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火の用心!三春城下の火災史
三春城下の火災史

三春藩秋田家「町火消し組」と「家中火消し組」江戸期の三春城下は、山間に位置しており、丘陵の谷筋を縫うように家並みが軒を連ねて城下町を形成していました。

また、火消し組の消防設備・資機材の未発達と茅葺屋根、障子戸等の建物構造の上に、城下が山間地であるために、水源が乏しく、水利の不便に加えて谷筋を吹きぬける風は強風となり、一度火の手が上がると風にあおられて、数件から字全て、さらには「天明五年の大火」の様に城下町の約八割焼失の上にお城が焼け落ちるほどの大火に、たびたび見舞われていました。


三春藩藩士足軽組による「家中火消し組」と、町奉行支配町方による「町火消し組」が組織されて火災鎮圧に立ち向かっていました。

 江戸中期の正保二年(1645年)に秋田家三春藩、初代藩主秋田俊季公入府の折りに火防に就いてのお触れが出されました。

 「火事出来事は、町中の面々水桶を持ち、早速火下へ可馳せ参じる事」

 大火に危険性を危惧した三春藩では、ことの重要性から「火消し人足組」の指揮命令系統及び組織編成の度々改革を実施し、現代の三春町消防団と同じ「現場対応型の火消し組」の組織編成に着手しました。


 城下「町火消し人足組」は、一番組50名(大町、北町)、二番組41名(中町)、三番組42名(八幡町)、四番組63名(荒町)、五番組40名(新町)で構成して、「町方火消し組」として火災の際には火災鎮圧に向け、消火・類焼・防火を各組の連携協力で、消火活動に従事していました。


 一方、「家中火消し組」の編成は、足軽組の御籏組・御弓組・御持弓組・御持筒組・御先筒組を一番組から三番組にて構成され、一組37名で編成し計111名(内町方人足90名程度)で構成して火災に備えました。


 その他、城下町以外の在方在住の者は、御殿・現三春小学校の裏山にあった太鼓堂の太鼓の早打ちと、大元神社境内にあった鐘撞堂の早鐘を合図に、北町口には熊耳村・笹山村、荒町口には七草木村・南北成田村など、各部落単位でそれぞれ割り当てられた地区や、寺社仏閣の消火・防火・残火処理並びに警護のため城下に参集して、「家中火消し組」、「町火消し組」の消火手伝いに出向きました。



 享保十三年から慶応四年の140年間に、三春城下で発生した複数軒の火災発生件数は、98件に登り、その半数近くが、字全て以上を焼き尽くした大火となりました。

これに因んで、三春城下の主な火事の歷史をひもといて見ました。

延享2年3月15日 北町亀井の光岩寺から出火、御旗町まで延焼した。

宝暦12年5月21日 中町から出火町家70戸程が焼けた。

明和9年3月22日 紫雲寺本堂焼失

天明5年2月22日 この火事は「滋野火事」と呼ばれている三春城下未有の大火である。

尼ヶ谷の御厩(おんまや)番小屋から出火、中町、大町、山中、清水、北町、荒町の侍屋敷、町家、神社、寺院、そして殿樣の御殿 で総なめにした。

夕方までに三春城下を焼き尽くし、荒町は龍穏院前、新町は真照寺前、入清水の中ほどで何とかくい止めましたが、夜中までには城も本丸表門を除いてすべて焼け落ちました。

当時、三春にいた藩主倩季は、最初は北町の黒門辺りに陣を構えていましたが、城に火が迫ると三階櫓に納めていた幕府からの「御朱印状」とともに亀井の祈願所宝来寺へ入ります。夜には祈願所真照寺へ御座所を移し、同寺古四王堂に朱印状を納めました。

その後、5月には馬場に新設した仮御殿へ移りますが、11月には馬場御殿も焼失し、近郷の庄屋宅を臨時宿所としていたという。


天明3年から連続凶作だったので、人足、炊出し等も思うに任せず、炊出しは“かゆ飯”で、罹災民には非常な苦しみだった。

明治39年3月22日 八幡町踊場附近から失火して13 0戸を焼失した。

明治43年11月23日、二十三夜様の灯明残火で八幡町から発火、八幡町、馬場尼ヶ谷、御免町、中町から荒町の一部まで延焼、320戸を焼失。

昭和5年3月25日、新町大火約20戸焼失。

昭和22年2月22日、高女から出火小学校舎の一部に延焼

享保十三年から慶応四年の140年間に、三春城下で発生した複数軒の火災発生件数は、98件に登り、その半数近くが、字全て以上を焼き尽くした大火となりました。




  火の用心! 蒼龍謹白  拝 さすけねぇぞい三春!


