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三春物語281番「初秋の高乾院」
三春藩主菩提寺安日山高乾院


家老墓所へ向かう参道


つくばい


裏庭の「心字池」






荒れ放題になっている、家老職 荒木家の墓所



| ryuichi | 14:01 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::安日山高乾院 |
三春物語229番 「三春盆風景 高乾院の迎え火」

三春藩主菩提寺高乾院の迎え火風景

八月、三春城下各所で太鼓の練習が始まり、お盆の時期を迎えます。
お盆は、三春に限らずの寺院では、施餓鬼供養が行われますが、地獄の責め苦を救うという目的より、一般的には、先祖の霊が帰ってくる日として考えられています。
また、帰ってくる祖霊にさまざまな農作物を供えるしきたりから、豊作儀礼としての意味もあります。す。
祖霊を迎えるための盆棚を作ります。盆棚に仏壇から位牌を移し、盆の間仏壇の扉を閉めておきます。
盆棚には季節の野菜や果物、キキョウ、萩、ホオズキ等のお盆につきものの花、白玉だんごなどを供え、先祖の霊が乗るといわれるきゅうりやなすびで作った馬や牛を並べます。きゅうりに割り箸を刺した馬は、お盆に少しでも早くこちらに着けるようにとの思いを表現したもので、なすびに割り箸をさした牛は、お盆が終わって帰るときはゆっくりと、という思いがこめられているといわれています。



かつての、三春城下での「盆の墓参」は、城下町らしく旧士族は紋付き袴と定紋付弓張提灯を持って12日夕刻、町方は13日の夕刻に参るとされていました。
どちらも、夕方暗くなったら門口で「迎え火」をたいて祖霊を迎えます。
これは、祖霊が迎え火を目印に帰ってくるといわれているためです。
新盆の家に飾る「盆提灯」に電気をつけるのも同じよな考え方で、その家の中に祖霊が滞在している印であるとされています。



16日の送り盆には、夕方暗くなったら、祖霊があの世に無事につくようにとの願いをこめて、家の門口で「送り火」をたいて祖霊を送ります。



| ryuichi | 20:24 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::安日山高乾院 |
三春物語175番 「三春高乾禅院修業道場」八十八夜
  
  
「三春高乾禅院修業道場」八十八夜
桜も散り、観光客の賑わいも去って、北国の小さな城下町三春のお茶屋の店先にも、「新茶」ののぼりが立つ季節、初夏を知らせる香りの贈り物です。
江戸期、荒町の安日山高乾禅院には名僧高僧が在錫する全国でも屈指の臨済禅宗の修業道場がありました。その下に全国から雲水(修行僧)が競い集まるが如く参禅し、またその徳を慕って参拝の人々が全国より多数三春へ集まり、宿坊が軒を連ねたといいます。
なかでも関東鎌倉禅を継承する第十九世北禅道済とその弟子第二十一世月船禅慧は高名な禅僧で、高乾院は多くの学人、雲水を教育する学問所そして、また修業道場として全国に名を馳せたと言います。
その為に三春には精進料理に欠かせない豆腐屋とお茶屋、そして菓子屋が多いと、お客様より伺った事がありました。
 「夏も、近づく八十八夜・・・・」。明治末期に制定された小学校三年生の、尋常小学唱歌だそうです、八十八夜は聞いた事があるが、何のことなのか、知っている人のほうが少ないのではないでしょうか、立春(二月四日)から数えて八十八日目(五月二日)をいうのですが、一番茶、新茶の摘み取り時期なのだそうです。
 


年に三回から四回、茶摘みが行われますが、この八十八夜ごろが新茶、六月の初めから終わりごろが二番茶、八月に三番茶が摘まれ、九月になって秋番茶が摘まれることもあるそうです、もちろん新茶がもっとも香りが高く、まろやかでおいしいお茶がでる、三番茶位になると、渋み成分でもあるタンニンが増えて、まろやかさが少ない、とんがった味のお茶になります。
 新茶は非常にデリケートで、煎れる際には大変苦労します、毎年の事なのに、温度がうまく決まらず何度か必ず失敗しています。水も何年もの間、とっかえひっかえ、いろいろ試してみましたが、最近やっと気に入った水を三春で見つけました。

 

日本に臨済宗と伴にお茶をもたらした歌人でもある栄西禅師、その臨済宗高乾禅院修業道場の雲水を偲び、年に一度の八十八夜。
豊かな自然の風味が存分に味わえるお茶の旬を味わいたいものです。
                      
合掌


| ryuichi | 06:59 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::安日山高乾院 |
三春物語238番 高乾院の梅 「鶯宿梅」
三春藩主菩提寺高乾院の宇内に一本の桜の老木があります。
荘厳な伽藍も焼け落ちた江戸後期の「三春天明の大火」に焼け残った桜です。
いつの頃からか、その根元体内から梅ノ木が自生し、毎年可憐な花を咲かせます。

高乾院は、臨済宗妙心寺派の禅宗寺院です。
臨済宗は、鎌倉幕府が開かれる前年、宋から帰国した「榮西」によって伝えられた禅の一派です。
以来、戦国武将の庇護を受けるなど武士階級に好のまれた臨済宗は、三春でも水墨画や茶道など中世の文化に影響を与えました。
華やかというよりは質実剛健、動というよりは静。自然や閑寂を好む禅には梅が良く似合います。



「春告草」と呼ばれる梅は、その名のように厳しい冬を乗り越え、百花に先駆けて花をつけます。
北国三春では「梅ノ木がない場所を探すのが難しい」そんな言葉を耳にするほど、三春の風景に梅が自然に溶け込んでいます。
戦国期に田村義顕が城を築いてから城下町として、寺社を中心に文化的発展を遂げたこの地には、寒空にあって一輪一輪、凛とした表情を見せる梅の清らかさが似合うのでしょう。
「桜の花見」のような華やかさはありませんが、それがかえってこの土地には似合っているように感じます。

 「梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に 梅と桜を咲かせたい」

花に名残り雪を載せる姿や、春を待ちわびていた小鳥を枝にいざなう姿に、梅の魅力を感じます。何ものにも先駆けて咲く梅の花には格別の愛着を感じるように思います。
春を告げ、呼び込むものであると 信じられた貴い花なのでしょうね。  

また、梅は「好文木」とも呼ばれます。これは、「学問に励むと美しい花を咲かせる」という中国の故事に由来するもので、梅を愛でた学問の神様、菅原道真公を祀る天神様には、今も梅の古木が多く見られます。



 梅と鶯にまつわる話は、数多く残されていますが、中でも「鶯宿梅」の話は、よくご存知のことと思います。
 村上天皇の御代(平安時代中期)のこと。帝が大変大事にされていた御所清涼殿の紅梅が枯れていまい、よく似た梅をと探されました。
 やがて、西ノ京に住む紀内侍の屋敷の見事な紅梅が目にとまり、清涼殿へ植え替えられました。ところが、その梅の枝に一首の歌が結ばれていました。
 「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問はば いかに答へむ」
 この歌を詠んで、胸を打たれた帝は、ただちにその梅を内侍にお返しになったというお話です。
 己の欲するがままに言い、行動するのは容易いことですが、他人の心を傷つけず、自分の意思や気持ちを正しく伝えることには、相手への温かい思いやりの心と冷静な判断を要します。
 内侍は、「歌」という文学を通じて帝の心に訴えました。そして内侍の教養と知性が、帝に振り返る余裕を与え、自ら「我儘」を気付かせたのでしょう。
 私たちの日常の暮らしの中にも、これに類することが多々あります。人に無理を言われたとき、人に何かを注意したいとき、何かをしてほしいとき、中でも目下のものや、子供に注意をするときは、とくに温かい思いやりと冷静さを大事にしたいものです。どんな正論も、相手に受け入れられて、はじめて意義のあるものですから。

「梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳ゃなよなよ風次第 山吹ゃ浮気で色ばかり」

梅が我が国の文献に表れるのは、7世紀末から8世紀初頭であるといいます。
そういえば万葉集なども、桜を詠んだものより梅を謳ったものの方が遥かに多いようです。これより以前に梅についての文献がないこと、そして山野などに自生しているものがないことなどを理由に、中国から渡来したものだと考えられています。
しかしその端緒はどうあれ、古来より現在も尚、初春を慶ぶ象徴とされてきた花は日本人の心に深く根ざしたもののひとつであるといえましょう。

谷梅之助は、高杉晋作が使った変名です。
また、才谷梅太郎、坂本竜馬の変名です。

「どんなに寒さ厳しく冷たい冬が続いても必ず春は来る」まだ冬も終らない季節から、何よりも花を付け始める梅。

維新前夜、明治という新しい国を春になぞらえ、幕末の早春期に活躍しているという意味をこめて、二人は変名に「梅」という字を使ったのでしょう。



| ryuichi | 05:45 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::安日山高乾院 |