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三春物語48番 「征夷大将軍 坂上田村麻呂伝説」
  征夷大将軍 坂上田村麻呂
延暦年間、三春周辺など今の東北地方は、「蝦夷(えぞ)」といわれ、大和とは別の、国家を形成し、地域をそれぞれの豪族たちが、大きな力を振るって治めていた。
 大和朝廷では、今までにも何回か兵を出して、征伐統一しようとしたが、いつも思い通りにはいかなかった。
 京の都に、坂上田村麻呂という強い武人がいた。
田村麻呂は、朝廷の命令を受けて、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって、蝦夷(えぞ:今の東北地方)を征伐することになった。田村麻呂は、これまでにも、蝦夷征伐に加わったことがあり、蝦夷での戦は、大変苦しいものであることをよく知っていた。
 田村麻呂は、準備を整え、沢山の家来を引き連れて、いよいよ出発することになった。そのとき、立派なお寺のお坊さんが、田村麻呂にお別れにやってきた。そして、一つの小さな箱を渡してこう言った。
「この箱の中には、私が心をこめて彫ったものが入っています。何かの役に立つこともあるでしょうから、どうぞお持ちになってください。」
 田村麻呂は、厚くお礼を言って、箱のふたを開けてみた。すると中には、鞍までつけた小さな木彫りの馬がちょうど百頭入っていた。田村麻呂は、木箱を大切に持って都を出発した。
 京の都から蝦夷までは遠い道のりであった。長い長い旅だった。田村麻呂の軍勢は、手向かう敵を打ち破りながら、ようやく今の三春町の近くまで進んできた。
 そのころ、三春のはるか東のほう、大滝根山(おおたきねやま)の鬼穴を根城にして、大多鬼丸(おおたきまる)・高丸(たかまる)らの豪族(ごうぞく)たちが、たいへんな勢いを振るっていた。
 田村麻呂は、早速使いを出して、大多鬼丸らに降参するように呼びかけた。ところが、大多鬼丸は、降参するどころか、激しく戦いをしかけてきた。
 土地に慣れた敵たちは、逃げたかと思うと、思いがけない岩陰から、雨のように矢を射掛けてきたり、暗闇の中でも攻め込んできたりするので、田村麻呂の軍勢には、大変苦しい戦いであった。
 田村麻呂は家来どもを励まし、汗にまみれた馬にムチ打って、大声を張り上げながら進んでいった。そして、もう一息というところまで追い詰めたとき、見方の馬がバタバタと倒れ始めた。田村麻呂の乗った馬も、小さな堀を越えた拍子に、バッタリと倒れてしまった。長い旅と、激しい戦に、馬も疲れきってしまったのだろう。田村麻呂の軍勢は、ついに進むことも退くこともできなくなってしまった。
 小高い丘の上に陣取った大多鬼丸は、これを見て、
「今だ。今のうちに田村麻呂の首をとれ。」と、いっせいに攻め込んできた。
 そのときである。遠くから、波のように、たくさんの馬が地響きを立てて走ってきた。これには、敵も見方もビックリしてしまった。
 新しいくらまでつけた馬は、田村麻呂の前でぴたりと止まった。不思議なことに、駆けつけた馬は百頭、見方の軍勢百人と同じ数だった。
 田村麻呂が、先頭の馬にひらりと飛び乗ると、あとの九十九人も、すばやく飛び乗り、大多鬼丸の敵陣深く攻め入った。慌てたのは大多鬼丸である。勝ったとばかり喜んでいたのに、新しい馬の軍勢に、あっという間に蹴散らされ、とうとう滅ぼされてしまった。
 不思議なことは、その後にも起こった。
 戦いに勝つことができたのは、百頭の馬のおかげだと、おいしい飼葉も沢山用意し、大切にしてやった馬が、その夜、あっという間に消えてしまった。その知らせを聞いて驚いた田村麻呂は、ふと思い出した。京の都を立つときにもらった木彫りの馬のことである。
 急いで木箱のふたを開けてみた。なんと言うことだろう。百頭の木彫りの馬が、みんな、びっしょりと汗に濡れているではないか。
「そうか。この馬が私を助けてくれたのか。」
 田村麻呂は、涙を流すほどに驚き、戦いに勝った印にと、木彫りの馬にお神酒を供えて感謝し、祀った。
 田村麻呂は、三春の戦に勝った記念として、この木彫りの馬を村に残し、大切にするよう言いつけて立ち去った。
 不思議な出来事は、まだ続いた。
 田村麻呂が去った後、村人たちが木箱のふたを開けてみると、なんと、その中の一頭が消えてしまっていたのだ。いくら数えても九十九頭しか残っていなかった。村人たちは、言い合った。
「きっと、田村麻呂様を乗せた馬が、後を慕って、ついて言ったに違いない。」
 残された木彫りの馬は、箱に入れられたまま長い間大切に村に置かれた。
 その後、誰からともなく田村麻呂について行った一頭の馬をしのんで、木彫りの馬作りが始められた。三春駒は、このような語り伝えから、今でも作り継がれている。


