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三春物語166番 春陽郷三春 八幡神社祭礼
「小さな城下町三春」に春の訪れを告げる、八幡神社の参道に祭堤燈が並び始め、桜の開花が気になる季節になりました。

旧三春秋田藩五万石の城下町、三春の入り口にある八幡神社(明治初期の神仏離反により、村社格にて旧八幡大菩薩宮を改名)の縁起は、「田村郡神社明細」によれば、戦国期の天文年間に京都岩清水八幡宮よりの勧請(分霊)したとあります。

また「田村郡郷土史」には永正元年三春田村氏の初代田村義顕が居城を守山(現郡山市)より三春に移した際に、田村家祖先以来尊信してきた八幡大菩薩と大元帥明王を三春に移し、ともに三春城の大志田山の一郭(現田村大元神社境内)に勧請(分霊)したと記されてあり、現在も田村大元神社の境内には八幡神社の末社が熊野神社の末社と供に本殿の左右に祀られてあります。



後に江戸時代の正保二年、安倍姓安東秋田家・初代俊季が、常陸宍戸より三春入府の際に、前の三春城主松下氏による近代城下町整備の継続として、八幡大菩薩宮を現在の場所(雁木田)である城下黒門外(現日蓮宗法華寺付近)に移しその門前を八幡町としました。


八幡様は、本源を九州の宇佐八幡といわれます。


この宇佐八幡という人(?)は、奈良時代に奈良東大寺造営など大和朝廷の国家建設に埒腕を発揮して、朝廷より大菩薩号を贈られ王城鎮護の神として崇められました。



後に征夷大将軍となる源義家が、宇佐八幡大菩薩の生まれ変わり八幡太郎と称したこともあり、甲州武田信玄をはじめ代々清和源氏系の氏神として崇められ、戦国時代の武家政権の発達とともに、武人的性格の中で武家に篤く信仰されるようになりましたが、三春藩主安倍姓安東秋田氏は、その祖先安倍安東一族が「前九年の役」「後三年の役」で大和朝廷と源八幡太郎義家に敗れたと言う歴史があるためか、三春藩秋田氏からは冷遇されて、三春城下の境を示す黒門(現在も黒門遺構として桜川沿いに古い石垣が僅かに残っています)の外に移転されたと言われます。



境内には一対の苔むした石灯篭がありますが、これはその昔山賊に襲われた下総結城の商人が、八幡様のご加護により助けられ、そのお礼に寄進した話は有名です。


春の祭礼は、4月の第三日曜日に行われます、神輿還御は、満開の夜桜並木と祭堤燈のかもし出す幽玄な雰囲気の中で、神輿還御の先祓いとなる八幡町若連の勇壮な「長獅子」が供奉奉納され、三春の春を彩ります。





蒼龍謹白 合掌

塵壺平成15年4月号より


| ryuichi | 03:19 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |
三春城下荒町 八雲神社祭礼 28



「荒獅子」は、戦国時代の田村氏、江戸初期の松下氏、そして、江戸期秋田藩政下でも三春五万石六十六郷領内総鎮守大元帥明王夏季例大祭と荒町の牛頭天王社の祭礼にて露払いとして奉納されていた獅子舞です。

荒町の鎮守「八雲神社祭礼」の荒獅子奉納

7月26日(日)午前10時より


新しいポスターが出来ました!と顧問である儀同さんに戴きました。

早速、額に入れて店内に配置させていただきました。


三春城下でも、この八雲神社夏季祭礼だけは曜日に関係なく、7月26日という日にちに固定されています。


城下町として栄えていた三春城下に疫病が侵入するのを防御の祈願のため、天王様(牛頭天王)と荒獅子が、疫病を鎮めるために、町中を練り歩くようになったのが、始まりとされています。



当初は、小山村(後の御祭村)の青年達が長獅子を奉納していました。

叉、獅子頭は、小山村(御祭村)の名工によって作られその地名を獅子造りと呼ばれています。

荒獅子は、秋田藩政期には領内総鎮守大元帥明王に露払い(悪魔祓い)として奉納されていた三春独特の獅子舞で、三春に在る長獅子の中では一番歴史が古く、田村大元神社や八幡神社の長獅子はこれを明治期に伝授されたものと伝えられてます。




