2025-12-03 Wed
伊勢朝熊(あさま)にある石城山永松寺様の本堂落慶法要に臨席してきました。
永松寺は、三春人としては「お伊勢参り」の際には欠かせない場所だと思っていて、お伊勢参りの際には、實季公の墓参とお寺様であいさつに伺っていました。
青山紅葉朔風趨
五色雲飛殿裡隅
今日落成茲再造
净財辛苦徳檀徒.
この度は、ご縁があり本堂落慶式法要に際して来賓として案内をいただきまして、三春人としてお祝いに駆け付けた次第です。
本堂と共に、御位牌の入る厨子やお位牌も漆で再生され、須弥壇に安置されていました。
修復された厨子の中には、安倍實季入道 戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」の位牌が収められています。
そして、手前の御位牌は、片山殿、娘のお千世方のお位牌も修復され、同じ須弥壇の上に安置されています。
「穹清院殿功月昌光禪定尼」 片山殿
「月峰晴挂大童女」 於千世方
永松寺は内宮から車で10分余の神宮神田近くにあります。
三春藩秋田氏の初代藩主河内守俊季公の実父で、高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道、秋田實季(あきたさねすえ)公が、徳川幕府によって幽閉され、亡くなるまでの約30年、永松寺の草庵にて蟄居生活を送ったお寺さんで、幼くして亡くした娘と側室片山氏と共に墓所にて眠っています。
安東秋田家は、嫡男の河内守俊季公や秋田家家臣による幕府への忠節と、父實季公の正妻円光院は、管領職細川昭元の娘でその母は織田信長の妹お犬方で、徳川2代将軍秀忠(生母お江はお市の娘)とは又従弟という関係から幕閣に様々な方面から働きをかけて改易は免れて三春藩五万石の大名として明治維新まで続いています。
實季公は、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌をはじめ、書道、茶道に通じ、又、薬方にも詳しく、秋田候教示万金丹の名もここから出たと伝わっています。
墓碑には、「高乾院殿前侍従厳梁空大居士」「万治二年己亥(1659)十一月廿九日」「安倍実季入道」とある。又、傍には、その幼女、側室片山氏の墓石もあります。
同じく来賓として参列された同席の方は、なんと石田三成の妹婿の福原右馬助公の末裔の方でした。
宴席の中でしばし歴史談義に花が咲き戦国の世に思いを馳せることが出来ました。
この福原公とは、豊臣秀吉の小姓頭で、「慶長の役」では、三成の差配で軍監として朝鮮に渡り、後の関ヶ原の合戦で東軍に組する大名たちの軍令違反を奉公しています。
慶長五年(1600)、関ケ原で敗れ、大垣城にて抗戦しますが、和議に応じ出家して「道蘊」(どううん)と名乗り、わずかな家来と共に朝熊永松寺に謹慎をすべく落ち延びますが、永松寺門前にて東軍側の追っ手に討たれたと聞き及びました。實季公墓所の下にある墓碑には、「一任殿順積道蘊禅定門 濃州大垣城主福原右馬助」「慶長五年十月二日」と刻まれています。
付き人 交野五郎佐衛門奉納の天和元年(徳川綱吉御代1681年)の灯篭があります。
春陽士譜では、明智の狐との記載や、伊勢交野郷で拾って守役として養育したとか、がありますが詳細は不明です。
以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書
右として
高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。
そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。
家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。
しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。
宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。
【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】
宝永六年三月
(日向訳)
伊勢度会郡朝熊村
石城山永松庵
中巌座元
※ 渡邊日向 訳
秋田城之介・安倍姓安東入道実季公墓所
永松寺、伊勢神宮より少し外れた伊勢朝熊山の麓にある臨済宗南禅寺派の禅寺。
山門脇の階段を上った小高い丘に実季公の墓所はあります。
戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季(あきたさねすえ)はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。
長男の初代三春藩主秋田俊季との不和に加え、従来からの檜山系と湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとも考えられています。
寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)、同地にて死去。 享年85
実季には、正室円光院と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけていますが、朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。
片山というのは姓であり、出身や俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を「穹静院」と号しています。
お千世姫は、実季公の第二子であると思われます。
千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山氏は実季に最も尽くし、そして、最も愛された側室であった事だろうと想像がつきます。
しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、愛娘の千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
片山は、不遇の中、異郷の地で娘を亡くしたことを憐れんで、落飾し“穹静院”と号して、夫である実季と共に、亡き愛娘の菩提を弔いながら余生を送ります。
そして、片山氏本人も、承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。
「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅
江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」