| ryuichi | 17:32 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::馬頭観音別当華正院 |
三春物語178番 「馬頭観音」 別当天台寺門宗華正院とせり場
「馬頭観音」別当天台寺門宗華正院とせり場
 山並みの木々が色めき、三春の里は、秋の収穫で満ち足り、正に「天高く馬肥ゆる秋」。
荒町の馬頭観音は坂上田村麻呂の愛馬を祭ったという縁起を持ち、荒町はその門前町として栄えたといわれます、維新後、明治政府は陸軍の整備に伴い軍馬や農耕馬として馬の需要が高まり、三春駒として名高い三春では馬の飼育に力が注ぎ込められました。
三春駒全盛期の馬頭観音祭礼は、旧暦三月十七日で、田村郡内より各講中の代表者が前夜から夜篭りの為、泊り込みで参拝に訪れ、そのため別当職(馬頭観音を取り仕切る役)天台寺門宗華正院は夜を徹して、終日参拝の人々で混雑したと言われます。当時、北町の北野神社とは祭礼の期日が近い事で、馬頭観音様が馬の神であり、北野天神様の使いが牛である事から、祭礼の賑やかさや人出を競い合い、馬か牛かどちらが勝つかと、町民の季節の話題になり期待でもあったと三春町史は伝えています。
現在、華正院馬頭観音には八十余枚の絵馬と伴に静かな佇まいを見せ、訪れる人々を和ませています。
 当昭進堂の脇、私ども新町住人は何気に“せり場”と呼んでいますが、旧三春家畜せり市場跡地のことで、三春駒として古の征夷大将軍坂之上田村麻呂東夷追討由来し、全国に名を馳せた三春産馬のせり市場です。
「奥州三春に 庚申坂なけりゃ 旅の馬喰も 金残す」旧遊郭庚申坂と伴に三春甚句にうたわれ、近年になっては三春牛の競り市が二月に一回開かれ、郡内から馬喰や酪農家が多数訪れで賑わいを見せ、当店なども大変な混雑で、おたりまんじゅうは飛ぶように売れるし、おでんは売るはで、饅頭屋なのか食堂なのか判らない有様でしたが、約20年前に牛の競り市も本宮に移り、せり市場跡は新町のイベントで使用したり、お買い物駐車場として活用しています。私などは幼き頃より嗅いだ、牛糞の匂いが懐かしく感じられます。
先の三春大神宮祭礼でもこのせり場は活躍し、新町睦会による新町花車の無事奉納を祈念して第9回大宴会が昭進堂脇の“せり場”に於いて催され、字委員をはじめ、400人を越す字内外の老若男女が見守る中、大道芸人の芸や、婦人会、新寿会の歌や踊りに、こども達も大喜びでお祭り気分の盛り上がる楽しい一夜となりました。
 
          合掌


| ryuichi | 22:22 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::馬頭観音別当華正院 |
三春物語182番 「田村三十三観音 馬頭観音」


田村三十三観音 馬頭観音
山並みの木々が色めき、三春の里は、秋の収穫で満ち足り、正に「天高く馬肥ゆる秋」。
荒町の馬頭観音は坂上田村麻呂の愛馬を祭ったという縁起を持ち、荒町はその門前町として栄えたといわれます、維新後、明治政府は陸軍の整備に伴い軍馬や農耕馬として馬の需要が高まり、三春駒として名高い三春では馬の飼育に力が注ぎ込められました。
三春駒全盛期の馬頭観音祭礼は、旧暦三月十七日で、田村郡内より各講中の代表者が前夜から夜篭りの為、泊り込みで参拝に訪れ、そのため別当職(馬頭観音を取り仕切る役)天台寺門宗華正院は夜を徹して、終日参拝の人々で混雑したと言われます。
当時、北町の北野神社とは祭礼の期日が近い事で、馬頭観音様が馬の神であり、北野天神様の使いが牛である事から、祭礼の賑やかさや人出を競い合い、馬か牛かどちらが勝つかと、町民の季節の話題になり期待でもあったと三春町史は伝えています。
 現在、華正院馬頭観音には八十余枚の絵馬と伴に静かな佇まいを見せ、訪れる人々を和ませています。




| ryuichi | 15:33 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::馬頭観音別当華正院 |