 
明治維新後の神仏離反、そして廃仏毀釈をうけた明治初期、大元帥明王社は、大志田神社を経て現田村大元神社に改宗改名した際に時の総代といざこざになり、以後荒町の八雲神社だけの奉納となりました。

牛頭天王は、現八雲神社の祭神で、疾病を防ぐ神であり、神道におけるスサノオ神と同体とされています。
 医療技術が乏しい時代に、疾病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、かなり大きかったと思われます。
 
牛頭天王は、単に「天王様」と呼ばれました。

また、荒獅子は一般に、悪魔祓い・疫病退散の役割を担うことが多いが、これが牛頭天王と同一視され、三春の祭礼においては、単に獅子舞ではなく、威勢のよい「荒獅子」になったのかも知れません。




人が死ぬと、「魂が霊となる」との考えは、世界共通の考えで、日本でも縄文時代から信じられていたと、言われています。
奈良時代には、厄災(天変地異や疫病等の災い)は不業の死を遂げた人達の、怨霊のなせる業と考えられる様になり、こうした霊を、丁重に祀り慰める事で、「怨霊」が「御霊」となり「鎮護の神」となって、平穏をもたらすとする「御霊信仰」が起り、怨霊を慰める儀式 「御霊会」 が行われる様になります。

この「御霊信仰」を背景に、疫病神である 「牛頭天王」を、お祀りし疫病退散を願ったのが 「祇園会」 (ギオンエ) であり、祇園牛頭信仰 のおこりだと考えられています。






 
 三春城下荒町の八雲神社の夏季例大祭の荒獅子奉納は、この半年の罪のけがれを祓い、夏以降の疫病除けを祈願する行事「夏越祓」(なごしのはらえ)の日役割もあるかと思います。







春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |
三春物語929番「荒獅子奉納」~荒町鎮守八雲神社祭礼


三春城下荒町の鎮守「八雲神社祭礼」の荒獅子奉納

7月26日(日)午前10時より


新しいポスターが出来ました!と顧問である儀同さんに戴きました。

早速、額に入れて店内に配置させていただきました。


三春城下でも、この八雲神社夏季祭礼だけは曜日に関係なく7月26日という日にちに固定されています。





三春城下の夏の風物詩「八雲神社夏季祭礼」
明治元年(慶応4年/1868)に発布された神仏分離令以前の祭神である「牛頭天王」に由来する日にだと考えています。
平安時代中期以降、京都祇園社(現八坂神社)で御霊会が営まれていますが、その祭礼の期日は疫病のもっとも発生しやすい旧暦6月でした。
これは、それ以前からおこなわれていた夏越の祓(なごしのはらえ)やこの時期にとりおこなわれてきた水神祭をも包摂していって、夏祭りとして全国的に広がっていったと考えられています。




インドの祇園精舎の守護神が、日本では天神と知られる牛頭天王(ごずてんのう)でした。この牛頭天王は、インドの牛の頭に似た牛頭山に住んでいたとされ、その山に自生していた「せんだん」という植物が熱病に効くところから、疫病を防除する神と信じられていました。

三春昭進堂 高橋龍一

| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |
三春物語609番「八雲神社夏季祭礼夏越払 荒獅子奉納」


「荒獅子」は、戦国時代の田村氏、江戸初期の松下氏、そして、江戸期秋田藩政下、三春五万石六十六郷領内総鎮守大元帥明王夏季例大祭の祭礼にて露払いとして奉納されていた獅子舞です。
城下町として栄えていた三春城下に疫病が侵入するのを防御の祈願のため、天王様(牛頭天王)と荒獅子が、疫病を鎮めるために、町中を練り歩くようになったのが、始まりとされています。

当所は、小山村(後の御祭村)の青年が長獅子を奉納していました。

叉、獅子頭は、小山村(御祭村)の名工によって作られその地名を獅子造りと呼ばれています。

荒獅子は、秋田藩政期には領内総鎮守大元帥明王に露払い(悪魔祓い)として奉納されていた三春独特の獅子舞で、三春に在る長獅子の中では一番歴史が古く、田村大元神社や八幡神社の長獅子はこれを明治期に伝授されたものと伝えられてます。

 
明治維新後の神仏離反、そして廃仏毀釈をうけた明治初期、大元帥明王社は、大志田神社を経て現田村大元神社に改宗改名した際に時の総代といざこざになり、以後荒町の八雲神社だけの奉納となりました。
牛頭天王は、現八雲神社の祭神で、疾病を防ぐ神であり、神道におけるスサノオ神と同体とされています。
 医療技術が乏しい時代に、疾病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、かなり大きかったと思われます。
 
牛頭天王は、単に「天王様」と呼ばれました。
また、荒獅子は一般に、悪魔祓い・疫病退散の役割を担うことが多いが、これが牛頭天王と同一視され、三春の祭礼においては、単に獅子舞ではなく、威勢のよい「荒獅子」になったのかも知れません。

人が死ぬと、「魂が霊となる」との考えは、世界共通の考えで、日本でも縄文時代から信じられていたと、言われています。
奈良時代には、厄災(天変地異や疫病等の災い)は不業の死を遂げた人達の、怨霊のなせる業と考えられる様になり、こうした霊を、丁重に祀り慰める事で、「怨霊」が「御霊」となり「鎮護の神」となって、平穏をもたらすとする「御霊信仰」が起り、怨霊を慰める儀式 「御霊会」 が行われる様になります。

この「御霊信仰」を背景に、疫病神である 「牛頭天王」を、お祀りし疫病退散を願ったのが 「祇園会」 (ギオンエ) であり、祇園牛頭信仰 のおこりだと考えられています。

疫病を対象とする「牛頭祇園信仰」 が始まった背景は、医学の未発達に加え、衛生的とは言い難い生活環境に加え、 更に、日本独特の高温多湿の梅雨、これらが重なり、赤痢・はしか・疱瘡等、現在では死者の出ることがまず無い疫病ですら想像を超える、死亡者が出てしまい、しかも皮肉な事にその伝染性は、人々が集まって生活する都市部で、より大きな悪影響をもたらし、都市に居住する人達の、最も恐れる、「厄災」 であった為でしょう。

 
 三春城下荒町の八雲神社の夏季例大祭の荒獅子奉納は、この半年の罪のけがれを祓い、夏以降の疫病除けを祈願する行事「夏越祓」(なごしのはらえ)の日役割もあるかと思います。
私たちが日常生活のなかで、知らず知らずに犯してしまった罪けがれを人形(ひとがた)に託して身体を清め、心新たに生活を営むべく、大きな力を得る大切な行事が『大祓(おおはらえ)』です。

名越、六月祓(みなづきのはらえ)ともいい、古代宮中で旧暦6月・12月晦日に行われました。
それが民間に普及し、特に6月の大祓は盛大に行われました。



「大祓」は太古、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が不浄(ふじょう)に触れられたときに、海で禊(みそぎ)をされた故事に始まって以来、代々の朝廷において夏と冬の末期にこれを行うようになり、神社においては江戸時代頃より庶民のためにこれを広く行うようになりました。
人々が日常の生活の中で、知らずに身についた罪穢(つみけがれ)を御神前で悔い改め、自分自身でお祓いをし、心身ともに清らかにする行事です。

素戔嗚尊(すさのうのみこと)に旅の宿を供して、難儀を救ったと
云われる蘇民将来(そみんしょうらい)が素戔嗚尊の教えに従って
腰に茅の輪を下げたところ、子孫代々に至るまで災いなく栄えたと云う
故事にちなみ各地では「茅の輪」をくぐる神事が伝わります。


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| ryuichi | 04:48 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |
三春物語608番「三春城下荒町 八雲神社夏季例大祭 荒獅子奉納」


八雲神社(天王さま)の祭礼(7月26日)は、新町の田村大元帥神社の祭礼(7月20日)と供に三春城下の代表的な夏祭りで、田村大元神社か八雲神社どちらかの祭礼は雨が降ると言われています。
戦国期の三春城主田村大善太夫義顕公の時、領内に疫病が流行し、領民の病甚だしい状況が続きました。

