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三春物語35番 三春藩明徳堂「講所表門」 





三春藩七代目の藩主を秋田倩季候の時代は江戸時代の中ごろにあたり、たびたび凶作にあい、米のとれ高がへって藩の財政がとても苦しくなりました。

また城下に火災があり、城内もほとんど灰になってしまい、城の再建が大きな負担になりました。

藩の財政をたてなおすために、倹約令を出したり、たばこの集荷、出荷を藩が取り扱うようにして、税をとるなど、たばこの専売制もおこないました。

さらに、藩を立て直すには、武芸も大切だが、実用的な学問を学ばせることも大切だと考えて、藩の学校をつくりました。

藩の学校を「講所」といい、授業をするところを「明徳堂」とよびました。

三春町歴史民俗資料館の下の駐車場に「講所」がありましたが、「藩講所表門」は現在三春小学校の校門に移されています。





藩校には、三春藩の上級武士の家の男子と、中級武士の家の長男だけが入学を許可されていました。それ以外の者でも特に熱心な者は、学長に申し出た上で、夜学や書室にて授業を受けることが認められていました。

明治の政治家河野広中が窓の外で授業を受け、その後学長から特別講義を受けたことが伝えられています。

藩校の目的は、藩の指導者を養成することにあり、藩の財政を立て直すために、算術や洋学、医学、天文学などが重視されました。

科目は、文科と武科に分かれ、授業は一人ずつの個人授業であったとされています。

この藩校からは、高名な多くの学者や和算家、画家などのすぐれた人たちが出ています。






| ryuichi | 07:09 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語165番 三春城下大町 王子神社


三春城下 王子神社

三春城下大町鎮守 王子神社
明治以前、旧王子大権現もしくは王子ノ宮と呼ばれていた現王子神社は、戦国期までは、三春舞鶴城内にありました。
後、江戸期初頭に秋田俊季候が三春へ入府すると、紫雲山麓の現在地に移され大町の鎮守様として信仰を集め、春は桜の名所となって訪れる方々を楽しませてくれています。
「王子(おうし)」由来にあっては日本の創世記まで遡る様々な説が考えられています。
ここからは饅頭屋の解釈です。
 
その一つは、祭神である「豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)」は、『日本書紀』によると、崇神天皇48年、豊城入彦命は、時の天皇崇神天皇の命を受け、東国に派遣されたとあります。
神話の中に登場する、豊城入彦命の東国下向の逸話は、四道への将軍派遣をしたとされる「四道鎮守将軍」に関連していると考えています。
それは、大彦命を北陸道に、武淳川別を東海道に、吉備津彦を西道(山陽道)に、そして丹波道主命を丹波道に派遣という名の侵攻は、畿内の朝廷による日本平定に関係するのではないかと考えられていますが、王子「三輪山の神」としての豊城入彦命の東国への侵攻派遣とは、恐らくは皇子を東国へ派遣し、社を造り神様として祀ることによって、畿内の「大和朝廷王権」の力が東国へ広く及ぶことを期した戦略であったのではないでしょうか?
 
これは饅頭屋の推測の域を脱しないものではありますが、後の三春藩主となった秋田家の系図を見ると、「荒吐族(アラハバキ) → 安倍氏 → 安東氏 → 秋田氏」と繋がり「日ノ本将軍」を名乗り、大和朝廷に抗したという史実の中で、何か因縁めいたものを感じます。
 もう一つは「王子」という神社が全国に分布しています。
それは、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子をまつる信仰の広がり全国に信仰を集めていました。
 牛頭天王をまつる牛頭信仰は、もともと仏教とともに、今のインドから中国を経て伝わってきたものとされています。日本では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より信仰を集めていました。
中世には、その8人の王子を“眷属(けんぞく)”(主神に従属する神)として、人間の吉凶を司る八方位の神である八将神として全国に広がっていったといいます。
王子大権現は、その王子(眷属)の一人を祀ったとされています。
 
もう一つ、平安朝に最盛期を迎えていた熊野詣、「蟻の熊野詣」と例えられていますが、王子とは熊野権現(今の熊野大社)の遥拝所のことだとも考えられています。
今も和歌山県には多くの遥拝所である“王子”が残っていますが、戦国期の三春王子大権現は、城内ということで単なる遙拝所の王子ではなく、三春を含む田村庄が、熊野大社の荘園であったことに関係しているのではと想像しています。

このように、由来にまつわる諸説から古代のロマンが身近に感じているのは、私だけでしょうか・・・・

 それを知ってか知らずか、毎年境内の「おっしゃま桜」が美しく咲き競い私達の目を楽しませてくれています。
尚、近年完成した参道付近「磐州通り」が「町並み部門自治大臣賞」を受賞しています。
  
さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白 合掌



| ryuichi | 12:02 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語66番 「三春化け猫騒動」
   

 三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 大町の浄土宗引接山紫雲寺、戦国期創設の浄土宗の古刹である、その境内に、三春の歴史を見続ける梅の古木があります。
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村
および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
 
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました、しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。
今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。
 
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
 天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。
消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった
 真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。
この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。
                    合掌  





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「腹切り梅」の伝説は、荒木玄蕃が、我が子頼季を藩主の座に就けようと広季公の命をねらい、それに気がついた広季公護役の滋野某を無実の罪に追い込み、大町の紫雲寺境内白老梅にて切腹させました、このときいらい白梅は紅梅となったと言う話です。
「三春化け猫騒動」の伝説は、切腹した滋野某の飼い猫が、紫雲寺の切腹場に現れたところを、腹を切り息も絶え絶えの滋野某が、その猫の首を刎ね、「自分の代わりに化けて恨みを晴らせ」と言い残して絶命しました、それ以来家老荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来三春の大火の度に猫の怨霊が火を点けて空を駆け回ったと言う話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。
現在でも三春では猫の出し物の演芸が行われていません。
     蒼龍謹白・・・・・・・・合掌






| ryuichi | 17:33 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |