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旧貝山村 白山比咩神社




三春在旧貝山村に鎮座する白山比咩神社は、大同年間に加賀国白山比咩神社より分霊を玆(ここ)に移したと伝えられています。






加賀の白山比咩神社は、全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮です。





白山比咩神社では、御祭神は、菊理比咩命という『日本書紀』に登場する女神さまです。

菊理比咩命とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。






菊理比咩命(尊)の菊理(くくり)は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。


『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。

この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。





伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。
ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。

「絹本著色白山三社神像」重要文化財黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理比咩尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。







享保二年八月土用月に、村中で奉納した石造鳥居です。


飢饉の回避祈願でしょうか・・・






山内西御殿と称される白山公園にあるブナの木です。


昭和二十年四月の日にちと一緒に男子の名前が刻まれています。



出征する我が子の無事帰還祈願でしょか?








郡山市中心部が一望できます。







白山神社のふもとに旧貝山村にある貝山観音堂です。


田村三十三観音の第三十一番札所となっています。


十一面観音をお祀りしてあります。
高速道路建設に関連して、白山神社の麓に移設建立されています。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::貝山・柴原 |
「三春影山一二・キクのルーツを辿る」~ミッション2:伝承「影山家は南の国からやってきた!」



「三春影山一二・キクのルーツを辿る」~ミッション2:伝承「影山家は南の国からやってきた!」


当店発行の塵壺330号 「三春版ファミリーヒストリー調査の顛末記」そして、平成31年1月発行でご紹介した東京のN様のご先祖探しが一つの形を迎えさらに、その進化系として第二段階へと進んできました。





その第2弾として、先「三春影山一二・キクのルーツを辿る」~ミッション2:伝承「影山家は南の国からやってきた!」~という報告書にまとめられ、当店にも送付いただき、参考になる内容とその調べ方に感動しながら、ワクワクしながら楽しく拝読させていただきました。







お菓子までいただき恐縮しています。



その調べたかも折りに触れご教授いただいています。







また、調べるということはとても労力が要ることだと思っていますが、Nさんのバイタリティーには頭が下がります。


そして、こちらにもパワーをいただいています。







コレクションの記念切手を惜しげもなく資料請求やその返信等の郵便物に使っていますが、捨てられません!



お盆にふさわしい案件です!



さらなる進展を期待し、ご祈念を申し上げます。



ありがとうございます。



| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::貝山・柴原 |
込木見渡神社、楽内熊野神社 五穀豊穣、洞内安全祈願の辻札




三春城下郊外、「込木洞」込木集落入口にある込木見渡神社の五穀豊穣、洞内安全祈願の辻札です。


昔より、三春城下在村人は、村の外から疫病(えきびょう)や災厄(さいやく)が村内に入り込むのを防ぐために、村の出入り口で「道切り(みちきり)」と称される「祈祷(きとう)」や「呪(マジナ)い」をしました。









毎年、夏越しが過ぎ7月はじめ付近になると、三春城下郊外の村々では御祈祷といって一家の戸主(世帯主)が村内の神社神前に集り、神主さんを呼んで、洞というくくりでの村民の無病息災・五穀豊穣を祈念しています。


その祈祷した「お札」を竹に括り付けて「御祈祷御璽(ごきとうぎょじ)」、「辻切り(ツジキリ)」の辻札として、辻などの突当りとなる村の入口、特に鬼門(東北)や裏鬼門(南西)の方角に立て「魔物の防壁としたもので、 ...外部より病魔や災難が村内に進入しないように願っています。









お札には、洞(ふら・うつろ)内安全と記載されています。

洞(うつろ)とは、集落を指しています.

その語源は、室町時代後期から安土桃山時代・戦国時代にかけて、三春城主田村氏(奥州及び坂東の戦国大名)に見られた田村氏一族以外の配下・合力与力の「武士団」形態で、田村領八十八郷の村々の地侍・惣領である地域の当主を中心に一族呼ぶ総称です。










鎌倉武士の「一所懸命」という感覚で、生活の糧である先祖代々伝わっている所領(田畑土地山林、屋敷など)を一族郎党で命をかけても守るという考え方が残り、力関係で国主.盟主の配下として与力する一つの武士集団のくくりで、農兵分離後の江戸幕藩体制の確立に基づく近世大名における「家中」、家臣という位置づけです。








戦国時代の仙道(今の福島県中通り地方附近)は、中小の戦国武将・地侍がひしめく激戦区でした。


田村荘司田村氏の流れを汲む三春田村氏も同じ、長年にわたり四面楚歌の状態が続いています。


その状況下の中で、三春田村領内に於いて地侍と地縁的、族縁的な「洞中」の領主連合を形成し、その盟主としての地位を固めていったと考えています。







楽内熊野神社 「楽内洞」の辻札










医学の未発達な時代、人々にとって「疫病」は大きな脅威でした。

疫病に罹らないように行われたこうした加持祈祷には、人々が期待し、慎み、みんなで協力して疫病や災厄を祓い、それによって幸運が訪れることを願う気持ちは現在も同じです。










