2025-01-17 Fri
船引庄屋 御代田家の御屋敷門
船引歴史資料館敷地内 昭和56年移設
江戸時代、船引名代庄屋・割頭を務めた御代田氏。
末裔は、現、船引城址麓 和食 お肴処「みよた」 を営む御代田家です。
江戸末期の享保16年に、藩命により三春在蛇澤より、分家を残し船引庄屋となります。
その始祖を辿れば、戦国時代の三春城主田村氏の御一門上座になる御代田城主(現郡山市田村町御代田)御代田大和までさかのぼります。
田村家内紛の折には伊達派に付き、田村家改易後には分家して仙台伊達藩に仕官します。

尚、菩提寺は三春城下荒町の法蔵寺です。
お肴処“割烹御代田”は、船引城祉麓の北町通りにあり、江戸時代から続く船引名代の庄屋邸宅跡の庭園を眺めながら、四季折々の旬の味覚を盛り込んだ日本料理をご多能ください。
特製御代田弁当、そして国産うなぎが名物となっています。
各種ご宴会、接待、法事慶事等、承っています。
和食 お肴処「みよた」
0247-82-0034 船引城祉麓 田村市船引町北町通45
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2024-09-13 Fri
塵壺398号 「越中富山の薬売り」 富山藩主と三春藩主
先日、公私ともにお世話になっている配置薬の有限会社「サンサン」(郡山市)社長の佐久間喜重様(三春町沢石出身)が、春の叙勲で「旭日双光章」を受賞され、その祝賀会にお招きを受けましたのでお祝いを言上したく喜んで出席しました。
その祝宴の席で、佐久間さんの配慮で富山にある有名な製薬会社の会長さんや、医療・薬科の業界新聞社の元主幹、そして、宮城県の配置薬協会の会長さんなどと同席となりました。
薬、配置薬、富山、三春と云えば、「越中富山の薬売り」の起源となった富山藩主と三春藩主の逸話が伝わっており、早速、歴史談義となり歴史好きの私にとって大変有意義な時間を過ごさせていただきました。
元禄3年(1690)歳暮、富山藩2代目藩主前田正甫(まえだ まさとし)公が参勤交代で江戸城に登城の際に、伺候席(控之間)“帝鑑之間(柳之間?)”にいた譜代格(当時)大名三春藩主3代秋田輝季公(当年40才)が腹痛を起こし、そこに居合わせた正甫公が印籠から『反魂旦』(はんごんたん)を取りだし服用させたところたちまち平癒します。
正甫公自身も元来体が病弱だったようで、薬に対する興味が強かったと伝わっています。
そこで、自ら全国の薬を調べた結果、備前岡山藩の藩医・万代常閑(もずじょうかん)がつくった“反魂丹”(はんごんたん)という何にでも(特に腹痛に)効く薬を調合してもらい、肌身離さず持ち歩いていたそうです。
そのやり取りを見ていた諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で『反魂旦』を売り広めてくれるように、各々薬売り道中手形の発行を約して前田公に頼みます。
以来、富山藩は備前岡山藩から藩医万代常閑を招いて城下の御用達薬商人松井屋源右衛門に命じ反魂丹を作らせます。
さらに、領地から出て全国どこでも商売ができる前田公裏書の『他領商売勝手』を発布して「殖産興業」の政策として、富山を寄港地とする北前船を駆使して全国津々浦々に至るまで薬売りの販路拡大を整備して「売薬産業」を奨励しました。
一方の三春藩主3代秋田輝季公は、晩年まで精力的に領国経営・大名賦役を勤めます。
大坂城加番勤務として江戸幕府内では譜代格大名に再任され、遠州吉田大橋(静岡県)の大改修などを請け負います。
また、領内整備では、真照寺山内古四王堂再建、藩社神明宮(三春大神宮)の遷宮、領内総鎮守太元帥明王社(田村大元神社)へ大般若経六百巻を奉献、そして、新田開発の水源として南原之大池の整備など藩運営をしています。
さらに、領内の馬産に力を注ぎ、仙台より良馬を購入して殖産に努め良質な農耕馬の産地として事業を推進し、後にこの駿馬が「三春駒」として全国に名を馳せるようになります。
このようにして藩財政の発展を遂げ、三春藩主歴代最高齢の72歳で生涯を閉じます。
尚、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田候教方萬金丹」は、三春初代藩主俊季公の実父秋田實季候直伝によると伝えられています。
「越中富山の反魂丹(はんごんたん)♬鼻くそ丸めて萬金丹(まんきんたん)♪」と童唄でも親しまれ、「越中富山の反魂丹」と並んで全国的に有名な伝統薬でもあったことを追記しておきます。
さて、話を越中富山の薬売りに戻します。
この配置販売業が今日まで営々と受け継がれてきたのは薬の効き目はもちろんですが「先用後利」という独自の販売システムのお陰ともいえます。
急に発病する病のために薬を数種類も常備しておくことは困難でしたが、先に常備薬として預け、次回訪問時に使用した分の代金だけを支払うという信用商法であったため利便性が高く、全国の人々に広く受け入れられました。
また、何代にも亘る家族構成や使用する薬などのデータを書き記した「懸場帳」を基に、そのお得意先に適した薬の配置が出来るとともに、使用歴に応じて健康アドバイスする専属の薬剤師さんの役割も担っていました。
今回、越中富山の薬売り関係の方々から配置薬の話を拝聴して、どの商売にも生かせるマーケティングの原型がそこにあるということをご教示いただきました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
当三春昭進堂のホームページの表示が時々文字化けするようになっています。
更新ボタンを押して再表示していただくと直るんですが、この不具合はホームページの制作ソフトのシステムが古くて今のシステムに会っていないのが原因です。
現在、新しいシステムに移行する作業を進めているところです。
お客さまにはご不便をおかけしますが、もうしばらお待ちくださいますようお願い申し上げます。
| ryuichi | 20:46 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
2024-08-09 Fri
塵壺397号 「明治戊辰役三春藩士烈士碑」 旧三春城本丸跡 令和4年8月吉日発行
暑中見舞い申しあげます。8月に入り、より暑い日が続いております。
熱中症に気を付けて、暑い夏を乗り切りましょう。
もうすぐお盆ですね。お盆は、ご先祖さまを敬い、供養する行事です。
いうまでもなく、私たちが今ここにいるのは、父母・先祖の存在の「おかげ」があってこそだと思います。
お墓や仏壇、そして、神棚で手を合わせると、不思議とご先祖や亡き人を身近に感じることができるのではないでしょうか。
ご自愛のうえ、心穏やかなお盆をお迎えください。
そして、終戦記念日。平和の尊さについて考え、感謝する日です。
戊辰戦争、日清・日露戦争を経て、日独戦、太平洋戦争と多くの方々が戦場で斃れ、一般の国民も戦禍に巻き込まれ尊い命を落としました。
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」を経て樹立された明治新政府と、これを不服とした旧江戸幕府勢力との内戦で、鳥羽伏見ノ戦、江戸城開城を経て、会津藩追討の為に攻め上がってくる薩長を主体とする新政府軍に恭順するのかという決断を、全国の諸藩が迫られます。
特に東北の諸藩に於いては、旧幕府勢力の旗頭になってしまった会津藩救済を目的とする奥羽列藩同盟に加盟するのかという差し迫った事情もあり、5万石の小さな三春藩もその対応に苦慮していました。
三春藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟していましたが、征夷大将軍徳川家自ら政権を投げ出したことで旧幕府側として会津松平家擁護の大義名分が失われます。
その時代の流れを一早く察知し三春藩閣僚の意を汲んだ河野広胖(河野広中の兄)らの若い藩士たちが、西軍断金隊隊長美正貫一郎の裁量で東山道先鋒総督府参謀の土佐藩板垣退助に会見し、西軍参謀と帰順を工作・和平交渉の末に三春無血開城を果たします。
戦争を回避し城下を戦禍から守った三春藩の選択は、後の明治という近代国家成立の礎となり、磐前県を経た福島県の発展に大きく寄与します。
しかし、その陰には大義に殉じた三春人の誇りを貫き尊い犠牲となった武士、そして、農民もいます。この命を賭して三春を守った人たちが居たことを忘れてならな
いと「明治戊辰役三春藩士烈士碑」は、殉難された藩士の名を刻み旧三春城本丸跡に建立されています。
明治元年七月二十六日、藩論一変し西軍三春入城となったため、奥羽同盟軍事局に派遣されて福島や二本松に滞在中、三春藩離反の嫌疑により東軍の手によって数名の藩士が殉難犠牲となっています。
三春藩は、三春城無血開城を果たし新政府軍に恭順を示しますが、新政府軍政局より新たな賦役が三春藩に言い渡されます。
主な賦役には「西軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「西軍の諸藩の道先案内」「参謀局会計局の世話」(当初・御殿、後に総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(西軍のために龍穩院に設置、病院内で死亡した者66~70名)などでした。
※軍資金の供出もあったことでしょう。
さらに、会津追討に際しては「母成峠・中山口へ兵隊五十人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬」を命ぜられ、人足達は軍夫として最前線で弾薬を背負い西軍戦闘部隊に付き添って戦場を駆け巡ります。
三春近辺はもとより領内全域から徴発された人足は、多少の手当はもらえたものの、みな死に物狂いであり実際死亡した者も十教名に及んでいます。
三春藩の命令で領内各村から招集され、西軍・新政府軍を編成する薩摩藩、土佐藩、佐土原藩などの西軍諸般の輜重隊(荷駄隊)付軍夫として会津藩追討に参加して戦死しています。
後に、西軍に与力した三春藩軍夫の戦死者には旧薩摩藩などから墓所へ慰霊碑墓石が支給され、靖国神社にも合祀されています。
今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の辛苦に耐え復興の道を歩んでこられた先人のご努力の上に成り立っています。こうした先人たちへの敬意と感謝を忘れず、すべての犠牲者の方々のご冥福を祈り衷心より哀悼の意を表したいと思います。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 20:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
2024-07-15 Mon
「明治戊辰役三春藩士烈士碑」 旧三春城本丸跡に建つ
戊辰戦争で三春藩は当初、小藩の悲しさゆえ会津を中心とした奥羽越列藩同盟に加盟していましたが、徳川家自ら政権を投げ出したその時代の流れを素早く読んだ、河野広胖らの若い藩士たちが、東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助に会見し、板垣ら西軍と帰順を工作、和平交渉の末に、三春無血開城を果たします。
しかし、その影で列藩同盟に出向していた四人の三春藩士がいました。
彼らは、三春藩の同盟離反を受けて同盟より詰め腹を切らされたり惨殺されています。
ここにも命をとして三春を守った三春藩士が居たことを忘れてはいけません。
明治になって建てられた石垣

大関兵庫 ..百三十石/祐筆/明治元年七月二十六日、藩論一変、官軍三春入城となったため、たまたま奥羽同盟軍事局に派遣されて福島滞在中東軍の手で殺害
大山巳三郎 ..三春藩の藩論一変し、西軍三春入城の明治元年七月二十六日、仙台に使して二本松に在ったため東軍に捕えられ殺害されます。
不破関蔵 ..百八十石、江戸元締用人/藩論一変により西軍が三春に入城した明治元年七月二十六日、出張先の二本松で東軍に捕斬された
渡辺喜右衛門..五両五人扶持、御用部屋物書/西軍三春入城の明治元年七月二十七日二本松にあり、東軍に捕えられ斬殺
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
明治戊辰役三春藩烈士碑
三春城無血開城を果たし、新政府軍に恭順を示しますが、政府軍軍政局より新たな賦役が三春藩に言い渡されます。
主な賦役には、 「西軍の食料と馬の準備、軍夫の徴発」「西軍の諸藩の道先案內」「参謀局会計局の世話」(はじめ 御殿、後に総督が来たため春山新左衛門宅)、「大病院の賄」(西軍のために竜穩院に設置、病院内で死亡した者六6~7O名)などでした。
会津攻撃に際しては「中山口へ兵隊五十人差し出す」ことや、「弾薬運送のための人馬」を命ぜられ、人足達は最前線で弾薬を背負い兵隊に付き添って戦場を駆けめぐったのです。
三春近辺はもとより領内全域から徴発された人足は、多少の分補り品を持ち帰ったものの、みな死に物狂いであり、実際死亡した者も十教名に及んでいます。
下記が、三春藩の命令で、各村から招集され軍夫として参加して戦死した三春人です。
橋本周次
高野村大字高柴 農民
二本松城下にいる、三春藩士不破、大山両氏のもとへ三春藩の帰順を伝える使者として書状を携えて単身出向、両氏と共に帰還に就こうとしたところを二本松藩兵により殺害されます。
石井冨次 享年48
移村大字上移 農民
会津追討の際、三春藩荷駄隊軍夫としれ参加して戦死
佐藤牛之助 享年40
美山村大字長外路 農民
会津追討の際、土佐藩輜重隊(荷駄隊)付三春藩軍夫として参加 若松城下七日町付近に於いて戦死
本田庄右衛門 享年54
移村大字上移字北ノ作 農民
会津追討の際、薩摩藩第十二番隊付三春藩軍夫として参加。
若松城下にて戦死。
鎌田久八 享年21
移村大字上移字北ノ作 農民
薩摩藩第十二番隊付三春藩軍夫として参加。
若松城下七日町付近に於いて戦死
近内吉十 享年44 三春町
会津追討の際、佐土原藩軍夫として参加
若松城戸ノ原口の戦にて戦死
宗像林太郎 享年22 中妻村大字鷹巣 農民
会津追討の際、薩摩藩十二番隊付三春藩軍夫として参加。
若松城下の戦いにて戦死
村上久左衛門 享年42
中妻村大字鷹巣 農民
会津追討の際、薩摩藩軍隊付三春藩軍夫として参加。
若松城 滝沢口の戦いにて戦死
松崎伴吾 享年24 中妻村大字鷹巣 農民
会津追討の際、薩摩藩軍隊付三春藩軍夫として参加。
若松城 滝沢口の戦いにて戦死
鈴木政治 享年20 中妻村大字蒲倉 農民
会津追討の際、薩摩藩軍隊付三春藩軍夫として参加。
食料運搬の際に重症を負い、三春城下三春病院にて戦傷死
上石藤助 享年51 中郷村大字過足 農民
会津追討の際、土佐藩軍隊付三春藩軍夫として参加
若松城下の戦いにて若松城門間にて戦死
靖国神社合祀
小藩の三春5万石 秋田家筆頭宿老 独白
味方を裏切るべきではないが、敵は欺いたって当然のことだ。離れる時に、非難を浴びることなど、気にする必要はない。
小さい義を守ることに心を奪われて、大きい義を踏みはずす。そういうことがないように藩を導いていくことが、家老の責務である。
藩をも守り、勤王の素志をつらぬく。この非常の時、二つを両立させるには、割り切って大事なものだけを見据えていけばよいのだ。
これからつぎつぎとぶつかってゆかなければならない難関を超えていくためには、その後ろめたさを克服することが必要だ。
「何が一番大切か。それだけを見つめてゆけばよいそのために、何と罵られようと、覚悟のうえだ。わが私のためではねえ。やましいことではねえ。腹を据えろ。」
「藩という木の、根を守るのが自分の役目。守るのは、攻める以上の決心、不退転の覚悟が要るのだ。しっかりしんば……」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂
2024-05-11 Sat
2024.5「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参
還暦を迎え、“一生に一度は「御伊勢詣り」”と云われる伊勢の神宮へ「御礼参り」の意を以て、愛妻を伴って初詣に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
また、外宮・内宮両社に於いて御神楽御祈祷を受けますと、御祈祷の祝詞でお一人お一人の住所と名前が呼ばれます。
自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。
参詣後は、お祓い町にて妻と直会です。
伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。
そして、外せないのが参道脇にひっそりと佇む「焼き かき」の露店・・・やっと撮影許可が出ました。
伊勢志摩名物の生きた牡蠣やサザエ、巨大あさり、イカなどを水槽から取り出して目の前で捌いて供してくれます。
コレがまた絶品😋
どうにもこの雰囲気が好きで有名寺社仏閣の付近では必ず探してみます。
震災前ですからもう十年以上前から神宮参拝の折には寄らせていただいています。
そして、宿泊は神宮会館です。
夫婦水入らずの直会です。
そして翌朝は早朝参拝
毎回、それぞれの担当者の観点からのお話で、それぞれのアプローチが面白く毎回勉強になります
そして再建が始まった
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。
この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。
後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。
本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。
幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。
千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。
實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。
「
我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の落慶は令6年の予定です。
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2024-05-10 Fri
高野山奥之院 磐城三春藩秋田家墓所
今も尚、禅定(永遠の瞑想)を求め入定した空海が生き続ける霊域「高野山奥之院」。
その入口「一ノ橋」から弘法大師御廟へと続く参道には厳粛な雰囲気が広がっていて、古木に覆われ静寂な空間の中には20万基を超える五輪塔等の供養塔や墓石群が広がっています。
その中に、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗、そして、結城秀康といった戦国武将・大名の墓所として約110家の墓所があります。
武田の近くに上杉、そして、信長と光秀、徳川と結城等々・・・敵同士として戦った家中であっても関係なく、安らかに眠っているように感じられます。
そして、南朝之忠臣 橋本正髙公
橋本一族は橋本出身といわれる土豪で、南北朝時代に南朝方の楠木正成率いる武士団に属し活躍していました。
この橋本正高(正督)公は、楠木一族で、正平6(1350)年、北朝方の日根野氏が守る土丸城を奪い返し、これより正高は土丸城を改修、さらに雨山城を築き、南北朝の内乱期(1336年~1392年)には、 南朝方の和泉地方の拠点とするなど活躍した武将です。
高野山「御廟」に在る空海・弘法大師のそばで眠りたいとの先人たちの願いがこめられていると伝わっています。
磐城三春藩秋田家も、同じく高野山に墓所(供養塔)を求めた大名一家で、「奥之院」へ向かう参道「中之橋」のたもと手前右側にあります。
「金剛峯寺境内奥之院地区大名墓総合調査報告(高野町教育委員会編)」を見ますと、三春秋田家の墓所には、大型の五輪塔5基と中型五輪塔9基ほか多数の石塔があると記載されており、秋田家の墓所に五輪塔5基は南北方向に並んでいます。
秋田家菩提寺 別各本山 金光院
秋田家菩提寺の金光院は、寛政8年(1796年)の『高野山古絵図』によると、一心院谷と呼ばれる場所にありましたが、明治初頭に火災に遭っています。
現在は西室院が建立されています。
金光院は、幕末に発生した「鳥羽伏見の戦い」前後における土佐脱藩浪士を主体とする陸援隊(隊長の中岡慎太郎は先に海援隊の坂本竜馬とともに京近江屋にて遭難)に拠る「高野山挙兵」に於いて陸援隊本陣地して使われます。
陸援隊は、主将に侍従鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)、副将は陸援隊副隊長田中光顕。
慶応3年12月12日(1868年1月6日)、高野山に入った陸援隊は、金光院を本陣と定め、高野山に三〇〇〇両の御用金を命じ、十津川に勅書を伝えて義兵を募るとともに、紀州藩・高取藩・五条代官所にも使者を派遣して、その動きを牽制していますが鳥羽伏見の戦いで幕府軍総崩れを聞き陸援隊側に恭順しています。
三春藩初代後室 永壽院殿 本壽院真誉春覚照法 万治3年 盛季母
三春藩初代 真如院殿実岩常固 秋田俊季公
慶安2年 勤大阪城番於城中病没
三春藩2代 陽雲院殿龍天蒼松 秋田盛季公
延宝4年 勤大阪城番於城中病没
三春藩3代 乾元院殿剛山瑞陽 秋田輝季公 享保5年
三春藩4代 廣運院殿俊徳玄明 秋田頼季公 寛保3年
秋田家墓所中之橋の手前右に3代輝季公の嫡子で、秋田伊豆守就季(廣季)公(大通院殿心源自性)の五輪塔もあります。
就季公は、三春藩家督争いとされる「正徳事件」渦中の人として家督せぬまま正徳5年6月4日に父に先だって亡くなっています。
この五輪塔は旗本秋田家から秋田本家輝季公の養子を経て4代藩主になった頼季公(家老荒木高村長男)が建立したものです。
そして、「施主奥州三春城主秋田信濃守安倍頼季 三男秋田安五郎行歳八年而卒」「元文四己未 二月廿三日」と記された供養塔が見えます。
この方は、頼季公の3男で8歳という幼さで亡くなった慈光院本性長了薫・安五郎・後の秋田民部公です。
早世した為でしょうか高野山に供養のための石塔・墓が建てられています。
尚、5代藩主の秋田延季(治季)公・法名天稟院殿令徳永顕から歴代の藩主は、三春城下秋田家菩提寺高乾院墓所に埋葬されており、以後藩主の高野山への埋葬はありません。(初代俊季公から四代頼季公の分骨された墓も高乾院にあります。)
しかし、三春8代藩主秋田長季(謐季やすすえ)公だけは、もう一つの秋田家菩提寺である龍穏院の墓所に大仰院殿法鑑高輪大居士の法名で埋葬されています。
4代頼季までは高野山、そして、8代の長季(謐季)公は龍穏院にお墓がありますが、他の歴代の藩主は全て高乾院に埋葬されているというのは、家督騒動絡みの家中混乱や祟り伝説等の事情が見え隠れしているような気がします。
高野山は空海の御廟を中心とする聖域で、古くから奥之院と呼ばれます。
承和2年(835)に没した空海・弘法大師、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するその時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると(宗教的に)信じられていて、弘法大師のもとには「生身供(しょうじんぐ)」称して1日2回の食事が運ばれてきます。
高野山への分納骨の風習は鎌倉時代から始まったとされており、石造の五輪塔を墓石代とし始めたのが戦国期の室町時代末期。
現在は、江戸時代初期造立した諸大名家の五輪塔が多数見受けられます。
これは徳川家康が高野山を分骨墓提所と定めたため、諸大名がこぞって高野山に墓石を建てたことに由来するとされています。
追記・付記
「高野山金光院 三春家中過去帳 享保十七年始」 全61折 参照
「三春家中過去帳 自永正十六年 至享保十七年」
「南無大師遍照金剛 高野山 金光院」
永室妙久大姉
永壽院殿御局伊井殿為自身逆修
御石塔奥院有之 萬治三年十一月八日
越山了公禪定門
施主秋田豊嶋武藏殿立之 永正十六年八月三日
乗重禪定門
施主秋田豊嶋惣右衛門殿為逆修立之 永正十六年己卯七月廿六日
妙光禪定尼
施主同人 右同時立之
乗泰禪定門
施主秋田豊嶋惣右衛門立之 永正十六年七月廿六日
浄雲禪定門
施主秋田大平坂口次平殿立之 永正十六年七月廿六日
善祐禪定門
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 永正十六年七月廿六日
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藤参禪定門
施主秋田豊嶋次郎左衛門殿 大永二年八月
華月浄春居士
施主秋田湊藏人殿立之 大永五年九月十八日
月窓妙光大姉
施主秋田御屋形様内村松源之焏殿 大永六年六月十七日
妙高
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
本高
施主同人 右同時立之
妙西禪定尼
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 大永五年七月
>
道永神居
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
道順禪定門
施主秋田大平兵右衛門立之 天文三年六月十四日
那智阿弥陁佛
施主秋田豊嶋 天文四年八月十日
舊山妙香定尼
施主秋田御屋形様内湊左京進殿 天文十九年二月十五日
妙光大姉
施主秋田御城内古屋左衛門尉殿立之 天文三年七月廿一日
志父尊霊
施主秋田御屋形様内大平左京進殿 天文廿二年四月廿一日
高範禪定尼
施主秋田御屋形様内湊伊豫守殿 天文八年八月四日
高山春公沙弥
施主秋田御屋形様内石塚衛門四郎殿 天文廿三年四月廿一日
妙金禪定尼
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿 天正廿年二月八日
日 春月宗陽禪定門
施主秋田御屋形様内湊五郎殿立之 天正十一年六月廿四日
日 南臺香林童女
施主秋田御屋形様内大平殿 但為御息女也 天正十六年十一月十九日
即法禪定門
施主秋田御屋形様内 取次内膳殿 天正廿年正月十二日
花心禪定尼
施主秋田御屋形様内桓崎衛門殿立之 天正十七年三月十四日
道光禪定門
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿立之 天正廿年二月八日
日 高月禪定門
施主秋田御屋形様内田口彦助殿 但為弥四郎追福立之 天正廿年二月八日
龍然禪定門
施主秋田御屋形様内伏部沢二位殿為父 文禄三年七月廿二日
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為為御屋形様尭季公御菩提也
施主石塚衛門四郎立之 天文廿三年七月廿八日
九月十三日忌
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為御屋形様𠒖季公御菩提也
施主湊尾張守立之 天文廿三年七月廿八日
九月十三日忌
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為為御屋形様𠒖季公御追福也
施主金光院 天文十九年二月十五日
九月十三日忌
源安徹公居士
施主秋田大平摂津守殿 永禄八年十一月 日
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士
秋田奉為為御屋形様愛季御菩提也 施主桓崎衛門尉 天正十七年三月十四日
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士
秋田奉為為御屋形様愛季公御菩提也 天正十八年七月一日 城之助殿御父
湖光妙正大姉
秋田二郎殿御祖母為御逆修也 施主大平岩見守 天正十八年七月七日
香林月照大禪定尼
施主秋田大平岩見守殿 天正十八年七月七日
高月
逆修 施主秋田御屋形様内垣崎衛門殿 天正十七年三月十四日
華窓心公大禪定門
奥州深浦物主木場袋右衛門頭吉季為御菩提也
御施主安東藤太郎様御老母 文禄二年二月十六日 三十三回忌
高月大禪定尼
施主秋田御屋形様内御湊専十郎殿 為老母立之
文禄五年四月二日
壽山妙宗禪定尼
施主秋田御屋形様内御千代様立之
文禄五年四月二日>
熒月榮公沙弥
施主秋田御屋形様内傳右衛門殿立之
慶長二年八月十一日
巨海大姉
逆修 施主同人 為老母立之
慶長二年八月十一日
松月頂上大禪定尼
施主秋田御屋形様内 相模守殿 取次兵右衛門殿
慶長二年八月十一日
塒清春公大姉
施主同人
右同時立之
晏叟宗清大居士
施主同前
右同時立之
心月秋芳大禪定尼 施主同前
右同時立之
日 光含宗圓大禪定門 施同前
右同時立之
雲林宗月大禪定門
施主秋田御屋形様内勝三郎 但為半兵衛菩提也
慶長五年九月廿四日
榮山宗觀禪定門
施主秋田御屋形様内新山将監 但為内方立之
慶長七年五月十八日>
高林常秀禪定門
施主秋田御屋形様内御虎様 但為舎弟立之
御使者中村織部
慶長十二年閏四月十三日
月暉 逆修
施主秋田御屋形様局立之 取次紅梅殿
慶長十三年八月朔日
珎齡永松禪定尼
施主秋田御菊様 但御局為菩提立之
御使者中村織部
慶長九年正月十四日
池盛妙蓮禪定尼
施主秋田御菊様 但為御老母立之
御使者中村織部
慶長十二年壬四月十三日
秋月妙圓禪定尼
施主秋田御菊様 但為伯母立之
御使者中村織部
慶長十二年潤月十三日
日牌 春嶺晴雲禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内湊道久息女御宿様
但姉中殿為菩提也 取次三光院(金光院)久尊
寛永元年二月廿一日忌
慶長十三年十一月四日 十七回忌
梅節妙紅禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内秋田仁左衛門子息
七兵衛殿 為悲母也 取次久尊
寛永元年八月廿三日
元和九年八月四日忌
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
施主秋田将監殿
元和九年十一月朔日
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
施主金光院祐實
元和九年十一月朔日
玉窓妙金禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内岡道與内方
但為悲母也
元和六年庚申二月廿五日
心庵宗徳沙弥
施主常州宍戸城主秋田城介様内三光院久尊
為父立之
寛永二乙夘年七月廿六日>
(後略)
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
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2023-12-14 Thu
「太政官日誌・慶応四年 戊辰秋八月 第五十九」
慶応 4=明治元[1868]年正月~明治 2年 5 月の維新政府系の出版物である官版日誌です。
その三春藩恭順三春城開城から会津攻めへ向かう各藩の様子が記されています。
太政官日誌第五十九 慶応四年戊辰秋八月
【三春開城ト二本松落城ノ事】
八月十九日大垣藩届書写二通
采女正分隊人数、去月廿四日棚倉ヨリ進撃、順序之通追々相進、去月廿六日暁二字、各藩蓬田発足、三春ヘ進撃之処、城主降伏之趣ニテ士商共一向騒擾之様子モ無之、口々関門等警衛モ有之、夕方諸藩隊長一人宛城中ヘ繰込、無故障引渡相成、同夜同所ニ宿陣、同廿七日十二字、本宮ヘ為進撃各藩三春出発、途中糠沢村賊徒屯集、各藩斥候隊ニテ忽追払、弊藩人数之儀ハ後陣ニ罷在、右ヘハ相当リ不申候、同日同所宿陣、同廿八日暁五字過、賊徒本宮南口ヨリ、三方ニ凡千人計襲来、各藩持場、北仙台口ハ忍、黒羽、西山手間道ハ弊藩、右之方土藩、南之方彦根、館林、各藩持場ヘ駆付、以大小砲及戦争、遂ニ打退ケ、一里計モ追撃、賊多分死傷有之、当手ニテ現ニ討取候賊二人御座候、其節弊藩死傷無之候、同廿九日五字過二本松為進撃本宮発足、諸隊後列進軍、尤弊藩斥候隊一分隊之人数ハ諸隊ト同様相進及発砲候処、先鋒官軍既ニ城中討入ニ相成、所々放火、二字過頃落城相成申候、尤弊藩斥候隊之内、一人戦死仕候
斥候隊於二太松死 銃卒 菱田巳之吉
於本宮博徒一人生捕、則及斬首候
右廿六日ヨリ之戦状、御届申上候、以上
八月
戸田釆女正家来 戸田三弥
右之通、出先御総督府ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候旨申越候間、此段御届申上候、以上
八月十九日
戸田采女正家来 壮合渚之介
去月奥州路ヘ為増人数繰出候内、酒井弥右衛門手之者共、去月廿七日本宮ヘ進候処、翌廿八日朝六字頃ヨリ戦争相始リ、十二字頃終リ、其節討取十二人、内一入ハ生捕ニ御座候趣、以書状申越候、此段モ御届申上候、以上
八月十九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
【越後川辺ノ戦】
同日上田藩届書写
越後表之儀、先般御届申上候後、川辺村之方六月十六日後モ、不絶戦争有之、就中同十九日夕八時過ヨリ、大口村ヘ賊襲来、加長勢ト戦争相始リ、大小砲声烈敷響キ、賊必死之勢頗烈戦之様子ニ付、弊藩人数横合ヨリ及応援奮戦夜半ニ至リ、賊敗走仕候、同廿一日、賊八十人程福島并亀貝、稲葉等所々及放火、其勢ニ乗シ、筒場、十二潟、大黒等ヘ襲来仕、弊藩持場川辺村之方ヘモ烈敷打掛、諸手何レモ奮戦候得共、夜半後ニ至リ火勢弥熾ニ賊勢益烈敷、翌廿二日ニ至リ候テモ戦争無止、官軍殆ト危急之処、長州新手之人数繰込、及応援候ニ付、夕刻ニ至リ賊遂ニ敗衄、不残逃去申候、尤弊藩戦死別紙之通ニ御座候、扱又乙吉村之方ハ、其後賊襲来候様之儀無御座候、右之通出陣先家来共ヨリ申越候条、可申上旨伊賀守ヨリ申付越候、前書之次第、去月中旬申越候飛脚之者不快ニテ、半途ヨリ帰国仕候ニ付、今般猶又申越候、右ニ付去ル七日御届ト前後仕候、此段乍延引御届申上候、以上
八月十九日