| ryuichi | 04:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
「太政官日誌・慶応四年 戊辰秋八月 第五十九」




「太政官日誌・慶応四年 戊辰秋八月 第五十九」

慶応 4=明治元[1868]年正月~明治 2年 5 月の維新政府系の出版物である官版日誌です。

その三春藩恭順三春城開城から会津攻めへ向かう各藩の様子が記されています。





太政官日誌第五十九 慶応四年戊辰秋八月

【三春開城ト二本松落城ノ事】

八月十九日大垣藩届書写二通
采女正分隊人数、去月廿四日棚倉ヨリ進撃、順序之通追々相進、去月廿六日暁二字、各藩蓬田発足、三春ヘ進撃之処、城主降伏之趣ニテ士商共一向騒擾之様子モ無之、口々関門等警衛モ有之、夕方諸藩隊長一人宛城中ヘ繰込、無故障引渡相成、同夜同所ニ宿陣、同廿七日十二字、本宮ヘ為進撃各藩三春出発、途中糠沢村賊徒屯集、各藩斥候隊ニテ忽追払、弊藩人数之儀ハ後陣ニ罷在、右ヘハ相当リ不申候、同日同所宿陣、同廿八日暁五字過、賊徒本宮南口ヨリ、三方ニ凡千人計襲来、各藩持場、北仙台口ハ忍、黒羽、西山手間道ハ弊藩、右之方土藩、南之方彦根、館林、各藩持場ヘ駆付、以大小砲及戦争、遂ニ打退ケ、一里計モ追撃、賊多分死傷有之、当手ニテ現ニ討取候賊二人御座候、其節弊藩死傷無之候、同廿九日五字過二本松為進撃本宮発足、諸隊後列進軍、尤弊藩斥候隊一分隊之人数ハ諸隊ト同様相進及発砲候処、先鋒官軍既ニ城中討入ニ相成、所々放火、二字過頃落城相成申候、尤弊藩斥候隊之内、一人戦死仕候
斥候隊於二太松死 銃卒 菱田巳之吉
於本宮博徒一人生捕、則及斬首候
右廿六日ヨリ之戦状、御届申上候、以上

八月
戸田釆女正家来 戸田三弥
右之通、出先御総督府ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候旨申越候間、此段御届申上候、以上

八月十九日
戸田采女正家来 壮合渚之介
去月奥州路ヘ為増人数繰出候内、酒井弥右衛門手之者共、去月廿七日本宮ヘ進候処、翌廿八日朝六字頃ヨリ戦争相始リ、十二字頃終リ、其節討取十二人、内一入ハ生捕ニ御座候趣、以書状申越候、此段モ御届申上候、以上

八月十九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介





【越後川辺ノ戦】

同日上田藩届書写
越後表之儀、先般御届申上候後、川辺村之方六月十六日後モ、不絶戦争有之、就中同十九日夕八時過ヨリ、大口村ヘ賊襲来、加長勢ト戦争相始リ、大小砲声烈敷響キ、賊必死之勢頗烈戦之様子ニ付、弊藩人数横合ヨリ及応援奮戦夜半ニ至リ、賊敗走仕候、同廿一日、賊八十人程福島并亀貝、稲葉等所々及放火、其勢ニ乗シ、筒場、十二潟、大黒等ヘ襲来仕、弊藩持場川辺村之方ヘモ烈敷打掛、諸手何レモ奮戦候得共、夜半後ニ至リ火勢弥熾ニ賊勢益烈敷、翌廿二日ニ至リ候テモ戦争無止、官軍殆ト危急之処、長州新手之人数繰込、及応援候ニ付、夕刻ニ至リ賊遂ニ敗衄、不残逃去申候、尤弊藩戦死別紙之通ニ御座候、扱又乙吉村之方ハ、其後賊襲来候様之儀無御座候、右之通出陣先家来共ヨリ申越候条、可申上旨伊賀守ヨリ申付越候、前書之次第、去月中旬申越候飛脚之者不快ニテ、半途ヨリ帰国仕候ニ付、今般猶又申越候、右ニ付去ル七日御届ト前後仕候、此段乍延引御届申上候、以上

八月十九日
松平伊賀守家来 赤座寿兵衛
去ル六月十九日、川辺村戦争之節、戦死
小銃隊 竹内林右衛門
同月廿二日、同所宿陣ニテ、病人共療治仕居候節、飛丸ニ中リ、廿四日死ス
医師 林亮斉
右之通ニ御座候、以上

八月十九日






【奥州原街道ノ戦】

同日阿波藩届書写
去月朔日暁四字頃、賊徒多勢湯本口并弊藩人数之内持場原街道ヘ襲来仕候ニ付、暫砲戦仕候得共、賊兵進出仕候故、大砲繰出シ、取交ヘ激戦相及候内、薩藩、土藩ト進撃ニ相及候手筈申合、五字頃進入戦争仕候処、賊兵支兼敗色相見エ候ニ付、兵隊分配仕、一手ハ正面之野山ヘ攀上リ、一手ハ薩藩、一手ハ土藩ト同手ニ相成進撃仕、賊兵敗走ニ相及、羽太村熊村、馬船村辺迄進撃仕候処、賊兵民家ヘ放火仕、退散ニ相及候故、八字頃兵隊相纏、持場ヘ引揚申候、弊藩人数之内、一人モ手負無御座、賊二人切捨、其余打留候者モ有之候得共、多少不分明ニ候、分取之品々、左之通御座候旨、出先隊長上田甚五左衛門ヨリ申越候ニ付、不取敢此役御届申上候、以上

七月七日
蜂須賀阿波守家来 疋田友衛
分捕品々覚
一、小銃 二挺 一、大小刀 二腰
一、小旗 白地ニ赤ノ日丸 二流 一、袖印 仙台藩 一ツ 一、胴乱 一ツ
以上
別紙写之通、於東京御総督府御届申上候旨申来候ニ付、此段御届申上候、以上

八月十九日
蜂須賀阿波守内
根本熊次郎






【奥州及位口ノ戦】

同日小倉藩届書写
七月十日夜九ツ時、弊藩人数三小隊院内出発、翌未明本道及位口ヨリ、肥前大砲一門先ニ立、弊藩小銃ヲ以横矢ヲ打、次第ニ進撃、及位村内ヨリ賊之台場ヘ打出、賊徒忽敗走ニ付、尾撃仕候処、絶頂辺之台場ヨリ頻ニ拒戦仕候ニ付、尚又烈敷攻立候得共、至極之険難要害之場所ニテ其功相立不申、且又最前新庄藩ヘ、応援之約束申置候得共、無其聞、八ツ時半頃迄力戦仕、次第ニ兵隊疲労ニ付、賊之巣窟及位村放火、兵隊繰引、下山、一先院内迠引揚申候、此段不取敢御届申上候、尤死傷、分捕、左之通ニ御座候
分捕
一、臼砲 <榴弾四発添○此榴弾ヲ以忽賊之台場へ打込申候>一門
一、頭形兜 一ツ 一、火縄 一束
一、韮山笠 二枚 一、風呂敷包 一ツ
一、胴乱 ニツ 一、幕 半張
一、和筒 三挺 一、インヒユル 一挺
一、垂駕 一挺
一、討死 徳永吉太郎隊 上田篤兵衛
一、手負 葉山平右衛門隊 高木太兵衛
一、同 松島六治
一、同 志津野源之丞隊 安成昇兵衛
一、同 同 木村旋蔵
右之通ニ御座候、以上
月日
小笠原豊千代丸人数頭 平井小左衛門
右之通、於羽州表御総督ヘ御届申上候段、申越候ニ付、此段御届申上候、以上

八月十九日
小笠原豊千代丸内
丹羽六兵衛
入江宗記







【奥州釜ノ子、西須賀川ノ戦】
同日彦根藩届書写三通
当月廿四日、弊藩固メ場所釜ノ子駅ヘ、賊襲来候様子ニ付、直ニ大隈川辺ヘ出張、手配致シ候処、九ツ半時頃賊勢四五百人押寄、頻リニ発砲、一旦川中央迄モ進来候処、大小砲ヲ以撃退ケ、薄暮止戦仕候、其節味方手負、別紙之通ニ御座候、此段御届申上候、以上