また、村の入口には道祖神が祀られています。


「塞の神」とも呼ばれ「塞(ふさ)ぐ」という意味です。





込木末の馬頭観世音石碑



この神さまも、村の外から来る疫病 (伝染病)や災害などをもたらす悪霊を防ぐために、村の入り口(村境)や道が交差し様々なものが吹き溜まるところとされる“辻”に祀られた神さまであります。






辻切りのためなのか、川平道と滝道の辻の突き当りに建立され「魔物」の防壁としています。






田中坂末の馬頭観音石碑





こちらも、芹ケ沢道と滝道(御館道)の辻の突当りに建てられています。







込木洞の一つです。







高速道路「磐越道」の陸橋下、柳橋道の立体交差にも設置してあります。







交差する辻は、平面立体問わず、天界・地獄界も含めた”辻”という意味合いも含まれており、位階的な感覚なのでしょう。


行き場のない魔物や禍が迷い澱む場所とされています。


洞内の交通安全祈願です。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:07 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::込木・楽内・芹ケ沢 |
笠石八幡宮 おタリさんの出身地根本集落



都市部へのコロナウイルス拡散非常事態宣言が圧令される中、時間を見て三春昭進堂の創業者でもある「おたりさん」の出身地である旧根本村にある「笠石八幡宮」へ、例年の行事として境内の掃除を兼ねてコロナウイルス感染の終息と商売繁盛祈願のために参詣いたしました。

勿論、コロナウイルスの終息祈願でもあります。

門前を飾る紅枝垂れ桜や染井吉野の大木はまだ咲き始めといった具合です。

いつ行っても、心身を洗い流すような、爽やかな風が通り抜け、とても居心地の良い気持ちのいい場所です。

きっと、頑張って商いをしている私たちを”おたりさん”が褒めてくれているんでしょう。






笠石八幡宮

三春城下から瀧桜を超えてる天領柳橋への街道から駒枝に抜ける途中の集落沿いにあります。

道路沿いに、木の鳥居があり、うっそうとした杉木立に覆われた境内には、本殿を取り囲むように巨岩が累々と積み重なっています。

小さな社殿の横から上方に掛けて、数体の岩が顔を出し、最上部に巨石が鎮座しています。

昔、八幡太郎源義家が安倍一族討伐の時、根本村に立ち寄ったところちょうど村では麻疹が大流行で村人たちは大変困っていた。

これを聞いた義家は、「それは大変だ。その悪魔を征伐してやる」と、笠石八幡の場所より南西の天目がけ、馬上より鋼弓に一矢をつがえて射放した。

麻疹の悪魔もその威勢に恐れて退散したのか、重い麻疹も急に快復した。

今も射放した場所には、馬蹄の跡が石についており、放たれた矢は、遠く堀越村の井堀に落下して井戸となったという。
この間を「一矢間(ひとやま)」と伝えられている。

笠石八幡の祠に至る前に、二つに割れた石の胎内くぐりがあって、笠石と呼ばれる巨大な石が載っているところから、笠石八幡と呼んでいたという。






当三春昭進堂の創始者おたりばあさんの亭主は、民四郎と云います。

込木は柳作の本家から苗字とこの場所を頂いて分家しました。

子供の時分より講釈と物書きが大の得意で、畜産組合の書記・庶務や、目の前にある庚申坂新地の遊廓でも、会計や伝票書きの仕事を手伝う傍ら、酒席が大好きらしく、座敷に入っては太鼓持ちをやっていたと聞き及んでいます。

また、民四郎さんは、政治や時事論が好きで、昼間から客と論じあっていたようです。

その間、おたりばあさんはせっせと饅頭や豆腐等で商いをして、10人の子供を育て上げました。

お世辞にも可愛いとか綺麗という賛辞の語は見当たりませんが、苦労が顔に滲みこの人に人生ありの素敵な尊顔です。






三春っ子の私は、やはり春が大好きです。

もちろん、仕事が忙しくて、面白くて仕方がないというのもあります。

また、寒い冬を越す新春を愛でるという日本人的な感性ということもあろうかと思います。

実は、この春がという季節は三春城下の和菓子屋ということで花見団子とおたりまんじゅうの製造販売に追われ、毎朝3時起きで仕事をしています。又、その日の注文によっては午前1時や午前0時というのもあります。

当然夜9時前には就寝態勢に入ろうと段取りします。
お昼もの食事も立ったまま食べられればイイ方です。

体的には辛いんだろうと思いますが、この時期春仕事以外は何もしていません。

その中で一番の楽しみが日暮前の少しの時間に、散歩を兼ねてお城山や関連寺社の参拝とゴミ拾いに出かけます。
気晴らしと運動不足解消です。
これがまた楽しいんです😊

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:11 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::瀧・根本 |
三春物語551番「滝の延命地蔵尊」




