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三春城下冬のライトアップ2016 三春藩主秋田家藩主菩提寺「秋田山龍穏院」


三春城下冬のライトアップ2016 

「三春城下曹洞宗寺院ライトアップ」


三春藩主秋田家藩主菩提寺「秋田山龍穏院」





荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移したと云う禅宗の古刹です。

鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家の菩提寺です。

江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。




 
幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました。
今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:33 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |
三春物語803番・秋田山龍穏院境内の金毘羅大権現



秋田山龍穏院境内の金毘羅大権現です。

10月10日が金毘羅さんの日とされています。
これに合わせて金毘羅宮の祭礼を挙行しています。



対面にあるのが、平石から移築された平石不動尊です。

毎年11月の第三日曜日には、この平石不動様の祭典を行っています。



三春昭進堂 髙橋龍一




| ryuichi | 15:28 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |
三春物語636番「三春藩主菩提寺龍穏院開山二代月泉良印和尚」


三春秋田家菩提寺龍穏院の創建開山は、三春城主秋田公に請われた、総持寺25哲の一人とされる二代月泉良印和尚です。
月泉和尚は、秋田家の祖安東氏とはご縁があります。





先の正平四年(1349年)、大館の松原に湊安東家党首安東盛季の菩提寺である秋田最古の曹洞宗禅寺といわれる亀像山補蛇寺を創設しています。
この寺の初期の歴史は明らかでないが、湊安東氏の外護(げご)により栄えたと思われる。曹洞宗大本山総持寺の直末である。



また、「月泉四十四資」といわれる弟子が輩出し、岩手県南部から現在の宮城県、山形県、埼玉県、千葉県などで多数の末寺が開かれ、正法寺が大きく発展していきます。



尚、三春に於いて月泉良印和尚は同じ三春城下曹洞宗天澤寺と僧録所問答を10年繰り広げたことでも知られています。
僧録とは寺院及び禅僧を管理・統括する役職



錦秋の朝日を浴びる城下の山々




三春昭進堂 髙橋龍一

| ryuichi | 04:39 | comments (x) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |
三春物語174番 「曹洞宗秋田山龍穏院」安倍安東ノ称生駒秋田家菩提寺


「曹洞宗秋田山龍穏院」

安倍安東の称、生駒秋田家菩提寺
北国三春も梅雨、その蒸し暑さを楽しんでいるかのようです。
 そんな夏の喧噪をよそに、涼しげに佇む荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、禅宗の古刹です。
三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移しました。そのときに、宍戸より運んだ、初代藩主の祖父愛季公の墓石があります。

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鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家の菩提寺です。
歴代三春藩主の中で、第8代藩主謐季(やすすえ)候だけが埋葬されています。

安藤氏は、奥州藤原氏の滅亡の後に蝦夷の支配権(東夷成敗権)を掌握した鎌倉幕府から、代官としての地位を与えられ、執権北条氏の津軽や糠部の所領(得宗領)の管理と夷島管理を行い、海運の掌握を背景に北方世界に君臨していた。応永年間に室町幕府を震撼させた北海夷狄の動乱の鎮圧に活躍した功により、宗家の津軽十三湊の下国(しものくに)安藤氏の安藤康季(やすすえ)が、日の本(ひのもと)将軍に任ぜられた。

永享八年(1436年)には、後花園天皇の命を受けて若狭国小浜の羽賀寺を再建しているが、『羽賀寺縁起』にも「奥州十三湊日之本将軍阿倍康季」と記されている。

さて、「日の本」とは、もともとは「日高見」と同様に東の意味で、古代には主に陸奥国の現在の岩手県辺りを指していたが、その後次第に北上し、中世には、国家統治の東の境界の地と認識された外ヶ浜あたりを指した。
15世紀には更に北上し、外ヶ浜と夷島を含んだ地域概念となる。

なお、「将軍」とは本来天皇から任命された追討将軍を意味することから、安藤氏に与えられた「日の本将軍」とは、古代の鎮守府将軍にも比すべき蝦夷征討将軍を意味し、北海道を軍事的に支配する将軍を意味した。



中世後期の物語『さんせう太夫』にも、安寿と厨子王の父が「奥州日の本将軍、岩城の判官正氏」と記されているが、当時日本海を行き交う人々の間で語られた話であり、安寿と厨子王は越後の直江津を中心に丹後から蝦夷島までを舞台としていますが、物語中の日の本将軍とは、安藤氏のイメージだとされている。

下国安藤氏はそれほどの実力者だった。




江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。
 
平均寿命の短かった江戸期、藩主はじめ領民が生きる支えとして仏教へ帰依し、心の拠り所として信仰を集めました。
 幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました。
今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。
ご本尊の釈迦牟如来は、今日まで三春に生きる私たちを導いているようです。
 
龍穏院には、お彼岸の時だけ掛けられるという、土佐断金隊隊長美正貫一郎の書いた掛け軸があります、私も多少のご縁があり時折足を運んでおりますが、仕事柄彼岸の頃は仕事に追われその掛け軸をまだ見る機会に恵まれておりません。
 美正貫一郎という人は、幕末戊辰戦争に於いて会津藩に就くか、薩摩長州土佐を中心とする西軍に就くか、未曾有の混乱の中で三春藩が選択を迫られた時、三春攻め直前に三春藩恭順派を受け入れ、戦塵から三春を救った土佐藩士です。