七月廿八日
井伊掃部頭家来 河手主水
三浦半蔵隊 平塚市左衛門
青木十郎次隊 中川喜多郎
右手負ニ御座候
七月廿六日払暁、弊藩先手分隊田毎神村出発三春ヘ進軍仕候処、開城降伏相成候間、同夜先鋒館林、弊藩人数ニテ城受取リ申候、其節残賊散乱致候内、別紙之通生捕、分捕仕候趣、三春出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上

八月五日
井伊掃部頭家来 河手主水
生捕一人<福島藩遠藤謹吾>搦取人 久保田松之進
同一人<仙台藩佐々木賢之助>同 田中外次郎
同四人仙台藩<加藤九三郎 佐藤金太夫 芳賀宇佐次 佐藤左門>
以上
一、小銃 四挺 一、弾薬 一箱
一、弾薬 三包
右分取ニ御座候

七月廿七日、弊藩先手分隊三春陣払、各藩同様二本松ヘ進軍仕候処、本宮駅入口阿武隈川渡船、賊徒共悉引揚置候ニ付、筏組立、同夜九時頃一同渡船、翌廿八日未明、須賀川会津口等諸道ヨリ賊徒襲来候ニ付、弊藩人数会津口両路ヘ進撃、追却仕候処、後西須賀川口苦戦之趣ニ付、急速返援、半道計尾撃、終ニ未ノ半刻止戦仕候、其節討取、生捕并弊藩死傷、別紙之通御座候趣、本宮出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上

八月五日
井上掃部頭家来 河手主水
一、首 仙台藩 八級 一、生捕 同 五人
右討取生捕ニ御座候
一、討死 貫名徳次郎隊 木田余喜一郎
一、軍事局付 田中外次郎
一、手負 貫名徳次郎隊 中川織之進
磯島新七
平山信太郎
大砲隊 大塚路之介
常盤平蔵
堀部弥次郎隊
寺田権三郎
右討死、手負ニ御座候
考正

第四十四巷、第一葉前面ノ、飯田藩届書トアルハ、椎谷藩ノ誤リナリ


| ryuichi | 03:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」




塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行

   小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季公木造座像 



福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。







 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。






「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、”鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。

平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。



鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。


応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。

この時分は、盛季が死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。

この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。

羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。








安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が康季の父である盛季の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。






小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》



先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載の誤りがありました。
コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像でした。

訂正します。 






もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝



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塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季木公造座像」令和5年8月発行




塵壺385号「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」令和5年8月発行

   小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季公、実季公木造座像 



福井若狭湾に面する小浜市。

その羽賀山の麓羽賀の集落にある古刹鳳聚山羽賀寺。







 本堂に安置されている御本尊は、奈良時代の高僧行基が天武天皇の孫で女性天皇の元正天皇(44代)の御影を参考に製作したと伝わる国の重要文化財「十一面観世音菩薩立像木造」.

その堂内の傍らに江戸時代の三春藩秋田氏五万石初代藩主秋田俊季公の実父である実季、そして、その八代前の先祖で小浜寺を再興した中興祖ともいうべき安倍安東康季の木造座像が安置されています。







「本浄山」という”本性清浄なる山”を意味する山号を併せ称するこの羽賀寺(玉川正隆住職)は、元正天皇、そして、“鶯宿梅(大鏡)”で知られる平安時代・村上天皇の勅願と記されているように、奈良時代初期の霊亀2年(716)、元正天皇の勅願で行基和尚(奈良時代の高僧)が開山したのが始まりと伝えられています。


羽賀寺縁起をみますと、長い歴史の中で様々な形で罹災しています。

平安時代の天暦元年(947)に洪水で大破すると村上天皇の勅願で浄蔵和尚が再興しています。

また、鎌倉時代初期には源頼朝が三重塔を寄進した記録も残ります。



鎌倉末期の“元弘の乱”による兵火で焼失すると、延文4年(1359)には、若狭守護職細川氏清(後の三春藩別格家老細川氏祖縁)が再建しています。

応永5年(1398)、伽藍が焼失すると、後花園天皇は永享8年(1436)に当時、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)の東日流(津軽)荘司、安倍・安東盛季、康季父子に再建の勅命を下し11年の歳月をかけ文安4年(1447)に復興します。


応永5年(1398)に焼失し、後花園帝よりその財力と「京役」職責に於いて永亨8年(1436)、安東盛季、康季の父子に「再建の勅命」綸旨を拝受します。

この時分は、盛季死去し宿敵南部氏との交戦中、さらに、本拠地十三湊が津波により壊滅的な被害を受け蝦夷松前に移籍したころと推察できますが,「日ノ本将軍」の称号を同時に受領して安東氏の威信にかけて再建に取り組みました。

この勅命による伽藍の造営・再建は十一年の歳月をかけ、文安4年(1447)に落慶します。

羽賀寺(勅願寺)縁起には、「莫大ナル貨銭ヲ捧加シ」「奥州十三湊日之本将軍安倍康季、伽藍ヲ再興ス・・・」と康季の功を讃えています。








安東氏による羽賀寺庇護の仔細は伝わっていませんが、十三湊を本拠地として鎌倉幕府より「蝦夷探題」の役職を貰い強大な海運力を持つ「安東水軍」を組織して日本海沿岸及び志那、朝鮮、樺太はもちろん遠く東南アジア・インド洋まで貿易の勢力を伸ばした財力が大きな影響を与えたとの伝承もあります。



三春秋田氏の先祖は、前記の平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な海軍戦力を持つ貿易船団「安藤水軍」を率いる海の豪族でした。






安東氏は、その貿易により蓄えた強大な財力を以て文禄2年(1593)、時の青蓮院門跡尊朝法親王の要請により、先祖の御縁により安東実季が盛季の追善供養と合わせて羽賀寺の堂宇の修蔵・改修を行っています。

安東氏率いる安東水軍の貿易船が若狭小浜港を畿内への荷揚げ母港としており、朝廷や公卿、そして、羽賀寺との関係が深かったと考えています。








もう一つ、朝廷・天皇と秋田氏の京都に因む深いご縁を紹介いたします。

三春城下に石橋ハマプラス社長の石橋氏があります。

 以前、先代様より「当家の“石橋”という名字の由来は、津軽安東氏(後の三春城主秋田氏)が、時の天皇(或いは大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営した豊臣秀吉)、から修復の依頼を受け京都洛内の蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)「三十三間堂」改修の際に、自分たちの祖先が堀にかかる石造の架け橋を施工した際の石工の棟梁かそれを管理する役人として改修に従事し、この石橋造作の技術力の高さを皇室から讃えられた安東の殿様より“石橋”の氏名を賜ったと伝わっています」とお聞きしていました。





先に放送された「NHKブラタモリ」で京都を特集した際に、歴史的な仔細は伝わっていませんが七条通り等の幹線道路の下に埋設されながらも確かに立派な石橋の存在が紹介されていました。






さらにもう一つ。

時代はぐっと遡りますが、世界遺産にも登録されている清水寺の山内にある開山堂「田村堂」との三春秋田氏の御縁。

平安の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂が三春秋田氏(安倍・安東氏)の祖先とする安日王阿弖流為(アテルイ)の菩提を弔うため建立したのがはじまりと云われています。






征夷大将軍に任じられた田村麻呂は多数の将兵を引き連れて奥州蝦夷征伐を開始しますが、阿弖流為の軍勢は地の利も生かしており容易には落ちないどころか、十余年に及ぶ長期戦となって田村麻呂の軍勢も疲弊していきます。








阿弖流為も同じく長期間に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、一族郎党五百余名を従えて田村麻呂の停戦協議の上、その和平案を受け入れ軍門に降ります。
田村麻呂は、阿弖流為と副将・磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し両雄の助命嘆願をしましたが朝廷公卿衆の反対により、阿弖流為・母礼は802年8月に河内国で

処刑となり田村麻呂はその菩提を弔うために田村堂を建立したとされています。






「大人の修学旅行」、旅先で三春の歴史・先人たちに思いを馳せるというのもこれまた一興です。







  蒼龍謹白  来てみねぇげ、田村!   拝




小浜市羽賀 鳳聚山 羽賀寺


〒917-0017 福井県小浜市羽賀83−5


若狭舞鶴自動車道 小浜インターより車で5分

小浜駅よりタクシーで10分


拝観時間  9時~16時

○拝観料

 ひとり 400円

 団 体 360円(20人から)

     330円(50人から)

○北陸三十三観音霊場》 五番

○北陸不動尊霊場》 三十六番

○若狭観音霊場》   十二番

○宝の道七福神霊場》

○数珠巡礼の会》




秋田愛季に綸旨 【天正十二年(1584)六月、秋田愛季に、羽賀寺再興の綸旨】
門主傳二十四 (華頂要略十三所収)
龍池院二品法親王 諱尊朝 (十一年)九月十二日、若狭國羽賀寺之事、被遺御書於渡邊宮内少輔。十月廿三日、羽賀寺之事相整。珍重々々。十二月七日、羽賀寺之八木今日参著云々。(十二年正月)同廿九日、若洲羽賀寺為年禮両種二荷進上。六月十日、若洲羽賀寺之事、賜綸旨。
若洲羽賀寺之事、霊亀巳来勅願無雙之精舎歴然候哉。然處近國依錯乱、本堂以下破壊顛倒之由、被聞召候。尤被歎思食候訖。然則叡慮之趣、早被任其由緒、十三湊(秋田愛季)被告申。一寺之再造、以権勢之助成、可致其勵之旨、被加下知者可為神妙候。併為國祈、且御門葉之潤色可有此時之旨、天氣所候也。此由可令洩申青蓮院宮給候也。仍執達如件。
天正十二年六月十日 左中将判(中山慶親)
内大臣僧正御房
内大臣僧正御房 左中将慶親
※参考文献:浪岡町史第一巻史料

○秋田愛季に対して「十三湊」と呼びかけていることは注目される。愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季は羽賀寺再建に対応できず、愛季の子実季により成し遂げられた。





先に発行した塵壺385号令和5年8月発行の中で記載に疑問が残りました。


コラム欄の「小浜・鳳聚山羽賀寺 安倍安東康季、実季木造座像」の中で、羽賀寺にある秋田家由来の木造座像を安倍安東愛季、實季父子と記載しましたが、正しくは、「三春藩初代藩主安東秋田俊季公の実父安倍安東実季公、そして、その8代前の祖先で、羽賀寺を實季公より約150年前に修繕造営・再建した安東康季公の木造座像と記された資料が多数ございます。


 三春歴史民俗資料館第一回企画展 「安東・秋田氏展」図録をみますと、實季僧姿木造座像の背中に陰刻銘文がありとしるされており、凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だと考えられています。

正式な衣冠束帯の座像は康季とされていますが、従五位上の衣冠束帯の装束からすると實季自身か、実季の父、愛季とも考えられます。


謎が深まるばかりです・・・・


| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
会津藩軍事奉行 海老名衛門季久 白河口差配
以前、ある食事会で隣席でご一緒させていただいた方ですが、奥様の旧姓が海老名で級は会津藩湖南奉行そして戊会津戦争の折には白川口軍事奉行として白河城攻防戦の指揮官だった、海老名衛門季久の末裔でした。


会津藩家老海老名家を最近調べていたもので、あまりの御縁に驚きました。


白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた東北諸藩の列藩同盟戦没者を供養した石塔があり、その傍らに会津藩軍事奉行「海老名衛門季久慰霊碑」があります。


海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行です。

嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。

海老名衛門は、会津藩では公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。

最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
 
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものです。
現地案内板参照


長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。

後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。

戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。

会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。

後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。


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「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎



「軍用記覚付帳 ~ 戊辰ノ役会津戦争従軍記」 貝山村 伊藤好三郎

官軍となった西軍による会津戦争の際に三春からも荷駄人足として各村から人足として駆り出されています。
時に慶応四年七月二十六日 (1868) 。
三春藩庁より領内の村々に人足(15歳~60歳まで)の要請があり、筆者伊藤好三郎は、その日の内に三春城下に入り人間人馬人足を勤めています。
従軍記は、八月二十日に二本松から玉ノ井村(現大玉村)に移動した所から軍用記覚付帳が始まっています。


慶応四辰年 軍用記覚付帳  八月二十日~九月九日

1、 七月二十六日、三春町に繰り込み人馬おつとめ

仰々慶応四辰年 八月二十日
二本松を出立し玉ノ井村と申す所に参り候、所定より壱里半程先に、二本松藩丹羽丹波と申す家老が山の中に屯ろ致し、其所にて二日、夕七ツ時頃にすぐ戦いに進み大戦に相成り
官軍様方に壱人の怪我、その晩玉ノ井村に引帰り宿際に相成り候。

次二十一日、早朝に石筵村と申す所に四里ほど参り、其所より壱里半程先のぼり石筵峠
と申す所に会津公の大掘抜六七ヶ所有る所を打ち破り 会津勢弐千人程人数に御座候。

官軍様方怪我人六七人あと会津勢怪我人数多し、人馬石筵峠にて泊り申し袋、その時人馬
に逃げられ申し候、怪我をいたし所に敵方参り候、自軍方も驚き入り申し後、まことに驚き入り、官軍様方戊成峠より大原村新田に宿際仕え候。

次廿二日、人足馬方共も泊りに相成り、官軍様方は猪苗代迄に攻め込む、人馬共大原に泊る。

明廿三日、朝七ツ半頃に大原を出立にて人馬引立て申し候、官軍様方は猪苗代より乗り込み致し、十六橋より強清水、滝沢口まで戦いに御座候、其所より怪我人数多し御座候、会
津勢かこめずみるみる数多く散り々に遣られ、滝沢で人馬四五人流れ玉にて怪我を致し九半頃に若松へ操込む、大手門より繰込み三四丁ほど城に近づき申すに御座 。

大筒小筒にて終ち合いの最中、屋敷に火をかけ大火事に相成り、城中に大筒をかける。

人馬滝沢町に参り馬を休め、又、馬を引立し、城の近くまで引付け候の所、滝沢より町中に死人数多く有り。
廿四日、朝より戦い相成り申し候。町内には一人もおらず候。







廿五日、朝六ツ時より大戦に相成り城中からも攻撃があり、昼八ッ半迄に休みなく戦いに相成り候、大玉小玉の雨が降るが如く町中に参り驚き入り、丸の内の薬倉に火を掛け大地
震の如く大雷様如く 家の壁も崩れ大地に伏し驚き入り奉り候、煙の様態はたとい方もな
し 夕五ツ頃に城中より切り出し、その時、官軍方関の声を上げて押しかいし申し候。

〇廿五日 勢至井堂口より官軍様方繰り込み申し候、戊成口損じるに御座候、中山口は、二日、彦根様御人数繰り込み申し候、三日、格別なこともなし

明廿六、朝四ッ頃より夕七ッ頃まで大戦に御座候。

廿七日は、格別の戦いもなし。

廿八日も、その通り、廿九日、朝五ッ頃、津川口より勢井志堂口(勢至井堂口)の敵方が集まり五六千人程にて参り城中に入ると致す所 官軍様方七日町にて相おり、城中に入らんとする所を破り すぐ大戦に相成り城中より切り出し話の外の戦い致し敵方へ官軍様より大筒を撃ち掛け外内に廿五六人ほど突けかい致し、敵方のほうにて三百六七拾人ほど死人と申するに御座候。
官軍様方は五拾六七人の怪我、晦日には、少々戦いに御座後。

一日にも二日にも三日にも格別の戦いもなし四日にも五日にも格別のこともなし 町にも
なし。
五日、津川口より官軍様方参りすぐ大合合戦に御座候、百姓とも嫌がりいたし、鉄砲を撃ちかけられ我さきと逃げる、蓑や鎌わらじも置き皆逃げ申し候、
その時、てき(敵)方死人数多し地に伏し堀に伏し大合戦に御座候、

官軍様方もけがを致しその時、津川口より攻めかけ官軍様方何万人となしに六日七日八日と数しれず繰り込み申し候。
九日、大火事に御座候、七日町より滝沢町までも燃え広がり申し候、その時、大合戦に御座後、大筒小筒の撃ち合い、その時、人馬だんな方も地に伏し堀に伏し壁にかくれ大合戦に御座候。

会津人馬つとめる、瀬川には薩州六半匁大清作方おつとめ、貝山三人組 作吉、倉ノ助、藤三郎氏組三拾六人組二本松人馬、三春人馬入り混ざり若松に繰り込みに付人馬は、貝山人馬拾人1.勘右衛門 1.田作1、今朝治1、玄治右衛門 1、慢次郎1、柳多 1、藤ノ烝氏方は薩州三半匁大四半匁報奨人馬相つとめ、七人と三人合わせ拾人

以上







この従軍記は、8月20日現大玉村の玉ノ井村から始まり9月9日会津城下大合戦までの約20日間の記録で終わっていますが、三春から二本松藩攻略(7月29日落城)の人足に出たのは三春藩の記録にあり、二本松藩とは親藩の間柄の為か記録するのをためらったのかもしれません。