三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。
伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松寺にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にも参っています。
この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の姉)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。
三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。
天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。
同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。
後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。
本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。
幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。
千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。
實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。
「
我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春! 拝
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-09-20 Sat
旧三春城址 秋田家祖先尊霊石碑・慰霊碑 こぼれ話
この石碑について面白い話が伝わっています。
明治三十九年、三春町有志の人々が相計って「皇軍戦死之霊・日露戦従忠魂紀念碑」建立及び「三春藩主秋田公祖先ノ霊石碑」を旧城跡に祀るため、三春町の有志(六十歳)以上の年齢の者で構成された「尚輪会」という組織があり、その会員六十名余の発起により、石を水戸から輸入してこれを旧城山山頂に運ぼうとした。
しかし、城山の高さは数百メートルあり、城址とは言っても荒れ果てた山城の山頂に達する道路がほとんど有っても無いと同じように荒れて果てている。
ましてや、このような巨石を城山に運搬するのは、莫大な人夫が必要である。
ゆえに六十余名の発起者は大いに苦慮して一同に集まり、その方法・対策を話し合ったが、妙案は出なかった。
集まった人々が、考えあぐねあきらめかけていたその時に偶然にも川前紫渓の次男・川前英助が来訪し、今日の集まりは何事かと聞いた。
会員が、巨石を城山に運搬する良策が見つからない旨を話すと英助が大笑いをして云った。
「このくらいの小石余(私)が一日を費やすさず山上に輸送しよう」と。
会員もまた大笑いして云った。
「大昔、大力無双といわれた弁慶坊は一夜で三井寺の鐘を良いて比叡山に登ったと聞いた。しかし、弁慶が生き返ったとしてもその梵鐘より今回は重量である。この巨石と同じく考えることはできないだろう。」と。
これを聞くと英助は、かすかに笑い去って行った。
時をおかず、英助は、門弟三百名を招集し、巨石運搬の事を告げた。
すると門弟たちは快諾し、翌日紅白の旗をつくり盛えた。
英助は、筒袖短の軽装で、三百余名を二手に分けて、お互いに競争で上げることとし、直ちに巨石運搬に取り掛かった。
この時、三春小学校では、英助の行動を聞いて壮挙であると讃え、音楽隊をくり出して応援した。
引き上げる男たちの掛け声と音楽隊の演奏とが明和し、巨石はあたかも羽根が生えたように動いて行った。
果たして一日をかけずに「三春藩主秋田公祖先ノ霊」と刻まれた石碑運搬班は、無事この巨石は山上に上げられた。
もう一方の「皇軍戦死之霊・日露戦従忠魂紀念碑」運搬班は、田村大元神社からの城山山頂への搬送を試みたが、力及ばず断念し途中の同社境内が見下ろせる場所に設置されています。
時に元々が許して云ったことは「川前先生の力は弁慶に優った」であった。
これは、英助の持つ方がどのくらいのものであるかを想像するのに十分なでき事であった。
三春最後のサムライ 川前英助
明治維新後には、江戸榊原道場や千葉道場などで腕を磨いた剣客で、三春城下に道場を開いて広く門下を集めその指導にあたりました。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2025-06-26 Thu
「お陰参り」伊勢の神宮さんへ塵壺発刊の御礼詣と秋田城介安倍實季入道さまに報告御礼
「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」発刊の御礼の意を込めて、伊勢の神宮さんと朝熊永松寺安東實季公墓所に「御礼参り」に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
今回は、「塵壺~春陽郷三春思ひ附阿津免草~」発刊の御礼ということで外宮さんに於いて神威感謝の御神楽御祈祷を受けました。
御祈祷の祝詞の中でお一人お一人の住所と名前が呼ばれ、自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと “ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、畏敬の念に駆られます。
山神さまへの御礼参拝もしっかりとしてきました。
参詣後は、お祓い町にて直会です。
伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。
おかげ横丁の蕎麦やうどんの店ですが、蕎麦も二八の本格派です。
店長に曰く、社長(赤福)から本物をするようにとの指示が徹底しているそうです。
そして、宿泊は神宮会館です。
そして翌朝は早朝参拝。
偶然にも毎回お世話になる、早朝参拝が始まった平成10年より案内をしている元支配人の井田さんにも塵壺の謹呈させていただきました
井田さんからは伊勢の神宮さんを通じて人生のあり方などをご教示いただいています
さすがに、神宮さんの塵壺の奉納をできませんが、現代の御師である井田さんに謹呈したしだいです。
伊勢神宮参拝に先立って、まずは・・・
お伊勢さんへお参りと云ったら三春人には外せない場所があります
秋田安東実資公の墓所永松寺さんにて方丈様にご挨拶をして墓参。
高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道殿、墓参に参上しました!
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。
實季公は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。
その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-05-24 Sat
「春から春まで -維新戦争と断金隊の記録- 」 山田六郎、非売品 自費出版、昭和57
三春城下の老舗の豆腐・油揚げ 大畑屋食品の増子社長よりいただきました。
戦国の武田家旧臣を自任する、著者の祖父が断金隊に加盟していたということで貴重な一冊です。
「岩窪の会盟」に始まり、戊辰の日光方会津城下の戦いをへて、甲府へ「帰郷」に終る「断金隊」の人々の行動を経としています。
幕末、戊辰の三春城下の救済者として、三春との縁の深い、土佐断金隊隊長 美正貫一郎(みしょう かんいちろう)は、天保15年(1844)に土佐藩医師・下村惇斎の二男とし高知城下南奉公人町(現・高知市上町)に生まれ、慶応2年(1866)同町の土佐藩士徒士格・美正家の養子となります。
慶応4年(1868)1月、戊辰の役には土佐藩迅衝隊として伏見の合戦に参戦します。
甲州にて、土佐藩より「浪士掛探索役」を命じられ、旧武田家臣の子孫らを中心に、遊撃隊を組織します。
後に、江戸に転じると、部隊(総勢約150人)名を断金隊と名付けて、その隊長に任ぜらます。
戊辰の役では、奥羽列藩同盟の三春藩を無血開城を成す。
当時、三春藩は藩論を二分していましたが、三春藩の執行方の意をくんだ河野卯右衛門や河野広中らが密かに使者を仕立て、美正の計らいにより官軍総督・板垣退助らと会い、三春藩の帰順を申し出ております。
美正貫一郎は三春藩への攻撃を阻止するように尽力した事で、三春城の無血開城を成し、三春は戦火からも避けられて多くの人命と財産が救われます。
さらに、断金隊率いる美正貫一郎は、二本松城攻略のため本宮へ進軍します。
しかし、慶応4年(1868)7月27日、途中の阿武隈川途川の際に、敵に狙撃され馬から水中に落ち戦死してしまいます。、
後に、河野広中を中心に、旧三春藩では、城下に「美正明神」と言う祠を建てて祀りました。
勉強になります。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2025-01-17 Fri
船引庄屋 御代田家の御屋敷門
船引歴史資料館敷地内 昭和56年移設
江戸時代、船引名代庄屋・割頭を務めた御代田氏。
末裔は、現、船引城址麓 和食 お肴処「みよた」 を営む御代田家です。
江戸末期の享保16年に、藩命により三春在蛇澤より、分家を残し船引庄屋となります。
その始祖を辿れば、戦国時代の三春城主田村氏の御一門上座になる御代田城主(現郡山市田村町御代田)御代田大和までさかのぼります。
田村家内紛の折には伊達派に付き、田村家改易後には分家して仙台伊達藩に仕官します。

尚、菩提寺は三春城下荒町の法蔵寺です。
お肴処“割烹御代田”は、船引城祉麓の北町通りにあり、江戸時代から続く船引名代の庄屋邸宅跡の庭園を眺めながら、四季折々の旬の味覚を盛り込んだ日本料理をご多能ください。
特製御代田弁当、そして国産うなぎが名物となっています。
各種ご宴会、接待、法事慶事等、承っています。
和食 お肴処「みよた」
0247-82-0034 船引城祉麓 田村市船引町北町通45
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂
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2025-01-10 Fri
2025.正月 「お陰参り」伊勢神宮初詣と秋田城介安倍實季入道墓参
還暦のこの一年を、無病息災に過ごせたという御礼の意を込めて、伊勢の神宮へ初詣「御礼参り」に愛妻を伴って初詣に行ってきました。
かつて、作家の司馬遼太郎氏が“伊勢参り”を「暑さも、蝉の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益があるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称していたように、私も参詣の度にお伊勢さんの神威を感じます。
今回は石破茂総理大臣の伊勢路宮参拝と同じ日程でしたので、警備の関係からの各種制限を考慮して、ご祈祷は内宮さんに於いて御神楽御祈祷を受けました。
御祈祷の祝詞の中でお一人お一人の住所と名前が呼ばれ、自分の番になり“福島県田村郡三春町新町~にて三春昭進堂を営む髙橋龍一”と呼ばれますと畏敬の念に駆られ“ありがたい、日本に生まれてよかった”と只々ありがたく、お陰様でと感謝の念が込み上げてまいりました。
参詣が少しずれれば規制が入りこの状況でした。
外宮さんにも詣でます。
参詣後は、お祓い町にて妻と直会です。
伊勢の美味しい食べ物やお酒を堪能しました。
そして、外せないのが参道脇にひっそりと佇む「焼きかき」の屋台
震災前ですからもう十年以上前から神宮参拝の折には寄らせていただいています。
「毎度どうも~、三春から遠路遥々ご苦労さんです」と声をかけられる常連?となりました。
伊勢志摩名物の生きた牡蠣やサザエ、巨大あさり、イカなどを水槽から取り出して目の前で捌いて供してくれます。
コレがまた絶品😋
どうにもこの雰囲気が好きで有名寺社仏閣の付近では必ず探してみます。
そして、宿泊は神宮会館です。
夫婦水入らずの直会です。
そして翌朝は早朝参拝
毎回、それぞれの担当者の観点からのお話で、それぞれのアプローチが面白く毎回勉強になります
伊勢神宮参拝に先立って、まずは・・・
お伊勢さんへお参りと云ったら三春人には外せない場所があります
神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)にある三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国
安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所がある「石城山永松寺」へ参拝です。
實季公は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。
その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
尚、永松寺様(百合齊道住職伊勢市朝熊町1212)では、本堂の落慶は令6年の予定です。
翌日は、先の中田町郷土歴史研究会の歴史講の際に、中田町下枝鎮守「菅布禰神社」の由来書にあった同社の御祭神「猿田彦命」の総本社鈴鹿の椿大神社へご挨拶を兼ねて参りました。
椿大神社は、経営の神様松下幸之助さんも信仰した“お導きの神様”です。
広大な境内には松下幸之助氏が寄贈した茶室もあり、夫婦でお茶をいただいてきました。
また、夫婦円満の神様としても信仰があり結婚式場ができる宿泊所「椿会館」もあります。
今回は、京都と嵐山に二日目の宿をとりました。
三春藩主菩提寺高乾院前住職、一周忌を迎える義兄の故岡祖伸和尚への遺徳を忍んで、和尚の修行された天龍寺僧堂への参拝です。
僧堂での座禅はかないませんでしたが、祖伸和尚を忍んで庭園を見ながら、しばし坐ってみました。
また、天龍寺は、南朝の初代天皇である後醍醐天皇を弔うために建立された禅寺です。
御春輩が後に加勢した南朝方北畠顕信や守永親王とのご縁もあります。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2024-09-13 Fri
塵壺398号 「越中富山の薬売り」 富山藩主と三春藩主
先日、公私ともにお世話になっている配置薬の有限会社「サンサン」(郡山市)社長の佐久間喜重様(三春町沢石出身)が、春の叙勲で「旭日双光章」を受賞され、その祝賀会にお招きを受けましたのでお祝いを言上したく喜んで出席しました。
その祝宴の席で、佐久間さんの配慮で富山にある有名な製薬会社の会長さんや、医療・薬科の業界新聞社の元主幹、そして、宮城県の配置薬協会の会長さんなどと同席となりました。
薬、配置薬、富山、三春と云えば、「越中富山の薬売り」の起源となった富山藩主と三春藩主の逸話が伝わっており、早速、歴史談義となり歴史好きの私にとって大変有意義な時間を過ごさせていただきました。
元禄3年(1690)歳暮、富山藩2代目藩主前田正甫(まえだ まさとし)公が参勤交代で江戸城に登城の際に、伺候席(控之間)“帝鑑之間(柳之間?)”にいた譜代格(当時)大名三春藩主3代秋田輝季公(当年40才)が腹痛を起こし、そこに居合わせた正甫公が印籠から『反魂旦』(はんごんたん)を取りだし服用させたところたちまち平癒します。
正甫公自身も元来体が病弱だったようで、薬に対する興味が強かったと伝わっています。
そこで、自ら全国の薬を調べた結果、備前岡山藩の藩医・万代常閑(もずじょうかん)がつくった“反魂丹”(はんごんたん)という何にでも(特に腹痛に)効く薬を調合してもらい、肌身離さず持ち歩いていたそうです。
そのやり取りを見ていた諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で『反魂旦』を売り広めてくれるように、各々薬売り道中手形の発行を約して前田公に頼みます。
以来、富山藩は備前岡山藩から藩医万代常閑を招いて城下の御用達薬商人松井屋源右衛門に命じ反魂丹を作らせます。
さらに、領地から出て全国どこでも商売ができる前田公裏書の『他領商売勝手』を発布して「殖産興業」の政策として、富山を寄港地とする北前船を駆使して全国津々浦々に至るまで薬売りの販路拡大を整備して「売薬産業」を奨励しました。
一方の三春藩主3代秋田輝季公は、晩年まで精力的に領国経営・大名賦役を勤めます。
大坂城加番勤務として江戸幕府内では譜代格大名に再任され、遠州吉田大橋(静岡県)の大改修などを請け負います。
また、領内整備では、真照寺山内古四王堂再建、藩社神明宮(三春大神宮)の遷宮、領内総鎮守太元帥明王社(田村大元神社)へ大般若経六百巻を奉献、そして、新田開発の水源として南原之大池の整備など藩運営をしています。
さらに、領内の馬産に力を注ぎ、仙台より良馬を購入して殖産に努め良質な農耕馬の産地として事業を推進し、後にこの駿馬が「三春駒」として全国に名を馳せるようになります。
このようにして藩財政の発展を遂げ、三春藩主歴代最高齢の72歳で生涯を閉じます。
尚、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田候教方萬金丹」は、三春初代藩主俊季公の実父秋田實季候直伝によると伝えられています。
「越中富山の反魂丹(はんごんたん)♬鼻くそ丸めて萬金丹(まんきんたん)♪」と童唄でも親しまれ、「越中富山の反魂丹」と並んで全国的に有名な伝統薬でもあったことを追記しておきます。
さて、話を越中富山の薬売りに戻します。
この配置販売業が今日まで営々と受け継がれてきたのは薬の効き目はもちろんですが「先用後利」という独自の販売システムのお陰ともいえます。
急に発病する病のために薬を数種類も常備しておくことは困難でしたが、先に常備薬として預け、次回訪問時に使用した分の代金だけを支払うという信用商法であったため利便性が高く、全国の人々に広く受け入れられました。
また、何代にも亘る家族構成や使用する薬などのデータを書き記した「懸場帳」を基に、そのお得意先に適した薬の配置が出来るとともに、使用歴に応じて健康アドバイスする専属の薬剤師さんの役割も担っていました。
今回、越中富山の薬売り関係の方々から配置薬の話を拝聴して、どの商売にも生かせるマーケティングの原型がそこにあるということをご教示いただきました。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
当三春昭進堂のホームページの表示が時々文字化けするようになっています。
更新ボタンを押して再表示していただくと直るんですが、この不具合はホームページの制作ソフトのシステムが古くて今のシステムに会っていないのが原因です。
現在、新しいシステムに移行する作業を進めているところです。
お客さまにはご不便をおかけしますが、もうしばらお待ちくださいますようお願い申し上げます。
| ryuichi | 20:46 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
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