土佐金隊 美正貫一朗
毎年、春と秋の彼岸の期間中に、龍穏院小書院に掲げられる掛け軸があります。
作者は、戊辰戦争当時、三春を戦火から救った土佐断金隊隊長「美正貫一朗」です。
美正貫一朗は、天保15年(1844)1月~明治元年(1868)7月28日、医師・下村惇斎の次男として生れ、23歳で高知城下南奉公町の徒士格美正家を継いだ。胆力があり機敏な人であったという。明治元年戊辰戦争では迅衝隊一番隊司令として出征した。同年3月2日甲州に入り浪士掛探索役となったが、江戸到着後、甲州の有志を中心として遊撃隊を組織し、断金隊と称してその隊長となり、恩愛よく部下を掌握した。
閏4月21日今市に戦い、各地の探索と宣撫工作を続けて北上し、貫一郎の献身的な周旋によって奥州越列藩同盟の一角であった三春藩の無血開城が実現し、彼の徳を慕う有力者から三春滞留を求められたが実現せず、慶応4年7月27日二本松城攻略のため本宮に向う途中、阿武隈川渡河の際、銃弾に当って戦死した。


| ryuichi | 06:35 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |
三春物語55番 三春藩主菩提寺の「除夜の鐘」
大晦日、一年最後の締めくくりの日です。
北国の小さな城下町三春の、田村大元神社、三春大神宮の元旦祭、
そして八雲神社の七福神舞が除夜の鐘とともに挙行されます。
三春藩主菩提寺 龍隠院の除夜の鐘が響き渡り、同じく藩主菩提寺 高乾院の甘酒振る舞い、
そして真照寺、福聚寺など各寺院の元旦法要など、城下町三春は新年を祝います。

新年を迎える、各地のさまざまな風習の中に、その一年の反省と明くる年への願いがこめられています。
大晦日は別名除日(じょじつ)といい、その夜なので「除夜」といいます。
 古来より、日本には、ご先祖様はお盆と正月に家に戻ってこられるという信仰があり、大晦日の夜がご先祖様の到着する時とされていました。そのため、この日だけは夜を明かして宴を催すなど、早く寝ないで過ごす風習が生れたようです。
 このように特別な意味合いを持つ除夜には、寺社への参詣もいつも以上にご利益があると考えられるようになったのでしょう。 
除夜に年をまたいでお参りをすることで二年分のご利益を得るという 「二年参り」 といった風習が各地で見られるようになり、現在では、除夜のお参りと初詣を兼ねるようになっています。
 本日は、除夜会という法要を営み、場所を鐘楼に移して読経が始まります。
そして、いよいよ除夜の鐘になります。除夜の鐘を撞くタイミングは、大晦日のうちに撞き始めるところもあれば、新年を迎えてからというところもあり、厳密な決まりは無いようです。
 除夜の鐘の回数は百八回とされますが、これは百八煩悩といって人間の持つ煩悩の数とされます。かつては毎日朝夕二回、百八回も鐘を撞いていたといいますが、現在では年に一回に。 大晦日の夜、鐘を一回撞くたびに煩悩が一つずつ清められる中で、一年を反省し、心新たに新年を迎えるというわけです。
  除夜の鐘を聞くと、人間の煩悩とは金銭欲や性欲だけが煩悩ではなく、 私たちが日常起こす様々な感情が煩悩の源であることに気づかせてくれます。
 大晦日に食べるものといえば年越しそば。年越しそばの習慣は江戸時代中期が起源。そばの麺のごとく長生きができるように、家運がのびるように、などの願いがこめられています。逆に細くて切れやすいことから、一年の苦労や厄災を年内に断ち切ってしまおうというという説もあります。

蒼龍謹白   合掌


| ryuichi | 07:29 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |
三春物語177番 「曹洞宗秋田山龍穏院」
  「曹洞宗秋田山龍穏院」“四諦(したい)四苦八苦“
北国三春も梅雨が明け、木々が今を盛りに夏の暑さを楽しんでいるかのようです。
そんな夏の喧噪をよそに、涼しげに佇む荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移したと云う禅宗の古刹で、鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家十一代の菩提寺です。

江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。

平均寿命の短かった江戸期、藩主はじめ領民が生きる支えとして仏教へ帰依し、心の拠り所として信仰を集めました。
幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました、今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。

ご本尊の釈迦牟如来は、今日まで三春に生きる私たちを導いているようです。

 龍穏院には、お彼岸の時だけ掛けられるという、土佐断金隊隊長美正貫一郎の書いた掛け軸があります、私も多少のご縁があり時折足を運んでおりますが、仕事柄彼岸の頃は仕事に追われその掛け軸をまだ見る機会に恵まれておりません。
美正貫一郎という人は、幕末戊辰戦争に於いて会津藩に就くか、薩摩長州土佐を中心とする西軍に就くか、未曾有の混乱の中で三春藩が選択を迫られた時、三春攻め直前に三春藩恭順派を受け入れ、戦塵から三春を救った土佐藩士です。

四諦、四苦八苦という仏教用語があります、老、病、死、そして生という時間的な苦しみの四苦と、空間的な苦しみである愛別離苦(愛する者との別れ)、怨憎会苦(憎い者に合う)、求不得苦(欲求不満)、五蘊盛苦(ものを持余す)を加えて四苦八苦と言います。

私たち人間は、この世で生き抜く為にはどうしてもこの四苦八苦に遭わなければなりません。

しかし、その四苦八苦を素直に受け止め、この四苦八苦が在るおかげで人間として成長できる様に、負として受け止めるのではなく、四諦を業としてプラスに変えて受け止めることによりこの世に在る私たちを導く指針になるでしょう。

「自分を見つめ、自分に話し、自分で答える」

三春和合会短冊より
                合掌

三春昭進堂 髙橋龍一


| ryuichi | 22:28 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |