2019-08-21 Wed
滝桜にほど近い中郷地区狐田の桂昌寺山内にあった青面金剛庚申塔(しょうめんこんごうこうしんとう)石像がなくなってしまいました。
他の六地蔵や石仏、仏塔などはそのままでした。
地域の貴重な文化遺産がまた一つなくなってしまいました。
他の神社でも同様の被害があるみたいです。
古の狐田村の皆々様が、地域住民の健康を願って建立されたものです。
冷静な心を取り戻して、そっと返していただけることを願っています。
以下、区長さん、社寺総代長さんのお知らせ文です。
お寺の境内の石塔二基が盗難にあいました。
去る4月8日桂昌寺にて例年通り大般若会が営まれましたが、境内に長年あったはすの石塔がなくなっていることに、出席者が気づきました。
警察に連絡をしたところ、中郷駐在員佐々木氏他1名の警察官が来て現場を確認していきました。
このことについて、狐田地区内の数名の方々のお話を伺いましたが、「3月17日(彼岸入り)の早朝にはあの石塔はあったように思う」と証言する方もおれば、 「3月18日の午後にはあの石塔はすでになかった」と語る方もおられます。
この件につきまして、何か思い当たることがありましたならば、上石益夫(代表社寺総代)までご連絡ください。
また、藤川宮司様へ二本松市内の神社で起きた事件について連絡がありましたので、その原文をそのまま配布いたします。
皆様のご自宅や、集会所·神社·お寺などの公共物での器物損壊、盗難などにはくれぐれも警戒されますよう、お願いいたします。
区長 吉田一二三
代表社寺総代 上石益夫
庚申(こうしん)信仰とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰です。
陰陽五行説では、十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申(かのえさる、こうしんの夜に、三尸(さんし)という虫が睡眠中に体から抜け出して、帝釈天に人の罪行を報告して命が奪われるというものです。
この庚申の夜は、三尸が体から抜け出さないように、眠らずに徹夜をするというのが「庚申待ち」であり、60年ごとの庚申の年には各地域で庚申塔を建てたといわれています。
また、青面金剛が彫られた庚申塔は、江戸時代ごろから建てられようです。
青面金剛は、帝釈天 (たいしゃくてん) の使者の金剛童子とされています。
鎌倉期に表された様々な経典や儀軌(造像・念誦・供養の方法・規則)を集である「渓嵐拾葉集」によれば、元来は、密教で、鬼病・病魔を退散させる威力があるとする鬼神です。
体は青色で、二本、四本または六本の腕があり、弓矢宝剣を握り、頭髪はさか立ち、体に蛇をまとい、足に鬼を踏んでいます。
後世、庚申信仰に取り入れられ、庚申待(まち)の本尊となっています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2018-02-24 Sat
田村四十八舘 過足舘址 木幡氏過足舘は、旧過足村名主木幡文忠氏宅の、背後の山にありました。
これも戦国時代の三春城主田村氏が築いたいわゆる「田村四十八舘」の一つです。
三春札所から2里10町、禄高460石とあるだけで、本丸その他の記録は、詳かではありません。
この舘の主木幡氏の祖先は、平安の頃、北面の武士でしたが、平将門に従って関東に下ります。
将門が反乱して亡んだ後、その一族相馬氏に仕え、下総の国から相馬に移って来た。
永禄6年(400年前)春、相馬顕胤の女が田村清顕に嫁入りするに当り、化粧領として、葛尾、移、都路の三村を田村傾に持って持参します。
その際、木幡氏は付人として移に来たとされています。
その後、天正の初め過足舘に移され、田村氏に仕えていましたが、田村氏が亡んだ後は土着して、代々名主をつとめ明治を迎え現在に至ります。
木幡家は、昔を語る古文書を蔵しています。
旧神号「木幡宮」
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2010-05-27 Thu

旧過足村にある曹洞宗笑月山全応寺です。
田村麻呂伝説の残る集落にあります。

寛文五年一安和尚の創建開山とされています。


三春城下、天澤寺の末寺とされていました。

御本尊は、木造釈迦牟尼如来です。

寺院の殆どには「山号」がついております。
この「山号」については、中国では山岳に寺院が建築されたから「天台山国清寺」「五台山清涼寺」などの存在場所の山名をつけて呼称されたそうですが我が国では山岳仏教、密教の修行者が山岳修行後、里に降りてきて、小さい集会所で一般庶民に仏教を布教し始め、信者が増えるにしたがって、立派な堂宇ができました。
それは平地に建築されましたが「山号」を冠した寺院となりました。それゆえ、「山号」を冠した寺院は大衆に人気ある
庶民信仰のお寺と言えるでしょう。
それと、真言や天台の密教は山岳仏教と呼ばれる
こともあります。
「禅宗寺院」などで古都奈良の「南大門」にあたる門を「山門(三門)」というの
も「山号」によるものであります。

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2010-05-06 Thu


戦国期の三春城主田村氏の要害田村四十八舘の一つ過足舘址に鎮座する菅布禰神社
旧神号を土地の庄屋木幡氏の名木幡神社としていました。

天慶八年勧請ですから古社と呼ぶに相応しいでしょう。
現在は、菅布禰神社と仁渡神社の合祀としています。

仁渡神社は、旧過足村の村鎮守であり、現在でも地元過足の人々によって、祭祀等の行事が行なわれているようである。
祭神は「天之水分神」(あまのみまくり)である。古書をひもとくと「水を恵み与え配分する神」としるされている
古風な「田の神」として人々に信仰されてきた神とおもわれる。

菅布禰神社は、祭神を猿田毘古としています。
古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記する。ほとんどの祭行列の先頭に見られる。
猿田彦神は、天照大神の命令で天津彦火瓊瓊杵尊・瓊瓊杵尊・邇邇芸命が降臨の際、鈿女命・鈿女命天宇受賣大神を、天の八衢に出迎え先導し道案内をしたといわれる土地の神・土公神とされている。


容貌は魁偉で鼻の長さは7咫、赤ら顔に長い口髭をはやし、目は八咫の鏡のように爛々と輝き、身長7尺余の神通力を持つとされた。その高徳により、「導きの神」「道開きの神」として困った時や物事の始めに、災厄を祓い幸運をもたらす大神としても高名で、全国に猿田彦の名の付いた神社が多数ある。
また、嚮導の神としての信仰があり、神幸行列では、先頭に立って祓い導く。


また、猿田彦は、道案内をしたことから、道祖神と同一視されたり、庚申の申と同じ読みの猿と同一視され、庚申信仰ともつながり、村の道端などに猿田彦が祀られているところもある。


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2010-04-22 Thu

三春には、歴史の変遷と共にその時代を生き、その土地に生活した人々によって伝承・口承されてきた信仰にまつわる話や昔はなしの民話、そして怪談が数多く口伝として残されている。

これは、先人が当時(昭和40年代)テープレコーダーを持って、各地区の長老を訪ね聞き、語りを録音し編纂したものが三春町史や三春の民話などに記録されている。

三春の民話の特徴は、主として歴史的な実話が語り継がれてきたことにある。

それは、三春藩領がその昔から相馬藩と磐城藩、二本松藩そして須賀川の境に位置に接するため、仙道と呼ばれた中通りに位置している関係から、国守りのため重要な土地だったためと推測される。また、田村麻呂東征伝説があり、その折々に立ち寄った村の成り立ちにまつわる話が多い。

三春の伝承にある、一つ一つの民話の根底には社寺仏閣、遺跡のいわれが語り継がれているものであり、それはその土地に生活する人々の日常と深くかかわり、信仰されてきたものである。

そして、昔の生活や風習から口承されてきた昔話は、その土地や家に語り継がれてきたものである。


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2010-04-20 Tue

三春の最南端に過足という集落があります。

過足(よぎあし)という地名の由来は、延暦年間、坂上田村麻呂が征夷大将軍として夷賊征定の途中、この村の家に泊まったが、田村麻呂は大男だったので、夜具の下から足が出てしまった。
それからこの村を過足と呼ばれるようになったといいます。


戦国期の田村四十八舘の一つ過足舘址にある「人福地蔵尊」は、徳一大師の作と伝えられています。

安産の守り神として崇敬され、初産の人は必ず「お姿」を借りてくるといい、過足には「お産に怪我はない」と云われています。



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2010-02-10 Wed
無住の寺は静かで風や鳥のさえずりが時折聞こえ、傍を流れる渓流の音を聞いていると、神聖な場所に居るんだなあと感じることがあります。踏み込んでは行けない場所に入り込んだという恐れにも似た感覚と、心が安らぐという感覚のバランスの中で、美しい自然の中に全てが導かれ、古より人々が集うこの場所に来て、そんな詮索は意味のないことに気づかされます。三春は、何もかもが見えない八百万の神々によって始まり、仏も曼陀羅もそして渡来人も、美しい風土に恵まれ、その源にまったりととけ込んで居るのでしょう。

旧狐田村少林山桂昌寺
三春城下の南西四里余、旧狐田村にひっそりと佇んでいます。

開創は、過去帳によると万治年間とされています。

現在は、城下福聚寺の客檀家となっています。

由来文

石仏や石碑が集められています。

六地蔵


子安観音

三界萬霊塔
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