義顕公は、修験者を京都祇園社に詣でしめ、三週間祈願させます。
すると、霊験著しく領内の疫病直ちに駆除されたと伝えられています。

京都祇園社より分霊して、牛頭天王と尊称して後に天王山と呼ばれる、この地に鎮座します。
かつては、修験普明院(現存せず)を別当として社務を掌てていました。

村社八雲神社・旧牛頭天王の夏祭礼は、旧暦の六月二十七日をもって祭日と定め、前日二十六日には、三春領主の近臣、馬上代拝礼をたてていました。
田村公以後、蒲生氏、上杉氏、松下氏、秋田氏と領主は替わりますが、崇敬の捻は替わらず引き継がれます。

当時、医学・農業工学・の未発達な時代においては、農家の稲作に重要な雨を乞い、その恵みに感謝すると同時に、夏に発生しやすい疫病の除去を祈願することが中心となって脈々と受け継がれてきたのでしょう。
境内では、藩主秋田信濃守奉納の「月山丸」に由来する「剣の舞」が奉納されていましたが、今は途絶えてしまいました。



八雲神社は別名{胡瓜天王}とも呼ばれ、祭礼の時に参拝者は胡瓜二本を持参して神前に供え、帰りに別に一本の胡瓜と境内にある神笹を頂いて帰ります。
この胡瓜を食べると、病気にかからないと言われ、笹は養蚕農家では、蚕室に納めておくと、蚕の病気が無くなり、農家では魔除として戸口に差しておきます。
また、牛馬には笹を餌に混ぜて食べさせると病気をしないと昔から言い伝えられてきました。

神笹は、
神霊の依り代として、そして長獅子の髭からとった麻をひねったお守りは悪魔払いの白祓です。
依り代、依代、憑り代、憑代(よりしろ)とは、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や場合によっては神域をしめす。

荒獅子保存会による荒獅子(長獅子)が奉納にされ三春の夏を彩ります。
荒獅子は、秋田藩政期には領内総鎮守大元帥明王に露払い(悪魔祓い)として奉納されていた三春独特の獅子舞で、三春に在る長獅子の中では一番歴史が古く、田村大元神社や八幡神社の長獅子はこれを明治期に伝授されたものと伝えられてます。





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| ryuichi | 04:25 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |
三春物語336番「三春の富士神社」
下段富士塔 

八雲神社の山頂に富士神社塔が祀られています。

上段富士塔

富士神社は富士山信仰にもとづく神社で、講中によって富士にみたてた塚を構築し、富士神社を祀り信仰していた。
江戸時代に富士講が各地につくられ、富士山に登拝している。
富士講の組織は、講の統率者としての先達がおり、他に講元、世話人がいる。
 


富士講は、旧暦の1月と8月に行なわれた。
富士登山することを人生の課題とし、富士山に登ることにより健康や一家繁栄など、現世利益を得ることができるとされた。



参道階段

八雲神社

| ryuichi | 06:17 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |
三春物語15番 「三春城下牛頭天王」
   旧牛頭天王宮
その昔は、医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていった。
牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれたが、民衆にとって、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことであった。
 新たに牛頭天王を祀る社を作るのみならず、従来からの古社に牛頭天王を併祀することも多く行われた。
そして、それらが、いつの間にか、従来からの祭神を押しのけ、牛頭天王を主祭神とするようになり、社名までもが変えられていったのである。

 下って、江戸末期に入ると、先鋭的平田国学者や神道家が現れてくるが、彼らにとって、神道こそ絶対であるとして、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、記紀の中で重要な位置にあるスサノオ神と習合している牛頭天王は許しがたいものであった。
さらに、「てんのう」と称することは「天皇」に対する重大な僭称であり、大不敬と思われた。延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていることに彼らは憤激したのであった。
 やがて明治維新となる。国学者たちが拠った明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対しては、すべてその祭神をスサノオ神に変えるか、もしくは、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めた。



| ryuichi | 14:14 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下荒町::八雲神社 |