運動は、時の政府、そして福島県の弾圧を受け、明治15年(1882)、河野広中らが逮捕・有罪にされた疑獄事件である 「 福島事件 」、同17年(1884)河野広躰・琴田岩松らが中心となった激化事件 「 加波山事件 」 へと展開していった。
明治15年福島事件がおきると、河野は、同志田母野等と連判状を取り交わしていたため、12月に検挙され、明治16年高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告された。明治22年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄を許された。
後大正4年第二次大隈重信内閣の農商務大臣などにも就任している。
自由民権運動とは、明治維新により成立した政府は、維新を成し遂げた西国諸藩出身者を中心とする藩閥政府であり、国民の自由を守る憲法はもちろんその意志を代弁する国会も置かない不十分なものであった。
自由民権運動は、こうした国家のあり方を痛烈に批判し、国会の開設・憲法の発布を目的とし、全国的に展開した運動である。
「腹切梅」
供養塔
戊辰の役「西軍墓地」
2009-06-30 Tue
陽徳院愛姫は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。
そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれていました。
このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘愛姫を米沢城の伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせました。
伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。
一時、夫婦仲が悪くなったと伝えられている。しかし、その後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には、後に松平忠輝室となる五郎八姫(イロハ姫)を出産。
それから、仙台藩二代藩主忠宗・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。
聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって支えていたと思われる。
三春田村氏は、豊臣秀吉によって改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り、岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領しました。
墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。
導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る言葉を残している。また、瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像も美しく、「愛姫=めごい(愛くるしい)姫」の愛称どおりの女性だったようである。一時期はキリシタンでもあったという。
2009-06-29 Mon
守城稲荷神社
三春初代藩主秋田河内守俊季公が、常陸國宍戸から三春転封の際に、「所願成就の神」として、重臣渡辺弥右衛門に命じて「宇賀御魂神」を三春城内畑山に勧請したのが始まりです。
後に、城内の中腹にあった中森出丸(現在の場所)に移転しました。
祭礼は、初午に執り行われます。
この守城稲荷にまつわる昔話が残っています。伝承には、
その昔三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就しました。そこで、年の暮れの大晦日に、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため狐田稲荷に参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。
犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。
「お稲荷さん」と親しまれている稲荷大神は日本人に最も身近な神さまで、殖産興業、開運招福、火防(ひぶせ)の守護神として、広大無辺のご神徳を慕って多くの人々に崇敬されています。
「イナリ」の語源については諸説があり、「イナリ」は「イネナリ(稲成、稲生り)」で、稲が育つさまを表しているとも、「イネカリ(稲刈)」の「刈」が「荷」に誤られたとも、また「イナニ(稲荷)」が「イナリ」に転訛したとも言われています。
稲荷大神はご神名を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と称し、「ウカ」とは「貴い食物」を意味します。つまり宇迦之御魂神とは、「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまです。
宇迦之御魂神は須佐之男神(すさのおのかみ)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)との間に生まれた神さまで、倉稲魂神とも書きます。
兄神には「大年神」がいらっしゃいます。父の須佐之男神は天照大神の弟神として有名ですが、母の神大市比売神はご神名に「市」をもたれるように「市場」や「流通」の神さまで、兄神の大年神は「大年(おおとし)」すなわち「大稲(おおとし)」の神さまで、私たちがお正月に「年神さまを迎える」という時の「年神さま」に当たります。
宇迦之御魂神は、「古事記」の大宜津比賈神(おおげつひめのかみ)や「日本書紀」の保食神(うけもちのかみ)と同神で、いずれも五穀の起源の神さまとして記されています。
以上のことから分かりますように、宇迦之御魂神は御自身が食物を司る神さまであるとともに、一族に流通や稲に関わる神を持つ、人間の生活にとって根源的な役割を司る神さまであられるわけです。
食物の神、農業の神として崇敬された宇迦之御魂神は、民間の工業や商業が盛んになりますと広大無辺な御神徳を慕われて、殖産興業の神としての信仰が広がっていきます。
近世になると農家ばかりでなく、商家、町家、大名にいたるまで稲荷大神への崇敬が広がり、ご分霊をいただいて屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りする人々が増えていきました。
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