尚、9月22日の会津城落城迄参戦していたかは不明ですが、9月9日以降の行動は激戦の為に書き留めておく余裕なかったのではないかと想像されます。


別の記録には会津城下の激戦に於いて三春人足は最前線迄鉄砲や大砲の玉など武器弾薬を運搬していたと記されています。


戦後の記録には貝山村からの10人の人足が徴発されていますが戦傷者もなく禅無事に帰還したと記されています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

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伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。!2023.1.16 



伊勢の神宮さんへ夫婦で初詣⛩です。

薮入りとされるこの日、正月の休日(1泊2日)を使っての参拝です。

私は昭和39年1月20日生まれですので、還暦を迎えます。


出立まえに、三春藩主祈願所眞照寺、三春藩領内総鎮守田村大元帥神社、そして、高屋敷稲荷神社へご挨拶の参拝。







以前に、高屋敷稲荷神社の宮司様より伊勢神宮参拝のレクチャーを受けまして・・・



まずは、夫婦岩で有名な二見ヶ浦。

これからも夫婦仲良く余生を暮らせるようにと、ふたりで手を合わせて来ました。






外宮さん、内宮さん、両社に於いて神様への感謝と日本、そして世界平和を祈願のために御祈祷を受けました。

何と、外宮さんでタイミングなのでしょう・・あの広い拝殿に於いて私たち二人だけでお祓いを受けることがdきました。






また、内宮さんではそれなりの人数でお祓いを受けましたが、名前を呼ばれる段になって郡山周辺の参拝者が多いのには驚きました。


「御伊勢講中」もあったように聞きました。





コロナ感染予防等観点からもお祓い町、おかげ横丁での飲食は避けようと考えていましたが「赤福本店」は外せません。


これから夫婦水入らずの直会です♪







宿泊はもちろん「神宮会館」です。






翌日は、御世話になっている外宮近くの宿「紅葉軒」さまにご挨拶して・・・







江戸後期の三春藩士中村寛亭・匡(ただし)は、藩命を受けて三春藩主代参として三春から畿内まで従者2名を連れて伊勢神宮参詣へ向かいます。

伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松院(寺)にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・安倍秋田實季入道(あべあきたさねすえにゅうどう)の墓所にも参っています。





私も、今生では一番といっていいくらい秋田實季公の初め歴代秋田候のお名は絵を多用していると持っていますので、伊勢神宮参拝のおりには、實季公の菩提寺石城山永松寺様へのご挨拶と墓前への参拝をしております。





・朝熊(あさま) 永松寺 住職 百合齊道様 三重県伊勢市朝熊町1212

三春藩主初代秋田俊季公の実父 日之本将軍(ひのもとしょうぐん)と呼ばれた秋田安東実季公(あきたさねすえ)の墓所はあります。

戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道

 江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。

凍蚓(とういん)”凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、秋田実季は約30年、伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を送り、1660年に死去しました。享年85。
和歌や文筆を残しています。






朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。

お千世方は、実季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘で、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。

そして、片山氏本人も、實季氏の死去の8年前に実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。






尚、永松寺様では、本堂の再建工事が令和5年1月26日より始まります。








”一生に一度は御伊勢詣り”と云われる、伊勢神宮です。 心の芯から浄化されるような気がいたします。

お蔭様詣りと云われますが、こうして参拝できるのも、家族、お客様、そしてご縁のある皆々様のお蔭と、心より御礼を申し上げたくなるような神様です。

かつて、司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を

「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」

と称されていましたが、まさにその思いをこの静寂が訪れ伊勢の神宮さんで共有することができます。

この神域の滞在中、神威とも云うべき「風」が音を立てて体内を通り抜けていく感覚があります。

そして、凛と張りつめた気が浸透していくかのような感じが肌に伝わってきます。

一歩一歩歩みを進めるたびに地面からビリビリといった具合に足元からパワーが伝わってまいります。

これがお伊勢さんの神威なんでしょう。


ありがとうございます。

三春から伊勢まで約700キロ、遠い道のりではありますが、夫婦そろっての参詣でしたので、楽しい伊勢神宮参詣でした。





三春へ帰還の際には、高屋敷稲荷神社さま、眞照寺さまへお土産を以て帰還の報告と御礼、そして、大元帥明王さまへ参詣し報告・・







これにて”笠脱ぎ”として伊勢神宮参詣記を締めさせていただきます。

おかげさまで、晴れやかな新年と、還暦を迎えられます。


関係各位の皆様、御世話になりました。


ありがとうごじました。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::三春秋田氏五万石雑記 |