滝桜を見下ろす小高い丘に安置されている「滝の延命地蔵尊」です。


女人講の供養塔や石仏、そして庚申塔も祀られています。







三春では各地で女人講が行われていますが、幕末から明治初めごろに始められた「女人講」が、いまも伝統行事として継承されています。

日常生活からの束の間の解放や女性同士の連帯感を強める上での役割は大きな意味を持っていたのでしょう。








ちょうど滝桜に相対して建立され、桜花の時期には良い眺めなのでしょう。








三春は、信仰の里でもあります。


昨日、4月1日に滝桜の開花が発表されました。



春陽郷三春城下 御菓子司三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:17 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::瀧・根本 |
柴舘(城)趾  田村四十八舘




柴原館(城)趾

下記は、昭和30年代初頭の三春広報からの抜粋です。

三春ダムの出来る以前の表記となっております。


三春城下新町から込木を通って蛇石に出る県道が、柴原に入って大滝根川にかかった橋を渡る。

その右手に、よく見れば、何か由緒のある処かと思われる、小さな丘がある。

それが柴原城の跡である。

天文、永禄といえば、室町時代の末期で、戦国の乱世、約400年の昔である。


三春城が出来て間もない田村義顕の時、防備を固め勢威を張るため、領内各地に40余の城砦をきずいて、諸将を配置した。

後の田村四十八館と呼ばれていた要塞陣です。

柴原城もその一つらしい。

城将は、橋本助右衛門、禄高450石。

館(城)は、三春札所から1里、根まわり170間、高さ20間、

本丸は南北28間、横18間。

この橋本氏は、下枝城の橋本刑部の一族と伝えられているが、記録が少く、地方の人にも余り知られていないようだ。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:57 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::貝山・柴原 |
狐田の桂昌寺山内にあった青面金剛庚申塔(しょうめんこんごうこうしんとう)石像がなくなってしまいました。




滝桜にほど近い中郷地区狐田の桂昌寺山内にあった青面金剛庚申塔(しょうめんこんごうこうしんとう)石像がなくなってしまいました。

他の六地蔵や石仏、仏塔などはそのままでした。

地域の貴重な文化遺産がまた一つなくなってしまいました。

他の神社でも同様の被害があるみたいです。

古の狐田村の皆々様が、地域住民の健康を願って建立されたものです。

冷静な心を取り戻して、そっと返していただけることを願っています。


以下、区長さん、社寺総代長さんのお知らせ文です。






お寺の境内の石塔二基が盗難にあいました。
去る4月8日桂昌寺にて例年通り大般若会が営まれましたが、境内に長年あったはすの石塔がなくなっていることに、出席者が気づきました。
警察に連絡をしたところ、中郷駐在員佐々木氏他1名の警察官が来て現場を確認していきました。
このことについて、狐田地区内の数名の方々のお話を伺いましたが、「3月17日(彼岸入り)の早朝にはあの石塔はあったように思う」と証言する方もおれば、 「3月18日の午後にはあの石塔はすでになかった」と語る方もおられます。

この件につきまして、何か思い当たることがありましたならば、上石益夫(代表社寺総代)までご連絡ください。

また、藤川宮司様へ二本松市内の神社で起きた事件について連絡がありましたので、その原文をそのまま配布いたします。

皆様のご自宅や、集会所·神社·お寺などの公共物での器物損壊、盗難などにはくれぐれも警戒されますよう、お願いいたします。

区長 吉田一二三

代表社寺総代 上石益夫









庚申(こうしん)信仰とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰です。

陰陽五行説では、十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる、こうしんの夜に、三尸(さんし)という虫が睡眠中に体から抜け出して、帝釈天に人の罪行を報告して命が奪われるというものです。

この庚申の夜は、三尸が体から抜け出さないように、眠らずに徹夜をするというのが「庚申待ち」であり、60年ごとの庚申の年には各地域で庚申塔を建てたといわれています。

また、青面金剛が彫られた庚申塔は、江戸時代ごろから建てられようです。

青面金剛は、帝釈天 (たいしゃくてん) の使者の金剛童子とされています。
鎌倉期に表された様々な経典や儀軌(造像・念誦・供養の方法・規則)を集である「渓嵐拾葉集」によれば、元来は、密教で、鬼病・病魔を退散させる威力があるとする鬼神です。

体は青色で、二本、四本または六本の腕があり、弓矢宝剣を握り、頭髪はさか立ち、体に蛇をまとい、足に鬼を踏んでいます。

後世、庚申信仰に取り入れられ、庚申待(まち)の本尊となっています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:31 | comments (x) | trackback (x) | 旧中郷村::春田・狐田・過足 |