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羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子




先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・








塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季(愛季)、実季木造座像」令和5年8月発行

   


福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。


 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。

平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。







鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。


応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。

この時分は、盛季死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。

この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。

羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。








安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が盛季(父・愛季?)の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。



 

また本堂前の梵鐘は、実季の嫡男で三春藩主俊季が寄進されています。





羽賀寺梵鐘 秋田俊季公寄進


梵鐘名
若州遠敷郡本浄山羽賀寺者奥州十三湊
安倍康季公再興之地也依是臻
秋田城介實季公八代胤皆其善志然
先師真通雖浦牟百支損日久而不聞
微妙之声兮也九代之檀越秋田河内守
俊季公之以信心心洪鐘令成就有采庶幾
所者檀越貴福寿域千秋牟




銘日
金輪聖皇 地久天長
国家安泰 寺院繁昌
一聞必満 二世願望
洪鐘得益 功徳無量
正保三丙戊年八月吉日
伝燈阿闍梨権大僧都印良秀敬白
大工江州辻村住田中忠兵衛藤原正次


各種資料によれば、実季と俊季の親子仲は大変悪く、戦国武将の気風を残す實季の行跡を俊季以下家臣団が否定し、その行為に實季が憤慨するという資料も多数残っています。

この羽賀寺も例外ではなく三春藩として寄進額を大幅に減らし、それを知った実季が憤る当時の住職に宛てた書状が現存しています。


これは、伊勢朝熊の永松寺も一緒です。






こちらは、山内にある實季の実弟 安東玄蕃亮英季の宝篋印塔です。


大坂の陣では兄實季と共に出陣していますが、その後は小浜藩の家老職となっています。


再建当時、常陸宍戸藩主であった実季が羽賀寺修復に当たって信頼できる弟、英季を伽藍造営修復の管理の為に派遣・常駐させたという文献ものこります。

落慶以降も宍戸、しして、三春へ転封した安東秋田氏の繋がり残りますので、そのまま小浜藩に出仕して両藩や洛内はもちろん畿内との調整役を担っていたのかもしれません。


尚、羽賀寺山内には秋田実季の供養塔もあります。




もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》









もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::安日山高乾院 |
令和5年 「初不動尊祭礼」 三春城下 郡守山法蔵寺 「不動講中」




令和5年 「初不動尊祭礼」 三春城下 郡守山法蔵寺 「不動講中」


毎年2月28日に初不動尊祭礼を厳修しております。

家内安全、健康祈願、商売繁盛、学業成就、厄除招福などを祈願します。








本年も、新型コロナウイルス蔓延防止の対応として住職のみにて法要を実施しました。







御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍 




| ryuichi | 03:43 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::郡守山法蔵寺 |
「今日一日が笑顔でいられますように」 法蔵寺様よりご年始をいただきました。




三春城下荒町 時宗 法蔵寺様よりご年始をいただきました。


「今日一日が笑顔でいられますように」と揮毫された、住職さまが所属している時宗青年会の令和五年度のカレンダーです。


正に、この世に生きている中で、この一言に勝るものはないと思います。







明日もみんなで笑顔になれますように!




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::郡守山法蔵寺 |
伊藤精肉店グルメんち! KFB福島放送「シェア」


伊藤精肉店グルメんち! KFB福島放送「シェア」 令和4年5月5日端午の節句放送!


ふるさとリポーター三春!











スタジオでアナウンサーの方々に食べて食レポももらいました!








三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 13:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町 |
寿司「大音」 KFB福島放送「シェア」







寿司「大音」 KFB福島放送「シェア」


ふるさとリポーターの髙橋です。


今回は、滝桜の現在の状況の報告。


そして、三春城下の雰囲気のある石畳の小路「磐州通り」、その通りにある三春城下のお食事処「寿司 大音」(すしだいおと)を紹介します。





出演は当店のマスコット深谷悠大くんと、友人の吉村剛さん、神晃さんです。







取材日がお彼岸前ということもあり、滝桜の桜のつぼみも確認は出来ますが、もう少しのようです。


開花予定は4月5日ごろかな?







そして、城下大町から荒町に抜ける石畳の小路「磐州通り」



風致地区に指定された紫雲寺山の緑や城下町時代を偲ぶ王子神社、三春町文化伝承館、紫雲寺の付近にあり、城間街を一番感じる場所です。


「磐州通り」と呼ばれのは、この通り名は紫雲寺に自由民権運動家の河野広中の遺髪を埋めた「磐州河野先生瘞髪冢(ばんしゅうこうのせんせいえいはつちょう)」にちなんでいます。






通りには、「加波山事件自由の魁の碑」もあり、自由民権運動の歴史を後世に伝えています。







そして、城下町三春の食事処「寿司 大音」







各種会合、出前、テイクアウト等々40年来のお付き合いです。






今回も、吉村管工所代表の吉村剛社長、そして、神設備代表の神晃社長にお付き合い願っての収録です。


企画演出、そしてカメラは劇作家志望の当店次男坊です。







お楽しみいただけましたでしょうか?



さて、次回もお楽しみに~







| ryuichi | 13:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町 |
安日山高乾院山内 引水をした蹲(つくばい)




三春城下荒町にある安日山高乾禅院。

三春藩主秋田氏菩提寺です。



山内左奥、秋田氏の家老級方々の墓所がある参道手前に、引水をした蹲があります。


”墓所の花立の汲む水にと”同寺再建時に、岡住職はじめ檀信徒の有志数名で、約ひと月をかけて手作業で刻んだ思い入れの深い蹲で、もちろん私も参加させていただきました。



もう二十年になります。

数年ぶりに大掃除をさせていただきました。


前回同様ですが、排水に根が入り込み詰まっていました。



私の就業時間前、朝の散歩の途中での、少しの時間の作業ですので、3日ほどかかってしまいました。







朝の散歩で三春城下の寺社仏閣を巡っています。










禅寺の掃除です。

縁側や階段を水拭き、水盤やその排水口を掃除を時折させていただいています。




早朝、誰もいない山内で小鳥の声と、蹲に落ちる水の音を聴きながら、無心でただひたすら掃除に没頭する時間。



掃除とは自身の心掃除といいますが、汚れや落ち葉、そして雑草を抜いていますと、本当に心まで洗われていく様です。







「仏道を習ふというは 自己を習うなり 自己を習ふというは、自己を忘るるなり、
自己を忘るるというは・万法に証せらるるなり、万法に証せらるるというは自己の身心、他己の身心を脱落せしむるなり」

(正法眼蔵現成公案)

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:48 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::安日山高乾院 |
三春城下荒町にある「寿司 大音」さんの包装紙



三春城下荒町にある「寿司 大音」さんの包装紙です。


寛政五年(1793)、江戸中期の三春藩秋田氏の7代藩主従五位下信濃守(後に山城守) 秋田倩季(あきた よしすえ)の御代で作成された城下絵図をモチーフにしています。


天明の飢饉による領民の救済、同じく天明の三春城をも焼失した三春城下町大火等からの復興の後に書かれたものか?と想像しています。






この日は、当店の定休日と言おうこともあって女将を伴ってランチに出かけました。









大音さんは三春の社交場とも云える城下の皆様に親しまれた寿司屋さんです。







緊急事態措置を解除したため、当店の営業時間の変更いたします。

昼11時〜14時

夜17時〜22時

日、祝は21時まで

定休日水曜

また、3密の回避の為にお客様の人数制限をさせて頂きます。

引き続き出前、テイクアウトも対応しておりますので問い合わせお待ちしております。





☎︎0247622556


寿司 大音


駐車場 5台

お問い合わせ先 0247-62-2556


客席数30





| ryuichi | 04:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町 |