松平伊賀守家来 赤座寿兵衛
去ル六月十九日、川辺村戦争之節、戦死
小銃隊 竹内林右衛門
同月廿二日、同所宿陣ニテ、病人共療治仕居候節、飛丸ニ中リ、廿四日死ス
医師 林亮斉
右之通ニ御座候、以上
八月十九日
【奥州原街道ノ戦】
同日阿波藩届書写
去月朔日暁四字頃、賊徒多勢湯本口并弊藩人数之内持場原街道ヘ襲来仕候ニ付、暫砲戦仕候得共、賊兵進出仕候故、大砲繰出シ、取交ヘ激戦相及候内、薩藩、土藩ト進撃ニ相及候手筈申合、五字頃進入戦争仕候処、賊兵支兼敗色相見エ候ニ付、兵隊分配仕、一手ハ正面之野山ヘ攀上リ、一手ハ薩藩、一手ハ土藩ト同手ニ相成進撃仕、賊兵敗走ニ相及、羽太村熊村、馬船村辺迄進撃仕候処、賊兵民家ヘ放火仕、退散ニ相及候故、八字頃兵隊相纏、持場ヘ引揚申候、弊藩人数之内、一人モ手負無御座、賊二人切捨、其余打留候者モ有之候得共、多少不分明ニ候、分取之品々、左之通御座候旨、出先隊長上田甚五左衛門ヨリ申越候ニ付、不取敢此役御届申上候、以上
七月七日
蜂須賀阿波守家来 疋田友衛
分捕品々覚
一、小銃 二挺 一、大小刀 二腰
一、小旗 白地ニ赤ノ日丸 二流 一、袖印 仙台藩 一ツ 一、胴乱 一ツ
以上
別紙写之通、於東京御総督府御届申上候旨申来候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十九日
蜂須賀阿波守内
根本熊次郎
【奥州及位口ノ戦】
同日小倉藩届書写
七月十日夜九ツ時、弊藩人数三小隊院内出発、翌未明本道及位口ヨリ、肥前大砲一門先ニ立、弊藩小銃ヲ以横矢ヲ打、次第ニ進撃、及位村内ヨリ賊之台場ヘ打出、賊徒忽敗走ニ付、尾撃仕候処、絶頂辺之台場ヨリ頻ニ拒戦仕候ニ付、尚又烈敷攻立候得共、至極之険難要害之場所ニテ其功相立不申、且又最前新庄藩ヘ、応援之約束申置候得共、無其聞、八ツ時半頃迄力戦仕、次第ニ兵隊疲労ニ付、賊之巣窟及位村放火、兵隊繰引、下山、一先院内迠引揚申候、此段不取敢御届申上候、尤死傷、分捕、左之通ニ御座候
分捕
一、臼砲 <榴弾四発添○此榴弾ヲ以忽賊之台場へ打込申候>一門
一、頭形兜 一ツ 一、火縄 一束
一、韮山笠 二枚 一、風呂敷包 一ツ
一、胴乱 ニツ 一、幕 半張
一、和筒 三挺 一、インヒユル 一挺
一、垂駕 一挺
一、討死 徳永吉太郎隊 上田篤兵衛
一、手負 葉山平右衛門隊 高木太兵衛
一、同 松島六治
一、同 志津野源之丞隊 安成昇兵衛
一、同 同 木村旋蔵
右之通ニ御座候、以上
月日
小笠原豊千代丸人数頭 平井小左衛門
右之通、於羽州表御総督ヘ御届申上候段、申越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十九日
小笠原豊千代丸内
丹羽六兵衛
入江宗記
【奥州釜ノ子、西須賀川ノ戦】
同日彦根藩届書写三通
当月廿四日、弊藩固メ場所釜ノ子駅ヘ、賊襲来候様子ニ付、直ニ大隈川辺ヘ出張、手配致シ候処、九ツ半時頃賊勢四五百人押寄、頻リニ発砲、一旦川中央迄モ進来候処、大小砲ヲ以撃退ケ、薄暮止戦仕候、其節味方手負、別紙之通ニ御座候、此段御届申上候、以上
七月廿八日
井伊掃部頭家来 河手主水
三浦半蔵隊 平塚市左衛門
青木十郎次隊 中川喜多郎
右手負ニ御座候
七月廿六日払暁、弊藩先手分隊田毎神村出発三春ヘ進軍仕候処、開城降伏相成候間、同夜先鋒館林、弊藩人数ニテ城受取リ申候、其節残賊散乱致候内、別紙之通生捕、分捕仕候趣、三春出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上
八月五日
井伊掃部頭家来 河手主水
生捕一人<福島藩遠藤謹吾>搦取人 久保田松之進
同一人<仙台藩佐々木賢之助>同 田中外次郎
同四人仙台藩<加藤九三郎 佐藤金太夫 芳賀宇佐次 佐藤左門>
以上
一、小銃 四挺 一、弾薬 一箱
一、弾薬 三包
右分取ニ御座候
七月廿七日、弊藩先手分隊三春陣払、各藩同様二本松ヘ進軍仕候処、本宮駅入口阿武隈川渡船、賊徒共悉引揚置候ニ付、筏組立、同夜九時頃一同渡船、翌廿八日未明、須賀川会津口等諸道ヨリ賊徒襲来候ニ付、弊藩人数会津口両路ヘ進撃、追却仕候処、後西須賀川口苦戦之趣ニ付、急速返援、半道計尾撃、終ニ未ノ半刻止戦仕候、其節討取、生捕并弊藩死傷、別紙之通御座候趣、本宮出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上
八月五日
井上掃部頭家来 河手主水
一、首 仙台藩 八級 一、生捕 同 五人
右討取生捕ニ御座候
一、討死 貫名徳次郎隊 木田余喜一郎
一、軍事局付 田中外次郎
一、手負 貫名徳次郎隊 中川織之進
磯島新七
平山信太郎
大砲隊 大塚路之介
常盤平蔵
堀部弥次郎隊
寺田権三郎
右討死、手負ニ御座候
考正
第四十四巷、第一葉前面ノ、飯田藩届書トアルハ、椎谷藩ノ誤リナリ
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